―8― ジョセフ王子の終わらぬ苦悩(8)
不細工なおばさん……
マリアは、ノーマがミザリーの母であることを知ってか、知らずか、ノーマの容姿に至るまで侮辱した。
この場にミザリーがいないことは幸いしたであろう。いくら温厚な性質で、礼儀をわきまえているミザリーであっても(自分に対する心無い言葉には耐え忍んでいるとはいえ)母までも侮辱されたら、彼女もそのままでいられないかもしれないのだから。
だが、やはりノーマも、アーロンと同じく年長者らしく落ち着いた声で、マリアへと言葉を返した。その際、ノーマはマリアに恭しく一礼をすることも忘れずに行った。
「お初にお目にかかります、王女殿下。そして、私のような者がお目汚しをしてしまい、大変な失礼をいたしました。私はミザリー・タラ・レックスの母のノーマ・リン・レックスと申します」と――
そつのないノーマの立ち振る舞いに、マリアはフッと鼻を鳴らし、綺麗に生えそろっている真珠のような白い歯をフフッと笑った。
「ああ、ミザリーのね。でも、遺伝って怖いわね。まさに呪われた血だわ」
「マリア!!」
ついに、ジョセフがマリアに掴みかかった。
「きゃ……」と悲鳴をあげ、後ずさったマリアの華奢な両肩をジョセフ強く掴んだ。マリアの上着が乱れ、彼女の淡い色の乳首が少しだけ覗いた。
「い、痛いですわ……お兄様」
眼前のジョセフを見上げ、苦痛を訴えるマリアであったが、彼女の表情はどこかうれしそうで、唇は喘ぐような動きを見せていた。
「ジョセフ王子、乱暴はっ……」
慌ててアンバー含む、他の魔導士たちが止めに入ろうとした。
アンバーたちの行動は、王女殿下を助けるためではない。敬愛する王子殿下を落ち着かせるためだ。
両肩の痛みに顔をしかめるマリアは止めに入った者のうちの1人――昔から犬猿の仲である、というよりもマリアが一方的に嫌っているだけであるアンバーの顔をチラリと見てフフンと鼻を鳴らした。
「お兄様……すぐ隣に裏切り者がいますわ。清廉潔白を装っているその女は、時々、カールやダリオと”3人で楽しんでいる”のですよ。やっぱり魔導士同士、堅物のお兄様よりも気が合うのでしょうね。本当に淫乱ですこと」
マリアの口から紡ぎ出された、淫らであり、嘘八百の言葉。
アンバーの頬はカッと紅潮した。王子の前で、それに加えて自分の父親の前でそんなことを――
アーロンもマリアの言葉に一瞬、ギョッとしたが、彼は自分の娘を信じている。そして、年若いがいずれこのアドリアナ王国の魔導士たちの中心となるであろう2人の真面目な青年のことも。
「よくも……そんなでたらめを……!!」
ジョセフの声は、さらなる怒りで震える。
もちろん、ジョセフも今の嘘でしかない言葉を信じるはずなどない。そもそも、”淫乱”とは、そのままマリアにブーメランで突き刺さる言葉だ。
つい先刻、マリアはアンバーを処女であると馬鹿にしていた。
それにも関わらず、今はアンバーがカールやダリオと肉体関係を持っていると。
盛大な矛盾。
子供でも、もっと考えて嘘をつくだろう。
単にマリアはこの場をひっかきまわし、ジョセフやアンバーが焦り、怒りで震える顔を見たかっただけなのだ。
その時であった。
あけ放たれた部屋の扉の向こうより、バタバタと複数の足音が聞こえていた。
息を切らしながら、扉より同時に顔を出したのは、カールとダリオの2人であった。先ほどまで、自分たちが話題にあがっていたことなど知らない彼らは、白い肌に男物の上等な上着(ジョセフ王子のものに違いない)を羽織っただけのマリアと、そのマリアの両肩を掴んでいるジョセフ、そしてそれを止めようとしているアンバーたちに一瞬、言葉を失う。
だが、彼らは、自分たちがジョセフ王子を探して走り回り、この部屋にたどりついた要件をすぐに伝えようとした。
「殿下、先ほど王妃様が手首をお切りになられました」
カールの言葉を継ぎ、ダリオが続ける。
「傷も浅く、侍女たちもすぐに止血したため、命に別状はありませんでした。ですが、うわごとで殿下の名をお呼びになっています」
王妃エリーゼ・シエナの自殺未遂。
