勇者のキセキ
Catapira
第1話:幼女とトロール
ズシン、ズシン、と、遠くから重くて低い足音が聞こえる。
日が傾き、向こうの山の陰に隠れてすぐ。私は身動きできず、山の真ん中の岩場で、その音を聞いていた。
私は、逃げ出したい気持ちを堪えて、ぎゅっと手を握りしめて膝を抱えた。
―――怖い、怖い、怖い!
本当なら、今すぐにだって走って逃げ出したい。でも、だけど、それはできない。私は両足に鎖を巻き付けられ、両手にも枷をはめられている。こんなんじゃ、走るどころか身動き一つとることもできない。
でも、この足音は、きっとあいつだ。
この山に住む、魔界の住人、トロール…あいつが、ここに向かってきているんだ…。
数日前、私の住む村の半分が、突然起こった鉄砲水で流された。畑も家も、土砂と水でボロボロにされてしまった。偶然そのとき畑で野良仕事をしていた父さんと母さんはそれに呑み込まれて死んでしまった。
村の人たちは、ずっと昔からこの山に住むトロールの仕業だと言って大騒ぎになって、何日も話し合いをしていたようだった。父さんと母さんの弔いを終えて、まだ涙が収まらない私を、隣の家の道具屋の女将さんが慰めてくれてうちで一緒に暮らそう、って言ってくれている時だった。
村長と、教会の人と、それから村の重役の人たちが農具を持って私のところへやってきた。私がいきなりのことでびっくりしていたら、村長たちはみんなで押しかかってきて、私を捕まえて麻袋に押し込んだ。本当にいきなりすぎて、暴れることも、抵抗することもできなかった。
そして、どれくらい時間が経ったか、袋から出してもらえた私は、ここにいた。村長たちは私に鎖と手枷をつけて、せめてもの情けだ、と言ってダガーを持たせて、そそくさと山を下りて行ってしまったそう、早い話、私は生贄、というものにされたようだった。
ズシン、ズシン、という足音がさらに大きく近くなっている。
私は手の中のダガーを握りしめた。
トロールは私を食べるのかな?それとも、男の子たちが捕まえた虫にするみたいに、脚を折ったり手をもいだりして殺すのかな?どっちにしても、きっと痛くて苦しいんだろう…
それなら、いっそ…
私はそう思って、ダガーを自分の喉に突き立てようと思ったけど、それすらも怖くてできっこない。
私、死にたくないよ…父さんと母さんも死んじゃって、寂しいしつらいけど、でも…死んじゃうのも怖いよ…!
ズシン、ズシン、と足音が本当にそばまでやってきた。体をこわばらせていたら、高い木の上に、何かがのぞいた。
芝生か毛のようなものにおおわれ、大きな耳があって、大きな口には鋭い歯が並んでいて、大きな目にはギラギラと光る瞳を持っている。
―――ト、ト、ト、トロールだ…!
私はかなうはずもないのに、手に持っていたダガーをトロールに向けた。
身長が大人の三倍かそれくらいありそうなトロールは、ズシン、ズシンとまっすぐに私のところに向かってくる。生えていた木を丁寧によけて私のすぐそばまで来たトロールはその大きな瞳で私を見下ろした。
ガクガクと体が震える…助けて…誰か、助けて…!父さん、母さん!!!
あんまりにも体の震えがひどくって、私は手に持っていたダガーを取り落してしまったそれを見たから、なのか、トロールは私めがけてグッとその腕を伸ばしてくる。
―――死んじゃう、死んじゃう!
私は、あまりの恐怖で目を閉じて体を丸めてうずくまった。次の瞬間、私の体を何かが包み込んだ、と思ったら、ふわりと宙に浮かんだような気配があった。食べられるんだ…そう思って覚悟を決めた私は、そのままギュッと丸めた体に力を込める。
―――痛いのはイヤ…せめて、わからないように殺して…お願い!
「…ナニシテル?」
低くゴモゴモとした声が聞こえた。
い、い、今の、何…?
私は、ドキドキする胸を押さえながら、恐る恐る顔を上げた。すると、さっき木の上に見えていた大きな顔がすぐ目の前にあった。大きくて恐ろしい両の瞳が、私をじっと見据えている。
怖くて、怖くて、叫ぶことさえもできなかった。
「ドウシタ…?」
雷のような重低音が響いた。
ど、どうした…?ト、トロールは、私に…質問をしてるの?
「え、え、え、えっと…」
私は震える唇と、詰まった喉をなんとか震わせて声を上げる。
「わ、わ、わ、私は…い、い、生贄で…」
そこまで言って、しまった、と思った。
私はトロールにささげられた生贄。それをトロールに言ってしまったら、私、トロールに何をされるか…!
慌てた私は、すぐにその言葉を取り消そうとする。しかし、そんな私に構わずにトロールが口を開いた。
「動クナ」
トロールはそういうと、大きな指で私の両手をつないでいる手枷の鎖を引きちぎった。
「えっ…」
「オ前、コレデ動ケルナ?」
トロールは低い雷の声でそういうと、私を地面におろした。それから
「コノ山、アブナイ。スグ帰レ」
と、そう言う。
あ、あれ…わ、私…こ、殺されないの…?
呆然とする私を、トロールは見下ろした。
「オ前、帰ラナイカ?」
「あの、その…私っ…」
私は、足にまかれた鎖を解きながら声を上げる。
私、帰ってもいいのかな…?で、でも、私、もし逃げてきたって村の人に知られたら、またここに置き去りにされる…。
「でも、でも…私!」
「ココ、危ナイ」
トロールはそういうと、また私を手の平につかみ上げた。
「あの…えっと…」
「コノ森、熊イル。狼モイル。人間一人、危ナイ」
「あの…!た、食べたり、しないですか!?」
「熊モ狼モ、人間食ベル」
「そ、そうじゃなくて!その、トロールさんは、私を食べたりしないですか!?」
「トロールハ人間食ワナイ。魔王様ノトロール、人間コロスガ、オイハコロサナイ」
魔王…確か、この世界を支配しようとしていた、っていう、悪しき存在…ここから遥か西にある山脈の向こう側に広がる魔界の王様で、私たちの世界とずっと戦争をしていた。でも、それも半年ほど前に、勇者様、っていう人が、王国の大軍を率いて魔王の城を攻め落として、戦争は終わった、って話だ。
トロールには、良いトロールと悪いトロールがいるの?そっか、私たちの世界を支配しようとした魔王って人に従っているのが悪いトロールで、そうじゃないのが良いトロールってこと?本当に…本当に、このトロールは、私を食べないの…?
私は、半信半疑のまま、でもいつの間にかすっかり抜けてしまった腰のせいで逃げることもできず、トロールの手の平に乗せられて、山の奥へと連れていかれた。
***
どさ、っと、私はすっかり暗くなった地面へとおろされた。腰をぶつけて、ちょっと痛い。
「ココ、入レ」
トロールさんがゴロゴロ声で私に言った。見るとそこには大きな洞穴があった。
「こ、ここは…?」
「ココ、オイノ家。オ前、ココデ待テ。オイ、食イ物取ッテクル」
トロールさんはそう言って私の胴体よりも太い指先で、私の体をグイグイと洞穴の方へと押しやる。
本当に悪い人じゃなさそうだけど…や、やっぱりちょっと怖いな…
そう思って、私は仕方なく、トロールさんの言う通りの洞穴の中を覗き込んだ。もう夜も遅いし、当然中は真っ暗で、何にも見えない。
うぅ…この中に入る、っていうのも、怖いな…
そう入口で私が戸惑っていると、真っ暗な洞穴の中にいきなり何か光るものがポワッと浮かんだ。
お、おかしいな…ひ、光ってる…?幻とかじゃない…よね?
私はそう思って自分の目をこすってみる。でも、確かに何かが光っていて、それはフワフワと浮いているように動きながらこっちへ近づいてきている。
私は、その光に目を凝らしてみて、少しだけ驚いた。その光の正体は、小さな人間みたいな生き物だった。羽が生えていて、フワフワ、ピカピカと光っている。
こ、これって…妖精、さん…?
羽の生えたその小さな人間…女の子は、私の顔を見て、パクパクと口を動かした。な、なにか言ってるみたい…でも、聞こえない。な、なんだろう…?
