―5― 求めよ、さらば”現れん”

 何者かがこの部屋に侵入しようとしている――?!

 レイナは蝋燭を手にしたまま、ベッドの上で後ずさった。毛布とシーツがこすれる音。そして、全身の毛穴がぶああっと開き、冷たい汗は瞬く間に吹き出し始め、下腹部も冷たくなっていく……

――何、何なの?!

 レイナの瞳に映る侵入者は、明らかに男の輪郭にかたどられていた。

 旅をともにしていたルーク、ディラン、トレヴァーたちでは絶対になかったし、そもそも彼らがこうして窓から侵入してくる理由なんてない。それに、自分たちの後を付けてきていた、あの青白い頬と漆黒の髪のひょろひょろとした青年の輪郭とも違っていた。

 侵入者は、長身に長い手足、均整のとれた引き締まった肉体をしている、若い男だろう。

「……やっ……ジェニーさん……」

 レイナはベッドから転がり落ちた。

 そして、レイナは気丈にも侵入者に対するせめてもの防御――遅すぎるかもしれない防御ではあるが、この部屋に自分も含めて若い娘が2人もいることを絶対に気取られないように、蝋燭の炎をフッと震え続ける息で消した。

 闇に落ちた部屋の中で、レイナは砕けてしまったかのような腰を立て直し、ジェニーが眠るベッドに向かって懸命に這った。

――……大丈夫……! 灯りは消えてもこの部屋の扉までの距離は覚えている。一刻も早く、ジェニーを連れて、逃げなきゃ……!

 

 侵入者の目的はたった1つであるだろう。

 このマリア王女は絶世の美貌の持ち主であり、ジェニーも可愛らしい。おかしな男にどこかで目をつけられていたのだ。

 声すら出てこなくなったレイナの脳裏に、フランシスに全裸にされて辱められそうになっていたアンバーの姿が蘇ってくる。

 今、窓の向こうより、この部屋に入り込んで来ようとしているのは、男の欲望であった。


「……ジェッ……ジェニーさん、ジェニー」

 かすれきった声を何とか絞り出すことができたレイナは、冷たい汗が噴き出す手で必死にジェニーの華奢な両肩を揺さぶった。

 逃げることのできる扉は、わずかな距離にあるであろう。

 だが、自分1人がその扉の向こうへと逃げてしまったら、この部屋に取り残されたジェニーが一体、どんな目にあうのかを考えると……

「起きて、お願い、起きて……」

 レイナは焦る心でジェニーの両肩を懸命に揺さぶり続けた。

 だが、ジェニーは一度眠りに落ちると、とことん深く眠り続ける体質であるのか、わずかに眉根を寄せ、口元を動かしたように見えたが、その胡桃色の瞳はなかなか開かなかった。

 レイナの中に灯された、絶大な恐怖のボルテージは、徐々に高くなっていき、沸点にまで近づいてきていた。喉はさらにカラカラに乾いていく。


 そのレイナにさらに追い打ちをかけるように、侵入者がついに窓を上へと持ち上げる、ガタンという音が聞こえた。

 喉を大きく鳴らし、レイナは振り返った。

 外の冷気が部屋の中に流れ込んでくる。

 若い男だと思われる侵入者から発せられた、やや暢気にも思える「よいしょっと」という声。

 そして、侵入者は、ついにこの部屋の中へと、足を踏み入れたのだ――


 暴漢の侵入という事態。

 レイナの腰は完全に砕けてしまった。

 だが、規則正しい寝息を立てていたジェニーは、この部屋に流れ込んできた冷気によって目を覚ました。


「……え……何?……レイ……」

 目をこすりながら起き上ったジェニーの胡桃色の瞳にも、侵入者の黒く大きな影が映った――


「!!!!!」


 ジェニーのホラー映画のヒロインばりの大絶叫は、レイナの鼓膜を震わせ、近くの部屋でグーグーと寝息を立てていたルークたちのみならず、同じ宿に泊まる過半数の者を覚醒させた。

 床でへたり込んだままのレイナにも、ドアの向こうからの「何だ、何だ?」「どこの部屋だ?」という声と、廊下をバタバタとかける幾多もの足音が聞こえてきた。

 何よりも甲高い悲鳴をあげ続けるジェニーに、侵入者である若い男は、「え? え?」とうろたえていた。

 悪さをするために少女の部屋に侵入しようとした暴漢であるとは思えぬ、その様子。

 そのうえ――

「おっ……お嬢さん、落ち着いて!」

 喚きながら枕を振り回し続けるジェニーの興奮を静めるためか、侵入者はジェニーへと手を伸ばし、彼女を押さえようとした。だが、それは得体の知れない侵入者が自分に向かってその大きな手を伸ばしてくるというジェニーにとっても、レイナにとっても更なる恐怖を上書きするものであった。

