三十体の偽非概念 (中編)
銭谷ケンジは憂鬱だった。
先月の連続放火事件の最中に遭遇した、怪人と戦う謎の美少女。
思い出しただけで背筋が泡立つようなその存在感。今まで出会ったどの女性にもない、冷水で清めた名刀のようなその美しさ。自分を炎の怪人から救ってくれた時の、迷いない行動力とその力強さ。
ほんの短い時間しか接することはできなかったが、彼女を知ってしまった
今、他のどんな女性も、人生のパートナーとするには余りにも物足りなさすぎた。
だが、あれからあの謎のゴスロリ少女とは一度も出会えていない。
それどころか、全くなんの情報も得られていないのだ。
ネットで調べれば、例の連続放火のことはオカルト関連の掲示板や陰謀論関連の掲示板に幾つも記事を見つけることができた。中には離れた距離からではあるが、あの炎の怪人の放火の瞬間の動画がおどろおどろしいBGM付きのスローモーションとセットで投稿された、動画投稿サイトのリンクが貼られた記事もあった。
しかしあの少女のことに触れた記事は一つとして無かった。
彼は、あの怪人を少女が倒したのだと確信している。街を覆う災火を消した雨を降らせたのすら、あの少女かも知れない。あの夜、超常的な何かがこの街に起き、自分は、この街は、あの少女によって救われた。
その前後の事情に対する好奇心がないと言えば嘘になる。しかし彼の関心は専ら「超常的ゴスロリ少女」の方に大きく傾いて強かった。
ここ一カ月というもの、気が付けば彼女の事を考えている。
テレビを点けても本を拡げてもどこか頭に入らず、雑誌の今週号などに新奇性を求めてコンビニまで来てみた
が、結果は同じだった。
ぱらぱらとめくり終わった漫画雑誌をマガジンラックに戻そうとした時、外で、ごおん、と大きな金属同士がぶつかったような重い音がした。
事故かな、と窓ガラス越しに表を伺うが、数人の人影が行き来している以外は事故や災害が起きている気配は無かった。だが、その行き来している人影の様子が、どうもおかしい。
(なんだ? ケンカか? )
明るいコンビニの内側から暗い外は良く見えない。ケンジはガラスに顔を近づけて目を細めたりしてみたが、何をしても舞い踊るように近づいたり離れたりを繰り返す影の正体もその動きの意味も正確に汲み取ることは叶わなかった。
直接外の様子を確かめようと、店を出ようかとしたその時、何かの大きな火花が辺りを照らした。
その数十分の一秒の一瞬に、彼は視た。
彼の想い人が、ゴシックロリータな衣装に身を包む美しい少女が、地に両膝を付き、口から血を流しているのを。
---------------
「君!!! 」
途切れ掛けた意識の中で、ぎりぎり呼ばれたことを認識した本物川は、その声のする方向に、コンビニの開きかけの自動ドアをこじ開けるように出てくる銭谷ケンジの姿を認めた。
「大丈夫か⁉︎ 」
「カッターだ! 」
本物川は絞り出すように叫んだ。
「か、カッター? 」
そこに銀色の異常な痩身の怪人--刺突--が尖った腕を突き出しながら突っ込んで来た。
本物川はすんでの所でそれを躱すとその槍の穂先状の怪人の腕を脇に抱えて動きを封じた。
「二つだ!早、く……‼︎ 」
「カッター二つ! 分かった! 待ってろ! 」
ケンジは再びコンビニの店内に戻ると文具コーナーのフックに下がっていたカッターを二つ引っ掴み、レジに札一枚を投げて転がるように店外に飛び出す。カッター自体の尖った部分で包みのビニールに穴を開けるのももどかしく中身を取り出し、叫ぶ。
「受け取れ! 」
黒くて四角い柄のカッターが二振り、弧を描いて宙を舞う。
本物川は握った拳を、自由な方の槍で本物川を突き刺そうと振り被る「刺突」の腹部に、ひた、と当てた。
瞬間、その拳に「殴打」の力が迸る。
安い花火のような炸裂音を残して、刺突の怪人が後方に吹き飛ばされた。そのまま倒れ込むように地面に手を付いた本物川は周囲の地面そのものに「燃焼」の概念を伝播させた。一瞬だが、広範囲の地面全体がフラッシュするように燃え上がる。
その一瞬、本物川以外の全員が足元の火炎に気を取られた。
彼女には、その一瞬で充分だった。
本物川は飛んで来たカッター二本を掴んだ。いや、掴んだのはほんの刹那。その刹那の間に本物川によって「斬撃」の力を付与され巨大な斬概念刀と化した二本のそれは、次の刹那には彼女による「概念飛ばし」の加速を受けて二方向に--二つの怪人の影に向かって飛翔した。
ざむ! ぐし!
