The Eden Project

弥生 久

Flavian Amphitheatre



 冥王星の彼方から、宣戦布告が届いた。

 二〇〇〇年のことだった。

 月は戦場になった。




     ●




 ノックの音が聞こえる。金属バットがボールをとらえる音、部員の掛け声と顧問の怒鳴り声、屋上で誰か下手くそが吹いているトランペット、廊下に響いて消える笑い声、そして紙の上をシャープペンがはしる音と文庫本のページを繰る音。


 教室には西日が差している。涼しいので窓は開けているが眩しいのでカーテンは閉めていて、わずかな風がカーテンをゆるやかに揺らしている。


 午後四時四十八分。


 教室には、おれと、もうひとり女子生徒がいる。窓際後ろから二番目前から四番目のおれの席から、前に二つ右に四つ。


 木崎結羽。


 第一印象を言えば「美人」であり、クラスメイトとして半年間付き合ってきた感想を言えば「真面目だなあ」の一言につきる。いつもむっつりと口許を引き結んで、不機嫌そうにわずかに眉を寄せている。誰に対しても何に対しても敬語。融通がきかない。真面目というより頑固のほうが正確かもしれない。


 ただ、不真面目な輩が許せないと憤るタイプというわけでもない。自分の真面目さを「理解」して、その上で、自分と他者を受け入れているのだと思う。ある意味、クラスのなかでは一目置かれ、そしてやはり浮いている。


 が、まあ頼りにされているのは事実で、いまも文化祭実行委員の仕事をしている。


 この地域は田舎で、ここ本萩高校も生徒数の少ない小さな学校だから、文化祭と言えるほど立派なものではない。二日間もやらなくていいのではないかとすら思えるし、だいたい、クラス数が一学年に三つの時点でもうなんだか物悲しくなってくる。


 のだが、そこは真面目な木崎のことだ。いまも真剣な表情でなんだかよくわからないプリントにむかっている。


 文化祭の準備は夏休みの少し前から始まり、そのときに委員になってから木崎は毎日教室に居残っている。本萩高校では部活動への参加が義務付けられているわけではなく、おれと同じく木崎も部活には入っていないが、しかしそれでもよくやるものだと思う。おれだったらあんな七面倒くさいだけで何の意味もない書類など適当に片付けるに決まっている。


 間違いなくそうする。


 そして、そうしないから木崎は木崎なのだろう。


 それは傍から見ればずいぶんと損な生き方だろうし、なんだか滑稽にすら見えてきてしまうほどだが、その裏で、誰もがどうしようもなく惹かれる生き方なのだと思う。そして本人はそのことに気づいてすらいまい。


 つまりはそういうやつなのだ。


 いまもそいつは目の前の紙切れを真剣に見つめている。


 そんな木崎とおれが、多少なりとも言葉を交わすようになったのにはちょっとしたいきさつがある。




     ●




 夏休みが明けて間もなくのことだ。


 そのころにはおれはもちろんのこと、木崎が放課後に居残るのもいつものことになっていた。ただ、言葉を交わしたことはまだなかった。とくに用がない上に、真剣な木崎をあえて邪魔しようという気もおきず、そもそもおれは人と話すのが得意というわけではない。


 まして、あの木崎である。


 おれのほうから話しかけることなどあるわけがなかった。

 つまりそれは、最初に話しかけてきたのは木崎のほうだった、ということでもある。


 後ろに二つ分右にだいたい三つ。


 その日の木崎はそこにいた。教室の後ろ、机を少し動かしてつくった床のスペースの上に模造紙を広げ、なにやら書き込んでいる。


 あのときもやはりノックの音と下手くそなトランペット、シャープペンの音とページを繰る音、そして置いてけぼりをくった蝉の声が聞こえていた。


 午後三時二十三分。


 まだ空は明るく日も傾いていないので、カーテンを開けていた。日差しはまだ暑いが、開け放した窓からの風は軽やかだった。グラウンドの片隅に、いまだ一度も使われたことのないという防空壕が照りつける日差しを受けて横たわっている。見るともなしにそれら窓からの景色を眺めていると、自然とあくびがでそうにな


「あの」


 不覚にもかるくとび上がってしまった。振り返るとすぐ後ろに木崎が立っている。なんだろうまさかあくびなどするなと叱られるのかと身構えていると、木崎は淡々とした口調でこう言った。


「ごめんなさい。柏原くん、定規持ってませんか」


 じょーぎ?

