kiskの短編集

kisk

私は――

 遠い校舎の鐘が住宅街に鳴り渡る夕刻、私はキッチンで刺身を拵えながら夫の帰りを待っていた。赤くなった窓辺から、きゃっきゃと子供が群れはしゃぐ声が聞こえてくる。まな板に乗った赤身のブロックを、丁寧に、均等の厚さで切り分けていく。なんでも無い日だけど、今日は、夫の好物の鮪と鰹で、皿いっぱいを円く並べてやろうと思った。夫は予想だにしないだろうから、きっと、喜ぶに違いない。

 切身が四切れずつ出来上がる度に、私は円く白い、陶器の大皿に、まるで赤い花が開くようにそれを重ね並べた。次第に大きくなる花は、夫の帰宅が近づく度に、美味の雰囲気を醸した。

 大輪ができた。私は「よし」と満足して、大皿をリビングに運び、食卓に置いた。


――待って、食卓が無いわ。

 いえ、何もないわ! どういうことかしら?

 待って、何も思い出せないの。いえ、ああ、わかったわ。思い出したんじゃなくて、理解した。元々無かったんだわ。何処に赤く日の差す窓があったのかしら? 元々家の形が無いのに。どうして私は家の中を歩き回れたのかしら? どうして? どうして? どうして私は疑問に思わなかったの? 此処には何もないわ! あるのはーー一体何があると言うのかしら? わからない。だけど私は在るわ。私だけは理解しているの。でも、何もないわ! 大皿も、包丁も、刺身も、家も、住宅街も、夫も何も無いわ! いえ、いや、待って、家はあるわ。そう私のいたキッチンは、まず水場がタイルの南壁に面していたわ。タイルはブラウンとレモンの市松模様で、すこし黴ていたわ。そしてコンロも同じ壁側に、水場の隣にあったわ。回りに銀色の、煤け防止と防火の簡易壁を立て掛けていたわ。元栓のつまみはオレンジ色だった。それから、あれ、おかしいわ。やっぱり思い出せないの。細部が全く思い出せない! これは違うわ。よく見ていないからだとかじゃない、本当の意味でぼんやりとしているの! キッチンがぼんやりとしか存在していないの! どうして? ああ、思い出せない。やめて、本当に思い出せないわ。私の記憶が無いわ! 子供の頃の記憶、何も無いの! どうして? 私は誰? よく考えたら私の名前も知らないわ。私が私でしかないの! ねえ、私は誰なの? ああ、そもそも私は誰に話しかけているの? 誰が聞いているというの? 教えて、誰か教えて! きゃあ、いやよ、いや。今わかった。体もないわ! 私は何処? 何処にいるの? 助けて誰か! ここには何も無いの! ここには形が無いの! 私しかいないの! ああ、やめて、待って、どうして私はここで叫んでいるのかしら? どうして動揺しているのかしら? おかしいわ。気づいたらおかしい。私はここで何をしていたというの? どうして、私はこう問うているの? どうして私はこう問うたの? どうして私はこう問うたの? どうして私はこう問うたの? ああ! 思い出したわ、そうよ、私は家でお刺身を切っていたのに、突然何もなくなって動揺していたんだわ! どうして思い出せなかったのかしら? 思い返せば、さっきは問い続けっぱなしだったわ! ちょっと前に問うたことも忘れて、その事に問うていたんだわ! 怖い、助けて誰か! なぜ私はこんなことになっているの? どうして私しかいないの? ここには何もない、何も無いの! 私しかなくて、形がない、何も触れられない、五感がない! あるのはこの観念だけ。――あら、私は何をしていたのかしら? ああ、思い出した。また忘れていた。こんなこと有り得ないわ! 誰か悪戯しているの? だったらこんなことは止めて! こんな悪趣味で気味の悪いこと、あとで絶対に許さないわ! ここから出しなさい! 出しなさいったら! ああ、声も嗄れることがない。声を出していることも感じられない。そもそも私は声を出しているのかしら? いや、怖いわ、怖いのここは、ここには何もなくて、どうしてか、形の無い、形の無い私だけが充ちているの! もういやよ、こんなのいや! お願いだからここから出して! ここには、ここには言葉しかないのよお!

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