ー7ー 過去より絡み合う糸(2)

――こ、この人……アンバーさんの……

 床に倒れ込んだままのレイナは、老人とは思えぬほど機敏な動きで自分に――いや、”マリア王女”に掴みかかってきたこの老人がアンバーの父親であることを即座に理解した。

 カールとダリオがこの場にいなければ、間違いなくアンバーの父親の両手は”自分”のこの華奢な首にかかり、骨をも砕かん勢いで締め上げられていただろう。


 アンバーの年齢から推測すると、この父親はそれほどの高齢であるはずはないのだが、アーロン・リー・オスティーンは、レイナの目にはアダムとほぼ同年代に見えた。

 水気がなくなってしまったカサカサとした頬はゲッソリと削げ、目の下には濃い灰色のごとき隈が刻みこまれていた。だが、アンバーと同じ色をした茶色の瞳には、何人にも消すことができない憎悪の炎が”自分”を射抜ぬかんばかりに――


「レイナ! 部屋に戻っていろ!」

 もがくアーロンをダリオとともに押さえつけているカールが叫んだ。

「で、でも……っ……」

「いいから、早く!」

 ダリオが目で”ここは俺たちに任せろ”と合図をした。 

 

 慌ててスカートの裾を掴んで立ち上がり、ジェニーが待っている部屋へと向かって駆け出したレイナであったが……

 自分が廊下をこうして走っているという感覚が感じられないほど、足は震え、視界はぐらついていた。後ろを振り返ることなんて、到底できなかった。

 それは、アンバーの父親に対しての恐怖のためだけではない。


 この城内にて、再度、”殺意”が襲い掛かってきた。その”殺意”は、侍女・サマンサの時と同様、またしてもマリア王女に対してのものであった。

 あの老人・アンバーの父親は、アンバーと同様、この城に仕える魔導士であると聞いていた。彼自身も、今のマリア王女の肉体の中にある魂がマリア王女でないことは分かっているはずだ。あのアリスの町の山の麓においての戦いの直前、この城から薬を転送するなどしてくれていたのだから。

 だが、誰が自分の子供を殺されて、加害者を憎いと思わない親がいるだろうか。自分の娘を殺した人間が(マリアがアンバーを刺したとき、マリアの魂はオーガストが作った人形の中にあったが)平然と息をして、歩いているのを見て平気な親がいるだろうか。

 あのアンバーの父親の手には刃物などは握られていなかった。それに、魔導士特有の気を使って攻撃をしようとしてきたのでもない。

 偶然にこの廊下で加害者に鉢合せ、湧き上がった殺意が押さえられず、衝動的に掴みかかってきたのだろうと…… 

 

――ごめんなさい。ごめんなさい……

 長い廊下の曲がり角を曲がったレイナは、倒れ込むように冷たく固い床に膝を突き、ボロボロとこぼれ落ちる涙をぬぐい、嗚咽した。 



 カールとダリオに押さえつけたアーロン・リー・オスティーンは、全身を震わせ、荒い息を吐き出し続けていた。

 怒声や罵声などは、彼の口からは発せられなかった。

 ”レイナ”の姿が長い廊下の曲がり角に消えたのを見たアーロンは、両肩を二、三度上下させ、観念したようにガックリと首を垂れた。

 やがて――

「……ウッズ……レイク……すまなかった……」

 アーロンの口から発せられたその声は、今にも消え入りそうなものであった。

 アーロンのやや薄い唇(アンバーのやや薄く形が良かった唇はこの父親からの遺伝なのだろう)をわななかせ、自身を落ち着かせるように大きな息を吐き出した。


「分かっておる……分かっておるよ……」

 アーロンが苦し気に吐き出したその言葉は、アーロンが自分自身に言い聞かせた言葉であるのか、慌てて自身を止めた自分たち2人に対する言葉であるのか、それともアポストルとなった娘・アンバーへの言葉であるのか、カールとダリオには分からなかった。


 カールとダリオは、同時にアーロンを押さえつけていたその手をそっと離した。

 レイナにこの城内にいる間は、必要な時以外は部屋から極力出ないようにと伝えていた。必要な時は自分たちがこうして護衛するようにもしていた。それは、マリアを恐れ続けている王妃、マリアの誘惑の毒牙にかかった男たち、そして”マリアを殺したいほど憎んでいる者”から遠ざけることでもあった。


 アーロンの瞳からあふれ出た涙が、彼のかさついた頬をつたった。それはポタリと滴り落ち、彼の黒衣へと染み込んでいった。

 アーロンは声をあげることなく、歯を食いしばり、静かに幾筋もの涙を流し……


 カールも、ダリオも思う。

 アーロンもたった1人の娘を殺したマリア王女の肉体の中にある魂が、異世界から誘われた少女のものであり、その少女自身には何の罪もないことは痛いほどに理解しているはずだ。それに、マリア王女がアンバーを刺し殺した時、マリア王女の魂はオーガストが作った人形の中にあったことも……