「私は決して怪しい者では……!!!」

 焦る侵入者からは愁いすら感じられる心地よく濃厚なテノールの声が発せられた。

 自分は怪しい者ではないと言う侵入者であったが、その行動は誰がどう見ても怪しいものである。

 

 廊下より、悲鳴の発生源であるこの部屋へと集まってくる幾多の足音――

「レイナ! ジェニー! 何があった!?」

 鍵をかけていた部屋のドアをバアンと蹴破り、勢いよく駆けこんできたのは、ルーク、ディラン、トレヴァーであった。寝間着のまま、剣を手にしている彼らの後ろには、蝋燭を持つ他の宿泊客たちが続いていた。

「大丈夫か?!」

 駆け付けてくれたルークたちの姿に安堵し、レイナもジェニーも抱き合い、その場にペタリとへたりこんでしまった。


 暗闇のなか、侵入者の男が観念したように両手をすっと上にあげた。

 トレヴァーが他の客より受け取った蝋燭を、無抵抗を示す侵入者へとかざした。


 蝋燭の灯りが照らし出した侵入者は、大変に美しい男であった。

 年は20代後半ぐらいか。一種の芸術作品、まるで彫刻のような男の美しさに、皆、息を呑んだ。燃えるような赤い髪、やや切れ長のこげ茶色の瞳。美しいだけではなく、全身より尋常でない男の色気が醸し出されていた。厚手の服を身に着けているも、彼のその肉体も彫刻のように素晴らしく均整がとれていることが予測できた。

 レイナも、ジェニーも、いや、居合わせた男たちですら、侵入者が発する美に惹きつけられていた。まるで、花に吸い寄せられる蜜蜂のように。


 美しき侵入者は、両手をあげたまま、構えるルークたちにすっと向き直った。優雅さすら感じる、その動き。

「……大変、失礼を。この部屋で私を呼ぶ昔馴染がいると思ったもので……ご迷惑をおかけした」

 心地よいテノールを発した侵入者は、至極丁寧に頭を下げた。

 レイナとジェニーだけでなく、剣を構えていたルークたちも面食らった。

 自分たちに向かって頭を下げているこの男は、毅然としており、まるで貴族のような品すら感じられるのだから。

 だが、強盗や強姦魔には見えないし、深々と頭を下げ詫びたものの、この侵入者の行動は誰がどう見ても不審なものではあった。


「まあ……この状況は弁解できないな。役人を呼んでくれて、構わない。私自身の口からきちんと説明をさせてもらう」

 侵入者もそのことは理解しているらしい。

 だが、役人を呼ばれ、拘束され尋問される事態になるかもしれないのに、男は落ち着き払っている。そのうえ、息を吐き出したその唇の動きすら蠱惑的であった。


 と、その時――

 部屋の外に集まっていた宿泊客の1人の女性――妙齢の派手やかな女性が声をあげた。

「ヴィンセント! ヴィンセントじゃない?!」

 うれしそうなその女性の声に、侵入者の彼――”ヴィンセント”も顔をほころばせた。

「……えーと、あなたは確か……メグ? お久しぶりですね。ちょうど、1年ぶりぐらいになりますか? また、このリネットの町に興業に来られていたのですね」

 ヴィンセントは、真珠のように真っ白な歯を見せ、女性・メグに微笑んだ。このメグという女性は、おそらく、旅一座の踊り子か何かなのだとレイナは思った。

「うれしいわ、覚えていてくれたのね」

「素晴らしい女性を忘れることなど、ありませんよ」

 ヴィンセントは、メグにウィンクをした。

 役人を呼ばれそうな状況にあるにも関わらず、久々に再会した女性に対する微笑みを忘れない彼。


 燃えるような赤い髪、彫刻のように整った超美形、均整のとれた長身、目の前で繰り広げられた女性に対する甘やかな態度、そして、何よりも”ヴィンセント”という名前。

 当事者たちであるにも関わらず、まるで外野のような気分になりつつあったレイナたちであったが……”まさか”と思わずにはいられなかった。


  

