―4― 風の棺に運ばれし者(1)

――ここは……?

 茶色の瞳をゆっくりと開いたアンバーは、即座に、自分が不覚にも気を失っていたことを理解した。

 冷たく硬い”床の上”で、一体どれくらいの間、気を失っていたかは分からない。でも、自分がこの命に変えても守りたい者たちの姿を近くに確認することはできなかった。

――ジョセフ王子……レイナ……!

 フランシスの操る2匹の雪の大蛇に、皆と同じく嬲られたアンバーの全身にも鈍く重い痛みは残っており、立ち上がったものの、彼女はふらついてしまった。

 フランシスに突き付けられた圧倒的な力の差。

 自分を含め、誰一人として反撃すらできなかった。そして、気を失う直前の彼女が見たのは――レイナとジョセフを守ろうとしたものの、自分の肉体をガシッと掴んで捕らえた、”フランシス”が操る大きな不気味な手であったのだ。

 

 アンバーは、バッと辺りを見回したが、当のフランシスの姿は見えなかった。

 そのうえ、つい先ほどまで感じていた、冬の冷気と雪による、彼女の肌を刺す冷たさはなくなっていた。それどころか、春の名残を思わせるほどの、やわらかな空気がこの場には満ちているのだ。

――ここは……アドリアナ王国内にどこかにある教会には間違いはないはず。けれども……

 極めて荘厳な雰囲気が醸し出され、その装飾や構造もアドリアナ王国内の建物であることを示していた。そして、高い窓から差し込んでいる日の光は、まさに道に迷った者に対しての救いを示しているかのようであった。

 だが、アンバーは思う。

 ここは決して異国や異世界などではない。

 だが、自分が生きてきた19年の人生のなかにおいて、一度も感じたことのない風が漂っている。それはおそらく、1つの時代において吹いている風のようなものだろう。自分は生まれる遥か昔、そう現在より100年以上前の……


 その時、アンバーは気づいた。

 教会の祭壇の前に、棺があることに――


 その棺は、この教会の装飾には似つかわしくなかった。まるで、血膿を思わせるような色味であった。そのうえ今にもボロボロと崩れそうなほどに古びて、蜘蛛の巣のようなヒビが幾多も入っていたのだから。


 あの棺の中にフランシスがいるのかもしれない、とアンバーの心臓が脈打った。

――慎重にいかなければいけない。けれども、あの棺の中にフランシスがいてくれた方が、この訳の分からない場を切り出す突破口になる……私は一刻も早く、ジョセフ王子とレイナを助けに行かなければならないのよ……


 不気味な棺とアンバーとの距離は、そう遠いものではなかったが、アンバーは追い立てられるように、棺へと走った。

 自分が絶対に守らなければならない者を、守れなくなってしまうかもしれない。もしかしたら、フランシスはすでにジョセフ王子を捕らえており、そのうえ、マリア王女の魂を彼女の元の肉体に戻すことを優先させたのでは――あの異世界から来た、頼りなげだが素直な娘・レイナの魂を自分は守ることができずに――と。


 棺を覗き込んだアンバーであったが、そこは空であった。

 外側と同じく血膿のような毒々しい色味のその棺の内側に、錆びた一本の剣と棺の中から”生えている”ような漆黒の手枷と足枷があった。

 その手枷と足枷を見た、アンバーはゾッと震えあがってしまった。

 生理的嫌悪感と得も言われぬ恐怖。

――あのフランシスは一体……何を……!

