02 隣人
国立病院機構東都病院。
東京都清瀬市梅岡三丁目に巨大な敷地を持つこの病院は、ぜんぶで七百以上もの病床を持ち、あらゆる検診や救急対応、訪問介護、それから感染症対策まで、何もかもを一手に引き受ける地域最大の総合病院だ。
敷地内には大小いろいろな建物が建ち並んでいて、それらはすべて廊下で繋がっている。俺が寝泊まりするのはその中でも一番に大きな病棟『新病棟』で、最上階に当たる七階のフロアは『七病棟』と呼ばれている。各フロアにはそれぞれ二ヶ所ずつ、看護師さんたちの詰所に当たるスタッフステーション、それからトイレ、休憩用の談話室、エレベーター、浴室、それから診察室が設置されている。二階には売店、一階には食堂がある。
医者が集まっているのは病棟の一階で、俺のことを担当する医者もそこからわざわざ上ってきたんだそうだ。
これからの流れを説明された俺は、母さんと一緒に院内生活用のスウェットに着替えて、それから持ち込み荷物の整理に取りかかった。あんたは病人なんだから大人しくしてなさい、なんて母さんは情けない声で言ってたけど、違うからね。俺まだピンピンしてますから。
それが終われば病室に戻って、そこで母さんとはお別れだ。
「何も、ないといいわね」
口うるさかった母さんも、さすがに小さな声でそう言った。そして、うつむいた。
うん。俺もそう思うよ。だってこんな場所、早く出たいし。
だから俺は笑ってみせた。
「大丈夫だよ。じーさんばーさんと一緒にすんなよな。そんな簡単に死んだりしたら、やってらんねーし」
「……そうね」
母さんも、ふふ、と笑ってみせた。俺とは違って、わざとらしかった。
母さんは明日も面会に来るからと言い置いて、病室を去っていった。続けざまに入ってきた看護助手の人が、風呂に入れと言ってきた。『看護助手』というのは看護師の資格を持たないスタッフさんのことで、医療行為ができない代わりに身の回りの世話を引き受けてくれる人たちだ。
で、その人が説明するには、俺たち患者は数が多いので、風呂には二日に一度しか入れないらしい。マジかよ。そんなに入らなかったら臭くなっちゃうよ。不平を言いたかったけど、従うしかないやと思って俺はうなずいた。
同じ七病棟に設置されている風呂に浸かって、出てきたら俺の部屋の前に配膳台が来ていた。ああ、夕食の時間なんだな。俺はてきぱきと配膳を進める看護助手さんの隣を通って、自分のベッドに向かう。
「愛ちゃん、夕食よ」
看護助手さんは隣の奴に声をかけて、起こそうとした。もぞもぞと布団が動いて、そいつは起き上がった。
「……もう、夜ですか」
ぽやんとふやけたその声は、やっぱり女の子だった。声色が幼い。もしかして、同じくらいの歳なんだろうか。
「そうよー。聞いたわよ、やっと今日は体調が戻ったんでしょう? きっと体力が削られてるんだから、今日くらいはしっかり食べなさい。ねっ?」
「……はい」
女の子はこくんとうなずいた。うなずいたというか、重力に引っ張られて首を振ったような感じに見えた。ほんとに大丈夫なのか、あいつ。
俺の視線に気付いたのか、看護助手さんは俺を目で指差す。「ほら、今日からお隣さんが来たのよ」
そこで初めて女の子は俺の存在に気づいたらしかった。そりゃそうだよな、ずっと寝てたんだもん。
「あ、竹丘友慈って言います。よろしく」
余裕を見せつけようと、俺の方から自己紹介してやった。女の子は返事をしないで、ぽかんとしている。かと思うと、ぺこりとお辞儀をして、名乗った。
「……えと、
『のしお』と読むのが正解らしい。名前を呼ぶこともないかもしれないけど、呼ぶときは無難に『野塩さん』かなぁ。女の子──いや、野塩さんを前に、俺はそう決めた。
身体を起こした野塩さんは、顔の血色は思っていたほど悪くなかったけれど、袖口から覗いている腕の痩せ方は尋常ではなかった。俺よりよほど重病の患者だということが、ド素人の俺の目にもすぐに分かる。
髪は肩くらいまでの艶のある黒で、両耳のあたりから三つ編みにしてだらんと下げている。目はぱっちりしていて、けっこう、可愛い。
「はい、あなたも食事よー」
看護助手さんは俺の前にもお盆を持ってきた。風呂の時の人とは別の人で、小太りで目の優しそうな看護助手さんだ。端的に言うと、おばさんっぽい。
俺のことは名前では呼ばないんだなぁ。ま、さすがに初っぱなからそんな馴れ馴れしく接したりはしないよな。そう思った矢先、おばさんは俺に問いかけた。
「そうそう、これからは『友慈くん』って呼んでもいいかしらぁ?」
「えっ……? あ、はあ」
「いい名前ねー! なんか男前な感じがするわぁ♪」
「そ……そうですかね……」
「愛ちゃんもそう思うでしょ?」
いきなり話を振られた野塩さん、少し顔を赤くしてうつむいてしまった。そりゃ、そうなるよ。俺だって唐突な提案にさっきからついていけてないよ。てか、馴れ馴れしいな、このおばさん。
変な空気になどお構いなしに、おばさんは笑って話し続ける。
「それはそうと友慈くんと愛ちゃんって、同い年なんだってねぇ。二人とも十四歳なんでしょう?」
……マジか。
「何で知ってるのかって思ったでしょー? 実はねぇ、さっきステーションで松山さんにそう聞いたの。みんなびっくりしてたわよー」
私もびっくりよーおほほ、と快活に笑うおばさんのことは、とても視界には入らなかった。
俺は野塩さんを見た。野塩さんも、俺を見てきた。
この子が、同い年……。
「それじゃ、後でお膳は取りに来るわねぇ。ゆっくりよく噛んで食べるのよー」
不自然に明るい声を上げながら、おばさんは部屋を出ていく。ああっ、ちょっと待ってよ。こんな空気にしておいて出て行っちゃうなんて、いくらなんでもあんまりだ!