 オスティーン家が先祖代々使えていたこの王国の王族にアンバーは殺された。それにも関わらず、アーロンは国王ルーカス・エドワルドに対する忠誠心により、この城に残ることを選択していた。

 今日というこの日、この場でこうした騒ぎをアーロンが起こしたことは、彼自身の思いや生きざま、そして長きに渡る忠誠の歴史を粉々にしてしまうことであった。

 仮に、マリア王女の中身がマリア王女のままであったとしたら、アーロンはこの場で即座に首を刎ねられていたとしてもおかしくはない。どんな性質の王女であるにしろ、国王の娘であることは変わりないのだから。

 

 まだ10才の少年であったカールとダリオがこの城の門をくぐり、魔導士としての道を一歩踏み出した時より、アーロン・リー・オスティーンはこのアドリアナ王国に仕える魔導士として、物静かでありながら年長者らしく毅然としたその背中を自分たちに見せていた。

 同じく城内には、彼の娘――魔導士としての修行を積み重ね始めていたアンバーがいたものの、彼は公私のけじめはしっかりとつけ、娘に対する態度は自分たちに対する態度と何ら変わりはないように思えた。

 だが、自分たちの知らないところでアーロンとアンバーの間に紡がれていた父娘の物語がある。

 本来、自分より先に死ぬはずがなかった娘が先に逝ってしまった今、彼は二度と新たな頁が綴られることのない娘との物語を、その命尽きるまで何度も何度も繰り返し、胸に抱きしめ続けるしか、もうできない……



 夜。

 首都シャノンの城の一角にて――

 夜空に高く昇り、煌々と輝いている青い満月が、フレディのその横顔を照らし出していた。

 彼は他の者たちに比べると、特に一際彫りが深くて、濃い顔立ちをしているヴィンセントなどと比べると、ややあっさりとした目鼻立ちをしているも、やはり鼻筋はすっと通っており、鼻の形もなかなかに良いものであった。

 吸い込まれるほどに深い彼のグレーの瞳には、バルコニーから見下ろす首都シャノンの夜の華やいだ灯りが映っていた。もう数時間もすれば、その灯りの元にいる人々も眠りにつき、首都シャノンにも漆黒のカーテンが下ろされるであろう。


 深呼吸をしたフレディは、そっと腰に挿していた小さなナイフを取り出す。ナイフの刃が、青き満月の下でキラリと光った。

 フレディは左腕をまくり、引き締まった小麦色の腕を満月にさらした。

「……」

 彼は、表情一つ変えることなく、自身のその腕にナイフをグッと勢いよく刺した――


 普通の人間ならこのようなことをしたら、鋭い痛みが走るとともに、赤い血がドッと溢れ出るだろう。

 だが、彼には何も起こらなかったのだ。今、彼は何の痛みも感じてはいない。

 その痛みに付随する赤い血を流してもおらず、それどころかナイフを抜くと、本来なら傷口となるその部分はスッと閉じていった。

「……やっぱりか……」

 フレディが息を吐き出し、呟いた。


 生者でもなく、死者でもない状態で蘇生してしまった自分。

 その言葉通り、普通の生者でもなければ、普通の死者でもなくなってしまっているのだ。アダムも、そしてカールもダリオも、この城にある豊富な文献なるものをいろいろと調べているが、この自分のような例は全くなく頭を抱えているとのことであった。アダムは1つの仮説なるものを導き出したようであったが、それが正しいものなのかどうかは今の段階ではまだ分からない。

 食事や排泄には問題がない。体を動かすと疲労も感じるし、勃起もするし、夜になるとこうしてわずかな眠気だって襲ってきている。

 けれども、こうして自分の肉体を傷つけても血が流れることはない。

 これは何人にも傷つけられない”無敵人間”となってしまったということではないはずだ。おそらく、今の自分のこの肉体は――


 その時、フレディのいるバルコニーを風が吹き抜けていった。

 やわらかな春の風が、自分の肌を優しく撫でたことを”感じようとした”フレディは瞳を閉じた。

 目下に広がっている首都シャノンの光景を心へと――そう、魂へと焼き付けるために。


 フレディはゆっくりと目を明けた。彼のその瞳と髪と同じ色をした睫毛が瞬いた。

 青き月に照らされた愛する王国の情景を見ながら、彼の胸は切なく痛んだ。

 本来なら”恐怖”をはらむ、その痛みであったが、不思議と彼の心は落ち着いていた。まるで穏やかな波のように……

 

