番外編

番外編 流されたその先に

「あ・・・」 


 声が出た方が遅かった。


 ミレーナ雪山せつざんでのフィールドワークの依頼を受けてから1年。最短でも2年は必要という依頼だったが、人が滅多に来ないこの場所は僕の性格に合っていたらしく『依頼』という建前で堂々と引きこもっている。

 1年を通して雪まみれのこの山での生活もすっかり慣れたころのことだった。


 きんっと冷たい洞窟で目を覚ます。

 3日間続いていた吹雪は夜にうちに止んだらしいことを、まぶしいけれど柔らかい日差しに知る。


 起きたらまず寝袋からはい出て<流動>に火種をもらいたき火を作る。その間に<当千>が小さい鍋に外から雪をいれて持ってきてくれたものをたき火にかけ、沸騰するのを待ちながら携帯食をもそもそとかじって沸いた白湯を飲む。


  腹が温まったのと同時に腹の中で携帯食が膨らんで、満腹感をかすかに刺激するのを待ってから、たき火を消していつもと変わらない雪山を探索する。はずだった。


 新雪を踏むことはまるで真っ白なキャンバスに絵を描いているようで楽しくて、朝食後のいつもの軽い運動がてらに洞窟の外を散歩していた。特に危ないところに行く気もなく、だからいつも通り、<当千>のみを連れて出かけた。


(どうしよう・・・)


 ゆえに、崖が崩れて下に転落した時の方法なんて考えていなくて。

 さらに、落ちた先が雪水注ぐ激流の川なんて思いもしなかった。氷が張っていなかったことだけは僥倖と言えたかもしれないけれど。もし張っていたら即死体の出来上がりだった。


 僕を追って飛び込んできてしまったテスターだけは離さないようにしっかりと抱きかかえながら、少しでも身を軽くしようと水中でマフラーと上着を脱ぐ。水難事故に巻き込まれたときにはそうするといいと昔テレビで見たのをかじっただけの知識だったが、装備品であったそれらがなくなったことで雪混じりの川水が肌を突き刺すように冷たくしみる。


(脱いだの、間違えたかな)


 もう後の祭りになってしまったけれど。それらは脱いだ瞬間激流にさらわれてとっくに目視できなくなってしまっていたから。

 一応幼馴染がくれたものだったから、若干残念ではあったものの、装備品はまた揃えればいい。大したことじゃない。そう考える思考自体が現実逃避であることもわかっていた。 


 それよりも、息をもつかせぬほどに激しい流れに呼吸がうまくできない。装備品を脱いだ身体はかすかに脱ぐ前よりも軽いような気がしなくもないけど、それでも身体を浮かすまでには至らなかった。


 体の芯まで冷え切るような冷たい水を飲みながらの呼吸、雪混じりの水に奪われ続ける体温。激流に思ったように動かない身体。


「キュア!」


 せめて濁流でないだけましだ、なんて朦朧とする意識で思った。

 しがみついてくる<当千>を少しでも息がしやすいようにと掲げるように抱いて。自分の荒い呼吸の中、意識が途切れるその一瞬前に。

 激流の底に大きな影を見たような気がした。

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