第23話 夜にとけていく

「あの男のことを気にしているのか? 父に話はいったはずだ。カティの言葉と聞いて、父も無下にはしないだろう。だから、怖がらなくていいんだ」

「……違うんです」


 マティウスは、わたしが怯えていると思っているらしい。そんなことなら、どれだけ良かっただろうか。

 わたしは、自分の存在が許せないだけだ。あの男と血を分けて、こうして存在しているということが、許せないだけだ。

 母だけをこの世で自分と血の繋がりを持つ者だと思っていたときは良かった。母が願っていた通り、勉強して良い職に就けば、母にも世間にも認めてもらえる立派な人間になれると思っていたから。

 美しく優しかった母には欠片も似たところがないけれど、それでも彼女がわたしの母だということはわたしの中心にある大切なことだった。躓くことがあっても、母の娘であるという誇りがわたしを立ち上がらせた。今日までがむしゃらに進んで来られたのも、母が生きている間、わたしにしっかりと愛情を注いでくれたからだ。

 でも、あの男の血が自分の中に流れているのだと思うと、足元からすべて崩れていくような恐ろしさがあるのだ。もう、思ったようには歩けないーーそんな恐怖がある。


「わたしは、詐欺を働くような人間の血が流れているんです。女のことを金を稼ぐ道具だと思っているような、そんな卑しい男の娘なんです。……今日まで知らなかったから生きてこられたんです。でも、知ってしまった以上、知らなかったときのようには生きられません」


 わたしは、これから自分の中に流れるあの男の血を嫌悪しながら生きていかなければならない。わたしは母の娘であると同時に、母を死に追いやった男の子供でもあるのだ。わたしの中にも、あの品性下劣な男の血が流れているのだ。

 誰かに大切に思われる資格など、もうない。

 それなのに、マティウスはそんなわたしを抱きしめて離してくれない。


「カティ……カティはカティだろ? あの詐欺師の男ではない」

「でも……娘なんです」


 言葉にすると、途端に自分が穢れたもののような気がする。でも、そうではなくて、わたしはそもそも立派な存在などではなかったのだ。マティウスにこうして抱きしめられる価値もないのだ。


「それを言うなら、私だって息子を殴るような男の子供だ。カティは、俺のことを子供を虐待する男だと思うのか?」

「いいえ」


 震える声に、わたしは慌てて首を振る。違う。そんなことは決してない。

 マティウスは、理由もなく人に暴力を振るったりしない。むしろ、争いは避ける質だ。学院での暴力事件だって、愛する両親を侮辱されたから、誇りのために振りあげた拳だ。

 今だってこうして、わたしなんかに優しさを与えてくれている。


「それなら、カティだって同じだ。私は、カティにそんなもの背負わせたりしない。もし背負わせるという奴がいたら、私が黙らせる。何だったら殴ってやってもいい。カティが私の父親をやっつけてやると言ったのと同じ気持ちだ。私だって、カティを苦しめる者からカティを守ってやる!」

「……マティウスさま」

「守らせてくれ、カティ。そのためなら、私は強くなる」



 そんなふうに言ってもらうと、不思議なくらい気持ちが楽になった。

 誰かに許されるということがこんなにも心を軽くするものだと、わたしは今まで知らずにいた。

 誰かに、ではないかもしれない。マティウスがそう言ってくれたことに、わたしは救われたのだ。


「カティ」


 抱きしめていた腕を解いて、マティウスがわたしの顔を覗き込む。

 その深い青の瞳が、わたしを捕らえて離さない。


「カティは、わたしの友人で、エッフェンベルグ家の大事な客人だ。魔術が得意で、自分で自分を食べさせていける立派な女性だ。恥じることなど、誰かに後ろ指差されることなどないだろう?」


 マティウスの問いかけの意図はわかるけれど、わたしは頷くことができなかった。

 確かに、これまで懸命に生きてきた。頼れるものなんて何もなくて、それでも必死で生きてきた。恥じることなんて何もない。

 でも、あの男の血を引いているのだと思うと、どうしようもなく辛くなる。

 わたしのことを少しでも大事にしてくれた人たちに対して、顔向けできないような気持ちになるのだ。


「カティ、そんなに悲しそうな顔をしないでくれ。……カティの気持ちはわかるつもりだ。私も、カティと同じように自分の父親の存在に苦しめられている。似ている部分を見つけては嫌悪している。そして、父や母や、私を大事にしてくれる人たちに対して申し訳なくなるんだ。こんな気持ちになるのは、愛されていることがわかるからだ。そうだろ?」


