―3― 北の町の3人の青年たち

 レイナはこのアドリアナ王国の第一王子・ジョセフと、第一王女・マリア――すなわち自分の魂が入っているこの肉体の持ち主のことを、考えたくはなかったが考えずにはいられなかった。

――あの男の人……ジョセフ王子とこのマリア王女は、髪の色といい瞳の色といい、言われなくても一目見ただけで兄妹だって分かるほどよく似ているわ。でも、あのジョセフ王子は、自分の妹のことをさして心配しているふうでもなかった……それどころか、ゾッとするほど冷たい瞳で、”私”を見ていた。そもそも私がマリア王女の肉体に入れられることになった経緯は何? 国をどうかといってたけど、そんなの私には分からない。私は最近まで中学生だった、ただの高校生なのに。何もできない。ただ、私はここから逃げたい、元の世界の元の肉体に帰りたいのよ。ただ、それだけよ……

 身を震わせ、両腕で体をギュっと抱きしめたレイナの脳裏に、この状況を自分に説明しようとしてくれたあの魔導士のアンバーの顔が浮かぶ。

――あのアンバーさんって人……あの人は、美人で優しそうで、一見善人のようにも思えた。でも……でも、あの人たちを信用しちゃいけない! あの人たちは、男の人を1人殺しているんだ! そもそも、魔導士ってあやしすぎるわよ! それに、あんな血まみれの無残な死体を見て、平然としていられるなんておかしい。どんな理由があったって、人を殺すなんて絶対にしちゃいけないことだ……


 それから――

 涙は枯れ、頬にその道筋をヒリヒリと残したまま、レイナはうつろな瞳でずっと宙を見ていた。どれくらい時間がたったのかは、彼女自身にも分からなかった。

 恐れ、嘆き、苦しみ、泣き叫ぶ。これをずっと繰り返していたのだから……

 ベッドに身を横たえたレイナから見えるのは、高い場所にある窓とその窓の向こう、朱に染まりかけた空を背景に深々と降り続ける無垢な白さとも形容できる雪であった。

――帰りたい……誰か助けて……

 レイナの鼻奥がツンとし、また涙が盛り上がりはじめたその時――

部屋の扉がギギ……と重い音を立てた。

 誰かがこの部屋の扉を開けようとしている。年季の入ったその重たげな音とともに、レイナがいるこの暖かな部屋に外のヒヤリとする冷気も流れ込んできた。

 レイナはベッドからはじかれたように、バッと身を起こした。

 やがて、扉の向こうにいる者の姿はレイナにも見え始めた――


 扉の向こうにいる者。

 それは、アンバーでもジョセフ王子でもなかった。

 全身に黒く重たげな布をコウモリのように巻きつけた女、いや少女であったのだ。レイナの魂が入っているこのマリア王女や、先ほどのアンバーよりも一回りほど小さな輪郭を持つ、つまりはレイナの元の肉体の年齢に近いような少女。そして、その少女は”やはり”レイナが見たこともない少女であった。

 頭よりその重たげな黒い布を巻き付けているその少女の顔の左半分の皮膚は、離れた所にいるレイナから見ても白くなめらかなものであった。だが、その皮膚の中にある瞳は、まるでガラス玉のようで全く生気を感じ取れなかった。

 彼女と対峙しているレイナも、こっちへフラフラと近づいてくる彼女がどこを見ているか分からなかった。自分を通り越して、何か他のものを見ているようにも思えた。

 レイナは悲鳴をあげ、後ずさった。

 

 こっちへと迫りくるのは、おそらく正気を失っている少女だ。

 恐怖で歯の根がガチガチと合わないレイナと、幽鬼のような瞳をした少女の距離がわずか数歩まで縮まった時であった。

 その少女は顔の右半分を覆い隠している黒い布に、自身の繊細で華奢な左手をそっとやった。

 はらり、と少女は、その顔の“右半分”をレイナに見せのだ。


 彼女の顔の右半分――それは無惨にも焼けただれていた。

 たった今、炎にそのなめらかな肌を焦がされたばかりように赤黒く焼けただれ、ジュクジュクと熱を膿み、痛々しかった。そして、その中にある瞳は、もはや白っぽい眼球であったものとなっていた。

 彼女の顔のむごたらしいその様に、レイナは「ヒイッ!!」と悲鳴をあげ、さらに後ずさっていた。後頭部が背後の固い壁にガツンとぶつかった。

 そのレイナの様子を見た少女の、ガラス玉のような瞳が途端に――

 攻撃。憎悪。殺意。彼女に瞳に湧き上がったそれらは、明らかに彼女の目の前にいる“レイナ”に向けてのものであった!