 ああ、定規。


「あ、ああ、持ってるよ。ちょっと待ってくれ」


 なぜか少し慌てぎみに、おれは鞄の中をあさる。木崎がおれをじっと見下ろしているような気がして、空白を紛らわすように訊く。


「何に使うんだ?」

「文化祭の来客用のポスターです。クラスと出し物の一覧表を作っているので線を引きたかったのですが、定規を家に忘れてしまって」

「てことは長い方がいいのか?」


 一瞬、木崎はきょとんとしたようだった。下を見て鞄をあさっているおれには直接表情は見えなかったが。


「え? ああ、はい、そうですね。できれば」


 模造紙は結構な大きさだ。普通の十五センチ定規ではあまり役に立つとは思えない。


「三十センチと一メートルならどっちがいい」


 少し考え込み、木崎はこう答えた。


「できれば、どっちもあるほうがいいです」


 なるほど。木崎らしい答えだ。




 三十センチ定規は美術で使うものがあったのでそれを貸した。芸術科目は美術、書道、音楽から一つを選択することになっていて、木崎は書道、おれは美術だった。

 では一メートルのほうはといえば。


「すぐに戻るから待っててくれ」


 おれはそう言い残して教室を出た。

 向かう先は、一階の美術室だ。




 森川源一朗といえば校内にその名前を知らない者がいないほどの変人である。


 こんなごつい名前をしているくせにひょろりとした体躯で、いまどき宴会の余興でもかける人がいないような丸眼鏡をかけ、髪はあっちこっちを向き、美術の教師のくせになぜか白衣を身につけている。


 美術室と続き部屋の美術準備室を根城とし、夜に怪しげな呪文が聞こえてきた等の噂が後を絶たない。たいていへらへらと笑っていて、職員会議遅刻の常習犯である。それから「教師不在による自習」も多い。おかげで一部の教師から蛇蠍のごとく忌み嫌われ、多くの生徒からは大人気である。


 なぜこんな男が教師になれたのか、まさに摩訶不思議と言うほかない。世も末だと思う。

 そしてそんな奇人変人美術教諭森川源一朗の目下の関心事は、なんとこのおれなのだ。世も末だと思う。


 入学式の日のことだった。


 新入生は式の前に各々のクラスで担任から一通り説明を受ける。そういうわけで、おれも自分のクラス、一年二組の窓際後ろから二番目前から四番目に座って、窓の外をぼんやりと眺めていた。同じ中学校から来たやつは違うクラスだったし、もともと親しかったわけでもない。そしておれは、人と話すのが得意ではないのだ。


 窓からの空には月が浮かんでいた。

 いつもと何らかわり映えもなく、十年前からなにも変わらない。


 なんて穏やかな心持ちに遊んでいるおれの耳に、廊下から悲鳴とずだだだだだだだだという(おそらくは)足音が聞こえてきて、次いでがらばっかーんとすさまじい勢いでスライドドアが引き開けられ、