毛むくじゃらの影の顔の真ん中と、細身の女性らしい影の胸に、二本の斬概念刀が深く突き刺さる。
毛むくじゃらの怪人--「共振」はそのままばたりと倒れ、女性シルエットの怪人--「障壁」は、きいい、とガラスを掻いたような声を上げた。
その顔面に、みしり、と白い拳がめり込んだ。「共振」の狂気の振動攻撃から解き放たれた本物川が体重を載せた渾身の殴打を「障壁」の眉間に見舞ったのだ。左手でその胸に刺さる斬概念刀の柄を握ると、本物川は拳をそのまま振り抜いた。「障壁」はアスファルトを舐めるように地面を滑り、夜の道路の先に消えた向こうで、がしゃん、と何かにぶつかった音を立てた。
「二つ」
パンチのフォロースルー中の本物川がそう数を数えた時、その両足がふわり、と地面から浮く。
「浮揚」が本物川から再び重力を奪おうとしているのだ。
すかさず本物川は右手を「浮揚」に向けて激しく振動させた。途端にコンビニの看板を遮る「浮揚」の影が滲むように振動--「共振」--し始め、本物川は重力を取り戻した。間髪入れず本物川の左手から「概念飛ばし」の力を得た斬概念刀が闇を裂いて飛ぶ。それが「浮揚」を貫いてコンビニの看板に釘付けにしたのと、地を蹴った本物川が倒れた「共振」からもう一本の斬概念刀を引き抜いたのが同時だった。
「三つ」
そこに小さな獣のような影が踊り込んで来た。影--「溶解」は高濃度の溶解液を次々と本物川に吐き掛ける。しかしそれらは本物川の手前で不可視の壁--障壁--に阻まれ、目に見えない障壁の平面をなぞって露わにしながらだらしなく地面に流れ落ち、もうもうと白い煙を立てて落下地点に穴を開けた。
一陣の風に撒かれてその白い煙が晴れた時、そこに本物川の姿はなく、ただ倒れた毛むくじゃらの怪人だけが、
ぐつぐつと煮立つように崩れ始めているだけだった。
「溶解」はキョロキョロと辺りを見回す。
「こっちだ」
声は上から聞こえてきた。
「溶解」が振り仰げば頭上--コンビニの看板の上に既に「共振」と、更に「浮揚」とから引き抜いた斬概念刀を得て、左右の両の手に一振りずつそれらを構えた本物川がいた。
その左手から、斬概念刀が「溶解」目掛けて飛ぶ。「溶解」は溶解液を飛来する斬概念刀に向かって吐き掛ける。どろりと空中で形を失う斬概念刀。その粘液質の塊を防御障壁で四方に弾き飛ばしながら、「溶解」に向けて真っ直ぐ殺到してくるものがあった。
両手持ちに巨大な刀を構えたツインテールの少女。
視界の中で急速に大きさを増す彼女が、上体を捻るように刀を振り被る。
それが、「溶解」が認識した最後の知覚だった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「君、大丈夫か? 」
近づいてくる巨大な剣を携えた少女にそう声を掛けられて、ケンジは初めて自分が地面にへたり込んでいることを知った。
「あ、ああ……大丈夫」
そう答えたものの腰から下は他人のものであるかのように言うことを聞かず、全く力が入らない。
ついに手の届く距離までやって来た少女が、ケンジに手を差し伸べた。
ケンジはその手をしっかり握った。
少し冷たい、潤いのある掌だった。
見た目の細さとは裏腹に、ぐい、と力強く少女はケンジを引き起こした。
それでもなお、ケンジの左足はかくかくと小刻みに震えており、ケンジは左手に拳を作って自分の左膝の上あたりを叩いた。
そんなケンジの様子に構わずに、少女はしっかりとした口調で話し掛けて来た。
「助かった。君の手助けがなければやられていた。ありがとう」
少女は真っ直ぐケンジを見つめてはっきりと礼を言った。
「お互い様だよ。僕もこの前、君に助けて貰った。あの時はありがとう」
少女は黙って微笑んだ。
可愛い、とケンジは素直にそう感じた。
しかし彼女はすぐ真剣な表情に戻ると言った。
