―2― 閉じ込められた”私”

 突然で理不尽な事故により、その肉体のみが滅びてしまった河瀬レイナ。

 だが、レイナは――いや、正確にいうとレイナの魂が誘われた17才の少女の肉体は――異世界のいくつかの国のなかで、最も平和で広大な領土を持つアドリアナ王国の首都シャノンにあった。

 雪が降り続き冬の真っただ中にあるシャノンの、そのさらに中心部に位置する城の一角で、レイナは数刻後に目を覚ますこととなる。


 最初に“レイナ”が感じたのは、冷たさであった。まるで氷の上に横たわっているような冷たさ。そして、次に彼女が感じたのは、彼女の“全身”を捕らえている妙な痺れであった。自分の意思通りに体を動かすことのできないよう、細い針金を全身に巻き付けられているような不快な痺れであった。

 レイナがその痺れから逃れようと、その“肉体”を動かそうとした時、複数の話し声が彼女のその凍てつき冷たくなっている耳の中へと飛び込んできた。

――誰? お母さんなの? 寒いよ。布団をかけて……

 口を開こうとするも、まるでその口は縫い合わされているかのようで、動かすことができなかった。

 寒さに凍えるレイナは必死に自分の傍らにいるに違いない母に助けを求めようとしていたが――

 彼女は気付いた。

 自分の傍らにいるのは、自分の母などでは決してない。

 凍てついた耳に飛び込んでくるその声は、レイナが聞いたことのない声――若い男性と若い女性の2種類の声であったのだから。

 若い男性の声は重々しく威厳に満ちていて、若い女性の声は凛として澄み渡っていた。彼らのその口調には焦りが伺えた。喧嘩をしているというわけではなさそうだ。だが、その話が決して楽しいものではないということはレイナは分かった。

――誰!? 一体、何を……!?

 レイナが閉じあわされていた瞼と唇を必死で開こうとしたその時――

 カチリ、と、何かの型に押し込まれようとしていた”自分自身”が、自分を受け入れるために用意されていたその型にピッタリと合わさったような不思議な感覚が”彼女の全身”を走り抜けたのだ。

 体温が“戻ってきた”のをレイナは感じた。同時に、肌を突き刺す冷気と背に感じる硬い床の冷たさが一層鋭く感じられた。

「アンバー、成功か?」

 先ほどから聞こえていたあの男性の声も、さらにはっきりと大きく響いてきた。

「まだ何とも申し上げられません。マリア王女の肉体に入った魂が目覚めないことには……」

 レイナの聞きなれぬ名前、およそ日本人ではない名前が耳に飛び込んでくる。混乱し始めたレイナではあったが、やがてゆっくりと閉じられていた瞼を開くことができた。


 長く重い睫毛がはためき、高い鼻から息が吐き出されるのをレイナは感じた。

 瞳に映る視界はぼんやりと霞んでいた。やけに遠くに天井が見えていた。その薄暗い天井には、まるで宗教画のような天使たちが描かれ、ほほ笑んでレイナを見下ろしていた。

 肉体の末端部はまだ少し痺れを残していた。レイナはふうっと息を吐きだす。その息は眼前で白くなった。

「目が覚めたか?」

 突如、レイナは強い力で両肩をつかまれ、グイッとその上半身を起こされた。

 肩をつかんでいるのは先ほどの声の主である男性――白い肌、金色の髪と青い瞳、整った凛々しい眉、高い鼻梁、おそらく歳は20代半ばぐらいか、一目見ただけでもなみなみならぬ高貴さを感じ、レイナが息をのんでしまうほどの美しい男性であった。

 男性の美しさに見惚れはしたものの、彼のその険しい表情と、“自分”の肩を掴むその強い力に、レイナは恐怖を感じ、身をよじった。

「ジョセフ王子、乱暴は……」

 慌てて一人の女性が自分の傍らに駆け寄り、しゃがみこんだ。彼女は先ほど聞こえていた女性の声の主であるらしい。その女性の顔を見たレイナは、またしてもその美しさに息をのんでしまった。