「ソノ妖精、喋レナイ。デモ、イイヤツ」
トロールさんがまた、ゴロゴロっと言う。
「しゃ、喋れないの?」
「ソウ。怖イ思イシテ、喋レナクナッタ…人間ニ、イタズラサレタ」
「に、人間に?」
「ソウ。デモ、大丈夫。イイヤツ」
「喋れないのに、わかるの?」
「オイハ、自然ノ言葉ワカル。妖精モ、オナジ。声ガ出ナクテモ、話セル」
トロールさんはそういって、私をまた指の先でグイッと洞穴の中に押し込んだ。同時に、妖精さんが私の服の裾をクイクイと引っ張ってくる。
「案内シテモラエ」
「あ、えっと…は、はい」
トロールさんは私の言葉を聞くと、そのままのっそりと背を向けて、森の奥の方へとズシン、ズシンと歩いて行ってしまった。私はその後ろ姿を見送ってから、妖精さんの方を振り返る。妖精さんは不思議そうな顔をして私を見つめていた。
「えっと…その…よ、よろしくお願いします…」
私が言ったら、妖精さんはニコっと笑って、そのまま私の服の裾を引っ張って洞穴の中に私を連れ込んだ。
妖精さんは洞穴に入ると、さらにピカピカと明るく光って、私の足元を照らしてくれる。だけど、私はその明りのせいで、見たくもないものも見てしまった。洞穴の中には、何のものかはわからない骨がたくさん転がっていた。気味が悪くて、思わず足が重くなってしまう。
や、やっぱり、食べられちゃうのかな…?悪いトロールじゃない、って言ってたけど…そ、そもそも、悪いトロールだとしたら、正直に自分が悪いトロールだって言うだろうか?う、ううん、もしそうだったら、私をだまして連れていくのに、自分は良いトロールだって、そう嘘を言うよね、きっと…わ、私だまされちゃったのかな…?
そんなことを考えてしまって、私は急に怖くなってきた。そ、そうだ…妖精さんに聞いてみようかな…
「あ、あの、妖精さん…」
私が声をかけると、妖精さんはすぐにこっちを向いてくれる。
「あの…あのね、あのトロールさんは、良い人?悪い人?」
私がそう聞くと、妖精さんはニコっと笑って口をパクパク動かした。
うぅ、そうだった…妖精さんは、喋れないんだった…
私は思わず、困った顔をしてしまった。でも、妖精さんは私の顔を見て気が付いてくれたみたいで、すこしの間だけ首をかしげてから何かを思いついたみたいにふわりと地面に降り立って何かを拾った。妖精さんはそれを手に持つと、すぐそばの洞穴の壁に、何かを描きはじめる。
人みたいな…あ、でも、羽が生えてる。
「これ、妖精さん?」
私が聞くと、妖精さんはコクコクとうなずいて、その周りの大きな人の絵を描いた。
これって、もしかして…
「妖精さんが、人間にいじめられてるときの絵?」
私が聞いたら、妖精さんはまたコクっとうなずいて、それから絵の妖精さんの体に斜めにピっと線を入れた。
なんだろう、この線…?
私が首をかしげて妖精さんを見たら、妖精さんはちょっと難しそうな顔をしてから、葉っぱみたいな生地で出来た服をクイっと脱いだ。そこには、大きな傷跡があった。
…も、もしかして…これ、人間にやられちゃったの?
「そ、それ…虐められてついちゃったの?」
私が聞いたら、妖精さんはちょっと悲しそうな顔をしてまた、コクン、とうなずいた。
そっか…妖精さん、怖かっただろうな…妖精さんにとってはきっと、人間はトロールさんと同じくらい大きく見えるはずだ。
そんな大きな人たちによってたかって虐められたりしたら…わ、私だったら…そんなの、怖くって怖くってそれだけで死んじゃうかもしれない…。私は、怖い顔をしたトロールさんに手や足をつかまれて弄ばれるのを想像してしまって、体が震えてしまった。
そんなことを考えていたら、なんだか申し訳なくなってしまった。私と同じ人間が、こんな小さな妖精さんを虐めるだなんて…怖がらせるだなんて…そんなの、ひどいよ。
「妖精さん…ご、ごめんなさい…私がやったわけじゃないけど…それ、人間にやられたんでしょ?だから、ごめんなさい…」
私は妖精さんに謝った。でも、妖精さんは首を横に振って、小さな手で、私の頭をなでてくれた。
それからまた壁の方に行って、大きな顔の絵を描いた。
「これ…あのトロールさん?」
私が聞いたら、妖精さんは笑ってうなずく。
「そっか…あのトロールさんが助けてくれたんだ?」
妖精さんはニコっと笑ってから、まるで私に襲い掛かってくるみたいなポーズをしてみせる。それからすぐに、慌てたようすで、空中に浮いたまま駆け足をするマネをした。
「トロールさんが、ガオーってやって、人間が逃げ出した、ってこと?」
そう聞いたら妖精さんはパチパチパチと小さな手をたたいた。あ、どうやら正解だったみたい。
でも私は、そんなことより妖精さんのそのしぐさがなんだかかわいらしくって、思わず笑ってしまった。
それから私は、妖精さんに連れられて洞穴の一番奥にたどり着いた。
着いてみて、驚いた。そこには、大きな木が一本生えていて、そのさらに上に、きれいな星空が広がっていた。
洞穴の行き止まりはもっと真っ暗なところだと思っていたのに、そこはまるで絵に描いたようにきれいで、それでいてどこか不思議な場所だった。
妖精さんが、洞穴の出口の脇を指さした。
そこには大きな横穴がある。妖精さんは私がそこを見たのを確かめるとまたさっきのガオーをやってから、羽をパタパタさせて空中で横になって眠る真似をした。
「トロールさんはそこで寝てるの?」
私が言うと、妖精さんはパチパチ、っと手をたたいてくれる。そっか、トロールさんって、太陽の光を浴びたらいけないんだったよね。
こんな大きな横穴なら、トロールさんの大きな体も入るだろうな。よく見たら、藁みたいなものがたくさん敷き詰めてあって、寝心地の良さそうだった。
妖精さんはまた私の袖口を引っ張って、その大穴横まで私を連れていく。それから、そのすぐ横にあった私の身長の倍くらいある板みたいな岩を指さした。
「私は、ここ?」
そう聞いてみたら妖精さんはうなずいて、トロールさんの穴から藁みたいな草を、小さな体でひと塊抱えてその岩の上にパラパラっと置いた。
そっか、ここに藁を敷いて、それで寝なさい、ってことね。
私はそのことに気が付いて、トロールさんの横穴にたくさんあった草を少しだけもらって岩の上に敷き詰めた。
うん、これならちょっとは眠れそうかな…
そう思って藁の上に体を横にしてみる。だけど、思ったほどふかふかでもなくて、それでいてちくちくしちゃって、寝心地はよくなかった。そんなことを思ったら、ふと急に住んでいたうちのベッドが恋しくなってしまう。ううん、ベッドだけじゃない…母さんの料理とか、父さんのあったかい手とか、母さんのやさしい匂いとか…
でも…でも、母さんも父さんも、もういない。村に帰っても何をされるかわからない…私は、ここに居るしかないんだ…
気が付かないうちに、私はポロポロ泣き出してしまっていた。
それでも、私はここで眠るしかない…だから、いい子だから、眠ろうよ、私…
私はそう自分に言い聞かせて、唇をギュッと噛んで、手をギュッと握って目を閉じた。
―――父さん…母さん…
―――私、寂しいよう…
***
「ん…」
体痛い…えっと、私…どうしたんだっけ…?
