『奇術』

矢口晃

第1話

 それは日本海にほど近い、ある小さな町でのことでした。小学校二年生になったばかりの春夫は、放課後、いつものようにクラスメートの何人かとふざけあいながら帰宅をしていました。

 通学路の途中にある、海沿いの防風林を背にした公園を通りかかった時のことです。公園の一角に、なにやら大きな、それもちょうど春夫と同じくらいの子供たちばかりの人だかりができているのを春夫とクラスメートが発見しました。

「何だんべ」

 春夫がそれを指差しながら言いました。

「わからん」

 いつも洟を垂らしている郁夫が答えました。

「行ってみよ」

 そう言って早くも駆けだしたのは駆けっ子の得意な昇です。

「待ってよう」

 慌てて春夫も昇を追いかけて走りだしました。ほとんど空っぽのランドセルの中で筆箱の蓋が開いて、中のえんぴつが鞄が散らばってしまうのもお構いなしに、春夫は人だかり目指して一生懸命に走りました。

 ようやく子供たちの輪の中に合流して春夫たちが見てみますと、そこには赤と白のしましまの帽子をかぶり、目のふちをパンダのように白く塗り、鼻に赤い玉のようなものをつけて、星形に口紅を塗った一人のピエロが、子供たちに様々な曲芸を見せているところでした。ピエロは長さも重さも違うナイフを三本、お手玉のように空中に投げては取り、投げては取りを繰り返して見せました。空中に投げられたナイフの刃が、海からの照り返しの光を浴びてきらきらっと輝きとてもきれいです。春夫は、ピエロがいつかナイフを取りそこなって手を毛がしはしまいかと、息を飲んで曲芸に見入っていました。しかしピエロは終いまで一度も撮りそこなうことなくナイフの曲芸を終えました。

 ピエロが三本のナイフを持った手を左右に大きく開いてにっこり微笑むと、子供たちの間から歓声と拍手がわきました。春夫も夢中で拍手を送りました。

 ピエロはナイフを置くと、今度は子供背の半分はあろうかという大きな球の上に立ち、その上でバランスを保ったまま、六つの手毬をお手玉し始めました。

 黄色、青、白、赤、緑、ピンク、黒。六色の手毬が、目にも止まらぬせわしなさで空中を行ったり来たりします。しかもピエロはその間に、片足を上げたり、足で球を前に転がしたり後ろに転がしたりするのです。春夫は隣の昇や郁夫に話しかけるのも忘れて、ただただじっとその曲芸に見入っていました。ピエロはお手玉を止めると球の上からぴょんと跳び下り、ちょこんと頭を下げました。子供たちはまた一斉に拍手を送りました。

 さて、次がいよいよ最後の曲芸です。ピエロは柄の長い木の棒を一本取り出しますと、その先端の布を巻きつけた部分の近くで、右手の指をぱちんとひとつ鳴らしました。すると突然、その布の部分から赤い火が起こりました。

 黒い煙を上げて、めらめらと燃えるその火を、ピエロは子供たちの前に見せています。その火をどうするのかと思いましたら、ピエロは急に横向きになり、頭を上に上げ、口を大きく開きました。そして子供たちが注目する前で、ことさらゆっくりと、棒の火の着いた先端を自分の顔の方にちかづけていくのです。

「危ないや」

 誰かが思わずそう叫んだのも、春夫の耳にはほとんど聞こえていませんでした。春夫は瞬きをするのも忘れて、ただじっとピエロの曲芸に見入っているのです。

 さてピエロはと言いますと、火の燃える棒をゆっくりと自分の顔に近づけて行き、とうとうその火を自分の口の中に入れてしまいました。ピエロが口を閉じて手を離すと、ピエロに咥えられた棒が、まるでピエロの口から生えたように立っていました。次の瞬間、ピエロが棒を手に持ち口の中から引き抜きますと、さっきまであんなに火が燃えていた棒の先端には、火を点ける前と同じようにただ茶色っぽい布が巻いてあるばかりです。

 口の中で火を噛み消したピエロはいたって平気そうに、にこにこと笑いながら子供たちの前に頭を下げています。子供たちは一層大きな喜びの喝采をピエロに送りました。

 家に帰ってからも、春夫の興奮は収まりませんでした。まるで宿題も手につかず、母親を捕まえてはピエロの曲芸がどれだけ素晴らしかったかを、次から次へとまくし立てるように喋り続けるのです。それは父親が帰宅して、兄弟も合わせた一家七人が夕飯の席を囲んでからも一緒でした。一番末っ子の春夫は、海沿いの公園で昼間見た曲芸のことを、目を輝かせながら兄や姉たちに話したのです。