「すぐにここを離れた方がいい。奴らはまだ沢山いる。私は奴らと戦わなければならない」
「君は……その、一体……」
ケンジが言葉を選びながら質問を紡ごうとしたその時。
【が、きん! 】
ケンジのすぐ目の前で鋭い金属音と共に火花が散った。
飛び込んで来た槍状の手を持つ怪人が、少女の後ろから突きを見舞って来たのだ。
少女は斬り上げるようにその矛先をそらし、無防備な怪人の腹に痛烈な蹴りを放った。怪人は大通りと細い路地の交差する角の方へすっ飛んで行った。
「走れ! ここから離れろ! 死ぬぞ! 」
少女はそう言うと、蹴り飛ばした怪人の方向へ駆け出そうとした。
その左手をケンジの両手がぎゅっ、と力一杯に捕まえた。
少女の動きが止まる。
「離してくれ。君を巻き込みたくない」
少女は困ったような顔でそう告げた。
「せめて! 名前を教えてくれ! 君の、名前を! 」
ケンジは懇願した。必死の形相だった。一瞬でも気を抜けば、少女の力ならケンジの手も容易に振り解くことができそうだ。
そんなケンジの様子と口から出た言葉に、少女はふ、と頬を緩めた。
「本物川、だ」
「本物川。本物の、川? 下の名前は? 」
「上も下もない。私は本物川。概念戦士・本物川」
「概念戦士・本物川……」
ケンジはその名前を強く記憶に刻もうと、口の中で小さく繰り返した。その時、意識が本物川を捕まえている手から逸れた。するり、とケンジの手から逃れた本物川は剣を肩に担ぎながら怪人の飛んだ先に駆け出して行った。
「あ! あの……! 」
「私は大丈夫。ここから離れろ。間違っても様子を見に来たりするな。誰かを護りながらでは私は力を発揮できない。いいな! 」
振り返りもせず、そう叫んだ本物川は夜の闇の先に消えて行った。
後には去った少女の背中に虚しく手を伸ばすケンジが残された。
「本物川……概念戦士・本物川……」
伸ばしたままの手には、さっきまで握っていた彼女の腕の、張りのあるしなやかな感触が残っていた。
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人気のない夜の細い路地に金属同士が打ち合わされる剣戟の音が響く。
その度に閃いた火花が、ツインテールの美しい少女の姿と彼女と対峙する銀の怪人の姿を闇に浮かび上がらせる。
「刺突」の槍のような二本の腕を斬概念刀で凌ぎながら間合いを詰めた本物川は、その凌ぐ刃の運びをそのまま袈裟懸けの斬撃に繋げ、「刺突」を斜めに両断した。
げげげ、と血の泡を吹いて銀色の針金人間のような怪人は夜の路地裏の街路に倒れ、崩れたゼリーのような塊と化した。
「……五つ」
肩で息をしながら、本物川は倒した敵をカウントする。
『くそ、奴ら全部で何体いるんだ? 』
ミノルはそう尋ねずにいられなかった。
「数が多すぎて正確には……だが少なくともあと二十はいるな」
『持つのか? お前の、概念の力は』
「白旗を上げたら許してもらえると思うか? 」
『そうじゃない。一度戦闘から逃れて態勢を立て直して……』
「すまない。お喋りはここまでだ」
本物川が視線を上げると、夜の路地裏に異様な人影が集まりつつあった。
前方に、また振り向いた後方にも。狭い路地にひしめくように集まる異形の群れ。
小人のように小さな影。小山のように大きな影。四つん這いのけだもののような影もあれば金属部品で構成された機械のような影もある。機械のような影はご丁寧にパイプ状の部位から蒸気のようなものまで吹き上げている。
本物川は ちら、と視線だけを走らせて異形の軍団の位置関係をある程度把握すると、今度は人間にはない感覚--概念を走査する概念ならではの知覚の波紋を辺りに すぅ、と拡げた。
十七の、色や温度や形や大きさの違う概念が二手に分かれ挟み打ちの形で本物川を取り巻いているのが、彼女の感覚を通してミノルにも分かった。