ぼやける目をこすってあたりを見回す。
そこはごつごつした岩ばかりの見知らぬ場所で、遠くには日を浴びて光り輝いている大きな木と、草原が見える。
いつもの家じゃない…道具屋のおばちゃんの家でもない…ここは、えっと…
すこし混乱していた私の耳にパタパタという羽音が聞こえてきた。見ると、妖精さんが手に何かをもって私の顔を覗き込んでいた。
そうだ…私、昨日の夜に、トロールさんにここに連れてこられて、それで…
私はそのことに気が付いて改めてあたりを見回す。すると、あの横穴に大きな体をすっぽりとはめ込んで寝息を立てているトロールさんの姿を見つけた。
やっぱり、夢じゃなかった…良いことなのか、悪いことなのかわからないけど。ううん、父さんと母さんが死んじゃったのは、夢だった、って方がいいに決まってる、か。
妖精さんがパタパタと羽を鳴らして私の目の前に降り立った。そうだった、ご挨拶しないと。
「おはよう、妖精さん」
私が言うと、妖精さんはニコっと笑って抱えていた何かを私に差し出してきた。
それは、大きくて濃い色に熟した桑の実だった。
「くれるの?」
私が聞くと妖精さんはパタパタっと飛んで、そばにあった岩の上に降り立つ。そこには、木の実や魚が大きな葉っぱの上に置かれていた。
そっか…トロールさんが採ってきてくれたんだ…お、お礼、言った方がいいかな?あ、でも、トロールさん、寝てるし…今はやめておこうか…
私はベッド代わりにしていた岩板の上から立ち上がる。ギシギシと体が音を立てて痛む。
うぅ、やっぱり寝心地はよくなかったな…
そんなことを思いながら私は妖精さんのところに行く。
桑の実に、木苺に、アケビもある。この泥んこになっているのはお芋かな?見たことない形してるけど…きっとそうだな。魚は川でよく見かけるやつだ。家でも食べたことある…だけど、このままってわけにはいかないよね。ちゃんと焼かないと、私には無理だ。
私は妖精さんに渡してもらった桑の実を食べてみる。甘酸っぱい味が口の中に広がって、少しだけ幸せな気分になる。
「おいしい」
そういってみたら、木苺をリンゴみたいにかじっていた妖精さんも笑ってくれた。
私も木苺をもらって、それからアケビも剥いて妖精さんと分けて食べる。だけど、やっぱりこればっかりじゃ、お腹はいっぱいにならないよね…パンとは言わないけど、このお芋を焼いて食べたいな…あと、魚も。
「ね、妖精さん。この洞穴、火を使ったらまずい?」
私は妖精さんに聞いてみた。
すると妖精さんはパタパタっと羽ばたいて、昨日みたいに私の服の裾をつかんで大きな木のある外の方へと私を連れていく。そのすぐそばに、私の頭くらいの大きさの岩がゴロゴロと転がっているところがあって、その真ん中には火を焚いた跡が残っていた。
「トロールさんも、火を使うの?」
妖精さんは、コクコクとうなずく。
そうなんだ…トロールさんて、こう、動物とかも生で頭からムシャっと食べるのかと思ってたけど、そうじゃないんだなぁ。
「そうだ、火をつけるには薪がいるね!」
私はそれに気が付いてあたりを探してみるけど、燃やすのに良さそうな木は見当たらない。外にとりに行かなきゃダメ、か…
私はそのことを妖精さんに言ってみる。すると妖精さんは、着いてきてくれる、って身振り手振りで私に言ってくれた。
私は昨日みたいに妖精さんに連れられて洞穴を出口の方に向かって歩いた。洞穴の中は、やっぱり奥に進むと真っ暗で何にも見えなかったので、妖精さんがいてくれてよかった。
洞窟の外は、うっそうと茂る森だった。昨日は真っ暗で木があるくらいしか気が付かなかったけど、こんなに深い森だったなんて思わなかった。
こういう、日の光が差しにくい場所に落ちてる木はたいていが腐ったり湿ったりしていて火をおこすには向いてないって父さんが言ってた。薪にするなら、もう少し日当たりの良いところにある木じゃないとダメだろうなぁ…
「妖精さん、もう少し開けたところに案内してくれないかな?ここにある木だと、火が着かない気がして」
私がお願いしたら、妖精さんは空中でクルっと回って森の向こうを指さした。
あっちに行けばあるんだね…行ってみよう。
私は足を踏み出した。
サクサクと、枯葉を踏みしめる足が鳴る。
そういえば、トロールさんがこのあたりには熊も狼もいる、って言ってたっけ。狼は夜に狩りをするって聞いたことがあるな。昼間は熊、か。
村では、熊よけのために、森に入るときはいつも歌を歌っていたのを思い出す。私と妖精さんだけじゃ、もし熊に出会ったら大変だもんね。私も歌を唄って、熊を遠ざけないと。
「山がー色づきー♪風薫るー♪雪解けがーせせらぐぅー♪いのちが息吹く春ぅー♪」
歌いだしたら、それに気づいた妖精さんはちょっとびっくりしたみたいだったけど、すぐに笑顔になって空中で私の歌に合わせて踊るみたいにして飛び回りだした。
この歌は、村の大人たちがよく歌っている季節の歌で、雪解けの春から始まって、雨季と夏と、夏の終わるころと、実りの秋と、枯れはじめの秋と、霜が降りる冬に、雪が積もる冬があって、それからまた最初の雪解けの春に戻る。
全部で7番まである。私はまだ夏までしか覚えてなくて、秋よりあとはまだぼんやりしか知らないんだけどね。
でも、歌を唄っていると楽しい気分になってきた。そういえば、父さんと母さんが死んじゃってから、こんなに良い気分になれた時間はなかったな。思い出すと寂しくって悲しくって泣きたくなるけど…うん、今はそれよりも、歌を唄いながら薪を探さなくっちゃ。
そう思って私は妖精さんに連れられて歩いた。すこし行くと、次第に森が開けてきた。
サラサラと川の流れる音が聞こえてくる。
川か…薪があっての湿ってそう…そう思っていた私の顔の前に急に妖精さんが飛んできた。 どうしたの?
そう聞く前に妖精さんは私の口にへばりついてきた。目の本当にすぐ前で、慌てた顔をして、しーっと人差し指を立てている。
し、静かに、ってこと?なに?熊?く、熊だったら大きい声出して追い払わないといけないんだよ…?!
私は急にそうされたものだから、びっくりしたのと怖くなってしまったのとで、体がまたカチコチになってしまう。
そんな私の服の裾を、妖精さんがそっと引っ張って、川の方へと誘導していく。
妖精さんが合図してきたので、私はその場にしゃがみ込んで這いつくばりながら近くの茂みの陰まで行って、そーっと川の方をのぞいてみた。
そこには、何かがいた。
ボロボロの生地に、ボサボサした髪に、傷だらけの体をした、誰か…
あ、あれ、ひ、人?た、倒れてるけど…大丈夫かな…?
私は心配になって、恐る恐る立ち上がりその倒れている人をもっと良く観察する。
腰には皮のベルトをしていて、そこには剣がぶら下がっている。
へ、兵隊さん?で、でも、それにしては鎧なんかは着てない…ど、どうしちゃったんだろう…?
「あ、あのっ…大丈夫、ですか?」
私はビクビクっとしながらそう声を上げた。
も、もし、大けがでもしてるんだったら大変だし…体のあちこちに擦り傷みたいのはたくさんあるから、きっとなにかあったに違いないんだ。
私が声をかけても、その人はピクリとも動かなかった。し、死んじゃってるのかな…?
妖精さんが私の肩口に引っ付いて、私とおんなじようにビクビクっとしているのがわかる。
「あ、あのぅ~…」
私は、もう一度恐る恐る声をかけた。
返事は、ない…と思った次の瞬間、その人の体がビクンと動き出した。
「ひぃぃ!!!」
私は思わず声を上げてしりもちをついてしまう。
でも、そんな私に構わずに、その人は
「ん、くっ…」
とうめきながら、ゆっくりと体を起こした。
その人は、女の人だった。
私よりもっと年上の、お姉さん、って感じの女の人だ。
お姉さんは、ぼりぼりと頭を掻きながらあたりを見回して、それからしりもちをついていた私に気が付いた。
「んあ?なんだ、あんた?」
「え、あ、ええ、えっと…その…あの…」
「あれ、その肩に乗ってんのって、妖精?」
私はその言葉にはっとした。そうだ、妖精さん、一緒だった!
私が気が付いたのと同時に、妖精さんもビクンと体を震わせて私の背中の後ろに姿を隠した。でも、そんな様子を見てお姉さんはあははと声を上げた笑う。
「あぁ、ごめんごめん。別にいじめたりしないから大丈夫だよ。このあたりじゃ珍しいなと思っただけだから」
「お、お姉さんは…その、誰、ですか?」
「あたし?あたしは今のとこ、流れ者の傭兵。傭兵ってわかる?雇われの兵隊。もともとは王国軍にいたんだけど、戦争が終わったらクビにされちゃってさ」
「そ、それで、どうしてこんなところに…?」
「んー、話すと長いんだけど…いい機会だし、時間があるうちにいろいろ見て回ろうかなって思って旅してたんだ。でも、山に入ったら鉄砲水に流されちゃってさ。いやぁ、びっくりしたよ。お蔭で荷物も流されちゃうし、食料もないし、腹減っちゃって昨日は諦めてここで寝たんだ」
お姉さんはそう言いってからふぅ、とため息をついて、私をじっくりと観察してきた。
「あんたは?この山に住んでるの?」
「え、その…えっと…私は…い、生贄で、この山に捨てられて…」
「い、生贄?」
お姉さんがそう言って顔をしかめる。ど、どうしよう、話して大丈夫かな…?
