全力――傍にいて
「お前も月と同じ……春日家の?」
物の怪の最後の言葉に一真は愕然としつつも、心のどこかで納得もしていた。そうか、だからかと。少女の放つ気と月の放つ気配がどこか似ているのは、思い違いではなかった。
少女はまるでその名前を言うことそのものが禁忌だと言わんばかりに、顔をしかめた。
「今となってはどうでもいいわね。そんなこと。私はもはや春日家の人間じゃない。わたしはね。張られた結界の中で物の怪の持つ強力な霊力を糧にして生き続けた。自分の寿命が尽きた後も、ずっと。物の怪の邪気を空っぽの躯に注ぎ、生き続けた。今ここにある自分がかつての自分なのか、それとも別の物の怪が私の身体を借りて喋っているだけなのか。それすらもわからないわ。でも、どうでもいいわね、そんなこと」
名前すらもわからないその少女は、興味が無いように、しかしどこか苛立ちを込めて「どうでもいい」を繰り返す。
「わたしにとって大切なのはね、復讐、ただそれだけ。陰陽師を根絶やしにするだけじゃ、物足りない。あいつらが私にしたことぜんぶをもっと、何倍にもして、かえさなきゃ」
少女の手が伸び、一真の首に掛かる。寒気がそこから侵食を始め、身体を蝕む。頭だけが熱に魘されるように熱い。膝から力が抜け、世界の上下が逆になる。どっと押し寄せた負の感情が、思考を遮断し、頭蓋の中に意識を閉じ込め始める。
それと入れ代わるようにして、陰陽師――刀真のあの無表情が、霧乃の何を考えているのかわからない笑みが浮かんだ――に対する不信と苛立ち、破敵之剣に裏切られたという怒り、それが一真の心の檻の中で眠っていた物の怪を呼び覚ます。
――この感じ、前に感じた時と同じ。
しかし、以前に感じた物とは比べものにならない程に強大。
――これは駄目だ。
強すぎて、自分では抑えることすら出来ない。
――また、あいつを傷つけてしまう。
それでも、浮かんだのは一人の少女の姿だった。
「一真――」
頭に響いた声は誰の者なのか。
――俺はあいつを守りたいだけなのに、どうして
――俺は力になりたいだけなのに
――俺は……
「一真!!」
天から落ちてきた光が一真の意識を引き戻した。その光は目の前の少女を狙った物ではない。霞んで曖昧だった視界がはっきりと見え、四肢に力が入る。顔を上げて、一真は驚いた。周り一面が銀色のカーテンに覆われたように光り輝いている。
一真はそのカーテンを通して、景色を見ていた。
「百の獣を討ち、百の魔を滅っし、百の病を払う護身の太刀……」
銀色の向こうに見える少女が空を仰ぎ呟く。
――トン……。
何かが一真の隣に舞い降りた。遅れて落ちる黒い髪が銀色の光の粒子と混ざり、星空のように輝く。
黒と白の狩衣に身を包んだ陰陽少女がそこにはいた。
「月」
月はちらっと一真を見たが、すぐさま目の前に立つ少女と向き直った。
「一真、すぐにここから逃げて」
月の声には淀みが無かった。毅然としていて、有無を言わせない。
栃煌神社で、物の怪の事を話してくれた時。「何もしなくていい」と言った時と同じ声。あの時は苛立ちを感じた一真だったが、不意にあの時なぜ「何もしなくていい」と言ったのか、「何もさせない」つもりなのに、物の怪の事を話したのか、そのわけが理解できた。彼女がどんな気持ちだったのかも。
「そうやって、また俺を遠ざけるのか?」
だから、今度は怒りからではなく、月を本当の意味で心配しての問いを投げかける事が出来た。月はその問いかけに動じない。聞こえなかった振りをしている。
「ここは危ないから。早く。その人を連れて」
「危ないなら猶の事、お前を一人にはさせられない」
月は振り返って一真を睨んだ。
「なんで、そんな事を言うの? 一真には何の力も無い。私に近づいても傷つくだけ。離れて」
感情を極限まで抑えたその声は暗い。が、拒絶の言葉を出されても一真は引かなかった。
「お前こそわからない。お前は、月は言っていたじゃないか。『また明日』って。なのに、今度は遠ざけるのか?!」
「これとそれとは違う」
「お前が戦って苦しんでいるのを無視しながら付き合おうってか? そんな酷い付き合いでいいのか? お前は」
一真は銀のカーテンを抜け、月の隣に立つ。少女に向けて構える破敵の剣に目を留めてその表情が初めて変化する。
「一真、その剣」
驚きに、それから、恐れにその瞳が見開かれる。
「あぁ、お前の力になれるかと思ったんだけどな。こいつ」
「心外だな」
天が、怒ったような困ったような声を出した。その声は月にも、というよりも護身の太刀にも聞こえているらしい。
「お前! 一体、今までどこに行ってたんだよ!?」
護身の太刀の鈴のように澄んだ声が頭に響く。
「ふん、複数の人間の手を転々と、といったところかね。俺は俺の意志じゃ動く事はできねぇんだから、責められてもこまるぜ」
「だけど、自分の身を盗人から守る事くらいはできる筈」
月が冷たい声で指摘し、天は黙った。二人の間に大きな溝があるようだった。
――いや、二人だけではないか。一真は思い直す。そう、目の前にいる陰陽少女も含めて彼らには鏡に入った亀裂のように入り組んだ溝がある。誰の言葉が正しいのか、間違っているのか。
一真には判断のしようが無かった。
「やめろよ」だから、一真はわけは聞かず、短く制止するにとどめた。
「剣は、俺がお前を守る為に力を使いたいって言ったから、力を貸してくれた。これだけは本当の事だ。だから、俺はこいつを信用してみることにする」
