呪縛――躯に潜むもの

†††

 陰の界の帳を剣閃の光が駆け抜けた。


 物の怪の身体が引き裂かれ、空に投げ出される。一真は舌打ちした。物の怪の引き裂かれた顔は笑っていた。あれで仕留められないとは。


 月は地面の上で倒れ伏している。浅く上下する肩が彼女がまだ生きてはいても、決して楽観視できる状況ではない事を示す。


 物の怪は再びあの薄く黒い霧に変化し、空中のある一点で収束した。その中心に現れたのは月の母とも違う女の顔だった。長く霧と同化するように流れる黒髪と病的なまでに白く濁ったような肌。目尻が高くその先が血のように真っ赤な化粧に彩られている。小さな瞳孔が一真を捉えて、口が左右に裂けるように嗤う。


「お前、月の母さん以外にも……?」


 激昂する一真の前で女は甲高い氷のような奇声じみた笑い声を上げた。黒い霧を衣のように揺らしながら物の怪は霧のなかから腕を差し出し指を一真に向ける。


「この顔こそ、私の物だ。放すもなにもない。尤も」


 と、物の怪は腕を自分の霧の中に突っ込んだ。ぞぶりと溝沼に手を突っ込んだかのような不気味な音を立て、手探りで何かを探し、物の怪は腕を引き抜いた。その手に握られているのは黒く長い人間の髪、続いて人間の顔が現れた。月の母親の顔だった。


 腸が煮えくり返るどころか、灼熱が上がる程の怒りが一真の四肢に駆け巡った。それでいて、どこか頭の脳は冷たく冴えきっていた。


「おい、一真。やめろ!」


 護身の太刀・月影が頭の中で警鐘を鳴らす。同時に胸が熱く疼いた。見ると金色の折鶴を入れてあるポケットが金色に輝いていた。月の存在を常に思い出させてくれたそれが。


「怒りのままに行動しようとするな! あいつが、そんな事を望むと思っているのか?!」


 あいつ。月を。彼女を悲しませる事になる。踏み込もうとした一真の足が止まる。腕の中で護身の太刀がほっと安堵するような声を出した。


 歯ぎしりしながら見上げる一真を満足げに見下ろし物の怪は壊れた人形を掲げるように、掴んだ顔を前に引っ張る。


「こいつは放さないよ。こいつには強力な霊力がある。枯れ果てるまで吸い尽くしてやるさ――


 突然、物の怪は言葉を途切れさせた。その余裕綽綽とした顔が緊張に支配されていく。辺りに漂っていた霧が渦巻いて一本の腕へと変化した。白い肌の代わりにそれはどす黒い鱗に覆われていた。武将が付けるような無粋な籠手を思わせるそれが、爪を広げた。


 刹那、闇を劈くような鋭く響く音と閃光が物の怪の腕と激突する。


 それが自分達を助ける物なのかどうかもわからないまま、一真は呆然とそれを見つめていた。聴覚が麻痺しているのか、物の怪が上げているであろう声も聞こえない。


 横手から放たれた攻撃と物の怪の腕は拮抗しているかのように見えた。が、物の怪の腕の半ばに罅が入り、その罅に激突した光が侵食して、広げていく。折れるのではなく、粉々に砕け散る。


「いぎぃいあああ!!」


 身の毛もよだつような声が、聴力が次第に戻ってきた一真の耳にも届く。叫びながら物の怪は身体全体を呑まれる前に腕を切り離して逃げ出した。腕の残った破片が引く肉片が霧へと還る。


 霧が晴れた先には折り重なるようにして倒れた人間の姿があった。全員女性だ。一瞬茫然となった一真だが、すぐに我に返る。


「くそっ!」


――逃がすか。


 昂る気持ちのまま後を追おうとした一真の目の前に何かが降り立った。それは、狩衣を着込んだ長身の男だった。顎と口元に髭を蓄え、右手には諸刃の剣。刃には何か筆で描かれた文字が漆黒に輝いていた。


 春日刀真。


 その顔は無表情で何を考えているのか、怒っているのか、驚いているのか、それらのうちのどれかを心に抱いているのだとしても、一真にはわからなかった。


 何か言いかけた一真の脳天を突然衝撃が襲った。身体が地面に倒れ、唇が切れて口の中に鉄の味が広がる。拳を振るった男は倒れる一真を見下ろしたまま、表情一つ変えずに言う。