私は少し迷ったけれど、お姉さんに私がここに連れてこられた話をすることにした。
洪水で家が流されて、父さんと母さんが死んだ話も、洪水を収める生贄としてこの山に置き去りにされたことも。
私が話し終えるとお姉さんはなんだかとても悲しそうな顔をした。
「そんなことが、あったんだね…手にはまってるそれは、枷ってことか」
そういうとお姉さんは腰の皮巻から小さなナイフを取り出した。
「腕、貸して。それ取ってあげるよ」
お姉さんに言われて、私はおずおずと両腕を差し出した。お姉さんは、ナイフを枷の鍵穴に突っ込むとくいっとひねった。
カチンと音がして枷は思いのほか簡単に外れてくれた。
その下の腕は赤くすり切れてしまっていて、あちこちからうっすらと血が出ている。
痛みはそれほどでもないし、枷が取れて腕が軽くなって、私はなんだか安心した気持ちになった。
そんなとき、妖精さんがパタパタっと私の背中の方から出てき、私の腕にチョコンと座った。何をするのかと思ったら、妖精さんがいつもより少し明るく光って、なんだか枷のはまっていた場所がホンワカと温かくなってくる。
「回復魔法…?」
お姉さんがそう呟くように言った。
「妖精さん、そんなことできるの!?」
私の声に妖精さんはパタパタっと飛び上がって、空中でエッヘン、って感じで胸を張った。
私の腕にあった擦り傷はなくなって、すっかりきれいになっている。
「妖精さん、すごい!ありがとう!」
私は思わずそんな声を上げて妖精さんの小さな手を取ってお礼を言った。
「あはは、仲良しみたいだな」
「お姉さんも、ありがとう!」
「いいんだよ、別に。それより、もしできたらこのあたりの道案内頼めないかな?流された荷物を取りに行かないと、またいつどこで行き倒れになるかわかったもんじゃない」
道案内、か…困ったな、私、この山のことよく知らないよ…
そう思って私は妖精さんを見た。妖精さんなら、もしかしたら知ってるかもしれない。夕方過ぎだったらトロールさんにお願いした方がいいんだろうけど、それじゃぁ、きっとお姉さんは困っちゃうしね…
私の視線に気が付いてくれた妖精さんは、お姉さんをチラッと見てから、すこし考えるみたいなしぐさを見せて、少ししてコクコク、とうなずいてくれた。
「よかった!お姉さん、妖精さんが案内してくれるって」
「そっか!助かるよ!じゃぁ、よろしく頼むな!」
お姉さんはそういって立ち上がろうとして、そのまま顔から地面に崩れ落ちた。
ドシャァっとすごい音がする。
「お、お、お姉さん!」
「いててて…まいったな…」
お姉さんがそううめきながら起き上る。その顔を見て、私はぷっと噴き出してしまった。
「腹が減っちゃってちょっとダメだ…ごめん、何か食べるものとかないかな…?少しでも口に入れば違うと思うんだけど…って、あれ、なに笑ってんの?」
お姉さんはボリボリと頭を掻きながら私を見てそう聞いてくる。
「う、うん…お、お魚と木の実でよかったら、一緒に食べよう!」
私は笑いをこらえながらお姉さんにそう言ってあげる。
お姉さんは、両方の鼻からドバドバ鼻血を垂らしながら、私を見て不思議そうに首をかしげていた。
***
「へぇー、この山にこんな洞窟あったんだ」
拾った薪を抱えたお姉さんがそう声を上げている。近くに住んでいた私も知らなかったくらいだし、お姉さんが知らないのも無理はないだろうな。
妖精さんはお姉さんと身振り手振りで一生懸命に話をしている。お姉さんはそれをみてなんだか楽しそうに笑っているし、悪い人、って感じもしない。良い人なんだろうな、ってそう感じた。
ほどなくして私たちはトロールさんのベッドのある場所にたどり着いた。ゴロゴロという、トロールさんのいびきが聞こえる。
とたん、はっと息を飲む音がした。見るとお姉さんが驚いたような表情をしている。
そして次の瞬間、お姉さんは腰の剣に手をかけた。
「ちょ!待って、お姉さん!」
私はとっさにお姉さんに飛びついた。
「ちょ、え、だって…こいつ、トロールじゃ…!?」
「このトロールさんに助けてもらったの!トロールさんは良いトロールさんなんだよ!」
「い、良いトロール?」
「そう!魔王ってやつのところで兵隊をしていたのが悪いトロールで、このトロールさんはそうじゃない普通のトロールさんなの!」
「ふ、ふつうのトロールってバカでかい棍棒振り回して襲ってくる方だと思うんだけど…」
「え、そうなの?じゃ、じゃぁ、普通じゃないトロールさん、なのかな?」
妖精さんも、パタパタ宙に浮きながらお姉さんを押しとどめてくれる。
「ンガッ…」
急に、そんな低くて重苦しい音がしたと思ったら、ノソッとトロールさんが起き上った。
お姉さんはちょっとビクっとなって、二、三歩後ずさりをする。
「オ前、誰ダ?」
トロールさんはすぐにお姉さんに気が付いて、鋭い目をしてゴロゴロする声で聞いた。
「あ、あたしは、も、元国王軍の剣士だ!い、今は流れ者の傭兵だけど…」
「国王軍?」
お姉さんの言葉に、トロールさんの目つきがさらに鋭くなった。ちょ、ちょっと待ってよ!
「待って、トロールさん!この人、外で倒れてたの!旅の途中でお腹がすいて、それで動けなくなってたんだって!悪い人じゃないと思うんだ!」
私はお姉さんの前に立ってトロールさんに言った。お姉さんだって、きっと私と一緒なんだ。
国王軍を辞めさせられて、行くところもなくて困ってたんだ、ってそう思ったから。きっと、トロールさんは力になってくれるはず…。
私の言葉に、トロールさんは「ンンン…」とお腹に響いてくるくらいに低い声でうなった。それからまた低い声で
「オ前、良イ人間カ?」
とお姉さんに聞いた。
お姉さんはトロールさんをじっと見据えながら
「何が良くて何が悪いかはわからない。でも、そっちがあたしを攻撃しないってんなら、あたしももあんたを切るつもりはない」
としっかりした口調で言った。
それを聞いたトロールさんは黙ってお姉さんを見つめていたけど、しばらくして
「分カッタ」
とだけ言い、またノソっと横穴の中のベッドに横になってグゴゴゴゴっといびきをかきはじめた。
良かった…私は思わず、ふぅ、とため息をついてしまった。
「まさか、こんなところにトロールがいるなんてな…」
お姉さんはいつの間にか額に浮いた汗を袖口で拭ってそういった。
「ごめんね。最初に言っておけばよかったね。私もトロールさんに助けてもらったんだよ」
「なるほどなぁ…まぁ、トロールってそもそもは妖精の類だし、大人しいやつが居たって不思議じゃない、か…」
お姉さんもそういって、ふぅ、とため息をついた。
知らなかった…トロールさんて、妖精さんと同じなんだ?
