第3話 ある休日の話
ベランダの非常用扉が突き破られるという非常事態が起きた翌日の夜、明里は菓子折りを持って謝罪しにきた。今度はベランダからではなく、きちんと玄関からだ。
蛍光灯の下で見た彼女は、やはりと言うべきか、一般的に見て美人だった。綺麗に色の入った茶髪はまっすぐで、てっぺんには艶やかな天使の輪ができている。色も白くはっきりとした目鼻立ちのため、外国の血でも流れているのかと思わせる。なんの気なしに聞いてみたが、彼女は純日本人だと笑っていた。
夏之の好みはもっと小柄で小動物を思わせるかわいい系だが、それでもどきりとしてしまうほどには、彼女は魅力的だった。近寄りがたいクールビューティといった雰囲気ではなく、無邪気にはしゃぐ子供のような笑顔がそう思わせたのかもしれない。
当たり障りのない会話を終えて、二人は部屋に消えた。話をしているうちに、驚いたことが一つあった。あの犬の本当の名前はシュウではなく「シュヴァルツ」というらしい。長くて面倒だからと、名付け親の姉も彼女も「シュウ」と呼ぶため、犬の方も自分を「シュウ」で認識しているらしいが、随分と大仰な名前がつけられたものだ。
シュウは明里の言ったとおりお利口さんで、まったく鳴かなかった。この調子でいけば、あと二日くらいは余裕で隠し通せるだろう。
いつものようにタバコを吸いにベランダに出ると、シュウが勢いよく穴を飛び越えてきた。新聞紙で塞いだ穴はいともたやすく突破される。「ちょっと、シュウ!」それを追うように穴から細い腕が伸びてきて、伸びたリードの端を必死に掴む。明里が躍起になってリードを引っ張るが、シュウは構って構ってと目を輝かせて夏之の足下から離れない。
どうしてだか気に入られてしまったらしい。穴をひょいと覗き込んで、先ほど玄関で別れたばかりの彼女と、再び顔を合わせた。
「こんばんはー」
おどけたように声をかけたのは、迷惑してないということを知らせるためだ。案の定、明里は肩の力を抜いて、苦笑しながら頭を下げた。
塞いだところで、穴はシュウによって突破される。前に物を置くのもいいが、それでも突破されてしまったら物音がひどくなってしまう。
幸い穴が空いたのは下段の方なので、洗濯物が見えることもない。明里さえよければ、あと二日はこのままでどうかと提案すると、彼女は「助かります」と言って笑った。
「シュウは俺が見とくから、部屋に戻りなよ。寒いっしょ」
「でも、影山さんも寒いんじゃ……」
「平気平気。俺はいつもの一服だし。コイツも気が済んだら戻るだろうし」
「……すみません。なら、お願いしてもいいですか?」
「いいよー。女の子は身体冷やすといけないんだろ?」
「女の子は大変なの。冷えは大敵なの!」冬はもちろん、夏場にこれでもかと冷房の温度を下げようとしていた夏之は、真帆によく怒られたものだ。なら俺が温めてやる、なんてクサイ台詞をさらっと口にできていたのは、何年前の話だろう。思い出しただけで目の前の柵を乗り越えて飛び降りたくなった。
穴の向こうでしゃがんでいた明里は、少し照れくさそうにはにかんだ。その笑顔に心がざわついた。平静さを装ってリードを受け取り、タバコに火をつける。紫煙と共に「それじゃあまた」なんて、かっこつけにもほどがある。
夜景を見ながら、いつもとは違った一服を。タバコが短くなる頃、シュウは小さくきゅうんと鳴いて、隣のベランダに帰っていった。
やっぱり彼はお利口さんだ。
* * *
翌日は休みだったので、昼近くまでぐっすりと寝ていた。目が覚めたのは、ベランダから聞こえてくる物音のせいだった。寝ぼけ眼でカーテンを開けると、黒い大きな塊がガラス戸に前足をかけて必死に尻尾を振っている。
驚きよりも先に笑みが零れた。昔から犬は好きだ。父親がアレルギーを持っていたために実家では飼えず、真帆も動物が苦手だったので、今までペットを飼った習慣がない。そのためか、犬によって起こされたのが妙に嬉しかった。