 普段は冷静で気丈なアンバーも、ザッと後ずさってしまった。


「ジョセフ王子! レイナ! カール! ダリオ!」

 フランシスに、このようなところに捕らえられた自分の声が、彼らに届くはずがないと理解していたアンバーであったが、彼らを呼ばずにはいられなかった。だが、彼女の声は虚しく、この教会内に響いただけであった。


「おや、随分と早くに目覚めたんですね?」

 即座にバッと振り返ったアンバーの、わずか10歩ほど後ろにいつの間にかフランシスが立っていた。

 今度は棺に向かって後ずさったアンバーに対し、フランシスはそのにこやかでありながら、不気味な表情を変えることなかった。

「アンバー……私はあなたと2人だけで、ちゃんと話がしたかったんです。互いに大人ですからね。平和的な話合いの場を設けたいと思い、ここにやや強引ではございますが連れてきました。まあ、私の話を聞かない者、私の話を理解しようとしない者には体で分からせますが……それは、私の堪忍袋の緒がついに切れた時ぐらいですよ」

 アンバーが自分に近づかれるのを嫌がっていることが分かっているフランシスは、それ以上彼女に近づいてはこなかった。だが、そのエメラルドグリーンの、まるで宝石を思わせる美しい瞳を真っ直ぐにすっとアンバーに向けた。

 その彼の瞳に吸い込まれるような錯覚に陥ったアンバーは、彼の視線をパッとそらし、極めて冷静に彼に問うた。

「ここはどこなのです?」

 フランシスはフフッと、その唇より微笑みと息を漏らした。

「ここがどこかというより、誰とここにいるかが一番重要だと思いますけどね。まあ、あなたには特別にお話いたしましましょう……ここは私が作り上げた”世界”です。私だけのユートピアですね。自分の心に”残っている”こういった世界を実体化できるのは、魔導士の中でもほぼ数人でしょう。今はもう隠居中の老いぼれである元・魔導士のアダム・ポール・タウンゼントや、彼と同年代で私の同士であるサミュエル・メイナード・ヘルキャットなども数年で作り上げることは可能かとは思いますけど……けれどもサミュエルは私などとは違って、現実主義者でして、このようなロマンや風情には全く興味がないようで……」

 黙ったままのアンバーを、フランシスはなおも真っ直ぐに見つめていた。

「まあ、あなたももっと修行を積めば可能かと思いますよ。アドリアナ王国の王族お抱えの魔導士たちは、いわばエリート揃いで……特にあなたは持って生まれた力は他の者たちと比べて、頭1つほど抜きん出ているようにも思えます。対峙する相手が私でなければ、あなたは華麗に活躍し、今ごろジョセフ王子にねぎらわれているところでしたでしょうね。そして、他の魔導士たちも空気みたいになることはなかったかと……」


「早く本題に……!」

 ついに声を荒げたアンバーに対し、フランシスは声の調子と自分のペースを全く変えずに続ける。フランシスはなおも優雅に、そして得意気に喋り続けるつもりのようである。

「おやおや、気が急いているようですね。でも、心配することありませんよ。私の用がない人たちは手っ取り早く雪で押し流しましたけど、ジョセフ王子やマリア王女の肉体に至っては、窒息や凍死することのないように保護していますからね。マリア王女の中にいる魂もそのままです。あなたとの話が終わった後、マリア王女の戯れのために、ジョセフ王子やあの3人の平民の若者たちも掘り起こすことといたします。まあ、あの平民の若者たちは生きていれば……ですけど。マリア王女が、いずれ英雄となるらしい彼らと”遊び”たがっていてね。マリア王女は人間としては最高傑作なほど美しく、エキセントリックな魅力のある方なのですが、どうもわがままで、特に最近は私に対して、随分と調子に乗った態度でして……まあ、王女として生まれ、王女として育ってきたのですから、致し方ない気もしますけどね。でも、彼女の近親相姦などの禁忌好き、凌辱好きな性癖にも困ったものです……」