 そこに立っていたのは、ぼさぼさ丸眼鏡のひょろひょろ白衣だった。


 森川源一朗だった。


 不審者丸出しの、とても教師とは思えない爛々と光る双眸で教室中を見回し、目的の生徒をみとめたのかずんずん教室に入ってくる。


 本物の不審者だと思った。

 教師かもしれないとは一切考えなかった。

 先生に伝えなくてはと思った。


 不審者の進路上にいる生徒が怯えたように後退り、道をあける。邪魔な机も椅子も蹴散らし、その男の向かう先は、


 がっしと肩をつかまれる。気がふれているとしか思えない一対の目がおれを至近距離から睨み付けている。


 おれだった。


「きみが、柏原大地くんかね ! !」


 おれだった。

 漏れかけていた悲鳴をなんとかのみこんで答えた。


「───、え、あの、あ、はい」

「そうかそうか、きみが柏原くんか!」


 ばしこんばしこんと背中を叩いてくる。おれの背中よりもむこうの腕が折れないかが心配だ。

 そして不審者は、こうのたもうた。


「ではあらためて───県立本萩高等学校、そして我が美術部へようこそ ! !」


 反射的にどうもと言いそうになるが、よく考えてみれば何を言っているのかさっぱりわからない。本萩高等学校は──ああ、この学校か。なら美術部というのはこの学校の美術部で、

 あれ?


「──え、あの、先生、なんですか?」


 指まで差してたずねてしまった。


「いかにも。柏原くんは何だと思ったのかね?」


 不審者とはまさか言えない。いやまあと適当に誤魔化しておく。

 しかし訊きたいことはまだある。


「あの、美術部って何ですか」


 は?とでも言いたげな目で見られた。そして、なにやら納得したような表情を浮かべ、


「それはもちろん、真剣に絵を描いたり真剣に石膏像をつくったり真剣に版画をしたり、ときには真剣に鑑賞も行ったりする部活動のことだよ」


 それは知ってる。まさか相撲の研究をしていたりする美術部があるなんて思っちゃいない。


「いやあのそうじゃなくて。さっきようこそって、」

「入るだろう?」


 は?


 誰がですかと言いかけて、あ、これおれだと当たり前のことに気づく。

 美術部ねえ。

 うーん。


「すいません、入るつもりはあまり」

「なんだと?」


 ・・・・・・おお。


 不審者の纏う雰囲気が豹変する。うつむいた顔は表情が読みとれず、いつの間にかおれの机の上におかれていた両腕が震えてがたがたと机が揺れている。

 嘆かわしいといわんばかりに小さく小さくため息をつき、吸って、


 絶対学校中にひびいたと思う。


「きっさまぁ─────────────っ ! !」


 死んだと思った。


「さてはお高くとまってやがるなやがるなこんな片田舎のちんけな高校の貧相な美術部なんぞ入るにあたらんそのあたりのぼんくらなまくらと馴れ合う気など一切ないとそういうことかあっ ! !」


 何を言っているのかさっぱりわからない。わからないが、しかしいくらなんでも教師が生徒に向かって貴様はないのではないか。


 と、そんなことを考える余裕があのときのおれにあるはずもない。


「いやあのそもそもおれ絵なんて描いて」

「ないというのかそうか! そうかそうかそうか ! !」


 はっはっは、とひとしきり笑うと、


「うおらぁ ! !」


 いきなり卓袱台返しときた。しかしよく計算された一発で、誰にも被害は及んでいない。


 初撃に度肝を抜かれていたおれだったが、一周回って落ち着いてきた。

 諦めたと言ってもいい。


「このやろぉなめんなしらばっくれんな! 俺は五年前『第二十四回本萩町少年少女図画工作作品展・小学生の部』で見た貴様の絵を忘れんぞ!」


 びしぃ、という効果音すらつきそうな勢いで人差し指をつきつけてくる。ほとんど地団駄を踏まんばかりだ。


 そして、


 五年前、本萩町少年少女図画工作作品展。

 ああ。なるほど。

 あれか。


 ポーズをとったままぴくりとも動かない不審教師に言う。


「───あれは、適当に描いただけです。夏休みの宿題で絵か書道って言われて、なんとなく絵にしたんです。あれを作品展に出すって言われたときはこっちがおどろいたくらいですよ」


