―2― ジョセフ王子の終わらぬ苦悩(2)

 ティモシー・ロバート・ワイズならび、その妻に関して、アドリアナ王国側で把握している記録。


 愛娘のこれ以上ないほど残酷な死を目の当たりにしたティモシーの妻・ケーテは狂ったように泣き叫び続け……段々と冷たく固くなりつつある娘・ビアンカの遺体を二度と腕の中から放すまいと――そう、ビアンカの父でもある自身の夫にすら渡すまいと、ずっとビアンカを抱きしめ、彼女の小さな背中をさすり続けていたという。

 だが、哀れなビアンカの遺体をずっとそのままにしておくわけにはいかない。

 ついにケーテの体力にも限界を迎え、彼女が倒れた数日後、ティモシーが近所の者たちとともにビアンカの遺体を荼毘にふし、愛娘のあまりにも早すぎる葬儀をひっそりととりおこなった。


 この世に生を受けて1年にも満たなかった娘。

 これから、多くの人々と縁を紡ぐはずであった娘。

 このようなことになるために生まれてきたはずではなかった娘。

 愛する娘の小さな肉体は煙となって、天へと昇りゆき、後には小さな白い骨がわずかばかり残された。


 そして、1か月後――

 この世にいないビアンカの名前を呼び続け、ティモシーや近所の者たちの目をくぐりぬけ、昼夜を問わずにのどかなデメトラの町を徘徊していたケーテ。

 その彼女はとうとう誰もいない納屋で首を吊った。

 彼女の遺体の第一発見者は、彼女がまたいなくなったことに気づき、必死で探し回っていたティモシーであったとのことだ。


 薄暗い納屋のなかで、水気がすっかり抜けてしまったかのようなやせ細った妻の肉体が梁にだらりとぶらさがり、軋んだ音を立てながら揺れているのを見たティモシー・ロバート・ワイズは何を思ったのだろう。


 貧しいながらも地道に平凡な幸せを望んでいた自分たち夫婦の希望の光であった娘・ビアンカは、あれほどまでに残虐に(このアドリアナ王国の王族に)殺された。そのうえ妻までも、奪い去られた……



 ダリオが口を開く。

「……ワイズとあの者の妻は、幼馴染同士で……事件当時はともに19才と若くはありましたが、どちらも犯罪歴などは一切なく、大変な働き者と評判でした。妻が自死してから数か月後に、ワイズもデメトラの町から姿を消し……」

 言葉を濁したダリオであったが、彼が言わんとしていることはジョセフもカールも分かっていた。

 幼き頃から住み慣れたデメトラの町より姿を消したティモシーは、娘と”妻の”2人の命を奪った悪魔を自らの手で粛清する機会をうかがっていたのだろう。

 ひょっとしたら、この首都シャノンの城の近くまで来たこともあったかもしれない。だが、城には厳重な警備がいる。憎い悪魔女に近づくことなど、”魔法でも使えない限り”到底無理だ。

 そんな時、魔導士フランシスたちに彼は声をかけられ、悪しき魔導士たちの力を借りることを選択したに違いない。


「ワイズたちが住んでいた家はまだ残っておりました。近隣の者たちも、いつワイズが戻ってきてもいいように交代で清掃するなどしていたとのことです」

 そう言ったダリオに、カールも深く頷いた。

 港町の暴動の後始末をしたカールとダリオはともに瞬間移動で、デメトラの町へと飛んだ。そこで彼らが見たのは、約1年前に自分たちがジョセフ王子とともに訪れた時の記憶と、ほぼ同一の趣きを残すこじんまりとした家であった。


 言葉を濁しながら、カールが続ける。

「私たちもワイズの家の中に入り、調べたところ……殿下がワイズに支払われたあの賠償金は一切手付かずのまま、そのまま床の上に残っておりました……」


 主であるティモシーががいなくなった家を好き放題にして荒らすのでもなく、その家に残っていた多額の金(一生かかっても平民が手に入れることは難しいような大金)を盗むのでもなく、ティモシーがいつ戻ってきてもいいようにと家を清潔に保ち、整えていた近隣の者たち。

 そして彼らは、主が物言わぬ亡骸となって戻ってきた後も、カールとダリオから小さな壺に入った彼の骨を受け取り、彼の妻と子と同じ墓へと葬ってやっていた。

 本当にデメトラの町の民は、主にティモシーの家の近隣の者たちは、本当に民度が高いというか思いやりのある者が多かったのだろう。


 そして――

 カールとダリオから今の報告を聞いたジョセフは理解した。

 なぜ、ティモシー・ロバート・ワイズは、自分が支払った賠償金に一切の手をつけなかったのか?