今、ここでこうしてはいられない。
一刻も早く、王妃の元に駆け付けなければ――
「王子殿下、誠に差し出がましいことではございますが、私も王妃様の元へと同行してもよろしいでしょうか。薬師としてお役に立てることがあれば、王妃様のお体に傷が残らないよう、精一杯、尽力させていただきます」
ノーマの申し出に、ジョセフは深く頷き、マリアの両肩より手を離した。
ジョセフの強い力から逃れ、肩をさするマリアは「単なる数か月に一度のお母様の死ぬ死ぬ詐欺じゃない。お兄様やお父様の心をひっかきまわしたいだけよ。あんなのがアドリアナ王国の王妃だなんて」と、吐き捨てるように呟いた。
だが、マリアはすぐにニヤリと笑った。
「そうだわ。私もお兄様と一緒に、お母様のお加減を見に行こうかしら? 私はお母様の娘ですもの、心配ですわ」
その言葉を聞いたジョセフは、マリアをギッと睨みつけた。
マリアは自身の母、エリーゼ・シエナを心配などしていない。
心身共にもともと丈夫でない王妃エリーゼがこのように長期間(もうかれこれ10年以上)にわたって臥せったままである一因はマリアの所業である。
マリアは、母・エリーゼが自分の姿を見て、怯え絶叫することを分かっていて、わざと口に出したのだ。
「カール、ダリオ。絶対にそいつを部屋から出すな」
怒りのこもった――いや、必死で怒りの炎を抑えているジョセフのその声(命令)に、カールとダリオは揃って「御意」と頷いた。
主君の命に忠実に従う彼らは、マリアを王妃に近づけぬように、半裸状態のマリア王女に歩み寄った。
「さあ、マリア王女」というダリオの声。
そして、「嫌よ、はなして」というマリアの媚を含んだ声――ともに背が高く賢そうな顔立ちをし、際立った美形というわけでないが大抵の女なら射程圏内に入る容姿である若い男のカールとダリオへの媚を含んだ甘い声も、王妃エリーゼ・シエナの元へと向かう、ジョセフの背中に聞こえてきた――
※※※
哀しい音を立てながら開いた、ジョセフの記憶の扉が溢れ出てて来た記憶。
それから1年ほどたった、現在――
あのデメトラの町での殺人から数か月後、マリアは今度はこの城内にて侍女サマンサ・アンジェラ・ベルの顔に、おかしな薬で惨たらしい大やけどを負わせた。
サマンサに大やけどを負わせた薬も、そしてデメトラの町で赤ン坊を殺した薬も、魔導士フランシスがマリアに手渡したもので間違いない。
あの凍てつくような冬の日――マリアを暗殺しようとしたが、結果として星呼びの術により異世界の娘・レイナの魂がマリアの肉体の中にいざなわれた日に、フランシスは自分たちの前に初めてその姿を見せたが、春先よりマリアとフランシスは通じていたのだ。
そして、今というこの時、カールやダリオとともに、この部屋にいたかもしれないアンバーはもういない。彼女の父・オスティーンは、娘の死後もこの城に残ることを選択してくれたが、ますますやつれ、いまもなお体調は全快とはいかないようだ。
そして、加害者であるマリアも、この城内にはいない。魂のひとかけらとなって、神人の船に――人形職人・オーガストの庇護もあり、その魂を紡いでいると思われる。
マリアの肉体の中にいる少女・レイナは、マリアの罪によってティモシー・ロバート・ワイズに命を奪われそうになった。
そのティモシー・ロバート・ワイズは死に、彼が愛してやまなかった妻と娘の元へと……
けれども、被害者家族が全員死んだからといって、この件は終わったわけではない。
決して忘れてはならない。
このアドリアナ王国の大地で、確かに生きていた一つの幸せな家族を――
そして、マリアが面白半分に引き起こした罪によって、今もなお苦しみ続けている人々を――
ジョセフ、カール、ダリオのいる部屋の窓から見えるのは、穢れの一つもなく極限まで澄み切ったような青い空と、命の恵みのごとくこの地に振りつける太陽の眩しい光であった。
だが、彼らがこの部屋は、重苦しい沈黙の闇にゆっくりと包まれていくかのようであった……
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