「こらこら。口ばかりでなく、箸もちゃんと動かさなあ」

 見かねた父親が、しまいには春生を注意しましたが、それでも春夫はなかなか話す口を止めようとはしませんでした。最後には、

「大きくなったらピエロになる」

 と言って兄や姉たちを笑わせました。

 真剣に話している春夫には、それが納得いきません。

「なんで笑うんだあ」

「だって、春夫がピエロだって……」

 一番上の高校生の姉里子が、お腹を抱えて笑いをこらえました。

「なるし。おらあきっとピエロになってみるし」

 そう言って春夫はむすっとふてくされました。

 夜、布団に入ってからも春夫は胸がどきどきして、なかなか寝付かれませんでした。目を閉じると、あのピエロに投げられたナイフのきらきらした様子や、めらめら燃える火がピエロに飲み込まれて行く光景がまざまざと蘇ってきます。そのたびに春夫は、まるで今まさに目の前でピエロが曲芸をしているかのように、はっとするのです。そしてそれが見事成功した後は、何度でも嬉しくなるのです。

「おいらもピエロになってみてえなあ」

 春夫は布団の中で何度も寝返りを打ちながら、夜を更かしていきました。


 ようやく春夫の興奮も収まってきた、その週の日曜のことです。春夫はお使いの帰りに、父親と手をつないで商店街の中を歩いていました。

 日曜の夕方だけあって、商店街は多くの人出でにぎわっていました。町のスピーカーからは音楽が流れ、人が立ち止まるところには笑い声がありました。

 いつも通りの、のどかな町の風景です。

 と、突然、

「がしゃっ」

 と、窓ガラスにものが激しくぶつかるような音がして、春夫は思わず立ち止まりました。

 それから

「がらがら」

 とある一軒の飲み屋の引き戸がものすごい勢いで開いたかと思いますと、中から一人の男が、逃げ出すように転げ出てきました。

 そのすぐ後を店の主人が、

「おおい、その酔っぱらいを止めてくれ! 食い逃げだあ!」

 と叫びながら駈け出してきます。その時には、先に転げ出した男は店の前を十数メートル離れた場所にいました。

 のどかな町に突如として起こったこの騒動を、道行く誰もが立ち止まって見ていました。足のもつれた酔っぱらいは最初のうちこそ何とか駆けていましたが、次第に息が上がったと見えて、しばらくしないうちに路上につっぷしてしまいました。難なく追いついた店の主人は酔っぱらいを取り押さえると、

「さあ、警察だ。交番だ」

 と酔っぱらいに怒鳴りつけています。

 はあ、はあ、と息を切らしながら、酔っぱらいは必死になって店の主人に手を合わせ頭を地べたにつけて謝りますが、店の主人は許しませんでした。酔っぱらいの首根っこを掴むと、そのまま交番に連れていこうとしたのでしょう、ずるずると引きずるように酔っぱらいを立たせました。

 春夫はその騒動を周りの人たちと見守りながら、何となくその酔っぱらいの男の顔に見覚えがあるような気がしてなりませんでした。

 どこで見たのだろう。春夫は一生懸命想い出そうとしました。

 そして突然、

「あっ!」

 と叫びました。

 驚いて父親が、

「どうした?」

 と春夫の顔を見つめました。その時春夫は、右手で酔っぱらいの男を指差しながら、心持ち青くなった顔をして言いました。

「ピエロだ!」

 春夫が最初、その顔をなかなか思いだせなかったのも無理はありません。しかしそれは紛れもなく、あの海沿いの公園で、春夫や他の子供たちに曲芸を見せていたピエロの男に違いなかったのです。

 赤と白のしましまの帽子や、特徴のある化粧を外した後でも、春夫はきっちりとその男の顔の特徴を見てとったのです。

 唇の形、目の大きさ、顎の割れ方。どれをとっても、あの海沿いの公園で見たピエロに間違いありません。

「ほんとかあ」

 信じられないという表情で父親は聞き返しましたが、春夫はその言葉が耳に届かなかったように何も答えません。皆が見ている中で、足もろくに経たないよれよれの状態で、店の主人に荷物のように引きずられながら交番に連れていかれるピエロの、いえ今は変りはてた姿になった酔っぱらいの男の姿を黙って見ていました。

 ぎゅっと力を込めて、父親の手を握りしめながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『奇術』 矢口晃 @yaguti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る