「あの……もしかして、あなたはヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョーさんじゃ……」

 ディランが問う。ヴィンセントは赤い髪をかきあげ、やや怪訝な顔で答えた。

「……そうだが……私に何か?」


 見つかった。

 もう1人の尋ね人、ヴィンセント・マクシミリアン・スクリムジョー。

 少し――いや、かなり特殊な現れ方であったが、自分たちが望んでいた者が、目の前に現れたのだ。全ては紡がれているらしいとはいえ、都合のいい漫画のような展開ではあった。

 だが、こうして彼に出会えた。この機会を逃すことなどは絶対にできない。


「……ずっとあんたに会いたかった。探していたんだ!」

 ルークがヴィンセントにザッと歩み出た。

 トレヴァーが手に持っている蝋燭の灯りに照らされたルークの顔をヴィンセントはマジマジと見つめた。ヴィンセントは、形のいい唇からフフッと息を吐き出しながら言う。

「人に求められるということはすこぶるうれしいことだ。けれども……私は性愛の面では心も体も女性にしか反応しない。どうしてもっていうなら、このリネットの町の酒場の裏通りに行ってみるといい。そこに集まっている男性諸君の中には、君を満たしてくれる人がいるかもしれないよ?」

 ヴィンセントはルークにウィンクをした。先ほどメグにしたのと同じ色っぽいウィンクを。

「だああっ! 誰もそんな意味で言ったんじゃねえよ!」

 ルークが顔を赤くし、喚いた。ディランが「ルークが紛らわしい言い方するからだよ」とあきれたように言う。

「……スクリムジョーさん、俺たちの話を聞いてもらえませんか?」と、トレヴァー。

「その……俺たちとは……?」

 ヴィンセントの問いに、トレヴァーが、自分たちの顔が彼にさらにしっかりと見えるように蝋燭をかざした。


「それとあと……そっちの……」

 ズイッと部屋に足を踏み入れたトレヴァーが、抱き合ったままの体勢で固まっているレイナとジェニーにも、蝋燭の光をスッとかざした。

「……これはなんと……!!!」

 世間一般の基準から言えば、ジェニーも充分なほどに愛らしい娘であったが、レイナ――いや、マリア王女の美しさに自身も相当な美形であるはずのヴィンセントも言葉を失った。



 日本風にいうとするならヴィンセントの住居侵入に、役人を呼ぶことは勘弁してもらうために、張本人であるヴィンセントとともに、レイナたちも頭を深く下げて、宿泊客たちに詫びた。

 つい先刻まで、静かな眠りについていた宿泊客たちが酒盛りを再開しているだろう賑わいが聞こえてきた。

 まあ、事を荒立てようとする者はいないようであり、ヴィンセントと旧知の仲である女性・メグは少し名残惜しそうにしていたものの、今、この部屋にいるのはレイナも含め、ルークたちと同じ船に乗る者たちだけであった。

 蝋燭に灯りが、皆の顔をぼんやりと照らし出していた。

 ベッドに腰をかけ、今までの一通りの話を聞き終ったヴィンセントは、自身の顎にそっと手をやり、整った濃いめの眉をわずかに潜めた。

「……なるほど、にわかには信じられないが、そこにいる絶世の美女はこの王国のマリア王女であるが、中の魂は異世界から呼び寄せられた15才の少女……彼女の魂を呼び寄せた張本人である女性魔導士は、悪しき者たちとの戦いの最中に命を落とし、この世を守る大きな存在となった。そして……やがて英雄となる君たちにアポストルから託された2回目の手紙に、高名な元・魔導士の名と一緒に私の名も書かれていたと……」


 顎に手をやったまま、ヴィンセントは長い睫毛を伏せて、考えていたようであった。そして、顔を上げ、ゆっくりと自分の周りにいる1人1人の顔をじっと見つめた。

「君たちの瞳を見る限り、嘘を言っているとは思えないし、そもそも私が今宵この部屋の窓から入り込もうとしたのはただの偶然であるから、即興でこんな作り話を示し合わせることなんてできるわけがないからね。だが……私はその人智を超えた存在が持ってきた手紙に名前を書かれる心当たりが全くないのだよ。だが、私はそちらのお嬢さんのお祖父さまのように、魔導士としての力を持って生まれた者ではないし」

