過去と未来の境界線

冬水涙

第0話 告白

「82、83、84……」

 悴む手にはこの日のために祈りを捧げた『94』と書かれた紙切れ一枚。胸の高鳴りが止まらず、体温が上昇するのを感じる。そんな気持ちの高鳴りとは相反するかのように、二月上旬の風は凍てつく寒さで体の熱を一気に奪っていった。

 赤星煌太の目の前には同じ境遇を持ち合わせた大勢の人集りができている。

 周囲の人達が一心不乱に見続けているのは、数字の羅列された掲示板。その中から数ヶ月の間共に過ごした、自らの人生を決めるであろう数字を各々が探し続けていた。

 今日は星屑高校合格者発表の日。多くの受験生がここ、星屑高校に集っている。

 近年、全国各地の学校で導入されているインターネット越しでの合格発表を、ほとんどの受験生は活用せずに直接掲示板を見に来る。煌太は同じ受験生としてその気持ちが理解できる気がした。

 呼吸を整え、煌太は再度掲示板に目を向ける。

 番号を探す際に嫌でも耳に入るのが歓喜の声とため息の声。できれば周囲の声を聞きたくないけど、この緊張感こそ受験発表の醍醐味。受験生が一喜一憂する瞬間はここでしか味わえないものがある。周囲の声に惑わされながら煌太は求める数字を探し始めた。

「90、92、93……」

 煌太の目に『94』の数字が映る。瞬間、緊張が一気にほぐれて体が軽くなった。

「……あるじゃん。俺の番号」

 星屑高校に入学が決まった瞬間、この日に向けて努力した日々が報われた気がした。別に勉強だけに精根を使い果たしていたわけではなかったが、頑張った結果が実を結んだことは素直に嬉しかった。

 暫く掲示板を見つめたまま合格の余韻に浸っていると、ポケットの中で携帯が震えた。画面を開き、着信相手の名前が目に映る。瞬間、一旦消えたはずの緊張が再度蘇ってきた。

 一度、深呼吸をして心を落ち着かせる。煌太は意を決して電話に出た。

「もしもし」

『あ、こうちゃん?』

 電話から漏れる暖かく透き通った声の持ち主は幼馴染の岩田奏だった。

『今、星屑高校の正門近くにいるんだけど。番号……あったよね?』

「うん。あったよ」

『ホント! おめでとう。また同じ学校だね』

 電話越しに聞こえる明るい声が煌太の脳内に響き渡る。

 奏は推薦で一足先に星屑高校への入学を決めていた。煌太の成績は奏よりも良かったが、推薦を選ぶことはなかった。推薦よりも実力で受かりたいという気持ち、そして今味わっている爽快な気分に浸りたかったため、自ら推薦を辞退して今日に至る。周囲からは捻くれていると言われたけど、自らの意志を変えたくはなかった。

「そうだな。今から正門に向かうよ」

 奏へ感謝の気持ちを伝え、電話を切る。掲示板をもう一度眺め、再度自分の番号を確認する。

「ありがとう。94番」

 特別な数字に別れを告げ、煌太は正門へと向かった。

 煌太にとっては、とても大切な受験だった。実力を試すといった意味では、学校のレベルが県内の公立高校でも上位に位置しており、部活も盛んな文武両道の高校と言える星屑高校を受けたのは、ベストな選択だったと思っている。

 それとは別に、煌太にとって人生を左右するかもしれない大切な事がもう一つあった。


―受験に合格したら、奏に告白する―


 煌太と奏は幼稚園も小学校も中学校も一緒で親同士も仲が良い、いわゆる幼馴染の関係。小さい時から奏は、無邪気で明るく、天真爛漫という言葉がぴったりな女子だった。そんな奏の存在が、気づいたときには当たり前になっていた。

 隣にいるのが当たり前で、煌太にとってかけがえのない存在。受験に受かったら奏に気持ちを伝え、結果がどうであれ自分の意志を形にして高校へと入学する。そのためにも、今日の受験合格は告白への第一関門だった。