「囲みを破って突破する。無理をするから、悪いが君にも負担を回す。苦痛だろうがなるべく耐えて、可能なら私にできるだけ深く同調してくれ」
『わ……分かった』
ミノルはそう言うしかなかった。
本物川は瞳を閉じた。
きゅんきゅん、と彼女の周囲の空気が鳴いた。
本物川が持てる概念の力でその周囲の物理法則を書き換える際、生じる落差が鳴らす空間ノイズだ。
初めは彼女が手にしたカッターの意匠を抽象化したような身の丈程の巨大な刀、斬概念刀の周囲に。
そしてそれを保持する腕に。肩口、両脚、胸、背中、耳や目鼻--。攻守、機動力、感覚に作用する様々な概念が並列励起されて本物川全体を包み込む。
本物川は瞳を開いた。
斬概念刀の刃が真っ赤な炎を纏い燃え上がる。
彼女が刀を握る手に く、と力を込めると、その炎は更に収束し魔物の咆哮のような音を立てながら青く、鋭く吹き上がった。
「行くぞ」
『お、おう』
ミノルは唾を飲み込もうとしたが、本物川のものとなった身体はそれを許さなかった。
---------------
暗がりに蠢く異形の集団の中から、一体の怪人が雑居ビル裏口脇の壁面に取り付けられた黄ばんだ蛍光ランプの灯りの中に進み出た。
肌色の水袋を束ねたような四肢と体。ハロウィンの南瓜お化けのような大きな頭。顔が膨れ上がり過ぎて潰れた目鼻のデザイン。キルトの縫取りのようなその口が動いて、意外に朗々とした声を発した。
「ついに追い詰めたぞ本物っ、かっ」
斬光一閃。
ひと抱えあるそのぶよぶよの頭が言いかけた言葉を口に含んだまま宙を舞う。
息を飲む異形の群れ。
本物川の能力なのかミノル側のコンディションなのか、ミノルには夜の路地裏を敵集団のど真ん中に向けて跳躍している最中の彼女の見る景色がやけにゆっくり感じられた。
「……六つ」
緩やかに流れる時間の中、本物川が屠った敵の数を小さくカウントする。
その呟きが合図だったかのように、太った袋怪人の宙を舞う首が、またゆっくりと仰向けに倒れつつある首から下が、蒼い炎を吹いて燃え上がった。
たんっ
自らに纏っていた浮揚の力を一度緩めた本物川が右足で地面を蹴る。
その音は辺りにやけに大きく響き渡った。
その音を境に、世界は再び元の速さで目まぐるしく動き始めた。
「殺せ! 」
誰かがそう叫ぶ。だが、一度飛び出した本物川を捉えることはその場の誰にもできなかった。そう、一瞬たりとも。
大小の不気味な黒い影の間を蒼い光の閃きが疾る。
その通った後には様々な異形の体のパーツが飛んだ。闇にジグザグに引かれた蒼い光の線の周囲で、ある者は業火に包まれ、またある者は頭頂から胸までを裂かれてヘドロのような液体を吹き上げた。ある者は水飴のようになって崩れさり、ある者は激しく振動しながら地面に倒れマンホールの蓋に触れてベベベベベ、と携帯のバイブ通知のような音を立てた。
本物川の特殊な知覚は、倒したそれぞれの概念の意味が途切れ、自分に統合されて行くのを察知する。
彼女が使える能力は、倒した敵、「偽非概念」の分だけ増えてゆく。
その奪った能力も駆使して、本物川は並みいる異形たちを次々となぎ倒す。
一見すれば数の不利を覆して敵を圧倒している彼女。
だが本物川がひり付くように焦っているのを、またその理由を、彼女の中にいるミノルは嫌と言うほど感じていた。
本物川の持つ能力の行使の限界--電池切れだ。
電池を使う便利な道具が何個あろうと、それを動かす電池が無ければ何も動かない。
本物川の概念を物理世界に行使する為のエネルギーが秒刻みで減ってゆく。
並列に励起させた概念の力をそれぞれ全開にしているのだ。
ミノルには快進撃の幕切れはすぐそこのように感じられた。
「十五……」
荒い息を吐きながら彼女がまた数を数える。
気が付けば立っている敵は三分の一程に数を減らしており、残った敵も何かしらダメージを負っていて動きは鈍い。