「それを言うなら、俺たちだってそうだよ! たまたま、あのデブラの町に泊まっていた時、急にあのキモい奴が襲撃してきて……」

 ルークが言う。

 偶然、そう本当に偶然でしかなかった。だが、少年・ゲイブが持ってきた手紙に自分たちの名前が書かれていたがため、なかば成り行きのように自分たちも悪しき者たちとの戦いに加わり、ジョセフ王子や王族に仕える魔導士などといった、本来なら一生縁がないような者たちとも関わることになったのだから。


「けれども、その君たちの元に届けられた手紙には、”全ては紡がれている”と書いてあったと。全てを知っているらしき、その手紙を書いた人物は、私たちとは違う時間軸にいるのだろう。偶然とも思える全ての出会いは、必然の出会いであると。そう……今夜、ここで君たちと私がこうして出会ったことも」

 初めて会った人間に、やや気障な台詞をすらすらと並べることができるヴィンセントに、レイナは胸のあたりがザワザワとしていた。だが、それは彼に嫌悪感を抱いたからというわけではなく、むしろこの映画俳優のように立ち振る舞いまでもが洗練され、全身から放たれている強烈な色気(これがフェロモンというやつなのかとレイナは思わずにはいられない)にあてられそうになっているためであった。


「……少し考えさせてくれないか。君たちはあと数日はこのリネットの町にいるのだろう?」

 彼のその言葉に、トレヴァーが首を振った。

「実は俺たち全員とも明日からアレクシスの町へと向かう予定なんです。このジェニーのおじいさんである、アダム・ポール・タウンゼントに会うために」

「そうだったのか……それでは、返事は急がないといけないな。だが、私もこの町で会っておきたい昔馴染がいるんだ。実は先ほど、この部屋に入ろうとしたのは、私を呼んでいる者の思いを感じたからであり、てっきり昔馴染のものであると思い……お嬢さん方、本当に怖い思いをさせて申し訳なかった」

 すくっと立ち上がったヴィンセントは、改めてレイナとジェニーに頭を下げた。

 ヴィンセントは、トレヴァーほど身長があるわけではないが、がっしりと肩幅が広く、非常に男らしい体つきをしていた。

 けれども、彼のその容姿と立ち振る舞いに再度、感嘆すると同時に、レイナたちは「???」と思った。

 虫の知らせ、第六感というものは、普通の人間でも多少は持ってはいるだろう。けれども、自分を呼んでいる者の思いを普通の人間が感じ取ることができるであろうか。単なる勘ではなく、自分が呼ばれているという”確証”があったからこそ、彼は今宵、この部屋に入ってこようとしたのだから。



「明日から君がアレクシスの町に行くというのなら、私もこのリネットの町での用事を済ませた後、追いかけることとする。よければ、君のおじいさんの家の場所を教えてくれないか?」

 ヴィンセントにクルッと向き直られたジェニーは、蝋燭の光のもと、一層顔を赤くし、ドギマギとしながらも答えた。ジェニーから聞いた家の場所を、ヴィンセントは一度、復唱し、コクリと頷いた。メモなどを取ることもなく、一度聞いた情報を自分のなかに飲み込み、刻み付けたように。

「じゃあ、また後日、アレクシスの町で出会うこととするか。今度はきちんと扉から姿を見せることとするよ」

 ヴィンセントはヒラヒラと手を振り、部屋を出ていった。


 やっと会えた尋ね人の1人は、自分たちの前から去っていった。

 だが、理由も曖昧なまま、自分たちと一緒に行動しろとは強制はできない。それに自分たちは強制できるような権力も持っていない。こうして、きちんと話を聞いてくれ、後日会う約束(絶対的な約束ではないが)を取り付けることはできた。

 

 部屋よりひょこっと顔を出し、廊下を歩くヴィンセントの後ろ姿を見ているルーク、ディラン、トレヴァーは、口ぐちに言いあっていた。

「……飄々としてとらえどころのない奴だな。それに何だよ、あの胸やけがしてくるような色気は……」

「男の俺らですらこうなんだから、本当に女ならたまらないと思うよ……」

「やっぱり、話に聞いていた通り、妙に世慣れた感じのする奴だ」

 顔を見合わせ、頷きあったルークたちであったが、当のヴィンセントの話が終わるのを待ち構えていたかのように、別の部屋から出てきた、あの旅芸人らしき女性・メグがヴィンセントにすり寄った。

