第22話 ぬくもりの檻

 こんな姿を見られたくなくてどこかに身を隠そうとしたけれど、体に力が入らなくてなかなか立ち上がることができなかった。何とか這うようにして移動できないかと考えたけれど、腕で自分を支えることもままならない。

 そうこうしているうちに、マティウスはわたしを見つけてしまった。


「こんなところにいたのか……」


 逃げる暇もなく、わたしはマティウスに捕まってしまう。グッと手首を掴まれて、抵抗もできぬまま引き寄せられた。


「どうした? 気分が悪いのか? 震えているな」


 迷いなく抱きしめてきた腕の中、わたしは身動きが取れなくなっていた。そうされることで、自分の体がカタカタと震えていることに気づく。マティウスが熱いのか、わたしが冷えすぎたのかわからないけれど、マティウスの熱が服越しによく伝わってきた。

 その熱に温められて、わたしは少し冷静になることができた。そして、自分の置かれた状況を思い出す。

 何か言わなくてはと思うのに、喉がカラカラになって、声が出ない。

 それでも、わたしは伝えなければならない。本当なら屋敷に走って戻ってエッフェンベルグ氏を探さなくてはならなかったところを、こうして運良くマティウスが来てくれたのだ。だから、伝えなくては。


「……マティウスさま、あの男は、詐欺師です」

「あの男? あの男とは、父が取引するという実業家のことか?」


 返事の代わりに、わたしは頷いた。そうするのがやっとだったのだ。

 予め今回のことを疑わしいと思っていたマティウスは、何の引っかかりもなくわたしの言葉を信じてくれた。「そうか、やっぱりか」などと呟いて、どうしたものかと思案しているようだった。でも、それだけではいけない。わたしはもっとマティウスに言わなければいけないことがある。


「……マティウスさま」

「どうしたカティ? 大丈夫だ。父には私が伝えるからな。それとも気分が悪くて動けないのか? 運んでやるからな」

「……違うんです」


 自立できないわたしをマティウスはひょいと抱きかかえた。抱いて、そのまま歩き出す。裏口のほうへ歩いているということは、目立たないよう屋敷へ運び入れてくれるつもりなのだろう。

 その気遣いが、今はとても辛い。……わたしなんて、こうして優しくされる価値もないのに。


「……わたしの、父なんです」

「え?」


 不思議そうにしつつも、マティウスは歩みを止めない。裏の出入り口から屋敷に入り、わたしの部屋に向かって歩き続ける。


「あの男は、わたしの父親だと名乗りました。わたしの母は騙されてあの男の借金を背負わされていたと思っていたんですけど、母が借金を払っていたのは、あの男がわたしの父親だったからなんです……!」

「カティ……」


 一気に言ってしまうと、堪えていたものが堰を切ったように溢れ出した。涙が、感情とは関係なく目から零れる。困ったようなマティウスの顔を見たのを最後に、わたしの視界は滲んで何も見えなくなってしまった。


「とりあえず、着替えて楽な格好で待っていなさい。何か飲み物を持ってこさせるからな。父にはセバスティアンを使ってきちんと伝える。……だから、カティはまず落ち着くんだ。いいね?」


 わたしを部屋へ運び込んでソファにおろすと、それだけ言ってマティウスは出て行ってしまった。

 残されたわたしは、何とか指先に力を入れて服を脱ごうと試みる。細かな震えがまだ取れなくて、なかなかボタンを外すことすらできないけれど。

 服を脱いだら、お風呂で体を清めて、どこにでも行けるようきちんとした服を着て、荷物をまとめて、出て行く用意をしなくては……。

 そう頭ではわかっているのに、体がなかなか言うことを聞いてくれない。全身に鉛でもまとっているかのように、腕が、足が、動かない。


 何がここまでわたしを打ちのめしたのかはわかりきっている。


「俺を嫌えば嫌うほど、それは自分にはね返るぞ?」


 ーーこの言葉は真実だ。

 これまでただ憎いとだけ思っていればよかったのに、あの男の血を自分が引いているのだたわかった途端、どうしようもないほど気持ちが悪くなってきた。

 どれだけ憎んでも、断ち切りがたい因果のようなものがわたしとあの男の間にはあるのだ。

 わたしが無関係だと言ったところで、あの男の娘だということが知られれば、それはずっとついてまわるものなのだろう。

 セバスティアンも、このことを知ったらとんでもないものを引き当ててしまったと思うだろうか。


 エッフェンベルグ家の人々の期待に添いたいと思うようになっていたことを、今になって強く感じる。

 わたしは、ここの人たちが好きだったのだ。

 でも、だからこそ隠すわけにはいかない。

 わたしは自分の卑しい素性を明かし、ここを立ち去らなければならない。それが、わたしの示せる誠意だ。

 ……わかってはいるけれど、そのことを考えると苦しくてたまらなかった。



「カティ、お茶を持ってきたよ。……まだ、そんな格好でいたのか」


 のろのろとしていたから、マティウスが戻ってきてしまった。薄汚れたままうずくまるわたしを見て、とても心配そうな顔をする。それほどまでに、わたしの今の姿は酷いのだろうか。