「…………」
「…………」
言葉が、まるで出てこなくなってしまった。
おいどうしたんだよ、さっきまでの俺。あの余裕はどこへ行ったんだ。そう問いかけてもやっぱり口にする言葉は思い付かなくて、やけになったような気分で俺は箸を手に取った。くそ、もういいからとにかく食べよう。昼ご飯から何も口にしてなくて、すっかり腹が減ってるんだ。
メニューは白米、味噌汁、鯖の煮付け、それからお浸し。
へえ、これが音に聞く病人食ってやつなのか。少し感動しつつ、意外と普通の食事なんだなと拍子抜けしつつ、俺は黙々と夕餉を口に運んだ。
病人食であるからにはきっと、きちんと栄養価を考えてあるんだろうな。塩味が薄いせいか味は微妙だけど、とにかく食べやすいご飯だった。それにそもそも、空腹な時っていうのは何を食べても美味しく感じるもんだし。十分も経った頃には俺は箸を置いて、空っぽになった器を眺めていた。
物足りなさがまだ、腹の中を埋め尽くしてやがる。ああ、家だったらもっとたくさん、たらふく食べられるのになぁ……。
かちゃん、と音がした。横を見ると、それは野塩さんが食器を置いた音だった。
「……はぁ」
物悲しげなため息がその口から吐き出されて、ベッドの上でふわりと膨らんだ。
あれ、まだ半分も減ってないじゃないか。でも、野塩さんはもう箸もお盆に置いて、料理を視界に入れたくなさそうに目を閉じている。
満腹なのか? たったそれだけしか食べていないのに?
信じられない。唖然とした俺は、待てよ、と考え直した。これはもしかすると、残り物をもらえるかもしれないぞ。
決して欲は表に出すまいと固く思いながら、話しかけることにしたた。さっきとは違って、すらすらと声が出た。
「飯、もう食べないの?」
野塩さんは俺を一瞥して、小さくうなずく。
「うん。本当はもう、食べたくないけど……」
「本当は?」
「食べないと、室田さんに怒られるから」
俺の脳裏を、さっきの小太りの看護助手さんがオバサン笑いを響かせながら通り過ぎていく。ああ、あの人、室田って言うのか。じゃあこれからは『室田おばさん』だな。
「でもさ、無理に食べること、ないんじゃないの?」
「ううん。私、点滴とか打ってないから、ちゃんと食べないと栄養が摂れないの。それで体調を崩して、前にすっごく怒られた」
「へぇ。厳しいんだな」
「ここは病院だもん」
野塩さんは目を伏せて、息をそこに置くようにそう答えた。
がりがりに痩せ細った腕が、まだその袖口から見えている。道理で痩せてるわけだよ、と思った。
そして同時に、そうだよな、とも思った。
ここは病院なんだ。俺みたいな健康人間の常識は、通用しないのかもしれないよな。
だけどやっぱり、俺は健康人間のままでいたい。
「頑張って、食べる」
気丈に言い張った野塩さんは箸を握り直したけど、その手はやっぱり、震えている。皿の上の鯖の方から、そこまでして食べなくてもいいんだよ、なんて訴えてきそうなほどに。
「…………」
しばらく野塩さんはそのまま、そこで葛藤を続けていた。食べるか、否か。食べるべきか、否か。そんなところだろうか。
その時、不思議と躊躇する気持ちが消えて、俺は立ち上がった。すたすたと野塩さんのベッドに歩み寄ると、首をかしげている野塩さんに手を差し出した。
野塩さんは目をしばたかせて、自分の手を見る。違うよ、握手がしたいんじゃないんだよ。
「俺が代わりに食べよっか?」
「えっ、でも……」
「嫌々食べられるより、食べたい奴に食べられる方が、食い物だってきっと幸せだろ」
ちょっとカッコつける余裕も出てきた。正直に『腹が減ってるから』なんて言うのは、恥ずかしいし。
「…………」
野塩さんは自分のところの茶碗に目を落とした。それから、俺を見上げた。その動作を少なくとも三回は繰り返した。
結局、野塩さんが選んだのは、ご飯の大半が残った茶碗を俺に譲渡することだった。
「早くしないと、室田さんが来ちゃうから」