 歳は強い力で肩を掴んでいる男性より2~3才下ぐらいで、肩で綺麗に切りそろえられた茶色がかったストレートのつややかな髪、それと同じ色をしている瞳は意志の強さを感じさせ、やや薄い唇は賢げにキリリと引き締まっていた。

 並はずれて美しい2人の若い男女。だが、彼らは日本人ではなく、西洋人のような容姿をしている。そのうえ、男性の服装は、明らかに現代の服装ではない。

 まるで中世ヨーロッパに生きていた人間が身につけているような――それにレイナ自身も今まで身につけたことなどない豪奢で重たいドレスを着せられていたのだ。

 ヒッ、と喉を鳴らしたレイナの両肩を、その若い男性は、より強く握った。

「お前の名はなんと申す。どこの者だ。答えよ」

 痛みと恐怖にレイナが顔をゆがめた瞬間、心臓がドクンと大きく脈打ち、体が二重に重なり合う奇妙ともいえる息苦しさが全身を駆け巡った。

 よろけて、床に着いた手には冷たい氷のような感触が伝わってくる。言葉を発することもできず、体を折り曲げ息を整えようとしたレイナの背中を傍らの女性がさすった。

「落ち着いて。ゆっくりと息をしてください。今の時点では、星呼びの術はまだ不完全です。あなたの魂はじきにその肉体になじみます。だから……」

 女性の澄み切った瞳と目が合った。明らかに西洋人にしか見えないこの2人は、ごく流暢に自分に分かる言葉で話をしている。

 そして、レイナは気付いた。自分の周りにいるのは、この2人だけではないということに。

 底冷えのする暗闇のなか、浮かびあがっているのは幾つもの蝋燭が発する毒々しい明かりであった。それが照らし出しているのは、ホラー映画の黒魔術の儀式を思わせるような揃いの黒衣――今、自分の傍らにいる女性も身につけている重たげな黒衣に身を包んでいる数人の男女であった。

 レイナの喉からかすれた悲鳴が発せられた。

 恐怖。

 映画が――それもレイナが好んで見ることはないジャンルの映画が目の前で強制的に展開され始めている。それに、レイナはその映画をあたかかく安全な部屋で見ているわけではない。自分の肩を掴んでいる強い力と、全身を凍えさせる寒さが、この光景が現実のものである何よりの証明であった。

 そのうえ、レイナはそれを身を持って体感しているはずのこの肉体も、いつも慣れ親しんだ自分のものではないように感じていた。

 レイナが何も“答えられぬ”ままであったためか、彼女の眼前にいる男性の顔は段々と険しくなっていく。

 その時、冷たい床に触れていた左手の指先に、何かの液体がつたってきた。ハッとして指先を見たレイナは、自分の指が透き通るほど白く長く、その薬指に小さな石のついた指輪があり、そして指先には、まだ生温かくべっとりとした真紅の液体でついているのを見た。


 ついにレイナは、自分以外にもう一人、この床に転がされていた者に気づいたのだ!

「きゃああああ!」

 転がされていたのは、長髪の男性であった。

 それも、明らかに殺されてその生を断たれた死体なった男性が、すぐ近くに転がされていたのだ。

 死体の彼は苦悶の表情を浮かべ、その口周りは彼自身が吐き出した血でベットリと汚れていた。色素の薄い銀色の長く真っ直ぐな髪は、冷たい床に扇のようにバサリと広がっていた。彼が身につけているのは、聖職者が着るような純白の装束であった。彼のその胸元は幾本もの剣が突き刺さり、真紅の泉の源泉となっていた――

 レイナは口を押さえ、こみ上げてくる吐き気をこらえた。喉が鳴り続けていた。自分のものと思えない心臓もドッドッと脈打ち始め――

――この人は殺されたんだ! 私も殺される! 殺され――いや、死にたくない! 死にたくなんかない! 

