―33― ”まだ”穏やかな船内にて起こったある事件(15)~レイナ、そしてルーク~

「きゃっ!!」

 背後より、いきなり強い力が自分の肩に――しかも両肩にかかった。

 レイナは反射的に身を翻し、その強い力を振り払ってしまった。


 金色の美しい髪はわずかに乱れ、青色の美しい瞳を驚きで見開いたレイナの前に立っていたのは――


「???」

 声もかけることもせずに、いきなり自分の両肩を掴んだこの男。

 レイナは、目の前の男の”顔とファミリーネームと職業”だけは、まだ航海3日目ではあるものの何とか覚えていた。そして、アンバーの形見のノートにもしっかり書き留めていた。

 だが、この男のファーストネームやミドルネームは知らないし、そもそも第一にこの男に背後から、まるで恋人同士がじゃれ合うように両肩をつかまれる間柄ではない。

 誰かと間違えたのか?

 でも、この船内には、この”マリア王女ほど”美しい金色の髪をした若い娘などは、レイナの他にはいない……



 男自身も、自分が誰かと間違えてレイナの肩を掴んだわけではないのは、明らかであった。

 男は、その細面の顔に、ニヤニヤと笑いを浮かべて、レイナを見下ろしていたのだから――

「そんな可愛い声出されるなんて、思わなかったなあ……」


 歪みを見せた唇より紡がれた男の言葉に、冷や汗をかき始めていたレイナの両手は、さらに冷たくなっていくように思えた。


「あ、あの……何か?……」

 何とか、言葉を紡ぎ出すことができたレイナ。

 思わず自分の汗ばんだ両手をギュっと握りしめてしまっていた。


 ここは船の中という限られた空間だ。人里離れた山奥ではない。

 それに、目の前のこの男は、”この世界においても”エリートと呼ばれるであろう職に就き、エマヌエーレ国へと向かうこの船の正式な乗組員として、ここにいる。そのような者が自分に、いやこの船の中で他人に危害を加え、自分の立場が悪くなるようなことはする”はずがない”。


「レイナちゃんは、船酔い平気? よかったら、ボクの部屋で特別に診てあげるよ」

 診てあげる……

 そう、非常に軟派な感じで、”マリア王女の美貌に見惚れ”頬を赤らめながらも、器用にレイナに白い歯を見せて笑いかける男は、この船専属の医師―『船医』であった。


 ファミリーネームしかレイナは知らないが、この医師の名はガイガーという。

 レイナが医師――つまるところ「お医者様」として、真っ先に思い描いてしまうのは、穏やかな顔立ちに落ち着いた雰囲気、美形ではなくとも聡明そうなロマンスグレーといった感じの男性の姿である。無論、それに「尊敬」という念も含まれている。


 だが、この船医・ガイガーは、まだ若い――20代半ばかと思われることを抜きにしても、”チャラい兄ちゃん”という印象であった。

 その”チャラい兄ちゃん”と一括りにしてもいろんな種類がある。いわゆる、髪の色も服装もチャラくて、ゴテゴテのアクセサリーをジャラジャラつけて……見るからにチャラいといったタイプもいる。(だが、余談ではあるが、こういった外見の人が意外に常識的であったり、優しかったりすることもある)

 ガイガーは、髪型や服装などはそう見るからにチャラさを感じさせるものではなく、むしろこざっぱりとしているし、顔立ちだってそう不味くはない。だが、彼がその全身より放つ――いや、滲み出てしまっている軽薄さ――レイナの元の世界風に表現するとなるなら、”お金にも家柄にも困ったことのないウェーイ系お坊ちゃん”と言ったところだろう。


 あって、まだ一週間も立っていないのに、レイナにこれほど軽薄さ(そもそもレイナは軽薄な男子を元々好きではない)を感じさせ、先ほどもいきなり背後からレイナの両肩を掴んで許可なく体を触り(気の強い女性なら痴漢行為だと騒ぎ立てるだろう)、そのうえ、全く親しくもないのに”レイナちゃん”呼ばわりする男。

 このような男に対しての上手い交わし方&あしらい方を分からないレイナは、一刻も早くこの場から逃げ出そうとした。



「いいえ……平気です。では、失礼します」

 この言い方で納得してくれるかは分からないけど、こういうタイプの男の人には曖昧に笑って誤魔化すより、きっぱりと断った方がいいわよね、この人だってどうせ、マリア王女の美しさに見惚れて、私に粉かけようとしているだけだろうし――と、レイナは俯いたまま、ガイガーに軽く頭を下げ、ミザリーの待つ部屋に戻ろうとタッと廊下を駆け出した。