 アドリアナ王国、そして闇へと消えた他の国を救うために、明日、この城を発ち、海へと繰り出す。

 約200年前、自分の隣にいた6人の仲間の無念と心残りを引き継ぎ、今、ここにいる。2番目の6人の仲間たちも側にいる。”本来なら”自分と出会うはずなどなかった2番目の仲間たち……

 これからこの肉体がどうなるのかは分からないが、今は自身の魂に従い、この肉体を保てるまで生きるのだと――



「フレディ、どうしたんだ?」

 彼の後方からかけられたその声は、彼が得た2番目の仲間たちのうちの1人――ルークからのものであった。

 ”明日は出発だから早く寝る”と、枕を手に一番最初にベッドへと向かったルークであったが、やはり緊張で寝付けなかったのだろう。

 だが、さっきまで、ベッドの中でゴロゴロとしていたのか、ルークの柔らかそうなくすんだ金髪のあちこちに寝癖がつき、寝間着の上着の胸元ははだけていた。


 ”やんちゃ”という形容詞を使うにはルークはやや成長し過ぎてはいた。だが、ルークのやんちゃで利かん気が強そうで、でも裏表がなく、どこか放っておけない”弟”を思わせるその様子に、フレディは同性ながら彼に可愛さなるものを感じ、思わずフッと笑みを漏らしてしまっていた。

「……もう少し、この光景を味わっておきたかっただけだ。もしかしたら、俺がこうして、首都シャノンの夜を見るのは最後になるかもしれないからな……」


 フレディの言葉を聞いたルークの顔が途端にグッとこわばる。

「……フレディ……お前、まさか、あのキモ魔導士の言ったことを信じてんのか?! あいつは、単に俺らで遊んでいるだけだ! あんな奴の言葉なんかに、引っ張られるなよ!」

 ルークは、フレディがあの不気味な魔導士・フランシスから聞かされた予言なるものを信じ、それに不安、いや恐怖を抱いていると思ったらしい。

 

 だが、先ほどフレディが感じた”恐怖”をはらむ胸の痛みは、フランシスの言葉によるものではなかった。

 一度、確かに死んだ彼は、いずれ近いうちに迎えるであろう2度目の死という運命を感じたのだ。その運命を受け入れ、辿り着いた先には、先にアダムに助けだされた6人の仲間たちが自分を待っているかもしれないとも……

 それをルークに説明しようかとフレディは思ったが、口下手であり、自分の今の思いを誤解なくルークに伝える自信も持てなかったため、ただ黙ってルークに頷いただけであった。


 フレディのその様子を見たルークは思う。

 フレディは一度、死んでいる。

 そして、死者でも生者でもない状態で、今、自分の前にいる。フレディは不安なのだろう。これからの自分がどうなるのか、と。


「フレディ……お前は今、ここにいるんだ。こうして、確かにここにいる。だから…………」

「……そうだな」

 フレディと同じく口下手であり、うまく言葉を続けることができなくなったルークに、フレディはフッと微笑みを返した。

 言葉少なであっても、ルークの優しさをフレディはしっかりとその胸に感じることができたのだから。

 

 その時――

 ルークとフレディは、背後からの足音に気づき、振り向いた。

 寝間着姿のディランとトレヴァーであった。この2人の仲間もルークと同じく、本来ならフレディと出会うはずがなかった者たちであった。


 ルーク、ディラン、トレヴァー、フレディの4人は、同じ部屋で寝泊まりをしていた。

 ディランとトレヴァーはふと目を覚ました時、自分たちがいなかったため、こうしてバルコニーにやってきたのだろう。

 いや、彼らもなかなか寝付けなかったに違いない。


「……いい風だな」

 トレヴァーが目を細めた。

「ほんと……それに、こんな高いところからは、首都シャノンの端までも見えるんだね」

 ディランの栗色の髪が風にそよいだ。

 ディランの瞳にも、トレヴァーの瞳にも、バルコニーから見下ろす首都シャノンの夜の華やいだ灯りが映っていた。


「いよいよ、明日にはこの城を発つんだね」

 ディランが言う。

「……最後の夜かと思うと、やっぱ、緊張で手も足も固くなっちまって、なかなか眠れねえよな」

 ルークがこわばった手の指をほぐすように、両手をブラブラとさせた。

「本当に……ここ数か月……いろんなことがあったね。トレヴァーにも出会って、フレディにも出会って……そして、異世界から来た女の子にも……」


 彼ら4人とも、自分たちが暮らすこの世界、そしてあの伝説の神人が暮らす世界でもなく、また別の異世界の存在を知った。

 このアドリアナ王国の最大のタブー(マリア王女の性質)が要因となり、その異世界から誘われた少女の魂。少女・レイナもまた、自分たちの旅に同行することを自ら申し出た。

 頼りなげで、やや気弱そうな気がしないでもないが、きっと彼女も自身の魂の声に従い、決断を下したのだろう。彼女のその決断には、志半ばでアポストルとなった女性魔導士・アンバーの存在も大きかったに違いない。