 それは、自分の愛する者たちを奪った悪魔と”血を同じくする者”が持ってきた金など触りたくもなかったのだろう。


 ジョセフは金で平民の赤ん坊の命を片づけようとしたわけではない。

 そのうえ、王子みずからが被害者遺族である一人の平民に頭を下げ、多額の賠償金を渡すなどといったことは、加害者の罪を認めてしまうことになるとも理解していた。

 だが、自分の罪を認めず言い逃れをするばかりの加害者――自身の妹であり、王族――それもアドリアナ王国の第一王女が行ったことを、”不幸な事故であった”と知らぬふりなどは絶対にできなかった。


 重い息を吐き出し、長い金色の睫毛に縁どられた瞼をそっと閉じたジョセフの記憶の扉が哀しい音を立てながら開き始めた……


※※※


 約1年前――


「マリア! マリア! どこにいる!?」

 デメトラの町より、首都シャノンの城に戻ってきたジョセフ。

 アドリアナ王国の民であり、一つの幸せな家族が崩壊したのを目の当たりにしたジョセフは、怒りで声を荒げ、その崩壊の根源である妹・マリアを探していた。


 いつも大変に冷静沈着であり、決して感情をあらわにしないように育てられてきた王子殿下の、ただならぬその様子を見た侍女たちはビクッと体を震わせ、ある者は「私は何も存じません」という様に俯き、またある者も「私も何も存じません」というように唇を固く一文字に結んだ。

 城の外で暮らす民たちの大半には、仲睦まじい王子殿下と王女殿下(それも、マリア王女があまりにも美しいため、ジョセフ王子が人目に触れさせないようにしているなどといった噂を信じる者までいるらしい)と思っているのかもしれないが、近くで彼らの様子を見ている者たちの誰もが知っている。

 このアドリアナ王国の最上位にある、大変に見目麗しい一組の兄妹は昔から犬猿の仲であるということを。


 硬い靴音を響かせ、長い廊下を曲がろうとしたジョセフは小さな影とぶつかりそうになった。

「も、申し訳ございませんっ……!」

 慌てて身を引いた小さな影の主は、飛びあがらんばかりに驚き、ジョセフに向かって、深々と頭を下げた。


 サマンサ・アンジェラ・ベル。

 野に咲く花を思わせるような、まだ14才の侍女。

 この日より数か月後の夏の日に、マリアが手に入れた妖しげな魔法薬で顔半分に大やけどを負わされてしまうこととなる彼女。この時のサマンサは、まだみずみずしくなめらかな両頬をポッと赤く染め、ジョセフに非礼を詫びた。


「サマンサ……マリアを見なかったか?」

 ジョセフのその声にサマンサは、赤く染まった頬のまま、目をわずかに潤ませ、ジョセフを見上げた。

 彼女がこのような表情をしているのは、単に王子殿下にぶつかりそうになったという理由だけではないだろう。彼女の潤んだ両の瞳――この数か月後に片方の瞳は白っぽい眼球であったものに変わってしまう瞳には、憧れに近い恋心が含まれていた。


「あ、あ、あの……先ほど、お見かけ……いたしました」

 サマンサはしどろもどろになって、ジョセフに答えた。

「あいつはどこにいる?」

「いえ、その……兵士の1人とともに……」

 今にも消え入りそうな声でジョセフに答えようとするサマンサの頬は、さらに赤く熱く染まっていく……

 彼女のその様子を見たジョセフは、即座に理解した。


 サマンサはマリアが今、”誰と何をしているのか”を知っている。だが、”いつものこととはいえ”それを直接口にして王子に伝えるのは憚られるのだろうと。


 こんなに日が高いうちから――

 いや、それよりも、あれほど残虐な人殺しを行っておきながら――


 サマンサより、マリアがいるらしい部屋を聞いたジョセフは、さらに荒々しい靴音を立てて、ある部屋へと一直線に向かった。

 マリアが、1人の若い兵士の腕に甘えてしなだれかかり、自身の絶世の美貌に抗うことなどできない彼を連れ込んだ部屋へと――


「マリア!!」

 鍵のかかっていないその部屋の扉は、いとも簡単に、そしてジョセフの怒りに呼応するようにバァン! と激しい音を立てて開いた。


 開いた扉の先にいた者たち――

 それは、やはり一糸まとわぬ姿のまま、寝台の上でまぐわっているマリアと若い兵士であった。

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