本物川は膝を折り、地面に掌を突くと新たに得た概念の力を発動した。
「爆発」だ。
バレーボールコート程の面積が二度チカチカと光を放ったかと思うと、次の瞬間強い衝撃波を伴いながら吹き飛んだ。
彼女自身は跳躍すると同時に「浮揚」の力を全開にし、爆風の煽りを利用して路地を形成しているビルの屋上へと一気に飛び上がった。
五階建ての雑居ビルの屋上のへりに着地した彼女はふらついて屋上のコンクリートに膝をついた。
眼下では上手く爆発に巻き込んでダメージは与えたものの、倒し切れなかった偽非概念の怪人たち数体が蠢いていた。
「浅い、か」
『お前……もう一杯一杯だろ。一旦逃げよう。概念の力を回復させないと』
苦しそうに息をする本物川に、思わずミノルは助言する。
「正しい主張だ」
ぜえぜえと喘ぎながら彼女は短く答えた。
「不可能だという点を除けば」
ミノルがその理由を本物川に尋ねようとした瞬間--。
--どん、と彼女の体全体に目に見えない巨大な何かがのしかかった。
「ぐあっ……! 」
本物川は咄嗟に、つい先程身に付けた「複製」の概念を行使してその場に実体を持った自分の分身を二人作り出した。
その二人がそれぞれ不可視の「障壁」を形成して彼女たちを押し潰そうとする「重圧」に抗い、支えようとする。
しかしパワー不足の半端な発現では「障壁」も強度が出ず、ぎゅうう、と軋みを上げて潰れ始めた。
本物川は分身の二人を残して転がるように退避する。
間を置かず「重圧」はその本懐を遂げ、ずしん、と地響きを立てて二人の少女をまとめて血と肉の大きな染みにかえた。
ぐちゅん、というくぐもった嫌な音が本物川の耳に残った。
雑居ビルの傷みだらけのコンクリートの屋上に膝をついた姿勢の本物川。彼女の視線の先で筋骨隆々の巨漢の影が真っ赤に裂けた口だけで笑う。こいつが「重圧」の本体だろう。
と、本物川を支える足が、コンクリートに付けた掌が、白い冷気をふわり、と纏った。
見る間に足が、手がびしびしと音を立てて凍り付いてゆく。
ミノルは本物川の中で声にならない悲鳴を上げた。
それまで感じなかった本物川の苦痛が、ダイレクトに彼の意識に伝わったからだ。
本物川の様々な要素が限界に来ており、ミノルの意識を、本物川の身体の感覚から隔離する機能が不全に陥ったためなのだが、勿論ミノルにはそんなことに考えを巡らせる余裕などなかった。
彼女はそこに「燃焼」の概念を励起し、生じた「凍結」を相殺して後ろに飛びのいた。左側から透明な結晶の体の怪人が、白い霧を纏いながらゆっくり姿を表す。きし、きし、とそいつが立てた不快な音は、どうやら笑い声であるらしかった。
ちゃぷ、と足元でした液体が跳ねる音に本物川がどきりとしたのと、彼女の右足首を何者かの濡れた手がひたり、と掴んだのとが同時だった。
下を向いた彼女が見たのは水のように波打つ足元のコンクリートと、その水面からにゅっと突き出したそこに「潜行」している何者かの鱗だらけの黒い腕だった。
波打つコンクリートから更に何かが浮かび上がって来る。
それは魚とヒトを掛け合わせたような不気味な顔で、その顔もまたにやにやと嫌らしい笑いを浮かべていた。
手にした斬概念刀で足元を払い、自分を捉える生臭い腕を薙ごうとする彼女の試みは失敗した。腕が彼女の足を離し、とぷん、とコンクリートに沈んだからだ。
その隙に更に退いた本物川は疲労の余りよろめいて、屋上に建つ階下への階段棟の壁にとん、と肩を付けて寄りかかった。体勢を立て直そうとした彼女は、その左肩が壁に強力に「粘着」して剥がれないことを知った。階段棟の上からどろりとした濁った粘液の塊が頭部と思しき部分を覗かせる。
その真ん中の単眼が本物川を凝視し、その周囲がぽこぽこと泡立った。笑っているのだ。
本物川は愛刀で自らの肩の肉を薄く削ぎ落とす。