 そして、レイナは気づく。黒い布に隠されていた少女の右手が、鋭い光を放つナイフを握りしめていることに――

「死ね」

 少女の残っていた左の瞳よりギュンと射抜くような光が発された。

 少女は牙をむいた。左の唇端を上げ、そこからピンク色の歯茎と綺麗にそろった真珠のような歯列を剥き出しにし、手のナイフを”レイナ”に向かって振りおろそうと――

「!!!」

 身をかがめ、間一髪でその少女のナイフをかわしたレイナは、ベッドの上の枕を少女に向って投げつけた。

 レイナは駆けだした。

 だが、人間とも思えぬ少女の唸り声が、レイナの背中を追いかけてくる。両脚がもつれあい、レイナは固い床に倒れこみそうになった。

 あのアンバーの言葉が蘇ってくる。

――私達はあなたに危害を加える気はありません。

 でも、そんなことはない。実際に自分は今、危害を加えられ、しかも殺されそうになっている!

「お願い、助けて!誰か!」

 大声をあげ、この部屋の唯一の出口である扉へと向かって、レイナは手を伸ばした。

 が、後ろから少女に後ろからガッと髪をつかまれた。自分のものでないこの美しく長い金色の波打つ髪を。

 混乱と恐怖により、さらにもつれあったレイナの足が自身のドレスの裾を踏みつけたため、レイナと少女は重なり合うように床にドッと倒れこんだ。その衝撃で少女の手から、ナイフは弾け飛んだ。

「助けてえ!!」

 倒れ込んだまま、扉に向って手を伸ばし、絶叫したレイナであったが、ついにその背中に少女に馬乗りになられてしまった。

 少女へと身をよじったレイナが見たもの。それは、顔半分が焼けただれたその少女の口元に浮かんでいる笑みだった。

 獲物を追い詰めた獣のような笑み。本物の殺意だ。そして、彼女自身がやっと”何か”から解き放たれることを喜んでいるかのような笑み――

 レイナに馬乗りになった体勢のまま、少女は近くの床に転がっていた置物をそっと手にとった。それはレイナがアンバーに向って握りしめていた、あの天使の置物であった。

「死ね」

 もう一度、こう言い放った少女は、その手の置物を”レイナ”の顔めがけて振りおろし――




 この襲撃者の少女が”レイナ”の――いや、このアドリアナ王国の第1王女であるマリア・エリザベス王女の顔面に向って、その置物を振り下ろしたその時、眼前の獲物からはまばゆい光が発せられた。

 少女の残っていた片方の瞳に映し出されたもの。

 それは、気を失った絶世の美少女がまばゆい光に包まれ、その肉体が二重に重なり合っている光景――そして、一段と強い光にぱあっと包まれたのち、獲物は少女の眼前より消失したのだ――



 こうして、レイナは何よりも逃れたいと思っていた、この城より消えてしまった。

 だが決してレイナの願いが叶い、彼女が暮らしていた元の世界へと戻ったわけではない。

 レイナは、アドリアナ王国の首都シャノンより遠く離れた、このアドリアナ王国の最北部に位置する小さな町、デブラへと移動していたのだ。



 ちょうど同刻――

 デブラのやや町はずれに位置する、とある庶民的な宿の一角で、3人の青年が酒を片手に話に花を咲かせていた。

 くすんだような金髪に情熱的な榛色の瞳を持つ青年、ルーク・ノア・ロビンソンがおどけ、隣にいる彼とは対照的な落ち着いた印象を与える、栗色の髪と瞳を持つ青年、ディラン・ニール・ハドソンが笑いながら、彼の肩を叩いた。

