第4話
……やっべー。可愛いー。顔ちっせー。肌きれー。
それが、まだ目覚めぬアンドロイドを見た僕の感想だった。
俗にいうブラック企業に勤めながらローンを組み、僕は一念発起して念願のアンドロイドを手に入れた。
事前に顔や体型の写真を見てはいたが、やっぱり実物を目の前にすると、その美しさに感動する。学生時代から女性に縁のなかった僕にとって、目の前の彼女は女神に見えた。
僕は説明書を片手に一人であたふたしながら、どうにかこうにか彼女のバッテリーを充電し始める。充電方法は電源コードをコンセットに挿し込むだけなのだが、緊張しすぎてその作業に三十分もかかってしまった。
ダンボールからベッドへ移すために彼女を抱え上げた時に感じた柔らかな感触が、まだ手に残っている。
電源コードを挿す時に見た彼女の陶器のように滑らかな背中が、未だ目に焼き付いて離れない。
彼女が目覚めるまで、僕は彼女に触れた自分の手と、ベッドに横たわる彼女の顔を交互に見つめ続けた。
「……ぁ」
やがて、彼女が目を覚ます。
生まれて初めて息を吸った彼女の吐息を聞いただけで、僕の心臓は高鳴った。
彼女は眠たげな顔をしながらベッドから体を起こし、視線を宙に彷徨わせる。やがて彼女の澄んだ藍色の瞳が僕を捉えると、桜色の小さな唇をほころばせて、こう言った。
「おはようございます。ご主人様」
……もう死んでもいいと、本気でそう思った。
たった一言そう言われただけでローンを組んだ甲斐があったと、僕は心のなかで血涙した。
「あの、あなたが、ワタシのご主人様で、よろしいんでしょうか?」
ガッツポーズをしたまま何も言わない僕を見て、彼女は不安げにそう尋ねた。
いけないいけない。あまりの嬉しさに、我を忘れていた。僕は慌てて口を開く。
「そうだよ。僕が、君の、ご、ご主人様だ」
自分で言っていて、恥ずかしくなる。だが、ロボット三原則に従うアンドロイドには、仕える人間、主人が必要なのだ。
だから彼女の主人である僕がご主人様であることは何も間違ってはいないのだが、自分で自分のことをご主人様と言うのは、なんというか、こう、照れる!
それでも僕は、主人として役目を果たさなくてはならない。
僕は震える声で、こう言った。
「おはよう。アイ」
「はいっ!」
自分の名前を呼ばれた彼女は、嬉しそうに頷いた。
彼女はベッドから立ち上がると、可愛らしく小首をかしげて、僕にこう尋ねる。
「それでは、まずはどういたしましょう?」
その問は、アイの存在意義に直結するものだった。
道具は、使われるためにある。アンドロイドも同じだ。主人に使われることで、初めて自分の存在価値が生まれる。
だからアイは、僕からの命令を望んだのだ。
どうすれば、どんな命令をすれば、彼女に良い主人として見られるようになるのかを考えている間に、彼女は僕の部屋を見渡している。
男一人で暮らすワンルームは荒れ果てており、脱ぎ散らかした靴下や下着、ヨレヨレになったYシャツ、食べかけのビールのつまみ、積み上げられたカップ麺とコンビニ弁当の山など、有象無象のゴミ屋敷状態となっていた。
そんな惨状をアイに見られ、僕は苦笑いをするしかない。彼女に良く見られたいと思っていたが、こんな状態を見られたのでは、今更巻き返しは出来ない。
いっそ開き直って、自堕落ないつもの自分でアイに接することに、僕は決めた。
「まずは、お掃除から始めさせていただこうと思うのですが、いかがでしょう?」
「……よろしくお願いします」
僕は彼女に深々と頭を下げ、部屋の掃除をお願いした。
アイは嫌な顔一つせず、それどころか自分に与えられた役割を全う出来る喜びで、笑顔を浮かべている。彼女は要るものと要らないものを僕に尋ねながらゴミを片付け、洗濯機をフル稼働させて洗濯物を次々に畳んでいく。僕が久しく使っていなかったアイロンも、彼女が使えばYシャツはクリーニングに出したように、シワ一つ残らない。
あっという間に、ゴミ屋敷が人間の住める部屋へと変貌を遂げた。
彼女の凄まじい働きっぷりを見た僕は、馬鹿みたいに口を開き、呆けるほかない。
だがアイは、申し訳無さそうな顔を浮かべていた。
「申し訳ありません、ご主人様。床と壁紙に付いたシミは、今部屋にあるものだけでは対応出来ません」
「いやいや、十分! 十分だから! 十分すぎるからっ!」
僕は彼女に、惜しみない拍手と賞賛の言葉を送る。
「すごいよアイ! 本当に君が来てくれて良かったっ!」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、ワタシも働きがいがあります」
照れたように頬を染めるアイを、僕は存分に愛でた。
「それでは、次はご夕食の準備ですね。何かリクエストは御座いますか? ご主人様」
そう言われた僕は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、彼女に聞き返した。
「あれ? カップ麺が残ってるはずだから、今日はそれにしようかと――」
「いけませんっ!」
僕の言葉を遮り、ずいっとアイの顔が、僕に近づく。彼女から、仄かに甘い匂いが漂ってくる。
「お部屋のお掃除をしていて気づいたのですが、ご主人様はカップ麺とコンビニ弁当ばかりお食べになられているご様子。それでは栄養が偏ってしまい、健康に害が及ぶ可能性があります。ここは是非、ワタシにご夕食の準備をさせて下さいっ!」
そう言って僕を嗜めるアイの顔も、最高に可愛かった。
彼女が主人である僕の意見に異を唱えたのは、ロボット三原則の第一条に基づいての行動だ。僕が不健康な生活をしたことで被る被害を、事前に防ごうとしたのだ。
「わかった。それじゃあ、晩御飯の食材を買いに行こうか」
「いえ、何が食べたいかおっしゃって頂ければ、ワタシが買ってまいります」
腰を上げた僕に、慌てたようにアイがそう言った。自分の仕事を、存在意義を取られるとでも思ったのだろうか?