 受験結果の発表は三十分程度で終わり、時計の針は十五時を指そうとしていた。冬の空は空気が澄み渡っていて、とても落ち着く。そんな冬も、もうすぐ終わり春がやってくる。自分にも春がくるのだろうか。

 凍てつく風が、時折強く吹きつけてくる。季節的な意味での春はまだ先だなと思った。

 正門に近づくと、同じ中学校の制服を着た女子が煌太を待っていた。とても綺麗で艶のある栗色の髪を冬の風になびかせながら、あと数時間で夕暮れに染まる空を見上げていた。その立ち姿、振る舞いにいつもと違う雰囲気を煌太は感じた。いつもは明るく屈託のない素顔を晒しているのに、凛とした姿を見せられた煌太は思わず心をくすぐられてしまった。

「おまたせ」

「あ、こうちゃん。本当におめでとう!」

 奏の笑顔を見た瞬間、冷えきっていた体が一瞬で温かくなった。

「ありがとう。わざわざ来なくてもよかったのに」

「だって、こうちゃんの人生が決まる大切な日だよ。言われなくても私は来るよ」

「そっ、そうか」

 先を歩いていた奏が突然振り向き、煌太のことを上目づかいで見つめてくる。間近に迫った顔から思わず目を逸らしてしまう。吸い込まれそうになるほどの魅力的な双眸に、視線を合わせることが煌太にはできなかった。

「なんで制服なの?」

「ん? だって学校だし、私も制服着れば受験生に見えるかなって」

 その場で一回転する奏。制服のスカートが翻り、煌太は再三にわたり目を逸らす。

「確かに。受験生だ」

 煌太が笑うと奏もにっこりと笑みを見せた。これからも同じ学校に通うことができる。そう思うだけで煌太の胸中は熱くなっていた。

「それじゃ、帰ろう。今日は私の家でおばさんとおじさんを呼んで、お祝いだよ」

「お祝い……って俺の合格祝いってこと?」

「それ以外何があるの?」

「いや、何もないよ……ははは」

 今日はずっと前から決めていた大切な日。よりによってその日に岩田家と赤星家が集まることになるとは想像もしていなかった。帰り道で奏に告白をし、どんな結果になろうとそのまま家に帰ろうと決めていた煌太には、奏から告げられた言葉が一種の死刑宣告にしか聞こえなかった。

「こうちゃんと同じ高校かぁ」

 鼻歌を歌いながら、煌太の隣で奏は笑顔を振りまいていた。

 煌太の隣にはいつも奏がいた。初めて奏と会ったのは幼稚園の頃だったと母が言っていた気がする。近所の公園で泣いていた奏を家に連れてきたことが始まりらしいが、正直あまり覚えていない。でも、それをきっかけに隣に奏の家があると知れたこと、現在まで関係が続いていることは、煌太にとって何よりも嬉しいことだった。きっかけがどうであれ、好きな人の隣にいることができるのは何にも変えることができない特別な時間に思えた。

 星屑高校の最寄り駅から二十分程度で、煌太と奏が降りる最寄り駅に行くことができる。これからの通学を考えると、乗り換えなしであまり混まない下り電車で行けるのはとても快適な時間だと思うのだが、今日だけは煌太にとって早く過ぎ去ってほしい時間だった。

 幸せを掴めば有意義な時間へと変わる電車内の時間さえ、今日だけは緊張しすぎで早く過ぎ去ってほしい。告白に向けて緊張している煌太は、電車内でさえ小さな個室に閉じ込められている気がしてならなかった。

 最寄り駅に到着後、気持ちを落ち着かせる為に煌太は奏と一回距離を置こうと決めた。

「ごめん、ちょっとその辺一人で散歩してくる」

「えっ……ちょっと、こうちゃん!」

 逃げ出すように煌太はその場から急ぎ足で立ち去ろうとするが、奏に右腕を掴まれてしまう。

「今日、私の家でお祝いだからね。わかってるよね?」

 視線を逸らさず双眸を向けてくる奏の顔を直視してしまう。

 小さい頃は何も感じなかったけど、改めて見ると本当に可愛い。近くで見ても飽きることがない眼差しは、誰もを虜にしてしまう雰囲気を醸し出している。

「わかってるよ。受験に受かってこれからのこと、色々と考えたいんだ」

 立て続けに言葉を放ってから再度奏のもとを離れる。『待ってるよ』と奏の声が背中越しに聞こえたが、見向きもせずに煌太はその場を離れた。ムキになっている自分に腹が立たずにはいられない。結局、帰り道での告白は自ら持ち越した形になってしまった。