 彼らの話をニコニコと聞いていた、褐色に光る肌と鳶色の髪と瞳の青年、トレヴァー・モーリス・ガルシアがちびちびと飲んでいた酒を吹き出しそうになっていた。

 ルークとディランは、幼馴染であり親友同士で行動をともにしはじめてからかれこれ十数年の付き合いであるが、彼らはこの冬、この宿にて初めて会ったトレヴァーとまるで昔からの友人であるかのように意気投合していた。

「ルーク、もうちょっと落ち着いて行動しろよ。お前、いつも宵越しの金は持たないし」

「お前は真面目過ぎんだよ、ディラン。たまには羽目を外さねえと」

「いっつもお前は外してるじゃないか。でも、俺たちの稼ぎもそろそろ底をついてきそうだし、この冬が明けてから、どうするか考えなきゃいけないね」

 酒がまわり赤くなった顔で喋るルークに、彼と同量の酒を飲んだにも関わらず、顔色が全く変わっていないディランが言った。

 トレヴァーが彼らの方に、ズイッと身を乗り出す。

 ルークとディランより2才年上の20才で、彼らに比べると二回り以上も体格が良く、2メートルを超えるがっしりとした長身のトレヴァーは、分厚い服の上からも筋肉隆々の素晴らしく逞しい肩をしていることが見て取れた。

「俺たちみたいな平民で、親なしっ子で、学問を究める機会もなし、騎士団へのコネがあるわけでもないものは、その場その場でこの体を動かして稼ぎをためていくしかないよな。まあ、その分、いろんな町を回ることができるといい方に考えるか」

「暮らしているこの国が、平和なのが何よりだよ。この平和なアドリアナ王国に、そして王に乾杯」

 ディランが酒を高く掲げた。それに、ルークとディランがカチンと酒を合わせた。

「そうだ、お前たちが一番、見てみたいものって何だ?」

 トレヴァーのこの問いに、酒に酔いゆるんでいたルークの頬が一瞬だけ引き締まったのち、すぐにゆるんだ。

「一番見てみたいものかあ……闇に消えたユーフェミア国も見てみたいというか、あの事件の真相を知りたいし……それに絶世の美女と名高いマリア王女も見てみたいな。この広いアドリアナ王国中に、他に並ぶほどもないほどの絶世の美しさを持つ王女だとの噂が届いているんだ。さぞかし、美しいだろうな。まあ、平民の男に手が届くはずもないし、一生その姿を見る機会すらないと思うけど、男としては気になるところだ」

 ルークの言葉に、隣のディランが笑って頷いた。トレヴァーは黙ったまま、残っていた酒を全て飲みほし、ルークをじっと見た。

「マリア王女か……実は俺、一度見たことがあるんだ……」

「そうなのか? 城の中にも入ったことがあるのか?」

 ディランの言葉に、トレヴァーは黙って首を横に振った。

「……いや、首都シャノンから町を1つ挟んだデメトラって町でだ。その時は、兄のジョセフ王子も一緒にいた」

「で? やっぱり噂にたがわず?」

 トレヴァーは苦々しい顔をして、興味津々で王女の美貌を聞くルークを見返した。

「……まあ、確かに噂にたがわず、物凄い美人だった。世に並ぶものもないという言葉にも確かに頷くことができたよ……それだけは事実だ」

「なんだ、そりゃ?」

 奥歯にものが挟まったようなトレヴァーのその言い方に、ルークとディランは「?」と顔を見合せずにはいられなかった。

 途端、ルークはウッを呻き、椅子から立ち上がった。今日のルークの表情は、いつにもましてクルクルと変わっていく。

「だから、飲みすぎだって、ルーク」

「いや、俺ちょっと外に行ってくる……」

 背中を丸めて、ディランとトレヴァーに答えたルークは、宿の出口へと向かった。

 彼が扉をあけると一筋の冷気がサッと宿の一角に吹き込んできた。ルークの背中を心配そうに見ていたディランが、トレヴァーに「ちょっと見てくる」と言い残し、彼の後を追った。