 本当のことだ。あれ以来おれは絵なんて一度も描いていない。あのときもらった賞状も今頃どこにあるのか。


「別に、絵に興味があるわけじゃありません」


 そして、


「そうか」


 腕をぱたりとおろし、不審教師は変に穏やかな声で言った。ポケットに手をつっこみ、ふー、と息をはく。じつに自然な動作で机をもとに戻し、白衣の裾をひるがえして何事もなかったかのように去っていこうとする。


 思わずその背中を呼び止めそうになってしまった。それが通じたのかどうなのか、教室の出口でふと足を止め、肩ごしに振り返って、


「まあ、俺は嘘だと思うけどね」


 視界から消えた。


 おれが森川源一朗という名前を知ったのは、その翌日のことだ。




 それ以来、毎日のように森川は勧誘をしてきた。入学から半年がたった今もだ。まったく、その根性には感服するしかない。


 階段を一階までおりて目の前が美術室。スライドドアを開ける。


 美術室には森川しかいなかった。まあいつものことだ。


「おお、柏原か! ついに入部を決めてくれたんだな!」

「ちがいます」


 がーん。


「今日も、部員は全員欠席ですか」

「ああ。残念ながらな。いやあ、今日こそは紹介したかったなあ。山田、山川、山上、山」

「先生、一メートル定規ってありますか」

「山ノ上、ん? ああ、あるぞ。借りたいのか?」

「おれが、じゃないんですが」

「ふむ、まあいいだろう。ただし」


 そこで言葉を切り、ふっ、と笑みを浮かべ、


「お前が美術部に入部するならな」

「前向きに考えます」

「っだあー、お前いつ訊いても前向きだよなあ!」

「じゃあ後ろ向きに考えます」

「よしいいだろう。ちょっと待ってろ」


 そう言って美術準備室にひっこむ。本当に気づいていないのか、それともただのノリなのか。


 ちょっとというのは本当で、ものの十秒とかからずに出てきた。その十秒の間に、本来美術準備室からしてはいけないはずの破壊音が絶え間なく聞こえていたのは気のせいだと信じたい。


「ほれ。返すのは明日でもいいぞ」


 森川から手渡されたのはスチール製の製図用のものだった。礼を言って踵を返そうとしたところで呼び止められた。


 実にシリアスな表情で、どこぞの司令官のように顔の前で手を組み合わせて、


「入部の件、後ろ向きに考えるというのは本当だな?」


 ・・・・・・本気で気づいていないのか。森川なら、おもしろがってこのぐらいの演技はしそうなものだ。

 まあいいか。


「もちろんですよ」


 そう答えて今度こそ踵を返そうとしたおれを、森川は再び呼び止めた。


「なあ」

「なんですか」

「お前、なんであの絵描いたんだ?」


 苦笑する。前にも言ったはずだった。宿題で描かなければいけなかったから、やっつけで描いたのだ、と。そう言おうとしたおれを遮るように、


「宿題だったから、って言うんだろ? そうじゃなくてだなあ、その宿題で、なんであの絵・・・を描いたのか、ってことなんだよ。単なる絵ってことじゃなくて、あんな絵ってことだ」