両手で茶碗を寄越しながら、小さな声で野塩さんはそう説明した。だよね、俺もそうだろうと思ってたんだ。お互いの利害が一致したと考えることにして、自分のところへ茶碗を持っていった俺は、すぐにご飯を掻き込む。
空いた茶碗を野塩さんのところへ戻す頃には、野塩さんはご飯以外のものを何とか食べきっていた。他の人と仲良く話しながら部屋に入ってきた室田おばさんが、まあ! と高らかに叫んで野塩さんを褒め称えるまで、残り一分の瀬戸際だった。危ない、危ない。
そうして、二人きりの時間が、再び訪れた。
病院には就寝時間がある。松山さんが言うには、その時間を過ぎると電気がすべて落とされて、何もできなくなってしまうらしい。
こうなってしまった以上、今のうちに部活の人たちに連絡を取って、今度の大会に関する打ち合わせを済ませておかなきゃな。そう思った俺がスマホを手にして通話アプリを起動した時、向こうのベッドから野塩さんの声がした。
「……さっきは、ありがとう」
「気にすんなって。俺も腹、減ってたしさ」
文字を打ち込みながら、俺は笑う。あ、しまった。言っちゃった。
「そっか。元気、なんだね」
「そうなのかな。あんまり考えたことないや」
「私も元気になりたいな」
ため息混じりに野塩さんは言う。ふぁさ、と柔らかな音を立てて、彼女は布団をかぶった。
「んー、難しいことは分からないけどさ」
何か言わなければいけないような気持ちがして、スマホを置きながら俺は答えた。
「病は気から、って言うじゃん? しっかり起きて、しっかり飯食って、好きなことやって楽しく暮らしてれば、そのうち治るんじゃないの?」
「…………」
野塩さん、無言になる。
自分で言った言葉は、そのまま自分にも返ってきた。そいつは耳元でささやく。そうだよ、俺だって今までしっかり飯食って、好きな事に打ち込んで楽しく暮らしてきたんだ。病気なんて有り得るもんか、きっと何かの間違いなんだ。って。
でも、それならどうして頭痛に悩まされたんだろう。あのじいちゃん先生は、俺をここへ入れようとしたんだろう。
やっぱり俺、どこかが悪いんだろうか。その『脳腫瘍』ってやつなんだろうか。
野塩さんを真似て、俺もばさっと布団をかぶってみた。そうしたら自然と、言葉が出た。
「……俺さ、脳腫瘍かもしれないって言われたんだ。まだ確定もしてないし、病気らしい症状も最近は出なくなったのに、その一言で
語りながら、自分ではない何かがぺらぺらと言葉を発しているように感じて、変な心持ちがしてきた。
「今すぐにでも俺、ここを出たいよ。病人じみた顔でじっとしたまま、何週間も何ヵ月もいられないよ。だから、体力を失わないように、ちゃんと食いたいんだ」
「…………」
「……あのさ、だからさ、これからも飯、残すようなことがあったら、その、俺にくれない?」
んん? 待てよ俺、いつからそんな話になった?
自分で自分の言動に驚いてから、俺は恐る恐る野塩さんを見た。布団の端から顔だけを出して、野塩さんも俺を眺めている。物珍しそうに。
「…………ごめん」
なぜか咄嗟に謝ってしまった。
なんだか気恥ずかしくなった俺は、誤魔化すようにしてスマホを取った。ランプが緑色に点滅して、部活仲間からの連絡が来たことを教えてくれている。すかさず画面の中の世界に、逃げ込む。
それきり、俺はもう一度も野塩さんを見ようとはしなかった。見ようとすれば最後、さっきの恥ずかしさがまた押し寄せてくるような気がして。
ああもう、くそったれ。とっとと終わってしまえ入院生活。俺は部活がしたいんだ! こんなところで同い年の女子と閉じ込められたって、タイムはちっとも速くならないんだぞ!
気のせいかもしれないけれど、それからも野塩さんはしばらくの間、俺のことを見つめていたような気がする。
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