「待って待って!」

 逃げようとしていたレイナの右手首をガイガーがガシッと掴んだ。

「きゃあ!」

 思わず小さな悲鳴をあげたレイナに、ガイガーはレイナの手首を掴んだまま、フフッと笑った。

「……中の人は、純情なんだね。でも、もうちょっと、その麗しい外見にあった立ち振る舞いしないと、生まれ持った美貌のオーラがみるみるすり減っていっているよ。いや、その方がいいか。ボクは今、アドリアナ王国の王女様の高貴な御手にこうして触れているわけだし……」


「!!!」

 ガイガーもやはり、レイナの外身は”マリア王女”だと知っている。

 そのことが、ねちゃねちゃとして気持ち悪いガイガーの喋り方よりも、さらにレイナの背筋をゾッと震わせた。

 ガイガーは、サマンサ、アーロン、ティモシーのように、マリア王女に”殺意”を持っているわけではなさそうだ。だが、”別のことを”考えて、獣の牙を研いでるところなのかもしれない。

 この淫乱なマリア王女の肉体。

 中の魂は処女であっても、肉体は男性経験豊富だ。マリア王女の性格からすると、1人の男性と長く付き合うというよりも、手あたり次第、数を積み重ねていったといったどころであろう。

 ”今さら、犯(や)られたって構わないだろ?”と、ガイガーの瞳は言っているようであった。



 けれども――

 ガイガーは、クスッと笑って、レイナの手首をそっと離した。

「そんなに涙目で怯えないでよ。なんだか、ボク、変質者みたいじゃんか……大丈夫。心配しないで。誰にも喋ったりなんかしないよ。守秘義務もあるしね」


 目の前の軽薄さと馴れ馴れしさを絵に描いたような男から吐き出された”守秘義務”という言葉を信じられるはずなどなかった。

 やっぱり一刻も早くこの場から逃げなきゃ、隙を見せたらダメだったのよ、と、レイナはジリジリと後ずさった。


 だが、ガイガーはレイナの予想に反し、自らのポケットからゴソゴソと何かを取り出し、レイナの目の前にカチャリと音を立ててかざした。

「??」

 今、レイナの眼前にあるのは、1本の鍵であった。

 原材料は何なのか分からないが、青銅器を思わせる色をし、なお、四葉のクローバーは何重にも絡みあったような模様の鍵であった。


「レイナちゃん……悪いけど、ボクにお使い頼まれてくれる?」

 おかしな言葉遣いで、ガイガーはレイナに白い歯を見せて、ニッと笑った。

「いえ、いいえ、お断りします……」

 お使い。

 この鍵をどうするのかなんて知らないが、これ以上、この男・ガイガーに関わってはいけないと、レイナの第六感――それよりも、危険を知らせる女の勘が告げていた。


「そんなこと言わないで。その階段を下りて、この鍵を下の船室にいるスミスに届けるだけでいいだからさ」

「いや、だから……そのスミスさんって人が、私は誰だか分からないんですっ」

 レイナはブンブンと首を振った。

 スミスというのは、おそらく兵士の1人であろう。だが、まだ顔も名前も覚えていない者へのお使いなど無理だ。


「ボク、そろそろ、仕事に戻らなきゃいけないんだから、引き受けてもらえるとありがたいんだけどね」

 ガイガーはフフッと笑って、言葉を続けた。

「スミスなら、階段を下りて、左に曲がって進んで、奥から二番目の右手側の部屋にいるよ。ほんの少しだからさ。頼むよ」


 スミスの部屋までしっかり分かっているなら、自分で行けばいいのにと、レイナは訝しみながら首を振り続けた。

 ガイガーはフーッと息を吐いた。

「嫌だって言うなら、しょうがないね。でも、レイナちゃん……レイナちゃんは、あのダニエルとかいう貴族崩れといろいろと話して、書き物だって学んでいるようだけど、実際に自分の目でこの船の状況を……そう、下の船室での状況を自分の目で見た方がいいかと思うよ」

「??」

 どういうことなのか?

 ガイガーの言葉の意味が――言葉の裏に隠されている意味が、レイナにはすぐには分からなかった。


「まあ……男の世界はレイナちゃんが想像している以上に厳しいってことだよ。身分もなく、大した実績もなく、単に人智を超えたよく分からない存在に気に入られただけで、そう優れた力を持っているわけでもない男たちが……今、”日々剣を手に切磋琢磨してきた男たちに”どんな目で見られているかを知っている? まあ、仲良しこよしとはいかないだろうねえ」

 ガイガーは口元を歪めて、白い歯を見せた。

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