 いつもと変わらない風景が風のように通り過ぎていく。何も考えず息を切らしながら人気のない寂れた公園へと足を運んでいた。

 息を整えるため、敷地内に一つしかないベンチへと歩を進める。自我を保つことができなくなっていると、徐々に自覚し始めた煌太はある疑問に辿り着いた。

 そもそも奏と会うとき、こんなに緊張したっけ?

 いつもは普通に会話ができていたはずだ。なのに、今日に限って奏に強く当たってしまう。

「このまま告白しても大丈夫かな」

 心に留めておくつもりだった言葉が口から漏れ、殺風景の広がる公園に響き渡る。思わず口を両手で塞ぐ。辺りを見渡すも、公園内には煌太しかいなかった。

「よかった。……はぁ」

 安堵したのも束の間、押し寄せてくる不安がため息となってこぼれる。

 今まで異性を好きになったことなんて一度もなかった。こんな気持ちは初めてだ。別に高校に入ってからでも、奏に告白のチャンスはあると思う。しかし、奏は中学校でも複数人に告白されていた。心のどこかで、奏は告白を受けないと思っているだけなのかもしれない。

 でも、もし高校に入って奏の心を射止める人物が現れたら?

 奏がそばからいなくなる?

 そんなの嫌に決まっている。

 そもそも同じ高校を受けようと思ったのは、奏と離れるのが怖かったからなのかもしれない。

 逃げないで向き合おう。伝えるタイミングは今日しかない。

 受験するときに心に決めただろ。

 何度も反芻を繰り返し、お祝いが終わった後に告白する決意を固めた。


 漆黒の帳が降り切った十八時過ぎ、岩田家で合格のお祝いが始まった。煌太と奏が同じ高校に行くことは、両家の親にとっても嬉しいことだったらしい。目の前には両家の母親が手塩にかけたおいしい料理が並び、思わず舌鼓を打ってしまう。この空間に居座ることができた両家はこの町一番の明るさだったに違いない。

 合格祝いも終わり、時刻は二十一時過ぎ。一日の終わりが近づく頃、煌太は奏を散歩に誘った。大切な一言を言うまで今日を終わらせたくなかった。今日、絶対に思いを伝えると決めたのだから。

 煌太は両親と奏の母親に散歩に行くと伝えた。夜遅くだったので断られるかもしれないと思っていたけど、二人一緒だと伝えると『遅くならないように』と言うだけで、必要以上に干渉してくることもなかった。

 岩田家を出て、少し歩くと街灯の明かりに照らされた公園が見えた。煌太と奏が初めて会った場所。そして、数時間前に告白の決意を固めた場所。

「料理、おいしかった。今日は企画してくれてありがとう」

 静寂に包まれた公園のベンチに二人腰かけ、煌太はとりあえず今日のお祝いのお礼を言った。

「こっちこそありがとう。私も久しぶりに賑やかな食卓を囲めてよかった」

 岩田家は小さい頃に父親が重い病気で命を落としていた。奏と奏の母親のために、万が一何か起こった時のことを考えて奏の父親が多額の財産を残してくれて今の生活を維持できていると聞いたことがあった。