 なんでって、別に──


「あの絵は別にモチーフが変わってるとか、アングルがいいとか、技法がめずらしいとかそういうわけじゃなかったんだがな──」


 別に──


「お前の強烈な意思を感じたぞ」


 意思。

 ああなるほど。確かにあのときのおれは───


 どうにか笑えたと思う。


「さあ。とっとと終わらせて遊びたいっていう気持ちが表れてたんですかね」


 森川はおれの顔をまじまじと見つめ、鼻息をつき、


「そうか。悪かったな、変なこと訊いて」

「いえ」


 踵を返す。

 森川は、今度は呼び止めてこなかった。


 美術室を出て、階段の踊り場に足をかけたところでこう聞こえてきた。


「後ろ向きってだめじゃねえか!」




 教室に戻ると、木崎がおれの席に座って窓の外を眺めていた。


 くるりと振り返った木崎と目が合う。

 美人だよなとやはり思う。


「悪いな待たせて。これ借りてきた」


 軍刀のように肩にかついでいた一メートル定規を差し出す。

 木崎はなぜか少し戸惑ったように、


「あ、ありがとう、ございます」


 さてお役目御免、となればいいのだが、時計を見るとまだ三時半にもなっていない。なんだかじゃあ頑張れと文庫本に戻るのも憚られるので、おれは手伝いを申し出た。


 ポスターは、下校時刻の五時半ぎりぎりまでかかってなんとか完成した。


 借りた定規を返しに行き、再び幾度目になるかわからない勧誘を受け、後ろ向きとはどういうことだと鼻息荒く問い詰められたのでじゃあ右向きに考えますと答えておいた。平行線じゃねえかこのやろおおおとがたがた机を揺らしている森川をほっぽって教室に戻ると、木崎が待っていた。


 こう言われた。


「柏原くんはもっと無愛想だと思ってました。意外と親切なんですね」


 あいつなりの礼だったのだと思うことにしている。



 そうそう、木崎についてもうひとつ言い忘れていた。

 木崎は、真面目で頑固で誰に対しても敬語で教室でも一目置かれていて、そして正直でもある。


 意外は不要だよなあ、と思わなくもなかった。




     ●




 午後四時五十七分。


 あれ以来、おれはたびたび木崎を手伝っていた。が、今日は何やら書類作成らしかったのでおれにはとくに手伝えることもなく、久方ぶりに本を読んでいるというわけだった。


 もうちょっと、気配を発してもらえないものだろうか。


「あの」

「うおっ」


 いつの間にか背後に木崎が立っていた。なぜだ。お前の席はおれより前なのだから、立つならふつうおれの前に立つだろう。


「な、なんだ、どうした」

「終わったから帰ろうと思ったんです」

「ああ、なるほど。お疲れさん。戸締まりはおれがしておくから」


 すると木崎は意外そうに、


「え、一緒に帰らないんですか」


 ・・・・・・。

 おれと木崎が一緒に帰っているのは、作業が下校時刻ぎりぎりまで長びくからだ。おれは木崎が居残るようになる前から下校時刻ぎりぎりまで学校にいたから、どちらかと言えば『おれと木崎が一緒に帰っている』というよりも『木崎が帰る時刻がたまたまおれと同じになっている』というほうが正しい。


 というのがおれの認識なのだが。


 ・・・・・・まあ別に、強いて下校時刻ぎりぎりまで残らねばならない理由もない。それに今日は寄りたいところもあるから、ちょうどいいかもしれない。


「まあ、じゃあ、帰るか」


 手分けしてカーテンを開け、束ねておく。窓を閉める。いつの間にかノックの音もトランペットもやんでいた。教室の鍵は開けっぱなしでいいのでそのまま。教室を出て真っ直ぐ昇降口に向かおうとすると、


「この書類を提出するので職員室に寄っていきます」


 と言うので、おれもついていくことにした。


 薄暗い廊下に二人分の足音が響く。窓からは西日が斜めに差していて、蛍光灯のついていない廊下で明かりといえばそれだけだった。


 おれはとくに用がなかったので職員室の外の廊下で待っていると、ものの一分とかからずに木崎が出てきた。連れだって昇降口へと向かう。靴を履き替え、黒々とした防空壕を横目にグラウンドを横切って校門をくぐる。


 ああそうだ。


「おれも寄りたいところがあるんだが、いいか」






 本屋である。


 帰り道から少しそれて川沿いの路地に入ると、ぱったりと人足が途絶える。街灯もほとんどないその通りに、ぽつんとひとつ、臼井書房の看板がある。


 最近手元にある本をだいぶ読みつくしてしまったので新しいものを探そうと思っていたのだ。といって、とくにこれと決めた目的の本があるわけではない。大して広くもない店内をふらふらと物色する。なぜか木崎がおれのあとにぴったりとくっついてきて、


