遅刻するにはうってつけの日

弥生 久

遅刻するにはうってつけの日

 残念ながら、そんなものはないと申し上げておく。



    %



 猿がシェイクスピアを書き上げるのには無限の時間が必要らしい。


 つまり、このお話があなたの側で現実のものとなるのは無限遠の未来の向こうということになる。それともあなたの頭の中や、僕の夢の中。あるいは並列に存在するかもしれない無限数の宇宙のどれかのどこか。突然鳴り出した電話にでてみたら、こんなお話が語りだされると言うこともあるかもしれない。あらゆるところに存在するかもしれず、あまねくところに非存在しているこのお話。


 何が言いたいのか。


 その問いの答えは、つまりこんなお話はありえませんよという身も蓋もないものだ。


 とにかく、すべてのこのお話に共通するのは、それらが遅刻と言い訳の話であるという点だけだ。



    &



 電話がなる。


 鳴った電話は私のデスクのものではなく、だから私がとる必要はないのだが、その席の主が電話をとれる状況にはなかったので、近くにいた私が仕方なく対応した。


 こんな状況なのにとも言えてこんな状況だからとも言える。


 とにかく、本来応対すべき人間は声は届いて手が届かない位置におり、そして一番電話の近くにいたのが私だったというだけのことだ。



    #



 あ、もしもし? えっと、二年A組の斎藤なんですが、藤木先生は──あ、今手が離せない? じゃあ伝言というか連絡をお願いしたいんですけど。


 はい。えっと二年A組、番号は十七番です。斎藤真です。それで、用件は、まあその、遅刻ってことになるんですけど。


 はい。

 ……はい、すいません。


 ───え、理由? 

 あの、それって絶対言わなきゃだめですか、やっぱり?

 ……はい。わかりました。


 でも、自分でも何がなんだかわけわかんなくて。ひょっとしたら、というかほぼ確実に信じてもらえないと思うんですけど……。……はい、はい、わかりました。とにかく話してみます。はい。


 ええと、そうですね、どこから話したらいいのかわからないので、いちばん最初から話します。


 今朝僕は別に寝坊したわけじゃないんです。むしろ普段より早く目が覚めて、目覚まし時計が鳴り出す前に起きました。それで、部屋にいたってやることもないので、リビングにいって朝ごはんを食べました。それから顔を洗って歯をみがいて、いったん部屋に戻って学校の準備をしたり着替えたりして、いつもより少し早く家を出たんです。特に急ぐ理由もなかったのでのんびり駅まで歩いて行ったんですけど、それでも普段よりも一本早い電車に乗れました。これがびっくりしたんですけど、いつも乗ってる電車よりもすごい空いてて、早起きは三文の──じゃない。すいません、話がそれました。


 ええとそれでですね、まあ獅子ノ森駅で降りて、いつものように学校にいこうと思ったんです。


 それで、あの───あの、ですね。


 先生はこう、道を歩いているときに向こうから来た人とぶつかりそうになったことってありませんか? 


 あ、いやそんな、因縁つけられてからまれたわけじゃないですよ。そうじゃなくて、向こうから来た人を避けようと思って道の片側に寄ったら、相手も同じ側に寄っちゃって、それじゃあって自分が反対側に寄ったら相手も──みたいな感じです。


 ──あ、やっぱりあります?

 そう、それで、そのせいで僕は遅刻してるんです。


 あ、あの黙らないでください。もっと詳しく説明します。


 獅子ノ森駅から学校に向かう途中、国鉄の高架下をくぐりますよね? 僕はいつもそこを通って通学してるんですけど、そこに今いるんです。


 いやあの分かってます、だったら学校はもうすぐそこじゃないかって思いますよね。でもちょっと待ってください。


 僕がちょうど高架下に差し掛かったときに、向こうからも通ってきた人がいたんです。

──え? いえ、別に普通の会社員みたいな方ですよ。スーツ着て、ネクタイしめて、通勤鞄持ってる。


 それでまあ、あの高架下の歩道って狭いじゃないですか。ぎりぎりすれ違えるかなぐらいの。なんで、僕は左側に寄ったんです。


 でもそしたらその方も左──その人から見て右ですね──そっちに寄っちゃって、じゃあ僕が右にって思ったらその方も右に──とまあそういう具合で。


 で、結局、高架下の真ん中辺りで両方とも立ち止まって、おろおろっていう。でも全然駄目なんです。もうほんとに鏡みたいなんですよ。僕が右にいったらそれを追いかけるみたいに右──とかじゃなくて、完全に動作が一緒なんです。


 最初はああごめんなさいとか思ってたんですけど、そこまでいくと段々わざとなんじゃないかって思ったんですよ。でも、その人もものすごい困った顔してたんです。


 傍から見たらコントか漫才かやってるって思われたでしょうね。


 それで、埒が明かないんで、「あなたはこっちに行ってください、僕はこっちに行きますから」みたいなこと言おうとしたんですよ。というか実際に言ったんですけどね。


 そしたら、何が起こったと思います?


 僕と全く同時にその人も喋ろうとしたんですよ。

 あの、あ、いえすいませんそちらが先にどうぞ、いえそちらから──あ、じゃあ、まで全部一緒。

 僕が黙ればあちらも黙る、黙っているならとこちらが口を開こうすればあちらも喋ろうとする──


 ずうっとそんな具合なんです。

 他にも色々やってみたんですよ、身ぶりでこっちとそっち、とか。


 全部駄目。


 それで最後はもう、最終手段ってことで、別の道からいこうって思ったんです。

 くるっと後ろ向いて、ちょっと回り道して、多少は遠回りになるから面倒だけどそんなこと言ってられませんでしたから。


 ええもちろん、その人も僕とまったく同時におんなじこと考えたみたいで、回れ右してましたよ。


 で、どうなったと思います。



 振り返ったそこに、僕の後ろから歩いてきた人が高架下に入ってくるところだったんですよ。



    ∴



 もしもし、もしもし? 先生聞いてます? 


 そういうわけで、遅刻します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遅刻するにはうってつけの日 弥生 久 @march-nine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