 そして、その女性魔導士アンバーの父親が、レイナに掴みかかってきたことはルークたちの耳にも入っていた。間一髪、カールとダリオが助けたため、レイナには怪我がなかったらしいが……


「アンバーさんのお父さんの件は、レイナのせいじゃないけど、責任を感じているんだろうね」

 ディランが言う。

「そのレイナのことだが、異世界にあった元の肉体はもうすでに滅んでいるみたいだし……あの子が”マリア王女”の姿で生き続ける限り、本物のマリア王女が過去にしでかしたことが襲い掛かってくることも、これから先に絶対ないとは言えないだろう……何とか、俺たちで守ってやらなきゃな……」

 トレヴァーが額を押さえた。

 そういえば、彼はデメトラの町でマリアがしでかしたことを知っているらしかった。マリア王女がその過去に犯した罪の1つをトレヴァーは知っている。というより、目撃したのだ。


「……マリア王女に恨みを持つ奴はどんだけいるんだろうな。でも、俺らだって事情を知らされてなきゃ、マリア王女はマリア王女にしか見えないし。外の肉体と魂の持ち主が別々だって、ビフォアフターを見なきゃなかなか信じられない話だけど、レイナはレイナだ」

 ルークが言う。

 同じ世界に生まれ、同じ時代(フレディの場合は異なってはいるが)に生を受けたことを、神に感謝せんばかりなほどに美しいマリア・エリザベス王女。その心の中は地獄色であった彼女の肉体にいるのは、異世界から来た少女のなんとも無垢な感じがする少女なのだ。


「レイナか……まあ、平和な世界で愛されて育ってきたんだろうな。純粋であまりスレていなさそうだ」

 フレディの言葉に、ルーク、ディラン、トレヴァーも頷いた。


「さて……やっぱ、もう一度寝ようかとも思うけどよ。やっぱり、寝付けそうにないな。ヴィンセントとダニエルはもうとっくにベッドに入っているだろうけど、じいさんはアンバーさんのお父さんと話し込んでるらしいぜ」

 ルークの言葉に、ディランも「そうだね」と頷く。


 ダニエルとヴィンセントは、自分たちの部屋の約半分ほどの広さの2人部屋に泊まっており、それぞれ昔話やこれからの未来のことを話しつつ、そろそろ眠りの扉を叩き始めた頃だろう。

 だが、アダムは自分と同じく魔導士であるアンバーの父親・アーロン・リー・オスティーンの父親と、この城で過ごす最後の夜となる今宵、部屋で話し込んでいるらしかった。


 アーロンがレイナに襲い掛かったことは、当然、ジョセフの耳にも入っていた。

 だが、当のレイナがアーロンをかばい、アーロンも心からの謝罪を行った。そして、その場にいたカールとダリオも、双方の気持ちが痛いほどに理解できたに違いなかった。

 アーロンの長年の忠誠とこの王国への貢献も考慮され、不問に付されることとなったのだ。


 そして、ルークたちも驚くことにアダムとアーロンには、以前に――といっても何十年も昔のことだか面識があったらしかった。

 アダムとアーロンの年は15才離れている。

 首都より遠く離れた地方で暮らしていたアダムが、10代後半から30代前半にかけての頃、この城直属の魔導士たちが数回、彼をスカウトしにやってきた。

 だが、アダムは地方に住む者たちのためにこの生まれ持った力を生かしたいと、城直属の魔導士となることを断った。最後にやってきた城からのスカウト団のなかに、まだ少年ともいえるアーロンがいたのだ。


 それから数十年の時がたち、アダムの肌にも、アーロンの肌にもそれぞれ老いと皺が刻まれていった……

 アダムの胡桃色の髪はそれほど白くはなってはいなかったが、その頭頂部は薄くなっていた。対するアーロンは、髪の量はまだたっぷりと残っていたが、その大半はすでに白へと色を変えていた。


 アダムは自分の歩んできた人生について、ルークたちに詳しく話をすることはなかったが、今、存命中の彼の家族は孫娘のジェニーただ1人である。

 子がいないのに、孫がいるはずがない。ルーク、ディラン、トレヴァーの3人は、今は無きアダムとジェニーの家へと向かう時に、彼らの他の家族たちは全員事故で死亡したとジェニーから聞いてもいた。