「柏原くんはどんな本を読んでるんですか」

「好きな作家いるんですか」

「おすすめとかないんですか」


 と質問してきて、十歩に一度くらいのペースで足を止めてはこれはどうかと勧めてくる。


 二十分ほどかかってそれぞれ一冊ずつ買った。おれは古典的海外SF、木崎はおれが勧めたある作家の短篇集。


 臼井書房を出て川沿いをしばらく歩く。鞄に入れればいいのに、なぜか木崎は買った本を腕に抱えて歩いていた。やがて小さな橋に差しかかり、おれと木崎はそこでわかれた。おれは左、木崎は真っ直ぐ。


 不器用に手を振っていた。




 川を渡る橋の上でなんの気なしに見上げた空はすでに夜になっている。


 どこかで虫が鳴いていた。




     ●




 八。


 少ないな、と思う。普段は二十前後なのだが。


 何の数かといえば、朝刊の片隅に載っていた昨日の月での死者・行方不明者の合計である。行方不明というのは要するに「遺体を回収できませんでした」ということなので、実質的には死者と同じだ。


 昨日の新聞ではいくつだったのかも思い出せない。それだけ意味のない数字ということだ。この日常と月の戦場を結ぶのは、紙切れに印刷された文字と液晶画面に無表情に表れる数字だけだ。戦争は、遠い遠い、どこか向こうにある話で、おれたちにとってはあってもなくても同じなのだ。


 この時刻はまだ月は見えないが、しかし見えたとしてもそこに何かがあるわけもあるまい。



 六年前。


 冥王星の公転軌道、そのさらに外から超指向性の強力な電波にのせられたメッセージが届いたあの年。

 

 いっとき、世界は大混乱に陥った。


 あらゆる株価が暴落し、経済破綻した国は別の国に吸収され、かと思えばこれを好機と見て独立運動を展開した地域もあった。預金を引きずり出された銀行はことごとく潰れ、その煽りをくって大小にかかわらず企業も倒産し、各地で犯罪やテロや紛争が相次いだ。怪しげな宗教が横行して、職務放棄をし始める者も少なくはなかった。


 けれどそれらは一年と経たずに終息した。なぜならやつらは地球にまでは攻めいってこなかったからだ。


 一年後には、すべてが元どおりになっていた。



 そして、おれは落胆していた。

 失望と言ってもよかった。


 何もかもが変わると思っていた。


 いつ果てるとも知れない、最早作業のように成り果てて日常の中に埋没した毎日が、名も顔も知れないあいつらの襲来で変わってくれると思っていたのだ。おれをここからどこか知らない場所に連れ出すのは、あいつらに違いないと信じていた。そこがどんな場所でもいいと思っていた。ここから消え去りたいのだ。ここにはいたくなかった。


 なのに、


 黒板にチョークがあたる音。ページをめくる乾いた音、ひそめた声でしゃべっている生徒、居眠りしているやつ、窓の外には誰もいないグラウンド。隣のクラスから笑い声が聞こえてくる。教師が教科書を無表情に読み上げる。グラウンドの向こうの山にかこまれた田舎町と、月の見えない空。