「私に何を望んでいるのです!!」

 フランシスのくどくどとした長い話の終着点が一向に見えず、苛立ったアンバーは、声を張りあげた。

 静かなこの教会の中に、アンバーの怒声ともいえるその声は響いた。


 フランシスはじっとアンバーを――いやアンバーの全身を舐めまわすように見つめた後、ゆっくりと息を吐き出して言った。

「あなたには私のものになって欲しいのです」

「!!!」

「いや、何、私と同衾しろとか、妻になれという意味合いではないのです」

「……つまり、あなたの道具になれと」

 怒りを露わにし始めたアンバーに、フランシスがクククと笑った。

「まあ、一語で言えばそう――”道具”ということになりますね。でも、私は丁重には取り扱いますよ。物は大切にしなければならないですからね」


 そして、なおもゆっくりとフランシスは口を開いた。綺麗に揃った彼の真っ白な歯列がアンバーにも見えた。

「アンバー、1つだけ確認をしたいと思うのですが……あなたがマリア王女の肉体に誘った魂は、おそらくマリア王女とそう年の変わらない10代の少女で……あの者の魂は、私たちが生きるこの世界とは別の異世界から誘ったものでしょう。私が望んでいた異世界にまで、あなたの魔力は及ぶとはね……まあ、あの者が「星呼びの術」によって誘われたのは、あの者が生きていた世界とこの世界の者たちが逝きつく先がいずれ同じものであるとの証明でもありますし……私はますますあなたが欲しくなり、そして確かに存在している異世界の存在が、私の計画をより意欲的なものとしましたよ」


 フランシスはもったいぶるように、そして重大な意味を含ませるように息を吐き、そして続けた。

「ユーフェミア国に関する私の計画をね」

「あの……ユーフェミア国の?」

 ユーフェミア国。それは、この世界より消失し、幻となってしまった国であった。

「そう、あなたがこの世に生を受ける40年前、ユーフェミア国は闇に包まれ、そして消えゆくところを私も当時の同士たちとしっかりとこの瞳で確認いたしました」

 フランシスはクククと、さらに嫌な笑い方をした。

「消えてしまった国。このアドリアナ王国においても、先々代の国王が幾人もの魔導士や兵士を乗せた、調査と救援のための船をユーフェミア国へと向かわせました。けれども、誰一人として、ユーフェミア国に行き着くことはできなかった……ですが、ユーフェミア国は、いや、まだユーフェミア国の民たちは生きております。あと数歩で地獄に踏み入れるほどの劣悪な環境で、命の炎をキリキリと燃やしながらね。私はそのユーフェミア国を”足掛かり”として、達成したいことがあるのです」

 目の前の悪しき魔導士から、語られる話。今のこの話が真実だとの証明は、何もないが――

 思わず喉を鳴らしたアンバーに、フランシスは、自分の左の手の甲を彼女にそっと見せた。


 フランシスの左手の薬指に刻まれている模様。

 うっすらと赤い蔦のようなものが、二重三重にからみついているような――


「やはり……神人の……」

「気づいていましたか。まあ、私も会話で少し匂わせていましたからね。私と同士の幾人かは、年をとることもなく、翼もないのに鳥のように空を自由に飛び回れ、尾びれもないのに魚のように水の中を泳ぐことができますよ」

 アンバーは、フランシスに見えないように、黒衣の中で手をギュっと握りしめた。

「おやおや私が魔導士という力に”加え”、神人の力を手に入れた経緯については、聞かないのですか。聞いてくれるものと思っていましたのに……私の場合、神人との性交によって手に入れたものではないのですよ。あの時、私”たち”の目の前に現れた神人たちは男性ばかりでしたからね。まあ、私は男性とでも契ろうと思えばできないわけではないんですけど……」


 フランシスの話を聞きながらも、アンバーは隙を伺っていた。

 このフランシスが作り上げた世界から抜け出すための隙を。

 彼が作り上げた世界。たった1人の魔導士が、無から作り上げたこの虚構の世界は、きっと、どこかに脱出できる”隙間”があるはずなのだと。

 だが、フランシスはアンバーがしようとしていることが分かったらしい。

「逃げ出そうとか考えないほうが賢明ですよ。あなたには、私のこの世界で、”時が来る”まで大人しくしていてもらいましょう。時々、話相手にはなりますし……そもそも、あなたの力でも、この世界は破れないでしょう。ここにはマリア王女だってお招きしたことがないのです。いわば一国の王女以上の扱いをしているのですよ。あなたの思い人のジョセフ王子には、二度とお会いできないことは気の毒だとは思いますが、単に美形で王子の地位にあるだけの男より、私と一緒にいた方が刺激がありますし、名誉なことだと思いますよ」