 生まれた年も、生まれた場所も違えど、魔導士としての力を持ち、同じ時代に生を受けたアダム・ポール・タウンゼントとアーロン・リー・オスティーン。

 そして、互いに年をとった彼ら。

 1人の娘は魔導士の力を持っていたが故に亡くなり、そしてもう1人の娘は魔導士の力を持たなかったが故に亡くなってしまっていた。

 彼らは今、それぞれの人生のなかで紡がれてきた物語、善きこともあれば悲しき別れもあったその物語に、熱く渋い茶を傾けているのだ。



 再び夜風が吹き抜け、ルークの前髪を揺らした。

「……思うんだけどよ、俺らって皆、家族との縁が薄いよな」

「薄いというか、俺とお前にいたっては皆無じゃないか……」

 物心ついた頃から身内と言える者が誰一人としておらず、似たような境遇にあった同年代の子供のうち、ルークとディランはとりわけ気が合い、兄弟同然に育つこととなり、今もこうして隣に立ち、同じ光景を眺めている。

「でも、この広いアドリアナ王国のどこかに俺らと血を同じくする者たちがいると考えると、不思議な気持ちになるな」

 広く頑強な両肩をしたトレヴァーが、バルコニーから身を乗り出した。

「……何百年、いや何千年という時の流れのなかで受け継がれてきた血か……」とフレディも、トレヴァーと同じく、バルコニーから身を乗り出した。


 広大なアドリアナ王国。

 自分たちが今いる、この場所からは海などは見ることができず、どこまでも陸地が続いてるようにも思わずにはいられなかった。

 それぞれ心当たりはそこそこあるものの、彼らが”知る限り”、自分たちには子供などはいない。

 だが、この広大な王国のどこかに、自分たちの親や兄弟(単に血のつながりがあるだけではあるが)がいて、自分たちにまで生を紡いでくれた先祖もいたはずなのだ。

 いや、ひょっとしたらアドリアナ王国だけでなく、他の国――エマヌエーレ国やもしくは闇へと消えたユーフェミア国にも、自分たちと血を同じくする先祖がいたのかもしれない。


「……しかし、ゲイブの奴、あれからさっぱり現れやしねえ」

「あの子には酷なことだけど、今の状況を詳しく話してくれるだけで、こちらも何か対策がとれるかもしれないだけど……」

 ルークとディランに、トレヴァーとフレディが頷き、同意の意を示した。

 ゲイブの愛くるしい黄金色の瞳からポロポロと流れていた涙は、彼らの胸を痛ませないはずがなかった。


 ゲイブは家族の元で育ち、その家族とともに暮らす国が闇へと包まれてしまったのだ。

 ゲイブのあの様子を見る限り、彼は自分たちとは違い、血のつながった両親のもとで可愛がられ、また大好きなお姉ちゃんたちと暮らしていたのだろう。

 彼の家族はどうなったのか。いや、それにユーフェミア国がどのような状況となっているのか。

 ルークたちは彼にいろいろ聞きたかった。

 ユーフェミア国が闇へと消えたのは、ルークたちは59年前――あと数か月もすれば60年前になるが――と認識しているが、あのゲイブの様子を見る限り、そうとは思えなかった。

 時間軸の狂い。

 現時点では、あまりにも謎が多すぎる。

 ディランの言う通り、”今の”ユーフェミア国の状況が詳しく分からないと、アドリアナ王国側でできることが限られてくる。

 ユーフェミア国を救うには、武力がより必要となるのか、それとも魔力がより必要となるのかということも判断できないのだ。


「明日、俺たちはこの城を出発して、数日後には港に着く。そこから船に乗ってユーフェミア国、いやまずはエマヌエーレ国へと向かうけど……この城からは魔導士2人が一緒に出発し、エマヌエーレ国に着いた時に、エマヌエーレ国の魔導士団と合流することになっているんだよな」と、トレヴァー。


「やっぱり、カールさんやダリオさんじゃなくて、他の魔導士が合流することになったのか……」

 ルークが言う。

 年も近く、話もしやすく、アポストルからの3回にわたる啓示の場に全て居合わせたカールとダリオは、この城で自分たちの帰りをジョセフ王子とともに待つこととなった。やはり、この城内には自分たちよりも遥かに身分が高い国王、王妃、王子がいるのだから。


 ルークたちに同行する魔導士の選定は、ギリギリまで行われていたらしく、ルークたちはまだその魔導士2人と挨拶すら、交わしていなかった。おそらく、明日の朝に直接顔を合わすことになるのだろう。