僕は彼女に笑いかける。
「その『何を食べたいのか』が思い浮かばないから、一緒にスーパーに行って考えようと思ってね。まだ僕の好みがわからないから、『何でもいい』じゃ、アイは何を作ればいいのか選択出来ないだろ?」
アンドロイドに搭載されている人工知能(AI)は、『ほとんど』の人間が不信感などを感じないように、統計的に『大体』普通の人間と同じような反応をする汎用性の高いものになっている。だがこの『ほとんど』『大体』の部分はあくまで人間全体を鑑みた設計になっており、アンドロイドが仕える主人の好みを完全に理解した作りになっていない。
そのためアンドロイドは、そうした主人の好みを仕えながら学習し、主人の好みの『味付け』などを覚えていく作りになっている。
だから捨てる、捨てないの二択であるゴミ捨てや、シワをとるアイロンがけなど、やることが決まっているものなら今のアイにも任せられる。しかし料理となれば好きな味付け、例えば目玉焼きは塩胡椒か醤油か、辛いのが好きか甘いのが好きかといった、僕の好みをアイはまだ学習していない(知らない)。味付けはカップ麺やコンビニ弁当から類推することは出来るかもしれないが、今日来たばかりのアイには『何でもいい』と言われた場合、夕食の献立を考えるための経験値(データ)が足りないのだ。
もっとも、僕が何を食べたいのか決めれば、それで解決する話ではある。
でも。
「これから一緒に暮らしていくわけだから、色んな所をアイと一緒に見て回りたいと思ってね。ダメかな?」
「そ、そんなことありません! むしろ嬉しいですっ!」
微笑むアイと一緒に、僕らは徒歩五分ほどの場所にあるスーパーまで足を運ぶ。自動ドアの向こうでは、ちょうど店員が出来合いものの商品に、割引シールを貼っている所だった。
「ちょうどいい。あれにしよう」
「それでは一緒に買いに来た意味がありませんよ、ご主人様」
すぐさま出来合いものが陳列されている棚へ行こうとする僕を、呆れ顔のアイが押しとどめる。
「ご主人様は、何か食べれないものや、苦手なものなど御座いますか?」
「いや、特にないよ。出されたら、出された分だけ食べちゃうタイプだから」
「過度の暴飲暴食は消化器系に負荷がかかるので、健康に悪いです。今後は御控え下さい。あ、ご主人様は、最近主菜はお肉ばかりでしたよね? 本日は鮭の塩焼きなどいかがでしょう? 特売日だそうですよ?」
「じゃあ、今晩は鮭の塩焼きにしよう」
アイからお小言をもらいながら、僕たち二人は今晩の献立を決めていく。会話は主に、アイからの質問が中心となっていた。この会話を通して、アイは僕という主人の好みを学習しているのだろう。今服用している薬の有無まで、細かく聞かれた。
買い物を終えてスーパーを出る頃には、もう日は沈みかけていた。アイとの会話が楽しくて、ついつい時間が経つのを忘れてしまう。
「結構遅くまでかかっちゃったね」
「……はい」
アイは頷くも、僕の方をジト目で見つめてくる。その先にあるのは、僕が手にしたレジ袋。袋の中身は、晩御飯の材料だ。
「どちらが持つかなんて、些細な問題じゃないか」
「……でしたら、ワタシが持っても問題ないではありませんか」
自宅への帰り道、アイは自分がレジ袋を持つと言って聞かなかったのだ。
「晩御飯はアイに作ってもらうんだから、荷物持ちぐらい僕が担当してもいいだろ?」
「……わかりました」
渋々と言った様子で、アイはようやく頷いてくれる。
「ですがご主人様。御存知の通り、ワタシはまだご主人様の行動パターンを学習している最中です。あまり一貫性のない行動やご指示をご主人様がなされると、ワタシの中でのご主人様の定義にずれが生じることになりますので、ご注意ください」
「それは、今後アイと一緒に買い物に来た時、僕が『常に』荷物持ちを担当することになる、ってこと?」
「平たく言えば、そういうことになりかねない、ということです。今回の場合、ご主人様はご自分で荷物をお持ちになることで、その結果ワタシにはご主人様が満足感を得ているように感じております。ご主人様がご満足いただけるのであれば、今後もお荷物の運搬をお願いすることになります」
「うへぇ。だったらアイに持ってもらえば良かった」
「今からでも、お持ちいたしますよ?」
そう言って、アイはいたずらっ子のように僕に向かって微笑んだ。
僕は内心、アイの人工知能に舌を巻く。
参った。男の見栄や、僕の自己満足まで計算して学習してくるなんて思わなかった。変にいいところを見せようとすると、かえってアイの行動に悪影響を及ぼしかねない。
自堕落な自分をアイに見せようと思っていたのに、いつの間にかいいところを見せようと、僕は変に気を使ってしまっている。
マズいと思いながら、僕はアイの横顔を盗み見た。彼女は僕と目が合うと、目を弓なりにして笑う。夕日がアイの笑みを照らし、銀髪は風になびいて黄昏れる。
参ったなぁ……。
「……いや、いい。もう家の目の前だし」
僕の口から、自然と言葉がこぼれ落ちた。
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