第2話 秘密の通路、開通


 すっかり冷え切った夜だった。

 月は細い三日月で、都会の明かりに負けた星は数えるほどしか見えない。それでも冬の澄んだ空気のおかげか、夏に見上げたときよりも星明かりが強く感じた。

 流れてくる独特の臭いに気づいて、眉を寄せながら少しだけ身を乗り出して隣を覗いてみると、面白いものが見えた。

 強く、弱く、ぼんやりと明滅する赤みがかったオレンジ色の光。それはスイッチのオンオフとは違って、徐々に強くなったり弱くなったりを繰り返す。吐き出す息は白い。龍のように夜の闇に立ち昇る紫煙も白い。

 ポケットから携帯を取り出して、スピーカーを指で押さえながらそっと写真を撮った。マナー違反だとは分かっていたので、あくまでもそっと。もちろんフラッシュは切った。

 幸いにもお隣さんは気がつかなかったらしい。

 思わず浮かんでしまう笑みを抑えきれないまま、写真を確認した。ほとんどが真っ暗の画像の中に、オレンジ色の光だけが映っている。顔や場所が分かるようなものが一切映り込んでいないことをしっかりと確かめてから、彼女はその画像をSNSサイトにアップロードした。



* * *



「タバコは嫌い。お部屋に臭いが染み着くし、壁紙やカーテンも黄ばんじゃうもん。副流煙だって怖いし。だから夏之(なつゆき)、タバコ吸うなら外で吸ってね」


 付き合いたての頃はなにを食べたいかの主張すら満足にできなかった真帆(まほ)は、いつの間にかそんなことすら言えるようになっていた。六年も経てば遠慮もなにもない。甘酸っぱさはないが、その代わりに実家にも似た安堵感があった。それと引き換えに、ときめきはとっくになくなっていた。

 ただ毎日同じ家に帰って、同じように過ごした。会話らしい会話がないときもあったが、それが気にならない程度には、共にいることが当たり前になっていた。

 真帆は料理が得意だった。寒い冬の夜、換気扇の下で喫煙させてくれと頼み込むと、「だめ。外で吸って」と冷たく突っぱねられたが、一服して帰ってくると必ず温かい汁物が迎えてくれた。


 真冬のきりっとした風が紫煙を揺らす。十五階建てのマンションの、八階からの景色はそこそこだ。家々の明かりを見下ろしながら、橙色の光を点滅させる。

 寒い。十一月ももうすぐ終わりだ。寒いのは当然だった。キッチンの電気は消えている。がらんとした部屋は真っ暗で、人の気配はない。ベランダに浮かぶタバコの火だけが、そこに人がいることを思わせる。


「――さっむ」


 びゅう、と吹き付けてきた風に身震いした。短くなったタバコを空いたコーヒーの缶に押し入れて、部屋に戻ろうと安っぽいスリッパを鳴らす。

 部屋には誰もいない。甘辛い煮物も、綺麗に焼き目のついた魚も、色鮮やかなパスタもない。当たり前だと思っていた生活があっけなく終わって、もうすぐで一年と半年を迎える。それでもなぜか、未だに部屋の中でタバコを吸えなかった。習慣か、執念か。どちらにせよ女々しい自分に嫌気が差す。

 男の恋は保存式、女の恋は上書き式などとは、よく言ったものだ。きっと真帆の方は新しい恋をしているだろう。彼女はどこか垢抜けていなかったが、明瞭な性格で家事全般が得意だったし、屈託のないあの笑顔を持っているのだから、その気になれば恋人の一人や二人くらいすぐに作れただろう。その気になっていなければ――と考えてしまうのは「保存式」の未練がましさか、それとも個人の未練がましさか。それにしたって二人は問題かと、虚しく一人で笑った。

 いつまでも外にいたら風邪を引きそうだ。再び浸りかけそうになった感傷から足を抜くため、ガラス戸に手をかけた。それとほぼ同時に、隣から若い女性の声が漏れ聞こえてきた。「ダメ、ダメだってば!」小声で叱りつけるそれに、思わず足を止める。

 確か隣人は一人暮らしの女性だったはずだ。誰か来ているのだろうか。下世話な想像を促すかのように、切羽詰まった女性の声と物音が大きくなった。


「ダメだって、ちょっと、シュウ! やめっ……!」


 なにかを倒すような音と、コンクリートの床に固いものがぶつかる音がひっきりなしに聞こえる。こんな寒いのによくもまあ、と、最低な皮肉を零しかけたその瞬間、予想だにしない衝撃に襲われた。


「あかんって、シュウ!!」

「うわぁあっ!」


 バリン!