 宿の外は純白の雪景色だった。そして、その純白のうえにさらに純白を重ねづけるように、チラチラと軽い粉雪が舞っていた。

「おい、ルーク。平気か?」

「なんだよ、ただの小便だって。恥ずかしいから、見んなよ」

「はいはい」

 用を足そうと手を体の前でゴソゴソとしていたルークに、ディランは呆れ顔で踵を返した。

 なんだルークの奴、気分が悪くなって吐いているか、雪の中に倒れるかしてるんじゃないかと思ったけど、ただの生理現象だったとは――と、ディランが足元の雪に宿へと戻る足跡をサクッとつけたその時……

「ディラン!!」とルークが叫んだ。

「今度は何?」と半ばあきれながらも、ディランは彼の元へと駆け寄った。

 直立不動ともいえる格好で固まったまま、ルークはある一点を見つめていた。「?」とディランも彼のその視線の先に目をやる。

 そこには――

 透けるような白い肌と波打つ黄金の髪、バイオレットのドレスを身にまとった女神の化身のような美しい少女が、純白の雪の上で仰向けで倒れていたのだ。

彼女の真白い頬の上に、純白の雪がチラチラと降りかかっていた。

「……人形……か、これ?」

「なんて、綺麗な人形なんだろう。でも、なんでこんなところに……いや、これ人間じゃ…」

「人間にしちゃ綺麗すぎるだろ。やっぱ、人形だよ」

「まあ、そりゃ、そう言われてみれば……」

 次の瞬間、倒れていたその“人形”の手はピクンと動いた。

 ルークとディランは、即座に顔を見合わせた。

 すぐさまルークが駆け寄り、ほんの数秒前まで人形だと思っていた少女――マリア王女の肉体に入ったレイナ――を抱きかかえ、その体がまだ暖かいことを確認した。先にディランが宿へと駆け込み、宿の女将に外で倒れている者がいることを伝え――

 彼の話を聞いたトレヴァーは、外にいるルークの手助けをしようと、宿の外に出た。

 だが、トレヴァーは、くすんだ金髪に粉雪をつけたルークの腕の中にいる”少女”の顔を見て、ハッと顔色を変えた。

 まさか、あの方は――と、彼の褐色の顔は徐々にこわばっていった。


 急いで熱いお湯を用意しようとする女将と宿の手伝いの少女、そして酒を飲み楽しい時を過ごしていた宿の客たちは、突如舞い込んできた信じられないほど美しい少女に一気にどよめきたった。



 こうして、”レイナ”はあのままであったら、眠るように凍死していたところを、偶然にも近くにいた青年たちに助けられた。だが、レイナの左手の薬指につけられていた、指輪の石が妖しい光を発したことに気付いたものは誰もいなかった。



 このように、デブラの町の一角の宿で大騒ぎになっていた頃、レイナが消えた首都シャノンの城の一角でも蜂の巣をついたような騒ぎとなっていた。

 ”レイナ”を襲撃した顔半分が焼けただれたあの少女は、目の前から獲物が消失したにも関わらず、「死ね」「死ね」と固い床に置物を何度も振り下ろし続けていた。そう、固い天使の置物の顔が欠けるほど何度も――

 屈強な兵士数人に取り押さえられた少女は奇声を発し、その声に城内の騒々しさはさらに増した。

 ジョセフの足元に、アンバーがバッと跪いた。

 そして、彼女は顔を上げジョセフに告げた。彼女の綺麗に切りそろえられた真っ直ぐな髪が肩で揺れた。

「ジョセフ王子、私の父の協力もあり、レイナの行方がつかめそうです。このアドリアナ王国内に彼女がいるのは間違いありません。ただ今は、ここより北の方角という広い範囲でしか彼女の居場所をつかめておりませんが、次第に絞り込んでいけるとのことです」

「引き続き頼むぞ。あのフランシスやオーガストに嗅ぎ付けられるよりも早く、マリ……いやレイナを連れ戻すのだ」

「御意」

 アンバーは再びジョセフに深く跪いた。だが、続けられたジョセフの言葉に彼女は顔を上げた。

「しかし……なぜ、魔導士でもない者がその肉体ごと別の場所に移動したのだ? マリアの肉体は魔導士としての力は持ってはいない。まさか、レイナ自身がそのような術を自在に使える魂であったのであろうか?」