そんなことを思っていたら、急にグルルルーとお姉さんのお腹が鳴る。
「あっ…だめだ…気を抜いたら力が…」
お姉さんはそういってへなへなとその場に座り込んでしまう。そうだった、お姉さん、お腹すいてるんだったね。
「こっちに来て!すぐにお魚焼いてあげる!」
私はお姉さんの手を取って、反対の腕で転がった薪を何本か抱えて大きな木の下に作られたカマドのところへ向かった。
カマドの中に薪を入れて、あたりで拾った枯葉と枯草をその下に敷く。マッチがないからちょっと大変だけど、私は太いの枝に細いのをこすりつけはじめた。
太い方はちゃんと乾燥していそうだし、これでちゃんと火が着くはず…
「苦労しそうだなぁ」
お姉さんが苦笑いでそういってくる。
「大丈夫、やったことあるから」
「そっか」
私が返事をしたら、お姉さんは少し安心したみたいに笑った。
妖精さんが残りの薪をもってきてくれて、そばにバラバラっと置いてからお姉さんの回りを飛び回って何かを伝えている。
「ん?なんだよ?あぁ、この革袋?」
お姉さんは身振り手振りの妖精さんに言われて、腰のベルトにひっかけてあった袋を手に取った。
「食い物の代わりに薬草も食べちゃったから、からっぽだよ?」
そう言うお姉さんから革袋を受け取った妖精さんが、いつの間にか小さな手に持っていた木苺の実を革袋に入れるマネを繰り返す。
「あぁ、なんだ?木苺取ってきてくれる、っての?」
お姉さんが聞くと、妖精さんはコクコクっとうなずいた。
「あはは、ありがと。じゃぁ、頼むよ。あんまり無理しなくっていいからな」
お姉さんの言葉に、妖精さんはくるっと一回宙返りをすると、そのまま洞穴の方へと飛んでいった。
「なんだか至れり尽くせりで申し訳ないなぁ」
妖精さんを見送ったお姉さんがそんなことを言っている。
私は、といえば、年齢はちょっと上に見えるけど、人間のお姉さんがいてくれて少し安心できた。
トロールさんは昼間は寝ているみたいだし、妖精さんはかわいいけれどおしゃべりはまだできないし、こうやって誰かと話をしているとホッとできるような気がした。
「お姉さんは、どこか行くところがあったの?」
私が聞いたら、お姉さんは
「あー」
って声を上げて、顔をしかめた。
あれ、なんだかいけないことを聞いちゃった?
そう思ったら、お姉さんはおもむろに来ていた服の袖をまくって見せた。
そこには、焼きゴテを押し付けられたような、焼けどみたいに皮膚が黒く変色している痕があった。それも、何かの模様になっているように見える。
「そ、それ、どうしたんですか?」
「あたしさ、時間がないんだ」
「時間?」
お姉さんの言葉にそう聞き返したら、お姉さんは少しだけ悲しそうな表情で笑った。
「呪いなんだよ、これ」
の、呪い…?!
私は想像していなかった言葉に驚いてしまった。お姉さんは、国王軍を辞めさせられて旅をしている、って言ってた。もしかしたら、この呪いのせいで軍を追い出されちゃったの?それに、時間がない、ってお姉さんは言ってた。も、もしかしてその呪いは…お姉さんを…
「…殺されちゃうの…?その、呪いに…?」
私が聞いたら、お姉さんはクスっと笑った。
「分からない…ある意味、死ぬかもしれないし、もしかしたら生きられるかもしれない…でも、死にたい、と思うこともある…はは、怖くてそんなことできないんだけどさ」
どういうことなんだろう?
私はお姉さんの言葉の意味がよくわからなかった。その呪いがどんな呪いなのかってのがまだよくわかってない、ってことなのかな?
お姉さんは考えている私に構わずに話をつづけた。
「とにかく、あたしには時間がないらしいんだ。だから、あたしはこの呪いの『答え』を探してる…それがなんだか、全然見当もついてないんだけどね」
お姉さんはそういって、私の顔を見て肩をすくめた。
そっか…お姉さんはきっと、あの呪いを解くための方法を探して旅をしているんだ。呪いの効果がお姉さんを蝕むのが先か、それとも、呪いがどんなもので、どう解くのかを見つけるのが先か…時間がない、ってのはそういうことなんだ。
と、急にお姉さんはカラカラっと笑い声を上げた。
「ごめんね、急にこんな話して。ずっと一人で抱えてきたから誰かに話したかったんだ」
「ううん…その…わ、私は力にはなれないけど…いい方法が見つかるといいね」
「あぁ、うん。ありがと。あんた、いい子だね」
私が言ってあげたら、お姉さんは嬉しそうに笑ってそう返事をしてくれた。
ふと、香ばしい匂いが香った。見たら、こすっていた枝が赤々となって煙を上げていた。
私はそこに枯草を押し付ける。ほどなくして草に火が着いたので、それを薪の下の枯葉の中に押し込んで、ふーっと息をかけた。
すぐにボッと音がして枯葉が燃え上って、細い枝に燃え移り、薪に火が灯った。
「へぇ!やるもんだ!」
お姉さんがそう言ってくれたので私はなんだかうれしいのと恥ずかしいので、えへへと笑ってしまっていた。
***
それから私たちは、トロールさんが夜のうちに取ってきてくれた魚を食べて、妖精さんが持ってきてくれた木苺もみんなで分けて食べた。お姉さんは本当に久しぶりに食べ物を口にしたみたいで、半分泣きながら「ありがとな、ありがとな」って何度も言ってておかしくって笑ってしまった。
お腹がいっぱいになってから、ふと、お姉さんが思い出したように
「そういや、あたし荷物探しに行かなきゃいけなかったんだ」
と膝をポンっとたたいて言った。お姉さんもそうだったみたいだけど、私もうっかり忘れてた。確か、鉄砲水に流された、って言ってたよね…
「なぁ、妖精ちゃん。ちょっと森を案内してくれないかな?たぶん、川の下流の方に行けば、どっかに引っかかってると思うんだよ」
お姉さんがそういうと、妖精さんはコクコクとうなずいてパタパタっと飛び上がった。
「私も着いて行っていいですか?」
私は、ふとそんなことを思ってお姉さんに聞いてみた。
村にいたころは、山は危ないから入っちゃいけないって言われていたし、ここに来てから時間が経っているわけでもないし、山のことはよく知らない。でも、ほかに行くところもないし、山のことは知っておかなきゃな、と思った。
妖精さんと一緒に木苺を採ったり、お魚獲ったりできれば、トロールさんの役に立てるかな、とも思ったし。
「あぁ、いいけど…どこにあるかもわからないし、時間かかるかもしれないよ?」
「うん、それでもいいです。私も山のこと知りたいし…」
「そっか。んじゃぁ、一緒に行こう」
お姉さんがそう言ってくれたので、私は妖精さんとお姉さんと三人で洞穴を出て、最初にお姉さんが倒れていた場所に向かった。
そこから妖精さんの案内で川の下流の方へと歩いていく。
川の回りはゴツゴツとした岩だらけで正直歩くのも大変だったけど、お姉さんが手を貸してくれたり、転んじゃってすりむいたりすると妖精さんが魔法で治してくれたりするので、頑張ってあるいた。
「しかし、ずいぶんと深い森だな…」
お姉さんが川を覆うようにして生い茂る木々を見上げてそんなことを呟く。
「熊とか狼もいる、ってトロールさんが言ってました」
「へぇ。豊かな森なんだな」
「お姉さんは、熊って見たことありますか?」
「あぁ、あるよ。とびきりでっかいやつとかね」
「こ、怖くなかったんですか?」
「まぁ、最初はちょっとビビったけどね。でも、熊だって狼だって、大抵は人間を襲いたくて襲うなんてことはないからな。驚かせたりしなきゃぁ、そうそう攻撃もしてこないもんだよ」
そうなんだ…あ、もしかして熊よけの歌は驚かせないように、ここに人間がいるよって熊に知らせるために歌うのかな?
そんなことを思っていたら、お姉さんが急に足を止めた。後ろ手に私に手の平を見せて止まるように、って合図を送ってくる。
な、なんだろう、急に…?
私は首を傾げながらお姉さんの向こうの景色を見やった。すると、ガサガサっと音がして、そばの茂みから何かが飛び出してきた。
それは、ネズミだった。でも、普通のネズミじゃない…イノシシくらいの大きさがありそうな、とっても大きくて真っ赤な目をしたネズミだ。
ネズミは、ふーふー!っと威嚇の声をあげてお姉さんに向かって全身の毛を逆立ている。こんなの、初めて見る…山にはこんな生き物もいるの…?
「おー、この山、こんなのもいるのか」
お姉さんがそう声をあげた。
「こ、これ、ネズミですか?」
「あぁ、うん。バケネズミだよ。本来は魔界の生き物だったんだけど…戦争のときに魔族が大量に連れてきて、逃げ出したのが住み着いていることがあるんだ」
ま、魔界の生き物!?そんな怖そうなのがこの山にいるの?トロールさんや妖精さんだけじゃなくって…!?