 ただ、ルークたちが聞かされた2人の魔導士の名前から推測すると、男性と女性の魔導士が1人ずつであるらしい。


「エマヌエーレ国に辿り着くまでに、海賊に襲撃される危険性もあるって。だから、この城から同行する兵士の数の方を増やしてくれたんだろうね」

 ディランが言う。

 あの魔導士フランシスが、自分たちに直接の危害を加える可能性は低い。むしろ、彼は海と空という場所の違いはあれど、同じユーフェミア国に向けて、船を進めていくことを楽しんでもいるようであった。

 だが、あの少年魔導士ネイサンや、武闘派のローズマリーは、例外かもしれない。

 ネイサンには、アダムとこの城からの2人の魔導士が応戦するとして、あのローズマリーには自分たちが相手になるしかないだろう。いや、できる限り女に暴力などは振るいたくはないが……

 だが、そのローズマリーだけでなく、これからの自分たちの道には第三者の介入――いや、襲撃がある可能性もあるのだ。

 その1つが先ほどのディランの話にあった”海賊”である。


「やはり……200年たっても、海賊という存在そのものはなくなってはいないんだな」とフレディが呟く。

 彼が生きていた200年前にも、海賊なるものはいた。その頃は、アドリアナ王国内でも内乱が起き、そして他国から侵略もあったため、今以上の治安の悪さの中、猛威を振るっていた海賊たちは振るっていたのだろう。

「今、確認できてる海賊団は30ぐらいらしい。その中でもいろいろ暗黙の序列があるようだが、俺が前に旅人から聞いて、ここ数年、最も恐れられているのは”ペイン海賊団”なるものらしい……」と、トレヴァー。


「ペイン海賊団?」

 ルークたちの疑問に答えるように、トレヴァーが重々しく口を開いた。

「数年前に結成された海賊団らしいが、仁義も容赦も何もないと……奴らに目をつけられた船は一貫の終わりだそうだ。金品の強奪はもちろんのこと、男なら証言などできやしない赤ん坊までも皆殺し。そして、女は1人残らずさらい、自分たちの船で弄んだあと、”売れなくなった”女はその場で海へと投げ入れ、”売ることができる”女は裏娼館へと高値で売りつける……」

 トレヴァーは、”こんな話したくなかった”というように口を濁した。

 この世の地獄に等しいその話を聞いていたルーク、ディラン、フレディの表情にも、翳りが見えた。


「……そのペイン海賊団は大人数というわけではなく、むしろ他の海賊団に比べると人数に関しては中堅どころだ。だが、その海賊団を束ねているのはマイルズという名の中年の毛深くて大酒飲みの大男で……そのマイルズのすぐ下には親子ほど年が離れた若い3人の男がいて、その男たちの中で特に有名なのがアトキンスって奴で年は20かそこらからしいけど、マイルズの”一番の”右腕だと」

 今のトレヴァーの一連の話を聞いたルークとディランは「!」と顔を見合わせた。


「どうかしたか?」と問うトレヴァーに、ディランが口を開いた。

「いや、その、”マイルズ”や”アトキンス”ってファミリーネームに聞き覚えがあって……」

「俺らが昔、レンガ積みの仕事をしていた時の酒好きの親方が”マイルズ”で、一緒に働いてた、いけ好かないヤローが”アトキンス”って言ったんだ」

 ルークが言う。


 今より数年前、自分たちがこの肉体1つ頼りに、レンガ積みの仕事をしていた時、自分たちに怒声と拳骨を容赦なくくらわせた親方と、一緒に働く3才年上の同僚ではあったものの、このトレヴァーのように到底慕うことなどできなかった少年のことを思い出したのだ。


「でもよ……きっと、単なる偶然だ。どちらもそんなに珍しい名前じゃないし……それにあの親方、気は荒くてすっげえおっかなかったし、酒ガブガブ飲んでたし、確かに腕の毛とか濃かったけど、そんな極悪非道な海賊なんかになるとは思えねえな。もう、結構いい年だと思うし、今まで真面目に生きてたのに今さら海賊なんかにはならないだろ……」

「同感。それにアトキンスだって、”楽して暮らしてえ”や”給料ちょっと貸せよ、すぐ返すからさ(嘘だけど)”が口癖のずる賢い奴だったけど、捕えられたら弁解の余地もなく、死刑間違いなしなほどの海賊になるとは思えないね」

 顔を見合わせ、頷きあったルークとディラン。

 彼らはともに信じようとしたのだ。

 身寄りのない子供たちを集めて、その日暮らしとはいえ、飯と眠る場所を得る機会を与えてくれた1人の大人の広い背中と、気は合わなかったにしろ、寝食をともにしていた1人の少年の横顔を――