「……いいえ、私が見ていた限り、レイナ自身が何か術を使うことができたり、特別な力を持っている可能性は非常に低いかと……おそらく、あの『星呼び』の術による、魂と肉体の統合が不完全だったのだと思われます。あの『星呼び』の術を使用して約7日間は、魂と肉体がまだ完全になじみ込んでいないため、そこに衝撃を与えられると、その肉体が本人の意思にかかわらず消失ともいえる形で他の場所に移動してしまうことがあると文献にはありましたから……」

 ジョセフは、自分に跪いたまま唇を噛みしめたアンバーに声をかける。

「……アンバー、お前が悪いわけではない。あの時は、結果としてあの『星呼び』の術を使うしかなかったのだ。あの時のお前の判断に間違いはなかった」

「ですが……!」

「これ以上、被害を大きくしないことを考えるべきだ。そのことが、あのように生まれてしまったマリアの魂を真の意味で救済することになる。そして、何より、このアドリアナ王国のために」

「ジョセフ王子……」

 アンバーはジョセフを見上げた。

 凛々しく研ぎ澄まされた印象を与える彼の横顔に見えた悲しみに、アンバーは胸を抑えていた。

 その場にすっくと立ちあがったアンバーのところまで、先ほどレイナを襲撃したあの少女――少女は城内の侍女で名をサマンサという――の吠え続ける声が響いてきた。

「……やはり、あの精神状態のサマンサをレイナの部屋まで手引きした者がいるのだろうな」

「ええ、そちらも引き続き調査いたします」

「外にも中にも敵か……お前も私も物心ついた時より、気が休まることがないな」

 ジョセフとアンバーは、しばしの間、お互いの瞳を交わらせていた。

 幼き日より、互いの側にいた彼ら。そして、今は同じ目的に向かって、手を取り合っている彼らには、何も言わなくても互いの思いが痛いほどに分かった。

 漆黒の闇に包まれた城の外には、雪が深々と降り積もり続けていた。

 騒がしい城内で赤々と燃えている明かりが、白い雪の上に、寄り添うように伸びる彼らの影を作り上げていた。


 デブラの町。

 気を失ったまま、レイナ深い眠りの中にいた。

 彼女はあたたかな光の川のなかで、その流れに身を任せて漂っていた。彼女が行きつく先には、まばゆい白い光が見えていた。その光にレイナは徐々に近づいていく。なぜか、産道の中を通っているかのような懐かしさをレイナは感じずにはいられなかった。

 レイナはゆっくりと瞳をあけた。

 どうやら、病院のベッドの上にいるらしかった。そのうえ、人形のようにぎこちなく慣れないマリア王女の肉体ではなく、彼女が15年間慣れ親しんだ肉体のなかに自分の魂があるようであった。さして美しいわけでもなく、平凡ではあったが、それでも唯一無二のものであった本当の自分の肉体のなかに。

 傍らでは、父も母も兄も自分の姿を見て、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。母に抱きしめられる。懐かしい母の匂いにレイナは顔をうずめた。

 そして、やけに自信に満ちた表情の医者のレイナに言う。

――奇跡でしたよ、もう駄目かと思っていました、あなたは本当に強運の持ち主だ、命を繋ぐことができたなんて。

 医者の言葉が終わると、病室の白い扉が勢いよく開いた。

 そこにいたのは、光海女子高等学校の制服を着た少女たちであった。少女たちの中心にはピンク色の花束を持った川野留美がいた。そして、ヒナコや京香、クラスメイトたちが揃っていた。

