名を名乗る程でもない
べるえる
第1話猫と少女
気がつけばそこは、白い天井だった。
虚ろな意識でベッドから半身を起こし部屋を見回すと、部屋は白いカーテンで仕切られていて、静寂が辺りを支配していた。
カーテンを少しだけ開くと、古びた棚には薬品の瓶が陳列され、見なれない器具が鎮座するこの部屋に、俺は何度か来た覚えがあることを思い出した。
そうだ、ここは学校の保健室。
消毒薬と思われる独特の匂いは嫌いではないが、病気も怪我もめったにしない自分にとって、保健室は
ベッドから立ち上がろうとすると、意識がはっきりしていない所為か
このまま、オフトゥンに誘われて眠りたい。
そんな誘惑に駆られながらも、意識を失う前に何があったのか、あいまいな記憶の糸をたぐり寄せるのだった。
それは体育の授業の時間。
組の男子が二手に分かれて、校庭でサッカーをしていた時のこと。
運動部にも入っていない、運動神経も自慢できる程ではない俺が、何故か
組の女子達の熱い視線を受けていると意識すると、冷静に装おうとしても思わず顔がにやけてしまう。
試合開始早々から、がむしゃらにボールを追いかけ走り続けた前半二十分。
ようやく、ゴール前での千載一遇のシュート
……つもりだった。
弾丸のように勢いのついたボールは上のゴールポストへ直撃し、そのままの勢いで俺の顔面に向かって跳ね返ってきた。
目もくらむような衝撃と、痺れにも似た顔の火照り。
そのまま俺は意識を失ったのだった。
「うわ。すげーみっともねぇ。思い出すだけで恥ずかしいわ、これ」
うつ伏せのまま頬に手を当てると、まだ顔は腫れているようで熱を帯びているのが分かった。
保健委員の誰かが、気絶した俺を運んでくれたのだろう。
ありがとう、保険委員の仁科(女子)若しくは山本(男子)
保健委員の二人がここに居ないことを
体育の授業が二時間目だったとすると、今はお昼ぐらいだろうか。
意識もだいぶ鮮明になってきたので、ベッドから身を起こしてカーテンを開けると、壁に掛けてある時計の針は十二時近くを指していた。
辺りを見回すと、普段居るはずの保健室の天使、佳奈先生の姿は無かった。
佳奈先生は眼鏡をかけた黒髪美人の新任先生で、白衣を纏うその姿はまさに天使。
性格も真面目で、生徒の相談にも真摯に乗ってくれる教師の鏡のような人だ。
あまりの神対応に、仮病でわざわざ保健室に行く生徒が殺到したため、行列のできる保健室として学校を賑わらせた事は記憶に新しい。
だが、先生が既婚者であるという事実が発覚すると、禁断の恋に妄想を描いていた男子連中は潮が引くように姿を消し、今は落ち着きを取り戻している。
そんな俺も、折角なら佳奈先生に看病されたかったとなぁと、虚しさを感じつつ近くの椅子に腰掛けてベランダの外を眺めるのだった。
校庭には生徒の姿はない。
今から授業に戻っても、四時間目の授業の終わりの頃なので、ここで休むのと大した変わりはないだろう。
洗面所で濡らしたタオルを顔に当てながら、お昼休みの学食は何にしようかとぼんやりと考えるのだった。
にゃーにゃー
ふと、外で猫が鳴いているのに気づいた俺は、何となく立ち上がるとベランダのガラス戸を開けて外を覗いてみた。
黒くて小汚い猫が、キャットフードのような餌を黙々と食べているその隣に、しゃがんでいる人の姿があったので、驚いた俺は一瞬硬直した。
その後ろ姿は、転向早々教室にほとんど姿を見せない、
超稀有な桜沢と保健室で一対一で遭遇するなんて、まったく予想していなかったので、正直震えた。
どうして桜沢の後ろ姿だけで一瞬で分かるのかって?
それは、転向早々のあの衝撃が忘れられないからである。
ちょっとキツイ目つきに、無愛想な態度。
何よりも違和感を感じたのは、初めて見る赤い瞳。
赤い目を除けば普通の女の子という、その非現実的な容姿を一目見て鳥肌が立った。
怖くてそうなったのか、芸術品のような感動でそうなったのか、今でもよく分からない。
組の男子も最初のうちは、物珍しさで桜沢にちょっかいをかけていたが、あまりにもそっけない態度と、硝子細工のような赤い瞳で睨まれると、明らかに拒絶をされているショックで二度と話しかける勇気を奪われていった。
女子の方も初めのうちは友達の輪に溶け込めるように、桜沢に話しかけていたみたいだったが、やはりそっけない態度で突き放されると、次第に女子全体で桜沢を敬遠するようになった。
桜沢も組に溶け込めない事を自覚はしていたようで、すぐに学校へ来なくなってしまった。
俺は勿論、内心ビビリな性格なので、桜沢に話しかけたことは今まで一度たりともない。
猫と戯れている桜沢に気配を悟られる前に、この場は見なかったことにして
俺の中の
気配を悟られぬように息を殺し、ゆっくり後ずさり保健室に戻ろうとした時、小汚い黒猫が俺の姿に気づいて「にゃー」と鳴いた。
小汚い猫、許すまじ。
猫の視線を辿るように振り返る桜沢。
生まれてこの方味わったことのない緊張感に、俺は耐えられず声を上げてしまった。
「ね、ねね、猫、お好きなんですね」
今なんで敬語使った、俺。
桜沢の硝子細工のような赤い瞳が、じっとこちらを見据えてくる。
やばい、何か喋らないと心臓が保たない。
そうだ、アリバイだ!俺がここに居るアリバイを説明すれば、きっと桜沢も許してくれるに違いない。
何処から話せば良いのだろう。
俺が保健室で目覚めたところからか、それとも自爆顔面シュートで気絶した
なにか話そうと思った矢先、桜沢の表情がすっと綻び、小汚い黒猫の方へと目を逸らした。
「……うん」
あれっ、この子かわいくね?
今まで抱いていた対象への恐怖が、一瞬にして好感へと変化した。
俺ってば、単純。
「あのさ、桜沢だよね?俺のこと分かってる?同じ組の尾田」
桜沢はこくりと頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「尾田君。知ってるよ……覚えてる」
桜沢の好反応に、小躍りしたい気持ちを抑えつつ、俺は近くにあったサンダルを履くと小汚い猫のそばまでやってきた。
「そうそう!尾田!覚えててくれて嬉しいわ。あっ、名前は―」
俺が話し掛けると、小汚い猫はその声に驚いたのか茂みの方へと逃げ出した。
逃げてゆく猫に悲しそうな目をした後、桜沢は俺の顔の目の前に手を出して、それ以上近付くなとばかりに制止の姿勢をとった。
「名前は聞かなくてもいい。どうせ、呼ぶことは一生ないから」
「あっ、はい」
俺のときめきの物語は、一瞬にして終わりを告げたのであった。
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