 アンバーは、ギッとフランシスを睨みつけた。

 頬をブルブルと震わせる彼女は、何も言わなかった。

 だが、彼女には思う人々がいたのだ。

 たった1人の肉親である自分の帰りを首都シャノンで待っている父親、ともに修行を積んできたカールやダリオなどの魔導士たち。そして、自分が魔術により、この世界へといざなった少女・レイナ。

 この戦いを迎える前夜、レイナに自分が話した夢。

 ジョセフがこのアドリアナ王国の王となり、自分はその傍らで、この命果てるまで、身を捧げるという幼き頃からの――



「……そんな怖い顔をしないでくださいよ。せっかくの綺麗な顔ですのに。まあ、私はあなたを大変に気に入っておりますから、少しだけサービスいたしましょう。あなたが大切に思っている方々の今現在をお見せいたします」

 フランシスがパッと右手をかざした。

 フランシスから見て右手、アンバーから見て左手の、彼女たちの間にある空間が、四方形にさざ波だった。

 その空間の中に、まず映し出されたのは、ジョセフであった。


 だが、アンバーはそのジョセフの様子にすぐ違和感を感じた。

 虚ろな表情のなかにある生気のない瞳。おもむろに口を開けた彼は、ガーッと炎を吐き出した。

「?!」

「これはオーガストが作った人形に、少し悪さをしただけですよ。炎を吐く王子なんて、シュールな感じで面白いでしょう?!」

「あの方を馬鹿にするのはいい加減に……」

 アンバーが、フランシスに詰め寄ろうとした時――

 その四角形のなかに、そのジョセフ人形を取り巻いている周りの光景まで映し出されたのだ。

 無数の、おそらく数十体はあるように見えるジョセフ人形。

 本体は一体だけで、おそらくその他は目くらましだとアンバーにはすぐに分かった。

 そのジョセフ人形に向かって、必死で剣を振るっているのは、あの3人の平民の青年たちであった。


「ほう、あの3匹のネズミは生きていたのですね。今はまだがむしゃらで粗削りな動きですが……」

 彼らは、その肌より吹き出ている汗が飛び散らんばかりの勢いで、勇ましく剣を奮い続けていた。だが、徐々に彼らの疲労も濃くなっていってるようであった。

 栗色の髪の青年――ディランが剣を振るいながら、ハッとしたように叫んだ。

「2人とも……影だ!」

「?! ……ハゲ?! 一体、何の話だよ?!」

 くすんだ金髪の青年――ルークは、訳が分からないといった風に、同じく剣を振り回しながらも、ディランに叫んだ。

「違う! 影だよ! 本体には、影があるんだよ! さっき一体だけ、影を持つ人形がいた気がする!」

「……分かった! 影のある人形だな!」

 鳶色の髪の筋肉隆々の青年――トレヴァーが叫んだ。


 なおも剣を奮い続ける3人の青年。

 そして――

「……そいつだ!」

 トレヴァーが筋肉に包まれた、その長く頑丈な脚を1体の人形の前へと、バッと出した。

 動きがそう機敏でないジョセフ人形は、トレヴァーの脚に見事につまずき、雪の中にボフッと頭から突っ込んだ。

「どりゃああっ!」

 間髪入れず、剣を握り直したルークが、ジョセフ人形へと飛んだ。

 ルークの剣は、まっすぐにジョセフ人形の背中――ちょうど、心臓の箇所をバキンと一撃で貫いた。

「!!!」

 それと同時に、彼らをしつこく取り巻いていたジョセフ人形たちは、ガクガクと震えるような動きをして、深紫の靄に包まれ、ばしゅっと消失した。



「おや……あの時間稼ぎの人形は、てっきり魔導士の誰かに倒されるものだと思っていたのに、ズブの素人にこうも早く倒されるとは……抜群のコンビネーションのあの3匹のネズミが英雄になるかもしれないというのは真実なのかもしれませんねえ」

