―45― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(27)~レイナ、そしてルーク~

――なんて、美しい……

 この将軍ケネス・ヒューゴー・ヤードリーの娘・エヴァが舞踏会場に一歩足を踏み入れるだけで、王子ルーカス・エドワルドは……いや、その他の貴族の男や女たちも、瞬く間に目を奪われてしまうに違いない。


 つい先刻、パトリックたちの前にその姿を見せた金髪の姫(後のエリーゼ・シエナ)も美しかった、というよりも彼女の場合はどこか庇護欲をそそる大変に愛らしい美貌であったが、エヴァは彼女とは異なる種類の美貌の持ち主であった。

 何人にも汚されぬ強い光をたたえている切れ長の瞳、黒曜石を思わせるような艶やかなウェーブがかった黒髪、ほっそりとした姿態、胸元から覗く白い肌、片手で支えられそうなほど細い腰……

 化粧やドレスで底上げされていない、本物の美人だ。

 そのうえ、月夜の下で味わう最上の美酒のごとき濃厚な色香。


 エヴァのその色香によって、パトリックは彼女の年齢は20を少し過ぎたところかと推測していた。

 白く艶めかしい胸元からのぞく”切れ込み”もパトリックの目に飛び込んできた。

 エヴァは豊乳でもなければ、貧乳でもなかった。彼女の醸し出す雰囲気と美貌に見事にそぐう、全体のバランスのとれた胸の膨らみがそこにあった。

 

 さらに言うなら、エヴァは先に舞踏会場へと入っていった90%以上の姫君たちのような明るい色のドレスは身に着けていなかった。

 濃く深い色合いの青――ネイビーのドレス。服飾には疎いパトリックたちでも分かるほど上等な生地であつらえられた、そのドレスの装飾はすこぶるシンプルで、エヴァ自身も華美なアクセサリーなどで必要以上にそのドレスを飾り立ててはいなかった。

 彼女の研ぎ澄まされたかのような美しさを、より際立たせるドレス。

 もし、エヴァは他の大多数の姫君たちと同じく、明るい色――花の色を思わせるようなドレスを身に着けていたとしたら、彼女の匂い立つような美しさを少しばかり減らしていただろう。


  

 エヴァに見惚れながらも、どこか冷静に彼女の美しさを考察し始めていたパトリック。

 だが、残る彼の同僚兵士3人は、口をポカンとあけたまま、エヴァの美しさにまだまだ見惚れ続けていた。


 ヤードリー将軍と兄のライオネルは、エヴァを守るように、そっと彼女の両隣へと……

 彼女たちと、パトリックたちとの距離は徐々に縮まっていく。

 最初はやや小柄に見えていたエヴァであったが、単にどちらもいかつい軍人らしい体格の父と兄の対比によって、そう見えていただけであり、どちらかというと女性にしてはやや高めな身長であることが、パトリックに分かるまでの距離となった。


 だが、任務もそこそこに自分の妹の美しさに見惚れていたヒラ兵士たちを、とうとうライオネルがジロリと一瞥した。

 生粋の軍人のその恐ろしさのこもった視線に、パトリックたちは慌てて姿勢を正し、恭しく頭を下げた。

 けれども、頭を上げた彼らの視線は再び、間近で見るとより一層美しいエヴァへと注がれた。美しいものに目がいくのは男としての……いや、人間としての習性であるのだ。



 と、ふと一瞬、パトリックとエヴァの目が合った。

 そう、それはまさに、ほんの一瞬であった。

 ガラにもなく思わずゴクリと唾を呑み込んでしまったパトリックであったが、対するエヴァはパトリックに微笑みかけるわけでもなく、蔑みの視線を向けるでもなく、ごく自然にパトリックから視線を逸らし、真っ直ぐに前へと――様々な光と色彩が飛び交い、また舞踏会開始直前の喧噪のただなかにある舞踏会場の中へと向けられた……