私はそれを聞いて全身を固くして緊張してしまったけど、お姉さんはカカカっと明るく笑った。
「大丈夫。こいつらだって熊と一緒。こっちに敵意がないってわかれば、そうそう襲ってくるようなこともないよ」
そういったお姉さんは、腰のベルトに通してあった皮袋から、さっき食べ残した木苺を一粒取り出すと手の平に乗せてネズミの方へと差し出した。
ネズミは、少し警戒した様子でお姉さんと木苺を交互に見つめながら、素早い動きで木苺を奪い取るとそのままガサガサと茂みの中に消えていった。
「ほらね」
お姉さんはそういって私に笑いかけてくれた。
あんなのに出くわして全然怖がらないでそれだけだって十分すごいのに、手から木苺あげちゃうだなんて…やっぱり、兵士さんだった、っていうのは本当なんだね。あんなの、ふつうは怖くて絶対にできないよ…
私がそんな様子に呆然としていたら、お姉さんはそんな私を見て、クスっとまた笑った。
それからまた川に沿ってしばらく歩くと、私たちの目の前に一周千歩はありそうな泉が姿を現した。
水がすごく澄んでいて、底にある緑の藻か何かがキラキラとかがやいているのが見える。
「わぁー!」
私は思わず、そう声をあげていた。
「へぇ、こんな泉まであるんだ。やっぱり豊かな山だなぁ」
お姉さんもそういって感心している。
でも、そんな私たちの顔の前に妖精さんがパッと飛び上がってきた。
必死になって身振り手振りでパタパタと何かを伝えようとしている。
どうしたの、妖精さん?なんだか、大変、って顔をしてるけど…
私がそう思ってたら、お姉さんが怪訝な顔をして呟いた。
「こんなところに泉なんてなかった…?」
―――え?
私はお姉さんの言葉に少し驚いた。泉がなかった、ってどういうこと?雨がたまってできた、ってこと?で、でも、ここ何日かはそんな大雨降っていないし…
私はそう思ってお姉さんを見上げた。お姉さんは、口元に手を当てて何かを考えるようなしぐさを見せてから、ヒュッと剣を抜いて、泉の中に突き立てた。
剣をグイッとひねって引っ張ると、その切っ先に底にあった藻のようなものが付いてくる。ううん、これ、藻なんかじゃない。よく見たら、足元に生えているのと同じ草だ。
ふと、私も気が付いた。この泉、足元の草がそのまま底まで続いている。
ふつう泉があるんなら、その水際は石とか砂利になっているはずなのに、この泉は違う。水際を超えて、底までびっしり草が生えてるんだ。
「確かに長いことここに泉があったような感じじゃないな…」
お姉さんは切っ先についた草を見てそう言い、それからふっと、私の方を見た。
「あんたの村、確か、洪水があった、って話だったよね?」
「え…?あ、はい、そうなんです」
私が答えたら、お姉さんはキュッと表情を引き締めて言った。
「ここが原因かもしれない…」
「原因、て洪水の?」
「あぁ、うん。本来は普通に川が流れてるだけだったのが何かの拍子にせき止められて、それが急に流れ出たら洪水になるだろ?」
「…!」
「そうか…村の人は、これを知っていたのかもしれない…トロールの仕業と考えて、だからあんたを生贄によこして、これ以上同じことが起こらないようにと頼んだ…」
お姉さんがそういうと、妖精さんがパタパタと手足を動かす。
「あぁ、わかってる。あのトロールがやったなんて思ってない。でも、村人がそう考えているかもしれない、って可能性は低くない」
お姉さんは鋭い視線で泉をギュッとにらみつけてから、真剣な表情で私と妖精さんに言った。
「調べてみよう。きっとなにか、水がせき止められている原因があるはずだ」
私と妖精さんは、お姉さんのそんな様子に思わずコクンとうなずいていた。
私たちは、先導するお姉さんの後ろにくっついて行って、泉の回りを見て回る。どこまで行っても最初のところと同じで、草が水の底へと続いているばかりだ。
もし本当にこの泉のせいで洪水が起こったっていうんなら、父さんも母さんもそのせいで死んじゃったんだ…
父さんと母さんが返ってくるってわけじゃないのはわかってる。でも、その原因を、私は知りたいと思った。
なんだか涙が出てきそうになってしまったのでギュッと手を握って唇を噛みしめた。妖精さんが心配して、私の肩に座って小さな手でほっぺを撫でてくれる。
そうしていたら、前を歩いていたお姉さんが立ち止った。急にだったので、私はその背中にポンっとぶつかってしまう。
「あぁ、ごめん」
お姉さんはさっと私を手で支えてくれながら、目の前を顎でしゃくって言った。
「あれだ」
その先には、何本もの大きな気が倒れている、妙な雰囲気になっている場所があった。
私たちは慎重にそのあたりへと歩いていく。
すぐ近くまでたどり着いてみると、そこには、本当に川を堰き止めるように大きな木がきれいに組み上げられていた。その木を止めておくための支えが、地面の深くまで打ち込まれているのがわかる。木と木は、ロープのようなものでしっかりと固定されていて、堰になっているその上からあふれた分の水だけが、サラサラと流れ出てまた川になって下流へと続いている。
その堰には、何か布のよううなものが引っかかっていた。
「あぁ、あたしの荷物だ」
お姉さんはそういって、ちょっと離れたところにあった荷物を剣を抜いて手繰り寄せた。
「びっしょりだな…中身が無事だといいけど…」
お姉さんはそう言ってから荷物を足元に置いてその木で出来た堰のそばにしゃがみ込んだ。堰をしげしげと見つめがお姉さんは、
「これは、人間が作ったもんだ」
と沈痛な表情で言った。
「に、人間が…?」
「うん…これ見て」
お姉さんが木を縛っていたロープを指さした。
「この縛り方は、農作物をまとめる藁敷を止めるためのもんだ」
お姉さんは言った。そう、そうだ。私、この縛り方を知ってる…私もできる。重みがかかればかかるほどきつく締まって行く縛り方だ。
「トロールはこんな縛り方を知らないし、知っていても不器用な奴らだから簡単じゃない。それに、この木の断面。これは斧をつかった跡」
お姉さんはさらに、木の脇を指して言う。確かに木の端っこは三角形にとがっている。
村の人たちがやってた。立っている木にロープを掛けて両側から斜めに斧を入れると、木が倒れる。そんなときは、これと同じ三角形になっていた。
その二つを見て、私はお姉さんがこれを人間がやったんだといった意味が分かった。それと同時に、なんだか悲しい気持ちが一気に湧き上がってくる。
「じゃぁ…じゃぁ、父さんも母さんも…これのせいで死んじゃった、っていうの…?誰かがこれを作って…それで…急に開けたりしたから?」
私の言葉に、お姉さんは
「うん…」
と低い声でうなずいた。
どうして…?どうしてこんなこと…誰がいったい、何のために…?そのせいで、父さんが…母さんが…どうして…どうしてよ!
ガクガクと膝が震えて、立っていられなくなって、私はその場に崩れ落ちてしまった。胸がいっぱいになって、ボロボロと涙がこぼれてきて、わーわーと叫ぶみたいにして泣いた。
お姉さんは、そんな私のそばに座り込んで、ギュッと私を抱きしめてくれて、妖精さんと一緒になって、私の体をやさしくさすってくれていた。
それから私は、お姉さんに連れられて洞穴に戻った。しばらくメソメソ泣いてたけど、それも次第に収まって、気分もだいぶすっきりした。
「大丈夫か?」
お姉さんが川で汲んだお水をくれたのでそれを飲ませてもらってから頷いて
「迷惑かけちゃってごめんなさい」
って謝った。
お姉さんは私の頭を優しく撫でてくれて
「あたしはあんたの味方だ。泣きたいときはそばにいてやるから、いっぱい泣くといい」
なんて言ってくれて、私はなんだか嬉しくってお姉さんに抱きついていた。
お姉さんはそれから、びしょびしょになった荷物を私に手渡してきた。
「悪いんだけど、この中身を干しといてくれないかな?」
「いいですけど、お姉さんは?」
「あたしは、もう一度あそこに戻っていろいろ調べてみる。
あのまま放っておくわけにもいかないしな」
お姉さんはそうってまた私の頭をくしゃっと撫でてくれた。
「わかった。気を付けてね」
私がそう言って上げたら、お姉ちゃんはニコっと優しく笑って
「妖精ちゃん、案内頼むよ」
と妖精さんに声をかけて、私にまた一言、頼むな、っていって洞穴から出ていった。
私はその後ろ姿を見送ってから、お姉さんから預かった麻でできた大きな袋を引きずって木のところまで行く。
中を開けてみたら、寝袋や替えの服に、簡素な金属の食器に細かい目の鎖で編まれたずっしり重いチョッキみたいな物もあった。鎖かたびら、ってやつかな?