 だからおれは絵を描いたのだ。

 あの落胆と失望と、未だ残る期待を何かにぶつけなければどうしようもなかった。


 森川はあの絵に意思を感じたと言った。


 それはそうだ。おれは期待を捨て去るためにあの絵を描いたのだから。




 授業をやり過ごすと、放課後がやってきた。

 驚くべきは、あの木崎が本を読んでいることだ。事情をたずねると、


「わたしにだって仕事がない日くらいあります」


 睨まれた。


 木崎が読んでいるのは昨日おれの勧めで買ったものだ。すでに半分ほど読み終わっている。


 ノック、トランペット、シャープペンの音はせず、ふたりぶんのページを繰る音。


 この中に生きると決めた。もう諦めると決めたのだ。それでいいはずだ。





 帰り道は点々と設置された街灯が薄闇をたよりなく照らしている。


 木崎の提案で寄った本屋から結局何も買わずに出ると、おれたちは川沿いを歩きながら読んだ本の感想を話し合った。


 なんということのない会話だった。それがどういう流れでそうなったのかわからないが、いつの間にか、最近多いテロの話になっていた。


「テロをおこしている人がみんな元宇宙軍兵士なのは、何か理由があるんですか」

「さあな。それまで戦ってたんだろうから、そういうことをしたくなるのもまあ当然なんじゃないか」

「ですがそれでは自分も死んでしまっているのが納得いきません。兵士の方々は死なないために戦っていたはずです」

「たしかになあ」


 ふと空を見上げる。


 月。


 唐突に、突拍子もない考えが浮かんできた。


「実は戦争なんておこってない、とかな。裏に大企業や大国がいて、何かの目的のためにこんな嘘をでっち上げて、でも軍隊のひとつくらいはつくっておかないとバレるから、適当に集めて何人かは死んだことにして。で、それに耐えられなくて偽の軍隊を辞めたやつが、黒幕への示威行動とし」

「柏原くん」


 遮る声につられて木崎のほうを見る。


 木崎が、怒っていた。


「本気で言ってるんですか」

「───いや、まさか。冗談だ」


 月はあさっての方向を見つめていた。



 嘘だった。




     ●




 またテロがおきた。

 今月にはいって四度目だ。しかもわりと近所で隣の市だった。新聞の片隅に犠牲者の名前がずらりと並んでいて、見るともなしにそ



 森川源一朗



 え。


 記事の見出しを確認し、名前は三度確認した。間違いなかった。


 そうか。


 死んだのか。


 ひょろひょろの体躯、冗談のような丸眼鏡、ぼさぼさの髪で白衣を着て根城は美術準備室。教師には鼻つまみで生徒には大人気の変人。

 だった。


 今日から、放課後に美術室に残る人間は誰もいない。山田も山川も山上も、誰も二度と来ない。


 おれは新聞を見つめて身動きもしないまま、次は左向きに考えますと答えるつもりだったのにと、そんなことばかり考えている。




 朝礼が開かれた。校長が森川が死んだことを伝え、悔み言を言い、生徒にくれぐれも気をつけるようにと注意して朝礼は終わった。泣いている者はただのひとりもいなかった。


 その日の美術は、教師不在により自習となった。




 放課後。ノック、トランペット、笑い声。ページを繰る音はひとりぶん。


「あの」

「なんだ」

「柏原くんは森川先生と仲良かったんじゃないんですか」

「別に、そういうわけじゃないと思う」

「───悲しくないんですか」


 ───この中に生きると決めた。


「・・・・・・別に。あいつが死んだからといって、何かが変わるわけじゃないしな」


 答えは返ってこなかった。沈黙に堪えられなくなって木崎を見ると、呆気にとられたような顔をしていた。


 初めて見る表情だった。


「───な、」


 ───もう諦めると決めたのだ。


「なんでそんなこと言うんですかっ」


 ───それでいいはずだ。


「六年前、地球を侵略しに宇宙人がきた。何もかも変わると思ったんだよ。けど何も変わらなかった。だったら、人がひとり死んだくらいで何が」


 ひっぱたかれた。

 裾をひるがえし、教室を出ていく。振り返りもしない。


 泣いているように見えた。




     ●




 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。


 西日の差す廊下をずんずん進んでいた足取りがだんだんとゆっくりになり、しまいにはのろのろと引き摺るような様になる。野球部のノックの音とトランペットの音が聞こえている。