「落ち着け!」

 肩を掴む男性の力はさらに強くなった。彼から逃れようともがき、歯がガチガチとなる音が頭の中でも響き、段々と大きくなっていく――

「やっ……お兄ちゃんっ!!」

 思わず兄に向って助けを呼んだレイナであったが、再び体が型を外れて二重になるあの感覚が戻ってきて、次の瞬間、彼女の意識は遠くなった――


 気を失い、その後頭部から硬い床に倒れこもうとしたレイナを男性――このアドリアナ王国の第一王子・ジョセフが慌てて抱きとめた。ジョセフの両手に、“レイナの”長く柔らかな金色の髪がはらりとかかる。

 ジョセフは重い息を吐き出し、傍らの女性――アドリアナ王国に代々仕える魔導士のアンバーを見た。

「お兄ちゃんか……どうやら、まだ年端もいかない子供の魂がマリアの肉体に入ったようだな」

「ええ、そのようですね……」

 アンバーは目を伏せ、悲しげに答えた。

「マリア王女の肉体に入った者には、私からきちんと説明いたします。そして、マリア王女の左手の薬指のフェイトの石が割れないということは……フランシスはまだ生きております。そして、マリア王女もきっと……」

「全く忌々しい奴らだ。アンバー、そして他の者たちも、引き続き厳戒態勢に入れ。この国を奴らの思い通りにさせて、たまるものか……」

 ジョセフの声に、アンバーならび彼らを囲んでいた黒い黒衣の集団が一斉に「御意!」と彼にひざまずいた。



 レイナが再びその瞳を開けるのは、それから丸1日後、ちょうど月が夜空の頂上に昇る頃であった。

 えもいわれぬほど心地よい香がたきしめられているなか、肌触りのいい柔らかなベッドの上にいることにレイナは気づいた。

 ハッと上体を起こしたレイナは、恐る恐る周りを見渡した。

 “あの悪夢”はやはり夢ではなかったのだ。それとも、中世ヨーロッパを舞台にした映画のセットの中に無理矢理連れて来られたのか。

 暖炉のなかに火がくべられているためか、部屋の中は暖かかった。でも、隙間からわずかな冷気も入り込んできている。その冷気の中に、血の匂いが含まれている気がして、レイナは身をさらに震わせた。

 レイナはベッドから跳ね出た。”自分の”指についていたはずのあの真紅の血が誰かが拭き取ってくれたのか、白い指先に戻っていた。

「!!」

 やはり、レイナが今、見ているこの指先や手は、自分がいつも見慣れたものでなかった。自分の手ではないのだ。

 レイナは“自分”の姿を見る。豪奢な刺繍と装飾をほどこされたバイオレット色の美しいドレスを着ている。まるで、童話の中のプリンセスが着るようなドレスを身につけさせられている。

――どうなってるの? 何かがおかしい! 私なのに、私じゃない!!!

 着なれぬ長いドレスの裾につまずきそうになりながら、レイナは部屋の中を駆け回った。

 目線がいつもより10センチ以上は高い。それに乳房はいつもよりも重たく感じた。レイナが胸元に目をやると、バイオレットのドレスから透けるように白い、まるで雪のような美しい肌がのぞいていた。その盛り上がった胸の膨らみと、谷間を示すその切れ込みは彫刻のように美しかった。

 頬に手をやると、いつもより数段なめらかな肌触りが返ってくる。慌てて髪にも手を伸ばす、髪は絹糸のように柔らかく、優しく波打ち背中まで伸びていた。何より、その髪は輝くような金色であったのだ。

 ドッドッドッと心臓がさらに脈打ち始めたレイナは、ダークレッドのカーテンで隠されていた部屋の中の鏡に気付いた。

 鏡の前に立ったレイナは、思い切ってそのカーテンを引っ張った。


 瞬間、レイナは息が止まるほどの衝撃に襲われたのだ。

 その鏡に映っていたのは、この世のものとも思えぬほどの美しい少女であったのだから。

 波打つ金色の髪、白く透き通った肌、青く輝く瞳、この少女はまるで天使か妖精、あるいは女神か――生も死も、過去も未来も、善も悪も、この少女の前では何もかも意味をなさなくなるような美しさ。

 あの”悪夢”のなかで2人の男女を見た時も彼らの美しさに息を飲んだが、その時以上の衝撃、まるで心臓が止まってしまうほどの「美」がそこにあった。


 直視するのも憚られるような少女の絶世の美貌に、我に返ったレイナがその“豊かな“胸を抑え、後ずさった時、鏡の中の少女もレイナと全く同じ動きをした。

「!!」

 レイナは、まだ震えの止まらぬ右手を恐る恐る、その鏡に近付けていく。そのレイナの右手は、鏡の中の少女の“左手”と重なった。

「……!?」

 レイナの眼前にあるのは、確かに鏡だ。今、右手を鏡に近付けているのも自分であることは間違いない。でも、この鏡に映っているのは自分ではないのだ!

