2-2
「あの山を越えれば、そこから先はハクオウ皇国の外だ」
宿屋《ラピッドフッド》の窓辺から、ガイルは雪山を指差して言った。
武人らしい、ごつごつとした大きな手が、月明かりに照らされ無慈悲な白きベールを纏った山に向けられる。
「その先はお前が生まれた国ではない。未開の地だ。くれぐれも、気を抜くな」
芯の強い、静かな目がカイリに向けられた。
カイリは暖炉の火にあたりながら睨むように山を見ている。
「私にとってはあの城以外の何もかもが見た事のない景色だ。生まれた国なんて、関係ない」
ガイルは彼女と過ごした王宮での数年間を思い出し、首を振った。
カイリが求めているのは同情ではない。彼女がそこまで弱くないことを、ガイルは知っている。
ガイルは再びハクオウ皇国とナナンカ連邦との合間にそびえるダムヴァ山脈に目を向ける。
悪魔が潜むと言うその山脈を超えるのは、今回の旅で最も過酷なものとなるだろう。
山まではまだ数日かかるが、早めに覚悟を決めねばならない。
「カイリ。明日も早い、疲れを溜め込む前に寝たほうがいい」
「私なら大丈夫だから。ガイルの方こそ早く寝れば」
カイリは自らの右手をじっと見ながら、話半分に返事をする。
その手は酒に酔った男に向けたものだ。
「勇者の体は丈夫だが、疲れないわけではない。休める時に休んでおけ。明後日には整備された道を歩ける保証もない」
カイリは渋々頷き、ヤギの毛皮を引いただけの簡単な布団に寝そべる。
「おやすみ」
そう言って自分の毛布にくるまった。
ガイルがカイリに出会ったのはカイリが五歳になった年の春だ。
カイリは史上初の女勇者という理由から、生まれ故郷のハクオウ皇国第三九代竜王トルネアによって、勇者であるという事実以外の全てを秘匿され、宮中で秘中の子として扱われた。
その血に王族のものは流れていないが、王族と同等かそれ以上に勇者として宝のように大切に育てられたカイリは正確に多少の難があるのを、ガイルはかねてより危惧していた。
それは年のせいだと、そう言い切る事の方が簡単だが、それだけではない。
人の身に余る力が彼女を孤独にしているのをガイルは勘ではなく、知識として知っていた。
勇者は伝説として、或いは一つの史実として、人々に詠われ続けているが、その殆どは魔王を討ち取る輝かしい場面か、魔王に討たれる悲劇の歌のどちらかだ。
彼等がどのようにして成長し、その困難に立ち向かったのかは、一部の古き一族以外は知りもしなければ知ろうともしない。
彼等は己が身に宿る勇者としての使命と自在に光を操る天から与えられた力に少なからず溺れていた。
人類に一人の犠牲者も出さずして魔王を討ちとった九代目勇者のログリスは高慢で残虐であった。
歴史上初めて人魔大戦を回避し、魔王と一時とは言え和平を築きあげた一六代目勇者のアレクセイは冷酷無情で、数多の謀略の末にその平和を勝ち取った。
勇者という輝かしい称号は、その胸の内に暗い影を落とす。
(この旅の途中でそのことに気づいてくれればいいが)
ガイルの一族はその影の部分を誰よりも側で感じ、光ある未来へと勇者を誘う使命がある。
しかし、王宮育ちの勇者を正しく導くことができるのか。その不安はガイルにもある。
先代勇者を導いた祖父はガイルが生まれる前に亡くなっていたため、父から伝え聞く限りでしか己の役目を知らない。
数々の修行を乗り越え、その途中で巡り合った
その友はと言うと、意識の漂流から戻ってきたガイルを、盛大ないびきで出迎えた。
寝ているというのに、金属の杯を片手で器用に持っている。
ガイルはダンクの手から杯をそっと取ると、ずっしりとした重みに不思議そうに顔をしかめた。
「空の鉄を特別な手法で鋳造したドワーフの逸品です」
「起きていたのか」
ガイルが声の方を振り返ると、ミリィが横になったまま、全てを見通すような青水晶の目をガイルの持つ杯に向けている。
「その杯は、持つ者の心を汲み取って重さを変じさせると聞きます。ダンクが持っている時はお酒しか入っていないのでしょうが」
ミリィはエルフが人に見せる態度にしては屈託のない笑みを浮かべる。
長い付き合いだが、彼女も初めて会った時はこんな風に笑わなかった。
「心配ですか?」
人間が四回は死んでもまだ足りないような年月を生きているミリィには、ガイルの考えているような事は簡単に見透かされてしまうのだろう。
ガイルも今更あえてそれを取り繕うような事はしない。
「心配なことだらけだ。確かに様々な伝承を伝え聞いているが、実際に勇者の導き手となるのは初めてのことなのだからな。そんな事を言っては何もできないのは分かっている。が、だからと言ってこの不安が消えるわけではない」
自分がふさわしいとは思えない、と。
ガイルはそう言って手元の杯に視線を落とす。
「我々エルフは事の成否ではなく、その時々にどれだけ悔いを残さずに生きられるかを重視します」
「人間にはそんな余裕などない。何を成し遂げるか。それを人々は求めている」
ミリィの目はどこか悲しげで、子を慈しむ母の面影がそこにはあった。
「トゥン・ディナトル。竜の言葉で『時は語らない』という意味です」
「謎かけか」
ガイルの唸るような声が面白かったのか、ミリィがクスクスと風に踊る若葉のように笑う。
「ドラゴンは多くを語りません。が、その言葉には人のものよりも多くの意味が込められています……悩みそうになったら考えてみてください」
「すまない」
抑揚の乏しい、感情の読みにくい声ではあったが、ミリィは満足気に微笑み、瞼を閉じた。
ガイルは再び遥か遠いダムヴァ山脈に目を向けると、しばし、ミリィの言葉を反芻していたが、やがて諦めたのか、小さくため息をつく。
「少しは、軽くなったか」
ガイルの呟きに応えるように、カイリの右手が淡く光を放った。
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