 活字にすればそんな音だ。しんとした真冬の夜に、激しい音が響き渡り、夏之の身体は一瞬にしてなにか黒く大きな塊に押し倒された。荒く熱い呼気が首筋にかかる。澄んだ月明かりに照らされて、鋭い牙が視界に飛び込んできた。


「――っ!」


 とある映画を思い出した。満月の夜に狂う恐ろしい狼人間の話だ。瞳を血の色に輝かせて生き血だか内臓だかを餌にする恐ろしい化け物のそれは、とんだB級映画だと、一緒に見た真帆と気炎を吐いたものだ。

 だが、今の状況は。映画では主人公が狼にのしかかられ、鋭い牙と爪が彼を地面に縫い止めていた。――それとまったく同じではないか。

 べろりと熱い舌が頬を舐め上げた瞬間、夏之はひぃっと悲鳴を上げた。



* * *



「ほんっとうにごめんなさい! なんとお詫びしたらいいのか……! あの、必ず弁償しますから!」


 なんとも言えない気持ちで、夏之は目の前の小さな頭を見つめていた。寒空の下、直接座り込んだコンクリートが容赦なく体温を奪い取っていく。それでも暖かいのは、抱き着いてくる黒い塊のせいだった。暖かいが、それなりに重い。


「弁償は……、まあ、うん」


 言いながら、隣のベランダへと続く穴を見る。通常、そこには非常用扉と印字された仕切りがあるはずだった。今では大きな穴が広がっているだけで、向こう側の室外機や鉢植え、愛らしいピンク色のスリッパが丸見えになっている。

 穴を開けた犯人はご機嫌な様子で夏之の頬を舐め、ぶんぶんと尻尾を振っていた。小さな丸い尻尾が愛らしい黒い塊は、テディベアのようなカットがなされたプードルだった。狼人間なんてファンタジーなものを思い浮かべた自分が恥ずかしくなるくらい、それは愛らしい。

 大きさはよく見るトイ・プードルと違って、大人の男を押し倒せるほどのものだったが。


「あの、本当にすみません。こんなことしておいて、本当に申し訳ないんですが、あと三日だけ、三日だけ黙っておいてくれませんか? 本当に申し訳ありません!」


 何度も同じ意味の言葉を繰り返すあたり、彼女もよほど混乱しているらしい。恐縮しきりの若い女性を冬の夜に地べたで謝らせるのは気が引けたが、かといって部屋に招くのも部屋に上がるのも抵抗がある。急場しのぎにコートと毛布を取ってきて渡してやると、彼女はますます小さくなった。

 三日だけ。

 話を聞くに、彼女は姉の旅行の間だけこのプードルを預かることにしたらしい。だがこのマンションはペット厳禁だ。管理人が厳しいというよりもむしろ、彼女のもう反対側の隣人――804号室の松田さんが厳しい。松田さんはかなりの動物嫌いで、チワワをこっそり飼っていた同じ階の住人を追い出したことは、このマンションでは有名な話だ。

 あんな小さなチワワですらバレたのに、こんな大型犬をたった三日とはいえ隠せるはずもないだろう。すると、彼女は必死な様子で言った。


「大丈夫なんです! 松田さん、今日から一泊二日の旅行らしくって。三日目は姉が迎えに来ますし、いざとなったらなんとか誤魔化せると思うんです! ですから三日だけ、内緒にしておいていただけませんか? 修理代はすべて持ちますし、お詫びもしますから」


 あまりの必死な様子に、なんだかこちらの方が悪いことをしている気になる。


「あー、まあ、別に黙っておくくらいは。犬とか嫌いじゃないし。穴は……ま、布かなんか貼っておけばいいだろうし」

「ほんとですか!? ありがとうござます!」


 あからさまにほっとした様子で笑う彼女に、思わずどきりとしてしまった。暗がりなのでよく分からないが、どうやら一般的な目で見ても美人な部類に入る顔立ちだろう。若手実力派女優の誰かに似ているが、名前が思い出せない。とにかく、そんな若い女の子が涙目で見上げて笑顔を向けてくるのだ。どきりとしないわけがない。

 妙な気まずさを隠すように、隣の表札を思い出す。確か、山城だったろうか。昔、一度だけ真帆との話題に上ったことがある。「お隣の山城さん、このマンションに一人暮らしなんだって。若いのにお金持ってるんだね。学生さんでしょ、確か」そのときの夕飯まで思い出しそうになって、夏之は慌てて首を振った。

 一人暮らしの若い女性。山城さん。美人。持っている情報はそれくらいだ。今も学生かどうかは分からない。


「でもさ、俺は黙っておくけど、そいつ隠し通せるの? でかいし、鳴いたら一発でバレると思うけど」

「たぶん大丈夫だと思います。シュウ、滅多に鳴かないし」


 「お姉ちゃんと似んで寡黙やもんね」と犬に語りかけるその口調に、おや、と思った。関西弁だ。そういえば、犬が扉を突き破ってくる直前に聞いた悲鳴も「あかん」だった気がする。

 イマドキの女の子から方言が出てくるのは反則だ。耳慣れていない分、かわいく聞こえる。


「あ、えっと、本当にご迷惑おかけしました。そろそろ私、戻りますね。コートもありがとうございます。ええと……」

「影山。影山夏之。君は?」

「山城です。山城明里やましろあかり。修理のことに関しては、三日後、私から管理人さんにお話しておきます。それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ。――お前も、おやすみ」


 わっしゃわっしゃと犬の頭を撫で、大きな穴をくぐって隣のベランダに移っていく一人と一匹の背中を見送った。なかなかシュールな光景だ。

 一人の部屋に戻り、風呂に入って冷えきった身体を温めた。時間が中途半端なので寝て誤魔化そうかとも思ったが、体質的に空腹を放置するとろくな目に遭わないので、適当にインスタントのスープを作って腹に収めた。

 ベッドに潜り込み、電気を消したところでふと思い出した。


 ――おやすみ。

 誰かと寝る前の挨拶を交わしたのは、実に久しぶりのことだった。

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