 後日――

 パトリックは兵士たちの情報網で(お喋りが好きなのは女だけではなく、男もなのだ)いろいろなことを知った。

 あのヤードリー将軍の美しき愛娘・エヴァの年齢は20を過ぎたところかと思っていたが、まだ自分と同じ17才であったこと。

 そして、王子の妃の最有力候補の1人として名があがっているらしいということ。



――あの方が、王子の妃となり……そして、いずれはこのアドリアナ王国の王妃となったなら……

 決して自分の心以外では吐露することのなかった、パトリックのその思い。

――あの方の父上は、あのヤードリー将軍だ。アドリアナ王国には充分なほどに貢献をしているだろうし、国王からの信頼も厚いはずだ。それにヤードリー家は貴族の中では抜きん出た名家ではないが、人脈もそこそこに持っているだろう。あと”最後の関門”を突破するだけだ……


 と、密かに”エヴァ推し”となり、勝手に将来の美しく気品に満ちた王妃の姿を思い描いていたパトリックであったが……


 秋も過ぎゆき冬へと向かい、そして春を迎える頃……

 大臣の口より正式に発表された王子ルーカス・エドワルドの妃の名は、エリーゼ・シエナ・ローガンであった。


 家系より多くの大臣を輩出し、なお莫大な持参金を持つ貴族の娘が妃として選ばれた。

 そして、またしてもパトリックの耳に入ってきた兵士たちのお喋りネットワークによると、お妃候補の中で王子ルーカス・エドワルドが一番好みとする娘がエリーゼ・シエナであったとのことだ。

 パトリックは王子と好みの女のタイプについて語り合ったことはないし、語り合う機会なども絶対にないだろうから、その噂の真偽は定かではない。


 だが、たった1人の妃しか娶れないとしたなら、自分の好みの容姿の娘を選ぶだろう。

 その娘の家が、妃候補の中でも一番の財産と人脈を持っていたなら、反対する者など少ないに違いないし、妥当な選考結果と言えばそうである。


 夢見るような青き瞳と輝く金色の瞳の”新たな妃”エリーゼ・シエナ。

 大変に可憐ではあるが、どこか庇護欲をそそるような”か弱さ”もあわせもっている彼女は、その見た目から受ける印象通りの女性――いや、妃であった。

 精神的にやや不安定なところがあったエリーゼ・シエナも、ルーカス・エドワルドとの間に生まれた第一子(ジョセフ)が賢く健やかに成長していくところまでなら、まだ彼女も王妃としての責務を果たすことができていた。

 けれども、彼女は分かってしまった。自分が”悪夢の権化のような悪魔”まで産んでしまったことを。

 そのうえ、その悪魔の企みによる事故か、または故意なのかは、今となってはもう分からないが、生まれるはずであった第三子は、産声をあげることなく、冥海へと召されてしまった。



 王妃の地位にあるエリーゼ・シエナが、王妃としての責務を果たすことはこの先無理であろう。

 パトリックも以前に、エリーゼ・シエナの自殺未遂(バルコニーから飛び降りようとしていた)を阻止するために、エリーゼ・シエナの元へと駆け付けたことがある。

 その時の彼女は、肌もガサガサに荒れて粉を吹き、艶を完全になくした金色の髪は薄くなり、大の男であるパトリックですら、思わず後ずさってしまうほど、面がわりしていた。


 彼女にとって生き続けること――人生とは、まさに終わりに見えぬ悪夢となってしまっているのだろう。その悪夢を自ら壊す(自殺)の寸前で、死の恐怖からか何度も踏みとどまってしまい、今現在に至っているのだ。




 妃争いの唯一の勝者であるエリーゼ・シエナが、首都シャノンで2人の子供を産み、精神を病んでいった幾年月……

 その間、敗者であるエヴァ・ジャクリーン・ヤードリーも2人の子供を産んでいた。

 パトリックは、エヴァが首都シャノンから遠く離れたアリスの町の領主に嫁いだことを風の噂で聞いていた。

 その田舎町の領主ヘンリー・ドグ・ホワイトは、腕もまずまず、真面目で人物面には何も問題はないが、無骨で風流なことなど知らぬ者であるとも……そのうえ、彼はエヴァより10才ほど年上であるとのことであった。