 形勢が逆転しかけているのに、フランシスはなおも余裕を崩すことはなかった。

「さてと、あの人形の相手を素人である彼らに任せた、あなたの同僚さんたちは何をしているんでしょうかね」


 次なるさざ波。

 そして、映し出された次なる光景。

 それは、無数のジョセフ人形に結界を貼っていたカールと、カールが貼った結界の中で必死に両手をかざしているダリオであった。ダリオの首に巻いた布には、血が滲んでいるのがアンバーにも分かった。

 カールも、首から血を噴き出したダリオも無事であったことに、アンバーは安堵した。 

 おそらくダリオの方が気を掴むことが上手いため、カールが防御し、ダリオがジョセフたちの行方を捜しているのだろうとも。


 カールの前でウロウロしていたジョセフ人形も、先ほどのルークたちの場合とわずかな時間差ではあったが、深紫の靄とともにバシュッと掻き消えた。

 彼の会話がアンバーへと響いてきた。

「……ダリオ! あいつら、あの人形の本体を倒したみたいだ!」

「良かった! よくやったな、あいつら!」

「俺も一緒に、ジョセフ王子たちの居場所を掴むぞ。他の魔導士たちも、離れたところできっと探しているはずだ!」

 宙に向かい、両手をかざしているダリオの横に、カールも並ぶ。

「ダリオ、3人とも一緒に捕らえられている可能性が高いのか?」

「……3人が一緒に捕らえられているのかは現時点でははっきりしない。でも、ジョセフ王子とあの娘……レイナの気は非常に近いところにあるようだ。もしかしたら、2人だけは一緒にいるのかもしれないな。だが……アンバーの気が全くつかめない。おそらく、アンバーはフランシスに捕らえられているんだろう」

 ダリオの言葉を聞いた、カールの頬がカアッと紅潮した。

「フランシスの奴、何を考えんだよ! まさか、アンバーを……取り返しのつかないことになっていなければいいが、絶対にああいうすかした感じの男に限って裏ではヤバい性癖持ってんだよ!!」

「全くだ。ジョセフ王子のためにも、一刻も早くアンバーを早く救い出すぞ!」

 ダリオもカールに同調し、その瞼をさらに深く閉じた。



「なんと、失敬な魔導士たちですか……! 人を変質者みたいに……後で叩き殺してやりましょうか……」

 今の2人の会話を聞いた、フランシスがググッと眉根を寄せた。

 アンバーは憤慨しているフランシスなど、どうでも良かった。ただ、カールとダリオ、そして他の魔導士たちが、自分たちを捜してくれている。


――ダリオ! カール!


 アンバーは心の中で、強くダリオとカールの名を呼んだ。

 今も必死で自分に呼びかけてくれている彼ら、魔導士たちの中でも優れた力を持っている彼らなら、このフランシスの邪悪な気に覆いつくされている自分の気が届くかもしれないと。

 アンバーのその声がわずかに届いたのか、映像の中のダリオが少しだけ、眉毛をピクリと動かした。



 フランシスは、アンバーに向き直った。そして、余裕綽々といった表情に戻って、諭すように言った。

「アンバー、あなたとジョセフ王子は、周りから見れば相思相愛の仲なのでしょうけど……私がマリア王女からお伺いした話や、あなたたちの様子を見ている限り、互いの思いを伝えたことはないのでしょう。お2人とも、心の内で互いを求める思いを燃え上がらせている情熱家なのに。まあ、一国の王子と臣下という身分の壁もあるのでしょうけどね。でもね、人間の命は無限ではないのですよ。いつも自分の隣にいた者が、ある日、忽然といなくなることもある……もう二度と会えなくなることもある……時に運命は残酷で理不尽な悲しい亀裂を、人生という物語のなかに生じさせるのです……あなたも一度でいいから、その麗しい唇でジョセフ王子に”愛してる”と伝えるべきでしたね。もう二度と彼に会うことはできないのですから……」