 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。


 悲しくないわけがないのだ。森川先生と一番よく話していた生徒は間違いなく柏原くんだった。そして柏原くんが学校で一番よく話していた相手も森川先生だった。

 悲しくないわけがないのに、わざわざその傷を抉るようなことをきいて、挙げ句の果てに頬をひっぱたいてしまった。


 ひっぱたかれるべきは、自分だったというのに。


 とめようと思っていても涙がでてくる。悲しいのでも悔しいのでもない。情けないのでもない。怖いのだ。


 絶対、嫌われたと思う。


 自分が今ごろどう思われているかを考えると息がつまる。不安で不安でたまらない。どうしても涙がとまらない。

 学校に残っている人がほとんどいないのは幸運だった。無人の廊下を西日のなか死体のように歩く。


 どうしよう。

 どうしよう。


 仲直りは苦手だ。謝罪の方法を考えていると、いつも、許してもらえなかったらどうしようというところに考えが行き着いてしまう。

 そうすると、想像のなかで謝罪をしている自分の姿がひどく薄っぺらで滑稽なものに見えてくる。どうせ許してもらえない、それどころか相手をより不快な気持ちにさせているだけだ、お前はいつもそうなんだよ、そんなんだからいつもひとりぼっちなんだ、いい加減気づけ。


 だめだ。絶対に謝ると決めたのだ。今日は、今日は無理だけど、今日のうちに作戦を練って、明日絶対謝ろう。

 それでもし、もし許してもらえたら、今度は自分のお気に入りの本を勧めてみよう。




 そんなことを考えている。




     ●




 夕方、またテロがあった。

 町内でのテロだった。




     ●




 嫌な予感などひとつもなかった。何かが変わるわけもない。そんなわけがないのだ。

 そう信じている。

 この期に及んでも、いまだに。



 ニュースも見ず、新聞も読まず、家を出た。

 その後のことはあまりよく憶えていない。

 また朝礼が開かれ、悔み言、くれぐれも注意、それだけだ。



 気がついたら放課後になっていた。

 ノック、トランペット、笑い声、ページを繰る音。

 木崎はいない。まあ昨日あんなことがあったから、当然だと思う。


 どうしても本に没頭できなくて、おれはテロをおこす元兵士たちについて考えた。


 得体の知れない敵と終わる保証もない戦いを続け、いつ出撃命令を受けるかも知れずいつ死ぬかも知れず、十分前まで自分と話していたやつが目の前に内臓をぶちまけて「もの」となってころがっている。生き残るために仲間を殺し、死んだ者たちの呪詛と絶叫のなかを血と臓物とを呼吸して生き、生き続け、泣き喚き、鼻水を垂らし、身体中の穴という穴から得体の知れない汁と汚物を垂れ流して、ともすればすでに死んだ者たちを羨みさえして、


 そうして生き残った人間が地球の様を見て一体何を思うだろう。


 また今日もテロがおきる。明日も明後日も。そうしてテロという異物も次第に日常のなかに組み込まれていく。


 敵が去り、大量の兵士たちが地球に戻ってきたとき、彼らは一体何を思うのか。


 何も知らず何も知ろうとせず、へらへらと笑って当然のように生きている地球の人間たちを見て、一体何を思うのか。



 そうして人類が滅んでいく様子を、あいつらは眺めているのかもしれない。

 さながら、闘技場コロッセオのように。




     ●




 ノックの音が聞こえる。金属バットがボールをとらえる音、部員の掛け声と顧問の怒鳴り声、屋上で相も変わらず下手くそな誰かが吹いているトランペット、廊下に響いて消える笑い声。窓の外には本来の目的では未来永劫使われることがないであろう防空壕が黒々と。


 教室には西日が差している。寒いので窓を閉めて、眩しいのでカーテンも閉めている。


 誰もいない教室で、おれは物思いにふけっている。


 ほら見ろ、やっぱりおれの言ったとおりだ。

 やっぱり、何も変わらない。

 何がおきてもここからは抜け出せない。

 どれもこれも大したことじゃない。

 そういうことなのだ。



 西日の滲んだカーテンがまぶしかった。




     ●




 また絵を描いてみようかと思っている。


 もし描きあげたら、木崎へ勧めようと思っている本と一緒に、いつも持ち歩くようにしようと思う。






































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