―13― 曇りなき空を進みゆく船の中で(5)

 ヤ×マン王女のお気に入りの雄犬……


 そのうえ、更に下品な言葉までをもサミュエルに投げつけられたオーガスト。

 俯いた彼の、赤く染まった頬を見たサミュエルは、ククククッと喉を長めに鳴らして笑いを堪え、フランシスはそんなサミュエルを窘めるように厳しい視線を向けた。


 凍りついた空気のなか――

 コツ、というフランシスの靴が立てる足音がやけに大きく響いた。

 フランシスの足音――つまりは、フランシスが自分に歩み寄ってくることに気づいたオーガストは、ビクリと体を震わせ、後ずさった。オーガストの両手に握られたトレイの上の水もピチャと音を立て、震えた。


「……それは私が預かります。だから、あなたは元の部屋に戻っていなさい」

 オーガストに向かって、スッと両手を差し出したフランシスは、彼が持っていたトレイ――人間離れした身体能力を誇る武闘派でありながら、母性という属性も併せ持つローズマリーのあたたかな心遣いによる水を受け取った。

「元の部屋にじゃなくて、”飼い主”のいる部屋にだろ」

 まだまだオーガストを虐め足りないらしいサミュエルは、下卑た笑いをその優美な口元に浮かべた。

 

「サミュエル」

 彼を再び窘めるフランシスの声音も、さすがに厳しいものへと変わりつつあった。

「いいから、あなたは早く行きなさい」というフランシスの言葉に、オーガストは弾かれたように部屋を飛び出していった――




「おいおい……何、ガキをかばう優しさなんて垣間見せてンだよ。お前は、そんな奇特な奴じゃねーだろ」

 サミュエルが笑い声をあげた。

 だが、まだ体内に沈殿しているらしい自身が作った魔法薬による苦痛と喉の渇きによってか、彼はゴホゴホと咳き込み始めた。

 フランシスは黙ったまま、彼にトレイの上の水を手渡す。そして、止まらぬ咳によって頬を朱く染めたサミュエルも黙ったまま、水を受け取った。


「サミュエル……自分の孫であってもおかしくない年齢のオーガストに、ああも陰険なことを言う必要はなかったでしょう」

 サミュエルが喉を潤し、とりあえずは咳はおさまったのを確認したフランシスは、彼を諭すように言った。


「ふん、ンなことをお前にだけは言われたくねえよ」

 喉が本調子に戻ったらしいサミュエルはケッと舌打ちをする。

「しっかしよぉ、オーガストの奴、頭自体は救いようがない阿呆ではないと思っていたんだが……まさに女で人生滅ぼす男の見本市に出せそうな奴だったとはな。まだ、若いってのに哀れだな。それに、あのマリア王女……いくら”可愛いは正義”っても、限度ってもんがあンだろ」




「私も彼とマリア王女についていろいろと思うところはあります。ですが……オーガストにはこれまでに3回ほど、元の生活へと戻るチャンスがあったのです。そのうちの2回は、私もオーガストに”全ての元凶”から離れるように忠告しました。それにも関わらず、オーガストは私たちとともに……いえ、マリア王女の魂といることを選択したのです」

 黙ったままのサミュエルに、フランシスはなおもいつものように、長々と言葉を続ける。

「オーガストですが……魔導士アンバーを失うこととなったアリスの町の山の麓での戦いの時までは、いろいろと私に対して口が過ぎ、正直、私も殺さない程度に小突きたくなる態度でした。けれども、今の彼はすこぶる無口で大人しく……私たちを怒らせないように……まるで一日一日を綱渡りしてやり過ごすがごとく、神経が日に日にすり減っていっているに違いありません。だから、これ以上、彼を追い詰めるようなことはやめておきましょう」


 フランシスからサミュエルに向けての注意。

 オーガストがこの船に留まることを選択したこと。

 それは、彼の愛するマリア王女の魂がいるから――そして、その彼女を救いたいという最大の理由であり、ただ一つの理由によってである。

 そのうえ、”マリア王女”を消滅させようとしたフランシスが、マリア王女の魂を修復してくれるという絶対の保証などない。だが、マリア王女の魂を修復することができるのは、フランシスしかいないだろうと――

 ”愛する人”を殺そうとした仇に、頭を下げ、助けを懇願したオーガスト。

 今のところは、マリア王女も自分もなんとか、命を紡いではいるものの、いつフランシスの気が変わって、自分もろとも殺され、いや消滅させられてしまうかもしれないのだ。



「オーガストにとって、今のこの状況は常に死と隣合わせの戦場にいるようなもんか。いや、毒蛇の入った壺を抱えたまま、蛇の巣をウロチョロしていると言った方が、あいつの場合は正しいかもな」