 ヴィンセントの背中にしなやかな腕を巻き付けたメグは、彼の頬にチュッと口づけた。メグのその求愛に答えるように、ヴィンセントが彼女のくびれた腰に手を回した。

 彼――ヴィンセントの表情、動きには全くの焦りは感じられなかった。相当、女に手慣れているということがルークたちには分かった。

 ヴィンセントとメグは、恋人同士というわけでないだろう。ただ、予期せぬ再会により、”また”しばしの逢瀬を楽しむといった間柄か――

 ヴィンセントはメグに招き入れられ、部屋の中へと入って行った。扉が閉まるパタンという音。

「今から、お楽しみの時間ってことかよ。うらやましいこった」

「……そういや、俺たち、しばらくご無沙汰だよね」

「俺も、付き合っていた恋人と数か月前に別れたっきりだしなあ……」


 部屋から顔だけを出したまま、口々に言いあっていたルーク、ディラン、トレヴァーであったが、背後のベッドに腰を下ろしたままのレイナとジェニーの存在を思い出し、ハッと振り返った。

 遠い目をして、自分たちを見ているレイナとジェニー。


「い、いや、男にはいろいろとあんだよ」と、焦るルークたち。

「女にだって、いろいろあるんですよ。せめて、私たちのいないところでそういう話をしてください。夢を壊さないでくださいよ」

 ぷっくりと頬を膨らませ、ジェニーが言う。

 レイナも今の彼らの話には、少しだけショックを受けた。彼らに恋心を抱いているというわけではないが、彼ら全員とも非童貞であったという事実に。

 だが、ジェニーが言った通り、レイナも男性という自分とは違う性を持つ存在に、夢を抱いていた。ロマンティックな王子様という甘い夢を。

 レイナはこの世界で本物の王子であるジョセフにも出会ったが、それ以外の男性にも身分にかかわらずロマンティックな王子様な一面があって欲しかったいうことを。あまり、生々しい話は聞きたくなかった。


「ま、明日の出発は早いし、皆それぞれ眠るとしようよ」というディランの声。

 そうだ、馬車を出せないような天候にならない限り、明日の朝にはこの町を出立し、アレクシスの町へと向かう。ジェニーが祖父と春から秋にかけて暮らしている家は、アレクシスの町の外れにあるらしかった。

「でもよ、お前ら……あいつがガチの変態じゃなかったから良かったようなものの……窓の鍵ぐらい閉めて寝ろよ。あまりにも不用心過ぎるぞ」

 ルークが言う。

 顔を見合わせたレイナとジェニーは、彼に向かってブンブンと首を振る。

「……私たち、鍵はちゃんと閉めて寝ました! 2人でちゃんと確認したもの!」

 ジェニーの声に、レイナも頷いた。

 眠りに着く前、確かに鍵は閉まっていた。それは、自分たちの瞳で確認した事実である。

「でもなあ……」

 怪訝な顔のルークたちが窓に目をやる。

 強引に割られた形跡もなく、鍵も壊されてなどいない窓へと。


 鍵は確かに閉まっていたし、自分たちが内側から侵入者を招き入れるために開けるなんてことはあり得ない。そもそも、蝋燭のわずかな灯りの中でとはいえ、レイナは見たのだ。

 窓の鍵がひとりでにカチリ、カチリと音をたてながら、開くのを。

 あのヴィンセントは、魔導士の力は持っていないと自分でも言っていたが、昔馴染がここにいると思った彼の思いに呼応するかのように。

 いや、それとも、全てを知っている者が自分たちとヴィンセントを今宵、引き合わせたいがために鍵を開けようと――

 だが、レイナは自分の考えをグッと飲み込んだ。証明することができないことだ。自分がおかしくなったと思われるに違いないと。


 こうして――

 それぞれは、元の部屋で再び眠りについた。

 レイナはジェニーともう一度、絶対に鍵が閉まっていることを確認し合い、念のために窓につっかえ棒までした。

 まだ不思議そうな顔のまま、ベッドにもぐりこんだジェニーであったが、彼女はすぐに先ほど中断された眠りへと落ちていったらしかった。

 スースーという規則正しいジェニーの寝息を聞きながら、レイナは考えていた。

――まるで、嵐のような夜だったわ。でも、本当にヴィンセントさんが不審者でなくてよかった。生きた心地がしなかったもの。ヴィンセントさんと話はできたけど、これから私たちと行動をともにしてくれるかどうかは分からない……まず、明日からはジェニーのおじいさんに会いに行くのよ。早く、眠らなきゃ……寝不足で皆の足を引っ張っちゃいけないもの……


