兄が妹を見ている時、妹もまた兄を見ているのだ

メグリくくる

第1話

「んー、特に異常は見受けられませんねぇ」

 そう言って目の前の男性は、回転椅子に背中を預けた。白衣を着た彼は机に自分の体を向けると、カルテに診断結果を記録していく。

「何か他に心当たりはありませんか? 木々さん」

「そうですねぇ」

 首を傾げながら、俺、木々 公一(きぎ こういち)は心当りがないか、もう一度自分の記憶を探っていく。

 一ヶ月ほど前から、どうにも耳の調子が悪い。何処からともなく、変な物音が聞こえるようになったのだ。

 どんな音かと聞かれると伝えるのに困るのだが、なんというか、こう、壊れたブリキの玩具を無理やり動かしているような、そんな『音』が聞こえるのだ。

 最初は空耳だと思い気にしていなかったのだが、ここ二週間でひどくなり、俺は耳鼻科に診察を受けに来たのだ。

「今年進学した大学院の研究も上手く行っていますし、特に思い当たることはないですね」

 まだ唸りながら、俺は医者にそう言った。

 強いてあげるとすれば、俺が在籍している大学と大学院のキャンパスが別になったことぐらいだろう。

 俺の大学では就職難に伴い大学院への進学率が増えたため、去年度からキャンパスを別にすることになったのだ。

 キャンパスが別になったことに伴い、俺は以前住んでいたアパートから、大学院から徒歩十分の場所にある別のアパートへと引っ越していた。

 引っ越したのは五階建てのアパートで、俺は一階に住んでいる。洗濯物を干す時、ベランダから駐車場が見えるため、人と目が合うと若干気まずい思いをするが、悪くない部屋だと思っている。

 こうした環境の変化が原因で、『音』が聞こえるようになったのでは? とも思ったのだが、引っ越したのは三月で、今は七月。

『音』が聞こえ始めたのは六月なので、環境が原因なら三月、四月の時点で『音』が聞こえていないとおかしい。

「聴力検査やバランス検査も異常ありませんし、目眩や耳鳴りもしないんですよね? 後はもう大きい病院に行って、MRIを取るぐらいしか出来そうにないですね」

「そうですか……」

 カルテに俺の検査結果を貼り付ける医者を見ながら、俺はそうつぶやいた。

「他に、何か気になる点とか、困っていることはありませんか?」

「んー、ここでお話するような内容ではないかもしれないんですが……」

「構いませんよ。何でもおっしゃってください」

 人を安心させるような医者の笑顔に、俺は意を決して口を開いた。

「実は、遠くから直接俺のことを見ていたり、後を付けられているんです」

 そう言った瞬間、医者の顔が一瞬強張ったのを、俺は見逃さなかった。

 医者はゆっくりと、口を開く。

「それは、いつもそう感じるのですか?」

「いいえ、妹と一緒にいる時には感じません」

 俺の言葉に頷くと、医者は看護師を一人呼んで、何か耳打ちをした。

 その反応が、俺には少し不愉快だった。

「それで、木々さんの妹さんは、どういう方なんでしょうか?」

「……完璧なんです」

「へ?」

 俺の言葉に、医者は間の抜けた返事をした。

 だから俺は、繰り返し言う。

「完璧なんですよ、俺の妹は。文武両道ながら才色兼備。幼い頃からずっと一緒で、いつも俺の後を追いかけてきて、今でも俺の後を追ってきます。俺が何かするときには必ず妹がそばにいて、妹は俺の一挙手一投足、その全てを監視してるんです。更に――」

 俺が自分の妹について淡々と事実を語っていく最中、医者は看護師から資料を受取り、それを読みながら俺の話を聞いている。

 患者(俺)が話しているのに資料を読むその態度が、俺を苛立たせた。

 それでも俺は、極めて冷静に、かつ簡潔に、妹がいかに完璧かを説明し終えた。

 俺の話を聞き終えた医者は、何やら一筆認め、それを封筒に収めた。

「招待状を書きましたので、後はそちらの医師の指示にしたがってください」

 封筒を医者から受け取り中身を確認すると、何とそれは精神科への招待状だった。

「……これは、一体どういうことですか?」

 自分の口から出る言葉に、怒気を隠すことが出来ない。

「俺は正常です! 何故精神科に行かなければならないのですかっ!」

「あのぉ、非常に言い難いのですが……」

 そう前起きして、医者はこう言った。


「まさかとは思いますが、木々さんのおっしゃられている『妹』さんとは、あなたの想像上の存在にすぎないのではないでしょうか?」


「そんなわけあるかっ!」

 俺は怒りを露わにし、激昂しながら立ち上がる。

「お、落ち着いてください」

「落ち着けるわけ無いだろ! もういいっ!」

 会計もそこそこに、俺は冷めやらぬ怒りを抱えて、病院から飛び出した。

 全く、冗談じゃない! 確かに想像上の人物にしか見えない程俺の妹は完璧だが、完璧に俺の妹は存在するっ!

 幼少の時から片時も離れたことがないほど一緒にいた、愛する妹の存在を否定され、俺の頭は完全に血が上っていた。何かしら、妹がこの世に存在することを証明出来ないものか。

 頭を冷やすため、自販機でコーヒーでも買おうと思った瞬間、俺は妹の存在を確認する絶対的な方法に気がついた。

 そうだ。俺が妹に会えばいいんじゃないか!

 我思う故に我あり。

 妹がいる即ち兄ありだ。

 何故こんな簡単な事に気が付かなかったのかと、俺はスマホを取り出しながら、我ながら呆れていた。ひとまず、妹に電話をしよう。

 スマホを取り出した瞬間に、着信が入る。何と相手は妹からだ。ナイスタイミング! 流石は俺の妹。完璧過ぎるっ!

「もしもし?」

『もしもし? お兄ちゃん?』

 スマホから、妹の声が聞こえてくる。その声が聞こえた瞬間、何故だか俺は涙が出そうなほど安堵した。

 やっぱり妹はいる。俺の完璧な妹は、この世に存在する!

『……もしもし? お兄ちゃん、大丈夫? 何かあったの?』

 中々返事がないため、妹が俺のことを心配してくれる。

 ……何をやっているんだ、俺は。しっかりしろ!

「悪い、大丈夫だ。で、どうしたんだ」

『あのね、お兄ちゃん。ちょっと相談したいことがあるんだけど』

「相談?」

 その言葉に、俺は今自分が悩まされている『音』のことを思い出した。

 向こうも相談があるようだし、『音』について俺も妹に相談することにした。

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