こんなのを着て戦うなんて、お姉さん力持ちだなぁ、なんて思いながら、他の細かい物も日当たりのいいところあった岩の上に干していく。
それが終わってから、今度は木の下にたくさん落ちていた枝も引きずって乾燥させられるようにと岩の近くにまとめて置いた。
薪をいちいち外まで広いに行くのも大変だし、この場所に落ちてる枝を燃やせれば楽だもんね。
それを終えたら今度は、さっき食べて骨だけになったお魚をお姉さんの荷物にあった金属の鍋に集めて入れた。
これを煮詰めて出汁がとれれば、木の実とかお芋を一緒に茹でてスープにもできると思う。本当はお塩でもあるといいんだけど、山の中だしそんな贅沢なことはこの際、諦めていた。
私はお姉さん達がきっとお腹を空かせて帰ってくるだろうからと思って、帰って来てすぐに食事の準備が出来るように火を起こした。
あ、そうだ。あの木の枝も手で折れるところがあったら折って火のそばで乾燥させれば早く乾くな。
それに気がついたので、木の下から集めてきた枝を蹴って折ったり太くて折りにくいやつは転がっていた石を割って出来た尖った部分を斧代わりに使って出来るだけ小さく切ってみたりした。
たくさん泣いて、お姉さんと妖精さんに慰めてもらえたからか私はなんだかすごく元気になって、とにかく出来そうなことはみんなやって、お姉さん達が帰ってくるのを待った。びしょ濡れだった寝袋がカラッと乾いたから取り込んで、お姉さんの服もまとめておく。
そんなことをしているうちに次第に太陽が傾いてきて、洞穴の奥の空間には日が差さなくなり見上げる空が真っ赤に燃え出した頃、お姉さんと妖精さんが戻ってきた。
「おかえりなさい!」
って出迎えてあげて、荷物のこととか薪のことなんかを話したらお姉さんは笑って
「すごいな、まるであたし達の母ちゃんみたいだ」
なんて言ってくれた。
お姉さんと妖精さんが採ってきてくれた魚お芋なんかお鍋で茹でてスープが出来上がった頃には、もうすっかり夜だった。
カマドのところに集まっていたらトロールさんも起きて来たので、みんなで揃って食事を始める。
トロールさんもお姉さんもスープを美味しいって言ってくれて、妖精さんも身振りで美味しいって伝えてくれて私はやっぱり嬉しくなった。
そうして食事をしていたら、お姉さんがそういえば、って感じでトロールさんに話しかけた。
「なぁ、トロール。あんた、中腹のところに出来た泉知ってるか?」
するとトロールさんはコクリと頷いた。
「何日カ前、急ニ出来タ」
「その前後に何か変わった様子はなかったか?」
「ナイ…ア、」
「どうした?」
「泉ガ出来ル少シ前、オイ、人間見タ」
「人間…どんなやつだ?」
「葉色ノ服着テ、弓、持ッテタ」
それを聞いたお姉さんは口元に手を当てて考えるようなしぐさを見せて
「迷彩色に、弓…狩人か?」
とつぶやく。私もトロールさんも妖精さんも、お姉さんを見つめてそのあとの言葉を待つ。でも、お姉さんは、ううんっ、と声をあげて
「情報が少なすぎるなぁ。ともかく、あの泉を何とかしないと、この子の村がまた洪水になっちゃうかもしれない。なんとか水を抜かないとな」
と言って笑った。
「オイ、何スレバ良イ?」
トロールさんがお姉さんにそう尋ねる。
「あー、そうだな…ちょっと待ってな」
お姉さんはそういうと、カマドのあったところから焼け残っていた木の炭を持ってきた。それで洞穴の床に何かを描きはじめる。
「ここが泉のあった場所だ。で、そこから川は、こうカーブして流れてる。たぶん、泉の水が流れ出たときにこのカーブを曲がり切れなくて洪水になったんだと思う」
お姉さんが描いていたのはどうやら地図らしい。トロールさんがそれを見ているのを確認して、お姉さんは続けた。
「できたら、このカーブのところに倒れた木と土を使って堰を作ってほしいんだ。そうすれば、洪水を起こさないで水を抜けるだろ?」
お姉さんの説明に、トロールさんはコクっとうなずいて言った。
「簡単。今夜、ヤル」
「そっか。頼むな」
お姉さんはそう笑顔を見せてから、ふぁーと大きなあくびをした。
「さって、寝ようか…今日は疲れちゃったよ」
「ふふ、お姉さん、今朝まで倒れてたもんね」
「そうだなんだよ。食い物分けてくれたおかげで、なんとか元気になれたけどな」
お姉さんがそういって笑ってくれた。
それから私たちは、お姉さんの荷物に入っていたランプを消して、板岩の上にお姉さんの寝袋を敷いた。
「一緒に寝ようよ」
お姉さんがそういってくれたので、私は寝袋にお姉さんと一緒にくるまった。昨日使った藁よりももっとフカフカで寝心地が良い。それに、お姉さんが私をやさしく抱きしめてくれて、気持ちも暖かくなる。
知らず知らず、私はお姉さんの体に顔をうずめて、母さんにしていたみたいにして目をつむっていた。ふと、母さんがよく歌ってくれていた子守唄が聞こえてきたような気がして、なんだか少しだけ、幸せな気分になって眠りについた。
***
私は、何かを聞いた。
これは、何?大きな声…叫んでる?雷みたいな低い声が、グワングワンと反響して聞こえてくる。
やだな、この声…なんだか、怖いよ…どこ?一体どこから聞こえてるの…?
そう思ったとき、私はゴツン、と何かが頭に当たるのを感じて目を覚ました。
私の顔のすぐ前に妖精さんがいて、ピカピカ光りながら、パタパタしながら、必死に私に何かを伝えようとしている。
なに?どうしたの、妖精さん…?
あんまりにも妖精さんが必死そうにしているので、私もなんとかぼんやりしているのを追い払って、妖精さんの伝えようとしていることを考える。
一生懸命、ガオーってやってる。これはトロールさんだよね?ガオーが腕を振って…さようなら?違うな。何かを投げてるの?あれ、それも違うかな…手を振って、ガオーが、痛い痛いってなって…うーん、わかんないよ、妖精さん!もうちょっとゆっくり落ち着いて!
そう言おうとした瞬間、私の耳にまたあの低い唸り声が聞こえた。洞穴全体に反響してグワングワンと鳴り響いている。
これ…この声、トロールさんの声だ…!私は、それを聞いて妖精さんが私に伝えようとしてくれていたことに気がついた。
「トロールさんに何かあったの!?」
私が聞いたら、妖精さんはブンブンと縦に首を振った。
大変…!お姉さん…!
私はとっさに、眠る前、私を抱きしめてくれていたお姉さんを探した。でも、そこに眠っていたはずのお姉さんの姿はどこにもない。荷物はあるけど、剣はない…
妖精さんが必死になって私の服を引っ張っている。でも、私はトロールさんの声が聞こえる洞穴の出口の方を振り返って、ゾッとした。
まさか…まさか、お姉さんがトロールさんを!?そういえばお姉さん、呪われてる、って言ってた。もしかして、その呪いのせいでトロールさんを…!
私はそう思って立ち上がった。
止めなきゃ!お姉さんは優しい人なんだ!目が覚めた時にトロールさんを傷つけたってわかったら、きっと悲しい思いをする。そんなのはダメだ!
私は真っ暗な洞穴の中に駆け出した。妖精さんはまだ、一生懸命私を引っ張っている。妖精さん、そんなことしてないで、先に飛んでってよ!足元が見えない!