「関わるな。近づくなとはっきり言った方が良かったかね?」


 その声は一真に向けられた視線と同じく冷徹だった。


「くっ」そのあまりの恐ろしさと力の差。誰も見ていないここであれば、相手は自分にどんな事でも出来る。そんな恐怖にたじろぎ、反射的に出た言葉だった。


 だが、続いて出た言葉は怒りに燻った激情に任せた叫びだった。理性の楔から解き放たれた獣のような。


「だったらなんだって言うんです!? 俺がいなかったら月はあいつに取り込まれていた! お前の妻と同じように!!」


 言い過ぎた等と後悔するには遅かった。無表情を装う刀真に対し、一真は言葉の刃をぶつけ続ける。


「月を! あいつを一人で戦わせておいて!! あんたは一体どこにいたんだよ!?」


 胸が灼熱で焼き付き、骨と肉と肌を通り越して燃え上がるような感覚がした。なぜ、自分がこれ程に怒っているのかもわからない。


 だが、一真は対峙していた物の怪以上の憎しみをこの男にぶつけていた。


 一真が熱ならば、刀真は冷気だった。どれほど熱しても消えない冷たさ。彫刻のように微動だにしないその表情で刀真は問うた。



「で、言いたい事はそれだけかね?」



 歯と歯の間から出された唸り声と共に一真の拳が振るわれ、刀真の頬を叩いた。


 その印象に反してその肌にあっさりと拳がめり込む。肌の温もりと切れた口から流れる血が拳を伝うその感覚が、この男が人間である事を一真に伝えてくる。


 そっと刀真が一真の腕を掴んで放した。その表情にはやはり変化がない。


「護身の太刀・黒陰月影が君の身体に霊力を貸しただけに過ぎない。自惚れるなよ、少年」


 無造作に、だが静かな所作で一真の腕から護身の太刀をもぎ取った。それは刀真の腕の中で小さな懐剣へと姿を変える。刀真はその事に驚き一つ示さずに、月が倒れている場所まで歩いて行く。膝をつき、娘を抱き起すと再び、一真に向き直った。


「それと、護身の太刀の力だけではないな? 君には――」


 刀真は言いかけて口を閉じた。知らない者が見たら、二人が戦いあう為に対峙しているかのように――まるっきり間違いでもない――見えただろう。


 二人の間に割って入るようにして赤髪、紅白の巫女装束に身を包んだ式神、日向が降り立った。白い肌のあちらこちらに黒い火傷の痕が目立った。


「それ以上は言わないでくれるかなぁ。月もそれを望んでない」日向が命令するかのように刀真に告げた。


 流石の刀真も虚を突かれたように呆然と娘の式髪を見つめた。それを認めて日向は悪戯を成功させた童のように、にやっと笑った。ただその表情は童よりも悪鬼と呼んだ方がしっくりとくる。


「式神が私に意見するとはな」


「私は月の式神であって、あなたとは何の関係もありませんから」


 そのやり取りを聞きながら、一真は掌を閉じては開いた。太刀を掴んでいた時の感覚がまだ残っている。


 日向が割り込んでくれたおかげで今、一真は自分がどこに立ち、何をしたのかが実感出来た。酷く自分が愚かでいかに自制が出来ていないかを考えて一真は赤くなった。


「すみません、刀真さん」


 自分の短気さを悔いて一真は謝った。刀真はちらっと彼を見た。何か言いたげそうな表情、先程言いかけた続きを伝えるべきか否か迷っているようにも見えた。


「刀真さんが言いたい事。俺、なんとなくわかります。俺、思い出しましたから。あの時の記憶」


 日向が息を呑み、刀真は彫刻のような顔に皺を刻んだ。対照的に一真は無気力にも似た感覚を覚える。


 月と初めて会ったときの記憶、神社に忍び込んだ時の記憶。そして――それをきっかけとして起きた――ある事件を思い起こして一真は、震えた。


 胸を貫かれ、身体の中に何か得体の知れない毒が流れ込み駆け巡るあの感覚。その毒は今は胸の中で大人しく眠っている。一真が強い怒りに駆られた時にそれは動く。


 月との剣道の仕合で。先程の物の怪との戦いで。今、刀真の目の前でその片鱗を見せつけた。


 これまでの生活でも何度か怒りに駆られた事で、凄まじい力を発揮した事があった。


 そう丁度、先日月と剣道の仕合をした時のように。その時の一真はまるで自分ではない何かに身体を乗っ取られたかのようで、怒りが収まった後に自分の力が引き起こした状況に戸惑い、時に怯えた事もあった。それが何なのか彼にはわからなかった。化け物か何かか?