その傷みに、中のミノルは再度悶絶する。
本物川は残る力で「浮揚」を発動し、高く跳躍して偽非概念の怪人たちの囲いから逃れようとした。
取り敢えず道を挟んだ隣のビルへ--。
--だが、その進路を黒い影が遮った。
鳥のように夜空を「飛翔」する翼。その翼にぶらさがる何者かが、跳躍中の本物川の頬を強かに打った。
途端に彼女の頬に引きつるような傷みが走り、それが焼けるようなしみるような不快な感覚に変わった。
五階の高さから地面に向かって真っ逆さまに落下してゆく彼女の顔面は、打たれた左頬からずぶずぶと「腐敗」し始めていた。
落下する本物川の中でミノルは、絶望と共に自分と本物川の数秒先の死を意識した。
---------------
落下し、地面に叩きつけられる直前で、本物川は浮揚の概念を発動した。
だがそれは瞬くほどのほんの一瞬で、当然五階の高さからの重力加速による運動エネルギーを打ち消すには至らず、彼女の体は強くアスファルトの地面に衝突した。
「う……」
『ぐ、う……』
最早立ち上がる力どころか首を巡らすだけの余力もなく、彼女は力なく地に伏したまま身じろぎ一つしない。
手にしていた斬概念刀は、彼女の右手の中でありふれた普通のカッターに戻っていた。
勿論、中のミノルも感覚的に彼女と等しく疲弊し切っており、無力そのものだった。
「すまない……ミノル……」
掠れた吐息のような声で、本物川が呟く。
『……いいさ』
ミノルはそう答えるのが精一杯だった。
彼と彼女の周囲に、不気味に忍び笑いをする複数の黒い影が集まってくる。
その輪はゆっくりと、だが着実にぼろぼろの有り様で地面に倒れた本物川を中心に小さくなってゆく。
全てを諦めた二人が、瞳と意識とを閉じようとしたその時--。
【ウォォーーンンン! 】
路地の向こうから、何かのエンジンの音が高らかに鳴り響いた。
間を置かずバイクの走行音が凄い勢いで近づいて来る。
ギリギリまで接近してライトを点けたバイクに乗った何者かは、さらにスロットルを吹かして加速を掛ける。そして異形の怪人たちの集団に臆することなく、またスピードを少しも緩めることもなく、加速したマシンの勢いに任せてその輪の一角に突っ込んだ。
それは異形を二人ほど引っ掛けて跳ね飛ばし、急ブレーキをかけながら本物川のすぐ隣で止まった。
ハーフヘルメットを被り、原付バイクに跨った銭谷ケンジだ。
「乗れ! 早く! 」
彼は身を乗り出して手を伸ばし、強引に本物川の手を取ると力任せに引き起こした。
本物川は身を捩り、なんとかケンジの後ろに収まる。
「馬鹿が……来るなと、言ったはず……」
「話は後だ! マフラーに気を付けろ! 飛ばすからしっかり掴まって! 」
ケンジはゴーグルを降ろすとその場でアクセルターンする。
甲高いスキール音。空転する後輪が焦げたゴム臭を伴って白い煙を噴き上げる。
ケンジが前輪ブレーキを離すと同時に地面に解放された駆動力は、二人を乗せた原付バイクをウィリー気味に夜の路地へと力強く押し出した。
「逃すな! 追え! 」
異形の内の誰かが叫ぶ。
本物川は手にしたカッターに残る最後の概念の力をありったけ込めると、景色と共に後ろに滑ってゆく地面に、ころんころん、と投げて落とした。
原付バイクを追撃しようと動き出した異形たちの真ん中でそれはチカチカ、と二回点滅し、次の瞬間巨大な炎を上げて爆発した。
その爆炎と立ち昇った煙を尻目に、どこへともなく夜の街を疾走する原付バイク。
ケンジの胴に腕を回し、その背中に頬を寄せる本物川。
伝わる体温と周期的なエンジンの振動が心地よい。
本物川は更に体重を全面的にケンジの背中に預けると、深い谷に転がり落ちるように、意識を失った。
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