 その噂というよりも、”真実”を耳にしたパトリックは、どこかやるせない気持ちになった。



 無論、パトリックは自分がエヴァの夫となりたい、あの美しい方を手に入れたいなどといった、身の程知らずな野望は抱いていてはいなかった。エヴァを”男性のやむをえない生理現象の解消の対象”にしたことなど一度もないし、自分のこの思いを知っているのはこの世において自分ただ1人だけだ。


 そして、何よりも今、パトリックは自分の妻を心より愛している。

 妻は、自分の大切な4人の存在のうちの1人だ。

 父親の中には、子供よりも妻が大切、妻よりも子供の方が大切な者もいるらしいが、パトリックは妻にも3人の娘たちにも、大切さと愛しさの順位などは付けられなかった。



 だが、あの”運命の夜”以来――運命の夜と形容したが、エヴァはパトリックの名前も知らず、そもそも彼の顔すら舞踏会の翌日には忘れていたに違いないが、パトリックにとってエヴァは、彼の心の中のどこか美しいところで、今もあざやかに青き月の光や風の匂いとともに蘇ってくる思い出の女性であるのだ。

 



 

「あ、あの……ヒンドリー隊長、私に何か……?」


 甘く切なく思い出を心中で噛みしめるように味わっていたパトリックは、その思い出の女性が産んだ息子であるダニエルの顔を――といってもダニエルの顔の上半分は前髪で隠されているが、じっと見つめていたことに気づき、我に返った。

 長身で鍛えられた肉体の兵士隊長・パトリックからの熱い視線を受け続けていた、ダニエルの頬はなぜか赤く染まっていた。


「……これは、大変な失礼をいたしました。実はまだ私が17かそこらであった頃、お母様を首都シャノンの城内でお見かけしたことがあったので、その時の思い出しておりまして……」

 慌てて理由を説明したパトリックであったが、今の言葉を発した彼は、心中ではさらに盛大に慌ててしまった。

 この貴族の身分を自ら捨てたダニエル・コーディ・ホワイトにとって、彼の母の話は決して立ち入ってはいけない領域であるはずなのに、俺はなんてミスをしてしまったんだ、と。


 だが、ダニエルの反応はパトリックが予測していたものと違っていた。

「わ、若き日の母を……ですか? それは、も、もしかして、お妃さま選びの舞踏会でのことでしょうか?」

 息子も母がかつてのお妃候補であったことを、アドリアナ王国の現王妃となっていたかもしれない女であることを知っていたのだ。


「ご存知でしたか? それはやはり……お母様ご本人から、お聞きしてのことでしょうか?」


 パトリックのその問いに、ダニエルはゆっくりと首を横に振った。

「い、いいえ、母が過去のことを話したことは一度もありません。私がその話を聞いたのは、母の生家より母とともにホワイト家に輿入れした侍女からです。”お母様はこの王国の王妃様になっていたかもしれない方ですのよ。私たち侍女も”あの時は”本当に悔しい思いをいたしましたわ”と……」

 妃争いにおける敗北は、ヤードリー家の召使いにまで根強い楔を残していたらしかった。



「これは、もしもの話ですが、お母様が王妃となられていて……マリア王女のような子供が生まれていたら、お母様は一体、どうしていたでしょうか?」

 パトリックの口は、心の中で口に出していいことかを考えるより先に、勝手に動いているようであった。

 自分が”あの方が容貌だけでなく、その資質も王妃にふさわしかった”と今さら確認したところで、何にもならない。時を巻き戻せやしない。それに巻き戻せたところで、自分が妃選びに進言できる権力などもっていないのに……