 そんなことを思った事もあったが、単に自制が出来ていないからだと思ってきた。とんでもない間違いだ。自制が出来ていないだけなら、どんなに良かったことか。彼は肚で怪物を飼っているも同然の存在だ。


「念の為に確認するけど、それはどんな記憶?」日向が訊ねた。


「月が俺を守りながら戦って、物の怪を真っ二つにした。だけど、それで仕留めきれなくて……俺は襲ってきた物の怪からあいつを庇おうとしたんだ。それで俺は物の怪の腕に貫かれて」


 その時の記憶を思い出して一真は肩を震わせた。氷水に身体を突っ込んだかのような怖気だ。それを振り払うように首を振り、彼は日向に尋ねた。今の所、正直に話してくれるのは、彼女だけだ。


「身体を物の怪に侵される典型的な光景だね」


「俺は、俺はどうなってしまったんだ?」


 日向は一瞬躊躇うようにちらっと後ろの刀真と目を向け、それから戸惑うような視線を返した。


「わからない」


「わからない?」


 一真は唖然として思わず聞き返していた。


「物の怪に憑かれた人間、動物は普通、物の怪の意のままに動くの。物の怪によって力は違うけれどね。取り憑く事が出来ない程に力の弱い物の怪はそもそも、他の物の身体に長く留まることなど出来ない」


「だけど、俺は」一真は言いかけて言葉を続けられず空しく手元を見た。その先を察して日向は静かに頷く。


「そう、物の怪に憑かれたにも関わらず、一真君はもう十年以上も特に何事もなく生き続けている。こんなのは前例がないよ。物の怪と共存し続ける人間なんて、ね」


 愕然として、一真はどんな言葉を返したらいいのかもわからなかった。日向はこれまでの言動から推測するに、千年以上生き続け、陰陽師と共にあった式神だ。


 その彼女がわからないと言っている。お手上げだと。その後ろで無表情なまま立つ刀真は不治の病を前にして、治すのを諦めた医者のようだ。


「浄化するのが手っ取り早いのだろうけどね。とり憑いている物の怪は一真君の心と完全に一体化していてね、浄化の手段を使う事で一真君自身の命にも悪影響を与えかねない。だから、陰陽師達も手出しできずにいたの。それに、特に害も無さそうという事で最低限の監視を付けるのみで、極力接触を避けてきた。安易に接触する事で厄介な異変が起きても困るから。特に他の物の怪が怪異を起こしている……丁度今のような状況に君が巻き込まれたら、何が起きるか、わからないからね」


 監視。霧乃がそれに当たるのだろうか。麻痺してまともに動かない頭でぼんやりと一真は考える。刀真が月に関わるなと言った意味がようやく理解出来た。いわば不発弾を体の中に抱えているようなものだ。それも一体どんな弾種、火薬を込めたのかも分からないようなイレギュラーだらけの爆弾。


 刀真に対してある意味では共感も出来る。一真にだって妹がいる。危険が及ぶような物は何もかもその道筋から取り去ってやりたい。そう思う。


「あなたは、月に危機が及ばないように俺には関わるなと言ったんですか?」


「それだけでは無いが、それが一番の理由だとだけ言っておこうか」


「だったら!!」


 一真は思わず叫んでから、はっと息を呑んだ。怒りを顕にすれば物の怪が口から飛び出しかねない。冗談ではなく、本気でそう思った。


 すっと息を吸い込み怒りを鎮めるように一真は淡々と聞いた。


「だったら。なんで、彼女を一人で戦わせるような真似をしたんですか」


 長い事刀真は黙っていた。その顔に浮かぶ表情がまるで読めないせいで、一真はこの陰陽師は自分の言葉を聞きのがしたのではとすら思った。が、一分近く経ってからようやく刀真は諦めたように口を開いた。