「シュウ、おはよー」
くぅんという控えめな鳴き声は、ここで声をあげてはいけないということが分かっているかのようだ。ガラス戸を開けても部屋の中に入ってくることはなく、きちんとベランダで待っているところもまた愛らしい。
ムツゴロウさんになりきって撫で回していると、穴の向こうに赤いズボンを履いた足が生えていることに気がついた。まっすぐな髪が落ちてきて、困り顔がこちらを覗き込む。目が合うと、彼女は慌てて顔を引っ込めてしまった。
悪戯が見つかった小学生か、はたまた覗きが見つかった中学生男子のような反応に、どうしたことかと首を傾げた。
「山城さん? おはよう」
「おっ、おはようございます! 影山さん、今日、お休みだったんですか?」
「うん。コイツのおかげで起きれた」
「せっかくのお休みなのにすみません……!」
「いやいや、いーっていーって。むしろ助かった。これで一日無駄にせず済むし。山城さんもお休み?」
「あ、いえ。私は午後から講義が」
ということはまだ大学生か。
もっともっととねだってくるシュウと半ばプロレスのようにじゃれ合いながら、一人納得する。
「そっか。じゃあその間、コイツ見ておこうか? 部屋の中に閉じ込めとくのも可哀想だろ」
「え、でも、せっかくのお休みなのに」
「俺さ、昔っから犬飼うの夢だったんだよ。ここまで来たらもう共犯なんだし、俺にも楽しみ分けてくれない?」
さすがに散歩に連れ出すわけにはいかないが、二つのベランダを行き来できれば少しはシュウのストレスも軽減するだろう。どうせ休みといっても特に予定がなかったのだから、ぐだぐだ寝て一日を潰すよりは絶対にいいに決まっている。
明里もシュウを置いて家を空けるのは不安だったのだろう。しばらく迷うそぶりを見せたが、やがて遠慮がちな「お願いします」が降ってきた。
「それにしても、なんで今日は顔見せてくれないの?」
聞くのは失礼かと思ったが、沈黙を埋めるようにぽろっと言葉が飛び出てしまった。「そういうデリカシーないとこ治した方がいいよ」真帆にも何度か注意されていたことなのに、やはりまだ治っていないらしい。
ごめん、撤回。夏之がそう言う前に、明里は蚊の鳴くような声で言った。
「……だって、いま、すっぴんジャージなんですもん」
――うわ。
反射的にシュウの首筋に顔を埋めた。待て待て待て。これは反則だ。今の拗ねたような、照れたような物言いは、あまりにもかわいすぎる。
初めて夜を共にした日の真帆を思い出した。彼女も最初はすっぴんをひどく恥ずかしがった。「女は勇気いるの! 鎧脱ぐようなもんなんだよ!」大して変わらないなんて言ってしまった日には、それはもう大ゲンカになるほどだった。そんな彼女も一年も経てばすっかりすっぴんが平気になっていたので、女性のこういった反応は新鮮だ。それも相手が美人ときている。よく相手を知らないからこそ、その外見とちょっとした仕草だけで勝手に美化して勝手に盛り上がれた。
沈黙を不審がる明里が声をかけてくる。とっさの返事は上擦ってはいなかったかと、夏之は手のひらにじんわりと汗をかいた。
お互い昼食を終え、ベランダからひょっこり顔を覗かせた明里は、いわく「補正後」の顔をしていた。白いコートの裾を引きずらないように注意しながら彼女からリードを預かり、全力で遊んでアピールをしてくるシュウとじゃれあった。
角部屋なので、隣を気にする必要もない。シュウは今日もお利口だった。これが思う存分走り回れる公園だったら、さぞ気持ちよかったことだろう。
タオルの引っ張り合いで汗だくになった休日は、想像以上に楽しかった。
これがずっと続けばいいのにと思うほどには。
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