 フランシスは唇をいやらしく歪ませ、フフフと笑った。

 アンバーは彼に何も答えなかった。こんな歪んだ男の気持ちの悪い挑発に乗るつもりはなかった。そして、絶対に諦めるつもりもなかった。


「さてと……”最後に”お見せするのは、あなたと最も因縁深い女性――マリア王女といたしましようか。本物のジョセフ王子をお見せすると、あなたも未練が募ると思いますからね、まあ、あのマリア王女は今頃、自分の肉体に入っている者をじわじわと絶望の底へと追い詰めているところでしょうね」


 フランシスは掌をすっと上にあげる。四方形のなかのさざ波は、さらに濃く妖しく歪み始めた。

 そこには――


――レイナ……!


 マリアではなく、真っ白なローブに身を包み、何かから逃げようと引き攣った顔をしたレイナがパッと映し出された。

 そのうえ、彼女のすぐ近くに、漆黒のドレスに身を包んだ”マリア王女”もいた。

 マリアもレイナと同じく、いやレイナ以上に、極限まで引き攣った真っ青な顔していた。

 マリアが何かから、いや誰かから逃げようとしているのだ。

 アンバーは、あのマリアがあんな表情をしているのを見るのは、シャノンの城でマリア王女の魂をその肉体より追い出した時以来であった。

 そして、喪服のような漆黒のドレスで雪に足をとられながらも、必死で逃げるマリアを追いかけていたのは――

 ジョセフであった。

 ジョセフはマリアに追いつき、悲鳴をあげるマリアを羽交い締めにして、押さえ込んだ。マリアの金切声が響いてきた。


「なんとまあ……ジョセフ王子がこんなに早く目を覚ますとは計算外でしたね。でも、マリア王女にはいい薬かと……」


 フランシスは自分が捕らえた”道具”の愛しい者を、ついつい映し出してしまったミスにより、深いため息を吐いた。

 アンバーはその機を見逃さなかった。


 フランシスが見せた今のわずかな隙。

 黒衣からバッと両手を出したアンバーから発せられたのは、フランシスが作り上げた、この虚構の世界を揺るがせるほどの勢いの気の風であった。

 その風は真っ直ぐにフランシスへと――


「おっと……」

 フランシスはわずかに驚きを見せ、アンバーの風を防御するために、両手を自分の前にパッとかざした。

「!!!」


 フランシスの両の瞳は、ハッと見開かれた。

 アンバーの攻撃。彼女が狙っていたのは――!


 アンバーはさらに自分の四方へと向けて、気の風を発した。

 フランシスが自分の渾身の一撃を防御する際に、またしても生じる隙をアンバーは作り出そうとしていたのだ。

 素早く上下左右に瞳を動かしたアンバーは、自分の左下に位置する空間がわずかにぐにゃりと歪んだのを見逃さなかった。


 この世界の歪み。それは、この世界に生じた亀裂であった。

 アンバーは素早く、その亀裂に自らの上半身をグッと突っ込んだ。

 亀裂の中で吹き荒れていたのは、冷たい吹雪であった。あの2つの大蛇が引き起こしたような猛吹雪。視界は真っ白であり、その1つの色以外は何も見えなかった。

 一瞬の躊躇。

 得体の知れない魔術を使うフランシス。その彼の世界に生じた、この亀裂に身を投げたからと言って、必ずしもここから逃げ出せるとは限らないと。

 

――でも、ほんのわずかな確率であっても、ここがこの世界からの出口として賭けるしかない……!


 亀裂のなかに、バッとその身を投げ入れたアンバーに、フランシスの「そうきましたか……まあ、あなたの最後のあがきに、付き合ってあげますよ」と言った声が追いかけてきた。


――ジョセフ王子! レイナ……!


 痛いほど荒れ狂い、肌を冷たく削るような吹雪に、その身を飛ばされながらも、アンバーは渾身の思いで祈った。

 自分の声が彼らに届くように。会いたい者に、会えるように。

 そして、自分が彼らを救うために、彼らの元に辿り着けるように――

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