「陰陽師の多くにとって半人前から一人前になる為の戦いは命がけだ」話が思わぬ方向に逸れているような気がして、一真は苛立ちを感じたが、黙ったまま聞き続ける。


「物の怪との死闘で精神的に未熟な陰陽師に待っているのは悲惨な最期しかない。心を蝕まれ、狂い尽くし、魂のない人形と果てる」


 物の怪に捕らわれていた時の様子を思い出して、一真は思わず月を見た。刀真はすっと手を上げて心配無用と呟いた。


「この娘は迂闊だが、心は強い。しかし、ある事が絡むと彼女は一転して脆弱になる」


「月の母は……」一真は尋ねようとして口を慎んだ。月にとっての母とは、つまり刀真にとっての妻でもあるのだ。何があったかなど気安く聞ける筈がない。


「この娘の母は。蒼あおいはこの娘を庇って物の怪に捕らわれた。月の目の前でな。私はその場にはいなかった」


 その時も傍にいてやらなかったのか。心内で思わず冷たい言葉が浮かび、一真はそんな自分に嫌悪した。


「すると。こういう事ですか? 月の精神を鍛える為に、彼女の母を取り込んだ物の怪とわざと対決させていると?」


 刀真はためらうように数秒黙り、それからややあってこう答えた。


 一真は驚いてぐったりしたままの月を見た。が、考えてみれば、元々刀真は月があの物の怪と戦う事に対して反対の立場を取っていた筈だ。それに対して月は反抗的な態度を取っていた。


「今朝の事だ。あの物の怪を自分一人で倒したい。他の者に手は出してもらいたくないと頼み込んで来てな」


 今朝……そんな様子は微塵も感じられなかった。弁当を一真の為に朝用と昼用両方作って持ってきてくれて、それから朝練を受け、授業を受けて。楽しそうに。いや、今にして考えればそれだけじゃない。


 物の怪の事、一真との剣道の仕合の事があった時の事。あの仕合で月は一真の事を「怖い」と言った。その事を次の日になったら忘れるなんて事があるはずない。


 そう、あの時の笑いは全部が全部本心からではなかったかもしれない。物の怪を倒し、母を取り戻したい、物の怪との戦いが納まれば一真とも普通の女の子として接する事が出来るかもしれない。


 そんな焦燥が背中を押して、早まってしまった。ここまで予想は出来ないにしても、もっと気を遣ってやる事は出来た筈だ。


 それをしなかった。出来なかったのではなく。戦いではなく、日常の事で助けられれば等とどこか軽く考えていた自分を一真は罵った。


――何がおまえをまもれるくらいにつよくなる、だ。あいつの気持ちすらわかってやれずに


 一人後悔する一真から、刀真は視線を逸らし話は終わったと言うように日向の方を見た。


「ともかく、ここを出なくてはな。日向。月と一真を連れて神社へ。ここの始末は私がつける」


「あんたに指示されるのは気に喰わない。が、いいよ。ここにいつまでもこうしてるわけにいかないし」


 刀真の手からひったくるように日向は月の体を受け取り、肩に抱え、空いている方の手を一真に伸ばした。一真は刀真と日向の間を戸惑うように交互に見つめた。


「あの、後始末ってここに残された人達を元の世界に戻してあげるってことですか?」


 物の怪から解放されて転がる哀れな女性達。その事を一真は聞き、刀真はちらっとそちらを見た。彼女達が起き上がる気配はない。


「そうだな。だが、陽の界にまとめて戻しても大騒ぎだろう。ばらばらな場所に、人目のつく所に戻す。通行人が気付いて病院に運ぶなり、救急車を呼ぶなりしてくれる筈だ」


「あの、彼女達大丈夫なんですか?」


「心が強ければいずれ起きるだろう」


 心配になって掛けた言葉に刀真はあっさりと恐ろしい言葉で返す。それは心が弱ければ目覚める事はないと言っているようなものだろう。



 更に何か言おうと口を動かす一真の腕を日向が引っ張った。ただ、それだけで一真の身体が浮かび上がった。




 一瞬の闇。そして、気が付いた時には元の世界に戻っていた。辺りの人の声と足音、無尽蔵に流れて進む車の音がやたらと大きく聞こえる。刀真の姿は既に無かった。

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