 サミュエルは、ハン、と息を漏らして笑った。

 今の彼の比喩――オーガストが抱えている壺の中にいる”毒蛇”はマリア王女を指し、彼がウロチョロしている”蛇の巣”とはこの神人の船であり、その巣にいる”蛇”は自分たちであると。


「サミュエル……あなたとネイサンは、マリア王女には女性としての興味は全く示してはいませんね。あれほどの美貌の持ち主ですから、人妻好きのあなたとはいえ、食指をそそられるのではないかと思っていたのですが……」

 フランシスの言葉に、サミュエルは今度はプッと吹きだした。

「おいおい、馬鹿を言うなよ。まだ子供の年齢にある女を抱くのはさすがにきついぜ。それに、マリア王女の年齢が俺の射程圏内であったとしても、あの女は純金でできたような鱗をした猛毒の蛇だろ。正直……お前が連れてきた女じゃなければ、関わり合いになんかなりたくなかったんだがな」


 サミュエルはチラリと横目でフランシスを見た。

 この神人の船にいる男は4人だ。

 自分、フランシス、ネイサン、そして先ほどのオーガストのうち、マリア王女と肉体関係を結んでいたのは、フランシスとオーガストの2人だ。だが、フランシスはオーガストのように自分の命すら捧げんばかりの入れ込みようというわけではない。フランシスは、マリア王女を切り捨てる時は切り捨てるはず……いや、現に一度、残酷に切り捨てている。

 自分もネイサンも(そして女であるヘレンとローズマリーも)マリア王女の絶世の美貌に見惚れ、息を呑む一幕はあったものの、あの王女の美と性欲の奴隷になどはなっていない。

 思えば、15才のネイサンこそ、思春期であり第二次性徴の真っただ中にいるはずなのに、すぐ身近に童貞を捨てるチャンスを与えてくれるような性に対して緩い女(その女の生身の本体は地上にあるとはいえ)にそう興味を示すわけでもなかった。

 ネイサンが興味を持っているのは、城に仕える魔導士たち、そして高名な幾人かの魔導士、そして何よりも自分自身だけなのだろう。マリア王女の方も、ネイサンを子供としか見ていないらしく、彼に色目を使うことはサミュエルが知る限りなかった。



 サミュエルの視線を受けたフランシスは、コホンと咳払いをした。

「そう言えば……私が自分の”右腕”と部下を、マリア王女と、ついでにオーガストにも正式に紹介したのは、アリスの町における戦いの数日前でしたね。ですが、あなただけは、マリア王女とはそれ以前に面識がございましたね」


「……ああ、覚えているよ。俺とお前が、人体解剖をしていた時だろ。あの時から、あの王女はイカレまくった強烈な言動を見せていたからな。それに、何度も言うけど、俺はお前の”右腕”じぇねえよ……誰が、100年以上生きているのに、手を出していい女とそうでない女の区別もつかない色呆け魔導士の”右腕”であるかっての」

 サミュエルの優し気な紫色の瞳に、怒りの炎が着火し始めたのを見たフランシスは「これはこれは、何度も失礼をしました」とフフッと笑った。


「いやはや、あなたのことは、やはりマリア王女に初めて紹介した時のように”同士”と表現した方が良かったですね。あの59年前より今も私と”同士”としての絆をつないでいるのは、あなただけですし。ヘレンとの付き合いも59年前からですが、彼女は神人殺人事件には関わっていないですし、彼女を目的のためなら手段も選ばぬ”同士”と呼ぶのはさすがに気の毒ですから……それに、ハッキリと言っておきますが、あなた自身も充分色呆けでしょう。時々、人妻を誘惑し、1回限りのベッドインを繰り返していることを私が知らないとでもお思いですか?」

 フランシスは、サミュエルに対する失言(?)を口では謝っているものの、さらなる失言を――いや、嫌味を塗り重ねていった。


 売られた喧嘩を買うか。

 買われた喧嘩を再び売るか。

 厳しく、そして冷たく混じりあう、ともに卓越した力を持つ2人の魔導士の苛立ちとむかつき、そして、同士であるはずの者に対する”敵意”。  

 大海原の上に広がる大空における大面倒という暗雲は、再び彼らを覆いつくしていこうとしていた――

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