 マティウスの言葉にわたしは頷いた。

 そうなのだ。

 あんな男の子供だとわかったら、エッフェンベルグ氏はわたしを許さないんじゃないだろうか。

 夫人はわたしを嫌いになるんじゃないだろうか。

 セバスティアンはがっかりするんじゃないだろうか。

 アンドレはもう友達とは言ってくれないんじゃないんだろうか。

 ミセス・ブルーメはわたしを良い子と褒めてくれないんじゃないだろうか。

 ……そんなことを考えてしまう。


 軽蔑されるのが、嫌われるのが、失望されるのが怖いのだ。


 こんな気持ちを抱いて初めて、わたしは他人の優しさの中で生きてきたことに気がついた。

 あの男のような人間と血が繋がっていることで、人からの優しさを受け取れなくなるのではないかということが、わたしはこんなにも怖かったのだ。


「カティ……まだ不安か? 自分というものが信じられないのか? 私はカティが好きだ。カティは、私が愛している女性だ。私が大切に思う存在を、君は否定するのか?」


 切なげな眼差しでマティウスがわたしを見つめている。そんな目をして、そんなことを言わないで欲しい。その整った顔を悲しそうに歪めて見つめられたら、胸が締めつけられて息が止まりそうになる。

 こんな気持ち、今まで知らなかった。これは、マティウスがただ単に格好良いからではない。アンドレの男装姿だって十分素敵だけれど、彼女に対してドキドキすることはないのだから。


 ドキドキするのは、こんなふうに困ってしまうのは、マティウスに対してだけだ。


「……わたしは、マティウスさまに愛してもらえるような人間ではありません。そんな資格ないんです」

「資格なんて必要ない。私が勝手にカティを好きでいるだけだからな。……カティはどうなんだ? 私では男として不足か?」

「そんなこと……」


 セバスティアンに話を聞いたときは、どんなケダモノだろうと思った。実際に会ってからは、見かけより幼い部分のある繊細な人だと思った。でも、優しくて大人の部分があることも今ではわかっているつもりだ。


 恋は幻だと思っていたのに。身の破滅を招くものだと思っていたのに。

 ……わたしは、夢を見たいのかもしれない。


「私のことが好きではないと言うなら、この手を払いのければいい。私から、離れればいい」


 マティウスは、今度は挑むような目をする。

 わたしの気持ちを見透かした上での行動だ。

 わたしが惹かれつつあることを、マティウスはしっかりと気づいていたのだ。


「……どこにも行かないということは、私の好意を拒まないということだな?」


 抱きすくめられて、腕の中で問われた。

 狡い聞き方だ。気づいていることを改めて聞くなんて。

 そんなふうに尋ねられたら、わたしはもう頷くしかない。


「本当か? ……良かった。私はカティに嫌われたら生きていけない。カティだけなんだ。これまで私のためにこんなに熱心になってくれたのは。寝る前の私の我が儘も聞いてくれた。魔術の稽古もしてくれた。私の問題を解決するためにこんなに踏み込んでくれたのは、カティだけなんだ」


 抱きしめる腕にさらに力を込めて、マティウスは嬉しそうに言った。その声音は得意げで、何かを褒められた子供みたいだ。わたしに好かれただけで、何が嬉しいというのだろう。そんなふうに喜ばれると、反応に困る。


「……お金のためです。別にマティウスさまのためじゃありません」

「それでもいい。そうだったとしても、カティは私のために色々してくれたのだから」


 心底嬉しそうな声を聞いてわたしも嬉しくなるけれど、同時に心配にもなる。マティウスはただ愛に飢えているだけで、少しでも優しさを向けられたら誰のことでも好きになってしまうのではないかと。そんなふうだと、金目当ての女にあっという間に絡め取られてしまいそうだ。


「マティウスさまは、簡単に悪い女に騙されてしまいそうですね」

「そうならないよう、カティがそばについていてくれ」

「……仕方ないですね」


 体を離して、小首を傾げてマティウスは言う。子犬のようなその仕草は、鋭い美しさのマティウスがしたって全然様にならないのに。でも、それを可愛いなと思ってしまう自分がいる。


「屋敷に残ってくれるか?」


 安心したようにマティウスは尋ねてくる。自分と思いが通じ合ったことで、わたしが屋敷に残ると確信しているのだろう。

 でも、わたしは首を横に振った。それとこれとは、話が別だ。マティウスのことを好きだからこそ、わたしはここを出て行かなければならない。


「……いいえ。これはけじめですから」

「そうか……それなら、仕方がないな」


 わたしの言葉に、マティウスはため息で答える。どうあっても気持ちが変わらないことを、やっと理解してくれたのだろう。

 ーーそう思ったのに。


「カティ……眠りを」

「ーー!」


 ギュッともう一度抱きしめられて、耳元で囁かれた。これ以上ないというほどの不意打ちだ。

 その言葉の意味を理解する頃には、わたしの意識は夜に溶けていっていた。

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