 そもそも、今の質問は実の子供であるダニエルに対しても、失礼なことである。



 だが、ダニエルは不愉快な表情などは一切見せず、極めて真面目にパトリックに答えたのだ。

「……そ、そうですね。わ、私は前のマリア王女には直接の面識がないので、皆さまのお話を聞いたことを総合した人物像による話となりますが……仮に、母がマリア王女のような子供の親という立場に立たされたなら……母なら自分の子供をその手にかけ、その後、自身は毒をあおるなどして自ら命を絶つと思います。他人にも、そして自分にも厳しい人ですから……」

 段々と消え入りそうななっていくダニエルの声。

 命は大切だ。

 そのことは、この世に生を受けた”善良な”者たちは理解している。

 だが、ある者の命がこの世に存在することによって、他の者の命や人生が脅かされ、最悪の場合は奪われてしまう。

 同じ人間なら絶対に分かり合えると力説する者もいる。けれども、世の中には本当に矯正の余地などなく、というよりも根本的に何かが足りなくて、人として好ましくない性質を過剰に持ち合わせて生まれてしまった者もいるのだ。

 あのエヴァ・ジャクリーン・ヤードリーの元に、そのような子供が生まれたとしたら、自分の手で……



「申し訳ございませんした。大変にご無礼なことをお聞きいたしました」

 パトリックは深々とダニエルに対して、頭を下げた。

 パトリックは、今日の自分がどこかいつもと違っていることを実感せずにはいられなかった。

 この部屋に足を踏み入れる前より、ずっと感じている湿気のようにじっとりとした不安の影が、パトリックを普段の数倍、饒舌にさせているのであろうか?


「いいえっ……そんな滅相もないことですっ」

 慌てて、首を横に振ったダニエルもまた、パトリックに至極丁寧に頭を下げた。

 ダニエルのその表情を見る限り、彼の今の言葉は、本心からのものであるようであった。

 このダニエル・コーディ・ホワイトは、次期領主としての適性がないことは散々なまでに指摘されているので割愛するが、穏やかで優しい性格で、邪念が非常に少なく、決して他人に危害を加えたりする者ではない。

 次期領主としての適性で及第点は取れなくとも、彼はまた別の役割を――影で周りの者を支える役割を担って生まれたに違いない。

 ジョセフ王子やヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーのように、容貌に恵まれ、大抵のことはそつなくこなせる者も中にはいるが、世の多くの人間はそれぞれに適性がある。

 世の全員が、光の下にいる為政者タイプでも社会は成り立たないし、世の全員が影で支える役割とになっていても社会は成り立たないのだから……



 コホンと咳払いをしたパトリック。

 いささか喋り過ぎた。

 というか、遠い過去ではあるが、甘く過去へとの回想にやや時間を取り過ぎた。

 自分が本来、ここへとやってきた目的をパトリックは遂げようとした。

 それは――


「こちらの文書、よろしければ、私と一緒にご覧になりますか?」

 事務室の本棚に置かれていたある文書を手に取ったパトリックはダニエルに聞く。

「そ、それは、私などが拝見しても良い文書なのでしょうか?」と、早くも緊張で頬が強張り始めたダニエルに、パトリックは頷いた。


 知識の面ではダニエルは非常に優れている。

 これから先、ともに旅を続けていくために、情報を共有しておきたいという思いもあった。

 そして、これからパトリックがダニエルと共有する文書の一部は、文字が並んだ文書というよりも人相書きであった。



 その人相書きは、悪名高き海賊たちの人相書きであった。

 中には、海賊団の構成員のほぼ大半がアドリアナ王国出身者である、悪名高き”ペイン海賊団”の主たる構成員たちの人相書きもちろん、含まれていた。


 殺して奪え、奪って殺せといった具合に、強奪と殺戮が同義であるペイン海賊団。

 何度、火炙りになっても、何度、斧で首を切り落とされても、被害者たちの無念と恐怖にはとうてい及ばないほどの罪を犯し続けているペイン海賊団。


 彼らの被害者のほぼ大半はすでにもうこの世にはいないが、アドリアナ王国の地道な調査によって、彼らの特徴が如実に描き記された人相書きは、今、こうしてパトリックの手の中にあるのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る