「おばさんすごいよな。仕事も大変だと思うのに、手間がかかるお祝いなんて開いてくれて」

「私の我儘を聞いてくれたんだ。こうちゃんが受かったら、お祝いを絶対やりたいって」

 視線を下に向け、奏が足を交互にばたつかせる。奏の横顔は街灯の灯りから少し離れているせいか、かすんで見えた。その顔には哀愁が漂っている。

「そういえば、澪ちゃんは来なかったね」

「そうだな。確か友達の家でお泊り会と言ってたような。まったく、祝ってくれてもいいのに」

 二つ年下の妹である澪は、兄の吉報もおめでとうメール一通で済ませてしまうほど、最近仲が良くなかった。一種の反抗期ってやつだろうかと煌太は推測している。

「実は澪ちゃん、私にお兄ちゃんが受験受かるか心配だって何通もメール送ってきてたんだよ」

「それはないよ……たぶん」

 澪の性格を考えてもありえないことだ。昔の澪ならありえたかもしれないが。

「こうちゃんの前だと恥ずかしいんじゃないかな。大好きなお兄ちゃんだし」

「最近の澪はよくわからないからなぁ」

 しゃべるたびに放たれる白い吐息が冬の寒さを思い出させる。煌太にとって身内のことを話せるのは奏くらいしかいない。あまり家のことで思いつめたりしないのも、奏がこうして話を聞いてくれるからなのかもしれない。親身になって話を聞いてくれる奏は、煌太の心をほんのりと包み込んでくれている気がした。

「奏はいつも頑張りやで、まっすぐだよな」

「急にどうしたの?」

 唐突に話し始めた煌太に虚をつかれ、奏はどぎまぎする。

「奏と出会ってなかったら、今の俺はないと思う」

 煌太は満天の星が散りばめられた夜空を見上げながら奏に囁く。奏の顔をこんなときでもまともに見れなかった。暫くして『私もだよ』と小さな声が隣から聞こえた。

 心臓の鼓動が速くなっているのを感じる。このまま告白まで行けるのではと思ったが、そんな思考は必要ないと煌太はすぐに考え直す。

 ありのままの気持ちを伝えたい。

 この場で伝えるんだ。

 純粋な今の気持ちを。

 目の前にいる大切な人に。


「奏のことが大好きです。俺と付き合ってください」


 今日は受験合格に始まり、告白に終わる。人生の中で転機となる一日だ。

 煌太はありったけの思いを言葉にして、奏を見つめた。

 奏は一瞬何を言われたのかわからなかったようで、顔色一つ変えずに固まっていた。暫くして、煌太から顔を背ける。

 いつもは煌太の顔を屈託のない笑顔で見てくれているのに、目の前の奏は明らかに動揺しているように見えた。

 口を開けたままの奏は、何かを伝えたそうにしている。しかし、言葉にならないのか煌太の耳に奏の声は聞こえてこない。そんな奏に対して声をかけようとした瞬間、今日一番の北風がやっとの思いで話し始めた奏の言葉をさらっていった。


―少しだけ考えさせてください―


 微かに聞こえた声は低く抑揚のない声だった。たった一言を残して、奏は煌太の脇を駆け抜けていく。瞬間、奏の瞳に一滴の雫が光っていたことに煌太は気づいてしまった。


 人生の岐路に立たされた気分だった。これから進む未来を華やかにしたかったが、結局は今まで通り。むしろ幼馴染を泣かしてしまったという事実に煌太は苛まれていた。

 あの涙はどうして生まれたのか。考えてもわからないことばかりだった。これからの事はともかく、明日から奏とどのように接するべきか見当もつかない。

 公園から少し歩き、T字路交差点へと差し掛かる。目の前に見える信号機の青色を見て気持ちが落ち着いた気がした。

 少しの気のゆるみだったのかもしれない。

 社会の秩序はいつだってそう、当たり前の事は公の場ではあまり教えてもらえない。たとえ教えてもらったとしても忘却の彼方へ消えてしまう。意識の問題なのだろうか。

 横断歩道の中盤に差し掛かった途端、視界の端から一筋の光線が煌太を照らす。

 気づいたときには、速度を緩めた二トントラックにはねられた。体が宙に舞い上がる。一瞬空を飛べたのかと錯覚する。瞬間、ゴツンとした鈍い音とともに脳に衝撃が走る。

 視界には乾燥して澄み切った冬の夜空が広がっていた。そこに見える星空は今まで見た中で一番の美しさだった。闇夜に輝く希望の光を掴もうと手を伸ばし続けるが、急に瞼が重くなり目の前が漆黒の闇に閉ざされた。

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