「カティ、とりあえずこのお茶を飲んでごらん。ゆっくりでいいから……そう、ゆっくりな」


 マティウスはわたしの隣に座り込むと、カップを口元まで持ってきて飲ませようとしてくれた。だから、わたしはそのカップに自分の手を添えて、何とか少しずつ啜ることにした。


「父には話が行っているはずだ。だから、カティはもう心配することはないよ。落ち着くまでわたしが着いていてやるから」


 わたしがお茶を飲んでいることを確認しながら、マティウスは優しく背をさすってそう言ってくれた。寝る前の子守唄や添い寝を必要とする、あの甘えたな青年ではないみたいだ。

 その優しさに、また涙が溢れてしまう。


「……すみません。お風呂に入ってきます」


 これ以上心配をかけたくなくて、何とか立ち上がって風呂場へ向かった。

 体を洗えば少しは楽になるかと思ったけれど、どれだけ洗い流してもあの男の視線がまとわりついているようで、気持ちの悪さは収まらなかった。

 こすってもこすってもこすっても……あの視線が落ちない。こすりすぎて擦り剥けた皮膚からうっすらと血が滲み、雫と一緒に滴る。

 その血の色も、汚い。



「カティ、こっちに来なさい」


 風呂場から出て、呼ばれるままにマティウスのそばへ行くと、風の魔術で髪を乾かしてくれた。柔らかな風とマティウスの指の感触が心地よくて、少しだけ落ち着く。

 髪が乾いてからもマティウスは頭を撫で続けてくれた。そのまま、目を閉じて眠りたかったけれど、一刻も早く荷物をまとめなければ。


「姿が見えなくて、アンドレに聞いて外に探しに行ったら気分が悪そうにしているのを見つけたんだ。……カティ、何があったんだ?」


 立ち上がる気配を察知したマティウスが、それを阻止するためにわたしを強く抱きしめた。

 魔術抜きの純粋な力では、わたしはマティウスに勝つことができない。だから、わたしはその腕の中に抱きしめられるしかなかった。


「会場の中に、見覚えのある顔を見つけたんです。まさかとは思ったんですけど……近くで見たら間違いなく、わたしがずっと恨みに思っていた男でした」

「恨みに思っていた?」

「そうです」


 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

 そして、わたしはマティウスへすべてを話すことにした。

 母が未婚のままわたしを産んだこと。春を売ってわたしを育てたこと。男に騙されて借金を背負わされ、それを返済するために無理して働いて病で死んでしまったこと。

 その男は、会場にいてエッフェンベルグ氏と取引をしようとしている実業家だったということ。


「男がわたしを追って庭に来たんです。だから、お前の正体を知っていると言ってやったんです。そしたら、向こうはわたしのことをきちんと覚えていて……自分はわたしの父親だと、名乗りました」


 父親という言葉を口にするだけで、奴に触れられた部分がぞわりと粟立つような気がした。

 信じたくはなかった。でも、わたしは否定できる要素をなに一つ持っていないのだ。


「母が死ぬ原因となった男と親子だったなんて、旦那様に詐欺を働こうとしていた人間と血が繋がっていたなんて……もうわたしは偉そうな顔をして生きていくことなんてできません」

「……そんなことを気にしていたのか」


 そんなこととマティウスは言うけれど、果たして他の人たちも同じことを言ってくれるだろうか。……わたしはそうは思わない。

 それに、たとえ咎められなかったとしても、わたしがわたしを許すことができない。

 だから、わたしはここから出て行かなければならない。


「……マティウスさま、離してください」


 身をよじっても無駄だとわかっているから、そのまま言葉にしてみた。でも、マティウスは離すどころか腕にさらに力を込める。


「離したら行ってしまうんだろう? ……ダメだ」

「でも、わたしはもうここにはいられません。……暇を取らせていただきます」


 わたしの言葉に反応して、マティウスはこれ以上ないというほど腕に力を込めてきた。こんなときこそ、大人の気遣いを見せて欲しいのに。子供のような駄々っ子をされても困るのに。


 抱きしめられた腕の中があまりも温かくて、わたしは泣いた。

 辛い。こんなことをされたら、わたしはもう立ち上がれない。

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