 美しいドレスを身にまとった、人間とは思えぬ美しさを持つ絶世の美少女が映っているのだから――

 後ずさったレイナは、この鏡に窓が映っていることに気づいた。部屋の天井は高く、随分と高い位置に窓があった。その窓から見えるのは夜空の満月であったのだが……

「月が……青い?」

 夜の闇のなか、満月は青く光り輝いていた。ちょうど、先ほど鏡に映し出された絶世の美少女の瞳の色と同じであり、命をたたえ澄み切った海を思わせるような青であった。

 足元からグラグラと震えだした。

――月が青いなんて、そんな……ここはどこなの? 目の前の綺麗な女の子は一体、誰なの? いや「私」はどこにいるの? 「私」はどこへ行ってしまったの?

 レイナはこの震えている足すら、自分のものだと思えなかった。

 いや、この体は本当に自分のものではない。体内で物凄い速さで脈打っているこの心臓も、自分の心臓ではないのだ。


 レイナが絶叫せんばかりに口を開けた時、この部屋の扉がノックされた。

 ビクッと飛び上がったレイナは思わず、鏡の前にあった天使の置物を掴んだ。ゴクリと唾を飲み込む。ノックの主は、レイナの返事が聞こえなかったためか、もう一度部屋をノックした。レイナは何も答えず、置物を握りしめたまま、部屋の隅へ後ずさった。

 身を縮こまらせるレイナが置物を握りしめているその力と比例するように、部屋の扉は重々しい音を立てながら、ゆっくりと開いていった。


 年季の入った音を立て開いた扉の向こう側にいたのは、”あの悪夢”のなかにいた女性であった。

 黒いローブに身を包んだ女性は、部屋の隅で置物を手に構えているレイナの姿を見て、ギョッとはしたものの、すぐに悲しげな表情に変わった。

 女性がレイナに向かって一歩を踏み出すと同時に、レイナは壁向かって一歩後ずさった。レイナが握りしめている天使の置物は、汗で湿りヌルヌルとしはじめている。けれでも、レイナは置物をさらに固く、握りしめた。手の熱で天使の置物が形を変え、溶けてしまうんではないかと思うほどに。

 女性はさらにこちらに近づいてきた。レイナの脳裏には、あの純白の装束を血で染め尽くされ、無残に殺害されていた銀髪の男性の死に顔が生々しく再生され始めていた。

――この人たちは、あの男の人を殺したんだ! 私はその殺人現場の目撃者だ! 私も殺されるんだ!

 レイナまでわずか5歩程度の位置にまで近づいた女性は、レイナを諭すように優しい声を出した。

「私達はあなたに危害を加える気はありません。そんなもの置いてください」

 明るい部屋の中で見る女性の整った顔立ちは、さらに彼女の聡明さを感じさせるものであった。その声も涼やかではあるも、まるで子供に言い聞かせるように優しかった。だが、レイナは置物を握りしめているその手の震えを止めることはできなかった。いや、全身が震え続け、目じりに熱い涙も滲み始めていた。

 女性がゆっくりと口を開く。

「私はこのアドリアナ王国に代々仕えている魔導士のアンバー・ミーガン・オスティーンと申します。どうか、あなたのお名前を教えてください」

 レイナの手より落ちた置物は、鈍い音を立て、床に転がった。

 そして、レイナ自身も床に崩れ落ちた。まるで2度と戻れぬ深い深淵の中に吸い込まれていったような、彼女の息は乱れ始めた。

――何? アドリアナ王国って、そんな国聞いたこともない! それに魔導士って……一体、いつの時代の話なの? 「私」がいるここはどこなの――?

