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なくなってしまった足場では重力に逆らうことも出来ない。
ましてや薄暗い中、つるりとした結晶壁で出来ている穴には掴むところもなく。万が一あったとしてもこのスピードで何かにすがろうとすれば掴んだ手の方が折れてしまうだろうな、と咲也子は考えていた。
無条件で落下し続ける空中でも、ひんだけは離さないようにとたぐり寄せたものの。もう、かれこれ5分以上は落ち続けているだろう。
泣きそうな声でひんが鳴いている声がした。謝っているのだろうかと思い、ぎゅっと抱きしめる。大丈夫だよという意を込めて。こわくないわけではないけれど、自分の勝手な事情のせいでひんが傷つくのは嫌だった。
「まさかこんなのと、は」
想定していなかった。オープンテラスで感じた拙い殺気も、この迷宮のことも。正直、殺気に関してはあの程度なら何もしてこないだろうと高をくくっていたことと、迷宮に関しては隠し部屋に繋がっているのではというくらいの軽い気持ちだった。
本当にあるのかどうか確認したらすぐに引き上げてミリーに知らせるつもりだったため、何の準備もしてきていなかった。どちらも完全に甘く見ていた咲也子の失敗である。鼻で笑えもしない。
実を言えば下に安全に降り立つための方法はいくつか思いついてはいるのだ。
例えば‘傲慢‘の能力の1つである魔力操作で幾重にも魔力の層を作って壊しながら減速する方法や、いっそのことひんに大きな水を放射してもらうこと、ケープを最大限まで大きくして空気抵抗の要領で減速するなど方法はあるのだが。これらはまず、この穴の下が安全であることを前提とした方法なのだ。
だから、着地場所が安全でなければ意味がない。
底に何かいる場合は、降りている途中に攻撃されたらのことを考えても‘傲慢‘以外は使えないのだ。
暗闇の底、‘怠惰‘によって光った青い目が見せたそれ。
黄色い目、黒い艶のあるうろこ、その巨体は大きくとぐろをまいている、大蛇が下に確認できた今回は。
とっさに黄色い目に向かい風圧に取れてしまったフードを気にせず青い目をきらめかせて、‘憤怒‘により石化させる。
咲也子は‘憤怒‘を司り、確かに石化させるのは得意だが、理不尽は感じていても特に怒りを感じない現状で、15分以上の石化は成功したことがなかった。青い目が、暗闇の中でぎらぎらと言ってもいいほどに輝いている。
その間に‘傲慢‘で何百枚という魔力の層をつくり破り落ちていくことで減速を成功させ、ぽとりと落ちるように地面についた。この時点で石化してから8分の時間がたっていた。
下から見上げた大蛇は本当に大きく、'毒の吐息'を吐こうとしたのか口を開けたまま固まっていた。
大蛇越しに見えた水路にひんをかかえたまま走る。心臓は恐怖と急激な運動にばくばくしていたし、足は緊張に今にももつれそうで、大蛇の石化がいつ解けるのか恐ろしかったが、それ以上に。自分の失策でひんを失うことの方が恐かった。
水路から漏れた赤い水に足を取られながら転がるように赤い水路のふちへとひんを下ろした。服も髪も水でびちゃびちゃだったが、全く気にはならなかった。
意味が分からないと言いたげにこちらを見るかわいい自分のテスターに、初めて厳命を下した。
「逃げなさ、い」
正直に言えば、自分だけなら何とかなる。
空間移動は使えなくなっていたものの、‘虚飾‘で大蛇の目をごまかし続ければいいし、もし失敗しても‘強欲‘によって不死の身となっていれば、痛みはあるだろうが死ぬことはない。
でもひんは違う。ひんは‘虚飾‘こそ使えるものの不死ではない。あの大きな蛇の尾で叩かれれば一瞬でその儚い命は、消えてしまうだろう。
これから大蛇が飽きるまで逃げ続けるという選択肢しかない自分と、このことで少しどころじゃなく傷つく可能性の高いこの優しい生き物は一緒にいるべきではないのだ。
だから、水流に乗って外に逃げなさいと命じた。外まで行かなくても、少しでも安全性の上がるところへ。
「ひん!」
はじめて、この小さな生き物は抵抗を示した。
ぴったりと張り付いて離れない。前ひれや尾も使って赤い水や泥で汚れてしまった白いタイツ越しにくっついてくる。いやいやと頭をこすりつけてくる様子が愛おしかった。
大蛇の石化が解ける。目に鋭い輝きが戻り、爛々と光り始めた。
耳が痛くなるほどの音量で咆えると自分の専売特許といえる石化などという屈辱にさらした相手を探し始める。苛立たし気に尾で壁を打ち付けたところで、水路にいる咲也子の青い目と合わさる。
今度は‘色欲‘による愛情付与を試みたが、あっけなく抵抗されて終わった。咲也子にできる最後ともいえる抵抗をあっさりとのけられて、咲也子はとっさに激流が走る水路にひんをつきおとした。
「ひんっ!?」
「ひん、ありがと、かわいい、子。大好き、よー」
どこまでも平坦な声で礼を告げ、小さなかわいいテスターをこの状況から逃がす。
もう咲也子にはこの場から逃げることも、ましてや応戦することも到底できない。そういうことはすべて自身の分身ともいえる
水路に流れていくひんを見もせずに、ぴりぴりと張り詰める空気の中。咲也子は大蛇が飽き続けるまで、逃げ回ることを決意した。
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