 レイナの無事な姿を認めた留美は、花束を大切そうに抱えたまま、歩いてくる。

――本当に良かった。みんな心配していたんだよ。6月の球技大会には一緒に出れるといいね。

 レイナの眼前にあったのは、入学以来変わることのなかった留美の笑顔であった。

 留美の腕にあった花束をレイナは受け取る。瑞々しい命の匂いがした。

――ありがとう、みんな。川野さん、ううん、留美ちゃん……


 留美に初めて心からの笑顔を返したレイナであったが、瞳の中の留美の顔はぼやけていく……

 艶々としている留美の肩までの黒髪は胡桃色に、そして彼女のその黒い瞳も胡桃色へと色を変え……



「気が付かれましたか。良かったです。今、女将さんを呼んできますね」

 胡桃色の髪と瞳の少女が、心配そうにレイナを覗き込んでいた。

 クリクリとした愛らしい瞳のその少女は、レイナが目を開けたのを見て、子猫のように駆けだしていったかと思うと、クルッと振り向いた。

「お嬢様、私はジェニーと申します。なんでもお申し付けください」

 ジェニーは可愛らしくペコリと一礼し、部屋の扉へと向かった。扉が軽い木の音を立てて開く音に続き、彼女がパタパタと階段を下りていく音が聞こえてきた。


 レイナは”自分”の掌を見た。白く細く、形のいい指が震えていた。

 先ほどの夢の中にも匂いを感じることができた。夢の中でも喜びを感じることができた。だが、夢は、夢でしかなったということ。

 自分がいるのは、やはりマリア王女の肉体のなかであるということを思い知らされた。それは、恐ろしいこの世界での、恐ろしい現実はまだ続いていくということと同義であった。

 どこも怪我はしていないようではあったが、頭はズキズキと痛んだ。

 レイナは思い出さずにはいられなかった。

 顔が半分爛れたあの少女の殺意を持った襲撃。最初に見た銀色の髪の男性の血だらけの死体。そして、ジョセフ王子と魔導士のアンバー。

 またしても、涙は溢れ出し、両手で顔を覆った。


 でも、一体ここはどこなんだろう、とレイナは部屋を見渡した。

 最初に閉じ込められていた部屋に比べると、かなり質素で控えめな色使いや装飾であったが温かな家庭の匂いがした。そして、先ほどの邪心の欠片も見えない愛らしい美少女。

 ”とりあえず”今は殺される心配のない場所にいるらしい、とレイナは頬に流れた涙をぬぐい、胸を抑えた。だが、心臓が――自分のものでないこの心臓は嫌な音を立てていた。元の世界にいた時はつらいこと(受験の失敗)もあったが、命の危機にまでさらされたことなどは一度もなかった。

 思考の許容範囲をオーバーする事象が一気に押し寄せ、その波が引いた今は、呼吸困難を起こしてしまうのではと、ひどく苦しかった。


「お嬢様、お気がつかれましたか?」

 ジェニーの3倍はありそうな、迫力のある女将が姿を見せた。

「泣かないでくださいな、お嬢様。もう何も心配することなどありませんよ」

 女将は、ベッドの上で胸を押さえ涙を流しているレイナを慌てて駆け寄ってきた。近くで見る女将は、まるで大きなボンレスハムを思わせた。

「この吹雪がやみ次第、町の役場に使いをやりますからね。こんなところで恐縮ですが、今はゆっくりとお体を休めてください」

 女将が微笑むと、彼女の目じりに刻まれていた数本の皺はさらに深くなった。

 冷たそうな雰囲気を発しているジョセフ王子やアンバーなどではなく、庶民的で”殺人”なんてこととは無縁だと思われる、いかにも善良そうなこの人なら、いろいろ教えてくれるかもしれない、とレイナは恐る恐る女将に問う。

「……あの、ここはどこなんですか?」

「ここはデブラの町の安宿ですよ」

 レイナはその”デブラ”という町がどこにあるのかすら分からないのだ。

「その……お城からここまでどれくらいかかるのでしょうか?」

 もしかしたら、首都シャノン? ……のすぐ近くの町かもしれない。もし役場に使いなど呼ばれたら、すぐに連れ戻されて、そして私は……とレイナの背筋が震え始めた。

「お城というのは、アリスにある城のことでしょうか?」

「いえ、あの、その……王子様たちが住んでいるお城です……」

 なぜ、この国の地名は外国の女性名になっているんだろう、とレイナは不思議に思いながらも、女将に答えた。

「首都シャノンにあるお城でございますか? おそらく、ここからだと馬で移動しても20日以上はかかると思われますね。私も実際に移動したことはございませんので、確実にとは言い切れませんが……」

「!?」

――私が閉じ込められていたあのお城からここまで20日以上かかる? 私が気を失ってからどれくらい日がたっていたんだろう? それとも、わずか数時間の間に私はおそらく何百キロも超えた距離を移動したっていうの? 何がどうなっているの?

 女将の言葉を聞いたレイナは、ますます混乱し、押し寄せてきた恐怖にその手の震えを止めることはできなかった。

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