 苦しさと恐怖に胸を抑えへたり込んだレイナの頬に、涙がボロボロと流れていく。

 慌てて駆け寄ったアンバーが、レイナの肩に優しく手を置いた。悪夢の中で金髪の男性に肩を掴まれた時の痛みと、苦悶の表情を浮かべ死――いや、殺されていたあの男性の死に顔が交互にフラッシュバックする。

 レイナは悲鳴をあげ、アンバーの手を振り払った。そして、床に尻を着いたまま、壁へと後ずさった。

「殺さないでください!」

 このレイナの涙ながらの命乞いを聞いたアンバーは、その顔をさらに悲しそうに歪ませた。

「……お願いだから、私の話を落ち着いて聞いてください。“私たち”はあなたに危害を加えたりは絶対にしません。それに、全ての決着が着き次第、ご家族にも会わせて差し上げます。お名前は何と? どこの町に住んでいたのですか?」

 アンバーの「家族に会わせてあげる」というその言葉に、レイナの涙はぴたりと止まった。

「おっ……お願いします! 私を家に帰してくださいっっ!」

 父と母、そして兄の政明の4人で暮らしていたあの家に、そしていつも帰宅するのが当たり前になっていた家に、今は何を引き換えにしても返りたかったのだ。

「どうか、そんなに興奮しないで。魂と肉体がしっかりと馴染むのには、まだ時間がかかります。ゆっくりと息を……」

「ここはどこなんですかっ! 私に一体何をしたんですか? どうして、こんな姿に……」

「話を聞いて…」

「”私”を元に戻してください! 家に帰してください!」

 アンバーは、息をついた。そして、言い聞かせるようにレイナの両肩に優しく手を置き、その唇をそっと開いた。

「どうかお許しください。残酷なことですが、あなたの元の肉体は既に滅んでいるのです」

「……滅……んだ?」

「私は星呼びと呼ばれる魔術により、肉体が滅んだばかりのあなたの魂を、アドリアナ王国の第一王女、マリア・エリザベス王女の肉体へといざなったのです。けれども姿は違えど、あなたの魂は再びこのアドリアナ王国で生きられるのです。もう一度、あなたのご家族やご友人に会うことができるのですよ」

「……そんなアドリアナ王国なんて、知りません!」


「自分が住んでいる国の名前すら知らぬとはな。とんだ子供の魂が入ったもんだ」

 突然のその声に、レイナのみならず、アンバーもハッとして、扉を振り返った。扉に立っていたのは、あの金髪の男性であった。

「ジョセフ王子……」

 扉よりこちらに突き刺すような視線を向けているジョセフは、かなりの長身であった。彼のその洗練された立ち振る舞いから発せられる、有無を言わせぬような威圧感までもが、ここまで漂ってくる。レイナは思わず、身を震わせ、アンバーの影に隠れてしまった。