 外からは、パラパラと雨が降り始めた音が聞こえてきていた。夕方に見上げた曇り空は、当然のごとく雨を呼んできたようであった。

 何度も寝返りを打ったレイナは、やっとジェニーと同じく、深い眠りへと落ちていった――


 翌朝、時間厳守、と集まったレイナたちであったが、残念なことに、このリネットの町にまだ留まることとなってしまった。

 昨晩より降り始め、今も降り続いている雨により、リネットの町までの足場の状態が保証できない。視界も明瞭でなく、ぬかるんだ足場は馬にとっても非常に不安定で、特に途中にある崖からの転落の可能性があると。


 もう1日か数日、この町に留まることとなったことをあのヴィンセントに知らせようと、ルークたちは昨夜に彼とベッドをともにしたメグの元を尋ねたが、彼はきれいさっぱりと姿を消していた。

 明るいの光の下で見るメグは、もうすぐ30に差し掛かると思われる肌をしていた。昨夜、ヴィンセントと相当めくるめく時を過ごしたらしいメグは、欠伸をしながら腫れぼったい瞼でルークたちにこう答えた。

「ヴィンセントなら、確か……今、この町にいるとっても可愛い弟のような存在に会いに行くって、もうとっくに出ていったわ。ま、本当は女に会いに行ったのかもしれないけど」



 数日間、降り続く雨――レイナたちをこのリネットの町に留めていた雨はようやく、止んだ。

 眩しい黄金のような朝日が、リネットの町をきらめき輝かせていく――

 ジェニーより一足早くに目を覚ましたレイナは、彼女を絶対に起こさないようにベッドよりそっと起き上った。

 辺りはまだほんの少し薄暗く、湿り気のある空気が漂ってはいたものの、レイナの喉は乾いていた。

――宿の人にお水をもらいにいこう……

 現代日本の生活の利便性に慣れきっていたレイナは、水道や電気がないのが地味にきついものであった。灯りが欲しいのに、暗いまま。スイッチ1つで簡単に明るくはならず、自分の手で蝋燭なり蝋燭なりを用意し、灯さなければならない。喉が渇いたのに、ひとひねりするだけで水が出てくる水道もなければ、小銭を入れただけで飲物がでてくる自動販売機もない。


 喉を潤した後、レイナは宿の外に出た。

 重く積もっていた雪は、数日間降り続いた雨により溶けかけていた。レイナにも、雨を含んだ雪の冷たい感触が分厚い冬靴ごしに伝わってくる。

――足元はまだ悪いかもしれない。でも、今日こそは出発できるといいな……

 隣のベッドで寝ているはずの自分がいなかったら、ジェニーはビックリするかもしれない。早く部屋に戻ろうとも思ったが、レイナはまだもう少しだけ、1人でここに佇んでいたかった。

 雨上がりのリネットの町に一筋の風が吹き抜けた。その風が運んできた雨上がりの匂いに、レイナは胸を締めつけられた。この匂いは、レイナが元の世界で知っていた雨上がりの匂いとはまるで違っていた。

 もう元の世界には絶対に戻れないのだと――


 近くの窓には、もともとの自分の顔ではなく、ゾッとするほど美しい”マリア王女”が映っていた。彼女の魂は、外側の美しさとは全く正反対の性質を持ったものであった。

 だが、この彼女の美しさに魅せられた幾人もの男たちが、彼女とまぐわったのだ。今、自分の魂がある、この肉体と――


 その時だった。

「!!」

 窓に”自分”の他にもう1人、予期せぬ者が映った。

 レイナは、反射的にバッと振り返った。

 近くの水たまりに足先をバシャッと突っ込んでしまい、冷たい感触がつま先に伝わってきたが、そんなことはどうでも良かった。

 背後から静かに自分に迫り来ていた者、それは――

――なぜ、彼がここに……! まさか、”私”を……!

 あの人形職人の青年・オーガストが立っていた。

 マリア王女に身も心も奪われ、彼女に付き従い、フランシスに消滅させられそうになっていた彼女の魂のひとかけらを奪い、逃走したはずのオーガストが今、自分の目の前にいるのだ。

 彼は日本風に言えば、リュックのような鞄を背中ではなく、自身の胸板の方へ背負っていた。まるで、大切なものをひと時も話したくないとでもいうように。

 オーガストは、”レイナ”を見て、頬を赤らめ、笑みを浮かべた。

 そして、”レイナ”へとゆっくりと近づいてきた。

 その彼の瞳は、獲物を狙う残忍な獣の瞳ではなく、ただ愛しい女を見つめる男の瞳であった。

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