 しばしの沈黙の後、またしても風が吹き抜けた。

 その風の心地よさに目を細めた彼らは、いや、ルークとディランは、思いもよらなかった。

 先ほどの話に出てきた世間を脅かしている”ペイン海賊団”の2人の男は、やはり彼らと旧知の仲である人物であるということを。これから先の旅路において、変わってしまったかつての親方と”同僚たち”に再会するということを。



 同時刻、このアドリアナ王国、首都シャノンの広大な城の遥か上空に浮かぶ神人の船において――

「ほら、ネイサン。好き嫌いせずに食え」

 ローズマリーがネイサンの口元に、スプーンに山盛りの野菜炒めをズイッと突き付けていた。

「やだよ、俺、野菜嫌いだもん。それに、何だよ、お前は俺の母さんかよ……」

 ネイサンが顔をそむけた。

「好き嫌いせずに食べなさい。成長期なんだから。ローズマリーの手料理は、とても美味しいわよ」

 ヘレンはローズマリーが作った食事を、その小さくて愛らしい唇へと静かに運んでいた。


 神人の船にて、ヘレン、ネイサン、ローズマリーはテーブルを囲んでいた。彼らの間には血のつながりは皆無であるが、家族の団欒を思わせた。悪しき者たちとは思えない、ほのぼのとした光景である。


 ふと、彼女たちはこの部屋に向けての足音に気づき、緊張が走る。

 フランシスが戻ってきたのだ。

「おや……これは美味しそうな匂いですね。魔術で火を起こしてくれというから、何に使うのかと思いきや、こうして素晴らしい手料理を作っていたとは……」

 フランシスが優雅に、そして上品な立ち振る舞いで、夕餉の匂いに満ちたこの部屋へと足を踏み入れてきた。

「思ったよりも早かったな。お前の分もそこに取ってあるから食べろよ」

 ローズマリーの言葉に、フランシスは穏やかな笑みを浮かべ、「行儀は悪いですけど、立ったまま一口いただくことといたします」と、先ほどネイサンが拒絶の意を示していた野菜炒めを口へと運んだ。

「ほう、これは……絶品でございますね。なんと、素晴らしい。あなたは、その武力だけでなく、料理の腕もピカイチでございますね」

 こうもフランシスにストレートに褒められ、ローズマリーはそのまるまるとした頬を赤く染めた。

「いや、単に孤児院で年下のガキどもの飯を作らされてただけだ。そんなに大したことねえよ」


 ローズマリーは同じ船に乗るこの仲間たちに、自分の詳細な過去については話してはいなかったが、今の言葉でローズマリーもまた家族の縁に恵まれず、己の身一つで生きてきたのだとネイサンにもヘレンにも推測できた。

 だが、この彼女が孤児院を飛び出したのち、紆余曲折を経て、フランシスに拾われ、いや、自らフランシスの手を取る選択をしたことは彼女の人生でよりよいことであるのか、それとも……


 

 ネイサンのツンと尖った鼻をローズマリーがギュっとつまんだ。息苦しさに口をあけた時、ローズマリーがその機を逃すことなく、野菜炒めを放り込んだ。

 壮絶に顔をしかめたネイサンは、口をモゴモゴとさせたまま、フランシスに問う。

「……サミュエルはんとホーガストは? 一緒じゃないんでふか?」

 連れだってこの船から下りた3人のうち、こうして戻ってきたのはフランシスだけである。ということは、サミュエルとオーガストは今は地上で行動をともにしているということか。


「サミュエルとオーガストは、地上にてあの”希望の光を運ぶ者たち”の後をこっそりと付けて行く予定です。このまま、出港前に彼らは港町の宿で宿泊するでしょう。海のご機嫌が良くなければ、出港できませんからね。その宿泊施設で、サミュエルはあのアダム・ポール・タウンゼントと数十年ぶりに感動的な再会をしたいと……」

「!」

 サミュエル・メイナード・ヘルキャットとアダム・ポール・タウンゼント。

 どちらも抜きん出た魔力を誇っていたものの、1人は民の間にその存在を隠し、もう1人は罪を犯し、その存在をくらませていた魔導士がついに――


「……いやはや、”感動的な”再会とは、私が勝手にそう称しただけでございますけどね。サミュエルは意地を張りながらも、タウンゼントのことがやはり気になっていたのでしょうね。あんなに甘やかな顔立ちをしているのに、意地っ張りな男でございますから……それに、”希望の光を運ぶ者たち”に対しては、今までサミュエルの存在を匂わせていただけですので、ついに直接の登場となることに、誠にお待たせいたしました、とお伝えしたいほどですね」