「駄目、お願いだから、私と一緒に戦おうなんて思わないで!!」
月は叫び、後ずさった。それから今まで黙っていた白髪の少女に向き直る。
「お前、お前のせい! お前のせいで――!!」
彼女の霊力が太刀に注がれ、銀の光を纏う。しかし少女は未だ身構えもせずに笑う。棒切れを持って威嚇する子供を眺めるように。
「あなたの気持ちよく分かるわ。なんと言っても同じ血の者同士ですものね。あなたは確かに現世における最も力のある陰陽師だわ。私がかつてそうだったように。でもね、今の私はもっと偉大な物の怪よ。あなたの中で生まれる負の気は私にとっての力となる」
妖艶な笑みを湛えたまま、少女は一歩前に出る。護身の太刀の刃の先に指を当て、愛おしそうに撫でた。まるで、自分自身の肌を撫でられたかのように月の肩がびくっと震えた。
「あなたも、また春日家に生まれた女。その甘い血の香りで物の怪を引き寄せ、強大な力で倒す。ただひたすら、それだけの人生」
「黙れ」
「あなたのその特性を知らずに近づいてくる人はきっと不幸よね」
「五月蠅い!!」
叫ぶと同時に、白髪少女の腕が斬られ宙を舞った。肘から先の無くなった少女は、しかし痛覚が無いかのように笑い続ける。
「たとえ、あなた自身が戦わないと決めたとしても、物の怪は襲ってくる。あなたに引き寄せられて。どこにいようと。誰と一緒にいようとも。あなたの大切な物を順に壊してでも、引きずり出し戦わせる。あなたは戦うでしょうねぇ」
斬られた場所からは鮮血が迸る代わりにどす黒い霧が漏れた。それが空中で複雑に絡み合い、骨を肉を皮膚を形作り、一本の腕となる。
「そうして、気がつくと自分一人だけが残っている」
その再生を意にも留めず、少女は更に月へと近づく。
「あなた自身はまだ知らない。その孤独を。だけどそうなることがわかっている。あらゆるものを失った果てに孤独になることを」
ふと、少女の瞳が一真を射る。挑発するように。こう問いかけるように。
――お前はそれをわかっているのか?
そう、だから、だ。月が、一真を戦いから――いや、自分から避けようとしたのは。
「俺が未来と物の怪に襲われた後、神社に行った時、お前は物の怪や陰陽師の事を教えてくれた。それは俺に真実を全部教えて怖がらせる為だった。もう二度と関わらせない為に。一切話さないでおけば、返って危険だと思ったからだろう? 俺はお前を助けに来てしまう。それが俺の性分だから。それをわかっていたから」
月は少女から目を離さないまま、淡々とした一真の言葉を聞いている。
「だけど、俺は結局助けに来てしまった。お前がどれだけ恐ろしい事話しても」
「こいつから聞いたんでしょ? 私の家の事。私は私が望むと望まないと関わらず、一生戦わないといけない身体なの」
「あぁ、聞いた。聞いたよ。でも」と一真は今にも笑い出してしまいそうになりながら告げる。
「それを聞いてもやっぱり、俺はお前と一緒にいたいって思ってしまうんだろうな」
月は目の前に敵がいる事も忘れて、一真を見た。信じられないというように。
「自分でもなんでだろうなって思っていたんだ。お前の力になろうって必死になって。自分に力が無い事に怒って。諦めて、普通の生活に戻りさえすりゃいいのに。物の怪の事は全部月に任せればいいって思えればいいのに。そうすればずっと楽なのに」
全く持って笑える。なんで、今まで気が付かなかったのだろう。
答えはもう何年も前に出していたというのに。それを思い出すのにこれだけの時間を掛けるとは。だけど、いい。思い出したのだから。
「俺はお前と一緒にいたい。ただ、それだけだったんだ」
「一真……」
「一緒だ。お前が困っていたら助けたいし、苦しんでいたら助ける為に全力で傍にいる。それが俺のしたい事だからだ」
言いきってから、一真は下を向いた。頭が熱気に当てられたように熱い。だけど悪くない。先日神社の剣道場で感じた黒い感情はもう、どこにもない。この気持ちさえあれば身体を蝕む物の怪など恐れる事もない。単なる直観だが、一真は確信を持っていた。
「勿論、お前が一緒にいたければ、だけどな」
自分と同じ気持ちだ。余計な感情を交えずに一真はそう予想する。
本気で一真を遠ざけるつもりなら、関わらないようにする筈だ。何を話しかけてきても無視を決め込むか、極端な話、同じ学校の同じクラスに一真がいると分かった時から別の学校に転校してしまう事を考えても良かった。
だが、そうはしなかった。どころか、月は普段の生活では、積極的に一緒にいようとした。もしも、それが単なる同情とか、申し訳なさからしているのでなければ……。
「いたくない」
一真の頭の熱気が急速に冷め込んでいく――よりも前に、月は儚げな笑みを浮かべた。
「そう言ったら、一真は今すぐに諦められるの?」
「無理……かな」
さっきの勢いが嘘のような、情けない落胆ぶりだった。だが、月は笑っていた。かつての無邪気な笑みとも、最近よく見せていた影のある笑みとも違う。
嬉しさをしっかりと噛みしめるような笑み。そして、月は力強く頷く。
「うん、わたしも一真と一緒にいたい」
今にも泣き出してしまいそうな、触れただけで壊れてしまいそうな笑顔だった。一真は改めて思う。ここに戻って来ようと思ったのは間違いではなかった。
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