 ジョセフはカツ、と靴音を響かせ、部屋の中に入ってきた。

「そなた、名はなんと申す。答えよ」

「……レイナです」

 ジョセフの威厳に圧倒されたレイナは、震える声で思わず答えてしまっていた。

「レイナとやら、して歳はいくつだ?」

「15才です……」

「もっと幼いかと思っていたが、マリアの2歳年下か……して、どこの町の生まれだ?」

「……」

 答えられずに黙りこんでしまったレイナを、傍らのアンバーが優しく諭す。

「レイナ、このお方は、このアドリアナ王国の第一王子のジョセフ・エドワード様ですよ。ご無礼をしてはいけません」

 だが、レイナは言葉を発することはできなかった。唇からヒューヒューと空気が漏れているのを感じ、唇はブルブルと震え――

――ここは私が今まで暮らしていた世界じゃない! 全く知らない異世界に、私は……

「お願いします! 日本にっ、日本に帰してください!」

「ニホン? そんな名前の町は、我が国にはなかったはずだが……」

「町じゃありません、国の名前です!」

 金切り声ともいえるレイナのその声に、ジョセフとアンバーは、顔を見合わせた。

「……ここはっ……私が今まで暮らしていた世界じゃありません……」

 アンバーの顔がグッとこわばり、ジョセフは額を抑え、宙を仰ぎ見た。

「アンバー……お前の魔力は異世界にまで及ぶとはな」

「申し訳ございません」

 アンバーはジョセフにひざまづき、深く頭を下げた。アンバーが隣のレイナに向き直る。

「それではレイナ、あなたはこの世界のこの国のみならず、あの神人(かみびと)の地でその生を受けたわけでもないということですか?」

 形の良いアンバーのその唇から出た、その“カミビト”という言葉も何が何だか分からなかった。返事の代わりに頬に涙が幾筋も流れていった。

 しゃくりあげながら、レイナはやっとのことで彼女に向って言葉を発することができた。 

「お願いします! 私を元の世界に返してください! 私を生き返らせてください! 私はいろんな人にまだ伝えられなかったことがあるんです! お願いします! お願い……」

 

 土下座せんばかりに頭を下げ泣き叫ぶレイナの悲痛な声を中断するように、ジョセフがピシャリと言い放った。

「レイナとやら、気の毒だが、ことの決着がつくまでお前をこの部屋から出すことはできない。だが、おまえの警護は厳重に行い、入用のものがあれば、なんだって用意する。寂しいのなら、話し相手も……」

「ジョセフ王子、それは…」

 口を挟もうとしたアンバーに、ジョセフは向き直った。

「アンバー、お前は自分がなすべきことに全力を注げ。あの忌々しいオーガストの姿も消えているようだ。おそらく、あいつもフランシスと手を組み、こちらの様子をうかがっているのだろう……」

 ジョセフは、高い窓より見える満月を仰ぎ見た。彼の瞳と同じ色で輝いているその青い満月は、いまや灰色の雲につつまれ始めていた。

「これ以上、奴らにこの国をひっかきまわされてたまるものか!!」


 それから――

 どれくらい時間がたったのかレイナには分からなかった。

 柔らかく弾力のあるベッドの上でレイナは泣き続けていた。まるで涙がベッドを満たすほどの涙を、彼女は流し続けているように思えた。

 レイナは、時折、唸り声をあげ、ベッドに拳を叩きつけた。だが、鈍い音と痛みが戻ってくるだけであった。

――私の肉体は既に滅んでいる? 死んだ? まさか、あの日の朝、あの車に突っ込まれてそのまま――!? でも、それしか心当たりなんてない。でも、きっと私は罰があたったんだ。あんな学校は私のいるところではない、そう思って周りを拒絶し続け、八つ当たりをしていたから――!

 涙に濡れた顔のまま、レイナは寝返りを打った。仰向けになったレイナの涙で滲んだその瞳に、繊細に彫刻をほどこされたベッド支柱やその天蓋部分が映った。

――私は自分も周りの人たちも否定し続け、とうとう本当に自分でなくなってしまった……異世界の見知らぬ王女様の体に私の魂だけが入っている。本当の私なんて、もうどこにもいなくなってしまったのかもしれない。帰りたい、本当の自分に。会いたい、大切な人たちに。大切なことを伝えられなかった人たちに――でも、奇跡が起こって、もとの世界に、日本に帰れたとしても、こんな別人の姿で私だと分かってもらえるはずが……

 レイナはベッドから姿を起こした。ずっと泣き続けていたためか頭には重い痛みが残り、足元はふらついた。近くのテーブルには侍女らしき女性が持ってきた食事が手つかずのままあった。

 侍女は食事だけをそのテーブルに置き、“レイナ”を見るなりビクッとし、一刻も早くこの部屋から出たいというように慌てて飛び出て行った。湯気を放っていた食事はとうに冷めきり、レイナ自身も食欲など湧いてくるはずもなかった。

 レイナはフラフラとした足でテーブルを通り抜け、鏡の前に立った。そこに映ったのは、やはり15年間毎日見ていた河瀬レイナの顔ではなく、泣きはらした顔すらゾッとするほど美しい絶世の美少女であった。

――でも……私が今いるこの肉体の本当の持ち主……マリア王女の魂は一体、どこに行ったっていうの? まさか、あの人たちに殺され……

 レイナはジョセフの顔を思い出した。このマリアと同じ金色の髪と青い瞳を持つジョセフは、この上なく美しく整い気品ある容貌をしていたが、どこか冷たさを感じさせずにはいられないものであったことを。

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