 フランシスは、その形のいい唇からフッと息を漏らした。


「そこに私も行っちゃ駄目か? いつまでもこんなところにいたら、体がなまっちまうよ」

 そのローズマリーに同調するように、「俺も行きたいんですけど……」とネイサン。

 好戦的な2人の側で、ヘレンは無言のまま、”私はどうでもいいわ”といいたげに食事を口へと運んでいた。


「あのさあ……私がいくら体を鍛えても、機を与えてもらえなきゃ、何にもならねえよ。ここに来る前だってそうだ! 兵に志願していろんなところに行ったけど、女だってだけで門前払いだったんだぞ!!」

「そうだ! ローズマリーの言う通りです! そもそも、何で今回、サミュエルさんと一緒に行くのがオーガストなんですか?! あいつ、何もできなくないですか!!」


「2人とも落ち着きなさいよ」と、段々と興奮してきたローズマリーとネイサンを、ヘレンがたしなめた。

 フランシスは血気盛んな”若者たち”を見て、コホンと軽く咳払いをした。

「今回……オーガストを選んだのは、これから”一時的に”私たちと手を組む1人の若い男が陸地で引き起こす嵐に、マリア王女が関係しているからなのです」

「?」

 自分たちに新たな仲間が加わったということか。

 でも、今、フランシスは”一時的に”という言葉を使った。フランシスは疑問を口にしたげな一同を見回して、続けた。

「……いやはや、単にあの生首王女に恨みを持つ1人の男と話をつけただけですよ。彼は私たちのユーフェミア国に関する計画などはどうでもよくて、単に自身の手でマリア王女の息の根を止めたいだけなのです。デメトラの町にて、大切なものを全てマリア王女に奪われた彼は、今にもマリア王女を焼き殺しかねないぐらいの勢いでございましたよ」

 フランシスがククッと笑った。


「でも……フランシス、今の”マリア王女”本体の中にいる魂は別人だし、それにそもそもマリア王女が殺され、いや彼女の肉体に傷1つでもつけられる危険があることに、オーガストが黙って同行するなんて……」

 そのヘレンの最もな意見に、ネイサンもローズマリーも顔を見合わせた。

 オーガストのマリアに対する狂信的な愛と忠誠は、この神人の船に乗る誰もが知っている。


 フランシスはヘレンたちの視線を受け、またしてもククッと喉を鳴らし、口元を歪ませた。

「それが今回引き起こされる嵐の面白さでございますよ。全てを知っているのは、サミュエルだた1人であるというね……」

 ヘレンとネイサンはフランシスの言わんとしていることを察したらしい。だが、ローズマリーは「は?」と訝し気にフランシスの顔を見た。


「つまりはこういうことでございますよ。マリア王女に恨みを持つ男――彼の名はティモシー・ロバート・ワイズというのですが、ティモシーには今回のメインディッシュは彼自身のマリア王女への復讐、いや処刑であり、サミュエルたちはその手伝いをすることとなっております。オーガストには、今回のメインディッシュは希望の光を運ぶ者たちへの襲撃であると伝え、ティモシーがマリア王女の息の根を止めようとしていることは伝えていない……そして、サミュエルは、ぶつかり合う2つの風が引き起こす嵐がどのように模様を変えるのか、ゆっくりと見物しながらタウンゼントとの再会を果たすといった具合でございます」


「悪趣味……」とヘレンが呟く。

「いやはや、本当に悪趣味ではございますね。でも、その方が胸躍るでしょう。何の危機も訪れない物語なんて、面白くもなんともないのですから……今回のことも三種三様で計画通りにはいかないとは思いますが、でもどう転ぶか分からないその状況を楽しむのも一興というもの。マリア王女の中の人となった”レイナ”という少女には、誠に気の毒だとは思いますが……これも、マリア王女の肉体にいざなわれた自身の運命だと思って、受け止めていただくしかないことです。マリア王女の過去が紡いだ糸が、からまりあい、殺意となって自身に襲い掛かってくるなんて、本当に嫌すぎますけどね」

 喋り終えたフランシスは、黙ったままの一同をグルリと見渡した。

 ネイサンとローズマリーは、”今回は自分たちは参加できない”ということを渋々ながらに了承したようであるらしい。ヘレンは、いつものごとく無表情のままであった。

 さて、フランシスは”さて、この女性は一体、今、何を思っているんでしょうか?長い付き合いだけど、今だになかなかつかめませんね”と思いつつ、軽いため息をついた。


 こうして――

 それぞれの過去に紡がれていた糸は絡み合い、海へと繰り出さんとしている”希望の光を運ぶ者たち”、そして主役である彼らの傍らにいるレイナにまで襲い掛かってこようとしていた。

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