そう思ったのも束の間、妖精さんは今度は私の顔に張り付いてきた。
「ちょ、ちょっと!妖精さん!離れてよ!トロールさんとお姉さんを止めなきゃ!」
私は、小さな体の妖精さんを傷つけないようにそっと捕まえて顔から引き離す。でも妖精さんは私の前髪を掴んで離れない。
「もう!なんで邪魔するの!トロールさんかお姉さんが怪我しちゃうかもしれないんだよ!」
私は妖精さんに怒鳴った。そしたら、聞いたことのない、澄んだ綺麗な声が私の耳に聞こえた。
「行っちゃダメ!トロールに言われた!あなたを隠してって!」
喋っていたのは、目の前にいる妖精さんだった。
「よ、妖精さん…こ、声が…!」
私が言ったら、妖精さんはハッとして自分の口に手を当てた。でも、すぐに険しい表情になって私に言った。
「木のところに走って!あの木の根元には大きなウロがある!そこに隠れて!」
「なんでよ!妖精さんはトロールさん達が心配じゃないの!?」
「心配だよ!でも、あの人たちは普通じゃない!あなたも何をされるかわからない!」
「あ、あの人たち…?」
「人間よ!人間たちが来たのよ!」
「人間?む、村の人?そ、それなら、やっぱり私が行くよ!私がトロールさんは良いトロールさんだっていえば、きっとわかってくれる!」
「違うわ!そんな人達じゃない…!私、聞いたの…四人組の中の一人の呼び名を…」
「呼び名…?」
「『勇者様』って、そう言ってた…トロールは今、勇者と戦ってるの…!」
勇者?勇者様…?あの、魔界の王様の魔王ってのをやっつけて、平和を取り戻したっていう、勇者様?どうして?なんで?勇者様は、良い人でしょ?平和のために戦ってくれたんでしょ?どうしてトロールさんと戦ってるの?
トロールさんは、悪いことなんてしない。人間なんて食べないし、私を傷つけたりもしなかった。
良いトロールさんなんだよ…?それなのに、どうして勇者様はトロールさんと戦ってるって言うの!?
「どうして!?」
「勇者は、魔族の敵。魔族と見れば、容赦なく襲いかかってきて切り刻むの!」
「そんな…勇者様が…?」
「勇者ってのは人間の希望なのかもしれない…でもね、私たち魔族にとっては悪夢そのものなの!」
「だから戦うの!?違うよ!勇者様だってきっと分かってくれる!魔族にだって良い人たちがいるんだって、きっと分かってくれる!」
私は必死にそう叫んだ。だって、そんなのおかしいじゃない…!魔族だって、人間だって、生きてるんだよ!?相手のことを考えて優しくしたり、反対に憎いって思ったりして当然じゃない!それをただ魔族だからって傷つけるなんて、絶対におかしい!
「妖精さんは隠れてて!」
私は妖精さんの捕まえていた手をそっと離して真っ暗な洞穴を駆け抜けた。途中、何回か転んでしまった。硬い地面に膝がぶつかって涙が出そうになる。きっと血も出ちゃってるだろう。 でも、行かなきゃ、私…!私を守ってくれたトロールさんを、今度は私が守ってあげなきゃ!
妖精さんが途中で追いついて来て、私の服を引っ張りながらダメだよ!って何度も怒鳴ってたけど、私は走った。
ついに、洞穴の先にうっすらとあかりが見えてきた。膝が痛いのも忘れて、とにかく走った。
トロールさんの声が聞こえる。うなってる…雄叫びっていうのかもしれない。ゴロゴロと、まるで本当に雷みたいだ。
私は洞穴を抜けた。
そこには、大きな木の棒を持って振り回しているトロールさんと、ピカピカの鎧兜を身につけた人たちに黒装束の人もいた。
あれが、勇者様とその仲間なの…!?
「ぐうぅぅっ!」
不意に、トロールさんの苦しそうな声が響いた。見るとトロールさんは肩のあたりを抑えていた。血とは違う液体があふれ出ていて、満月の明かりに照らされて光っている。
「やめて…!やめてください!」
私は声の限りに叫んだ。
一瞬、その場にいた全員の動きが止まる。
「オ前、逃ゲロ…」
トロールさんは、私を見るなり低い声でそう言った。
「大丈夫…話せばきっと分かってくれる!」
私はトロールさんにそう言ってトロールさんと戦っていた人達に向き直った。
「みなさんが、勇者様御一行ですか?」
「あぁ、そうだけど…?」
その中のひとり、ほかの三人よりも視線が鋭くて、ピカピカの鎧を着込んだ人が返事をしてくれる。
「このトロールさんは、良いトロールさんなんです!私を助けてくれたんです!だから、戦うのはやめてください!」
私が言うと、勇者様はほかの三人に目配せをして、ケタケタケタっと笑い出した。
「お嬢さん、バカ言っちゃいけない。トロールが良いやつだって?そんなことありえるはずがないだろ?」
勇者様のその言葉のあとに、黒装束の男の人が口を開いた。
「我々は、魔王を倒す目的で魔界に入りました。魔族というのは、どいつもこいつも底意地悪く下劣で卑劣なものばかりですよ」
すると今度は、大きな斧を担いだ男が話し出す。
「そうだなぁ、まったく、胸糞悪い。こいつらが人間界にいるってだけで、気分が悪くなってくる」
弓を持っていた最後の一人も薄気味悪く笑って言った。
「ひひひ。それに俺たちは麓の村の長からトロール退治を頼まれててね。前金もたんまり頂いてる。それになんでも、村の一人娘がさらわれたらしいんだ」
それを聞いた勇者様が声を上げて笑い出した。
「あはははは!まぁ、どこを見てもそんな娘見当たらないがな…残念だよ、トロールに玩弄されて命を落とすだなんて…」
そう言った勇者様の頭上に、トロールさんが持っていた大きな木の棒を振り下ろした。
ドカンと大きな音がして木の棒が地面にめり込む。勇者様はそれを間一髪で回避していた。
「てめぇ!このデク!俺がまだ喋ってる途中だろうが!」
勇者様はそう叫ぶとトロールさんの方に手をかざした。
次の瞬間、勇者様の手から火の玉が飛び出してトロールさんにぶつかり弾ける。
「うぐぅぅ!」
「トロールさん!」
私は思わずトロールさんに向かって駆け出した。
だけどシュッと風を切る音が聞こえたと思ったら、私は何か強い力に突き飛ばされたように地面に転んでしまった。
左肩が痛む。見ると、私の左の肩には一本の矢が突き刺さっていた。血がドクドクと溢れ出ている。
「おいおい、あんまりキズ物にするなよ?」
「命まで取らなきゃ、楽しむ分には問題ねえだろ?」
「ははは、違いない!」
勇者様たちはそう言って笑っている。
なに?
なんなの?
この人たちは…?
平和のために戦ってたんじゃないの?!
…嘘だよ、そんなの…そんなのって…!
「ぐがぁぁ!」
大きな木の棒を振るったトロールさんの攻撃をかわした勇者様が、持っていた剣でトロールさんを斬り上げた。トロールさんの体から何かがたくさん吹き出してしぶきを上げる。
「トロール!」
「やめてよ!」
ズズン、と大きな音をさせて地面に倒れたトロールさんと勇者様の間に私は割って入った。妖精さんがトロールさんに回復魔法を唱えているのが聞こえる。でも私はそれを振り返らずに、勇者様をジッと睨みつけた。
「なんだ、小娘?」
「こんなの、間違ってる!トロールさんは人を食べたり、誰かに迷惑をかけたりもしない!このトロールさんは静かにここで暮らしていただけ!」
「ほほう、魔族の肩を持つってのか?」
「魔族だとか人間だとか、そんなのは関係ない!」
私はそう怒鳴った。でも、勇者様の後ろにいた黒装束の男がクスクスと笑って言葉を挟んでくる。
「しかしね、このトロールによって麓の村は洪水に見舞われたのだよ?勇者一行としては、それを放っておくことはできないね」
「違う、洪水はトロールさんのせいじゃない!誰かが…人間の誰かが山の中に堰を作ったって…緑の服を着た、弓を持った人が、って!」
私がそう言った瞬間、一瞬、勇者様たちの顔色が変わった。
私は最初、私の言葉を信じてくれたんだってそう感じた。でも違った。勇者様はすぐに、ニヤっと笑うと仲間の一人に向かって言った。
「おい、お前!見つかってんじゃねえかよ!」
その一人は、弓を携え、濃い緑色をした狩猟用の服を着ていた。
「ちっ、警戒は万全だと思ったんだがな。さすがにトロールは大地の妖精だ。気配を絶たれていると感じ取りにくいらしいや」
弓の男はそう言ってヘラっと笑った。
…うそ、うそでしょ?あの人が…勇者様の仲間が、あの堰を作った、って言うの?どうして…?何のために?
「なんで…?なんでなの…?」
「あぁ?決まってるだろ。トロールを退治して金を手に入れるには理由がいる。そいつを作ってやったまでだ」
「そんなの!」
「わかってないな、お嬢ちゃん。俺たち戦いをしてきた人間は魔王を倒したらお払い箱。平和な世の中になれば、いらない存在なんだよ」
勇者様の言葉に、黒装束の男が続ける。
「平和になると俺たちは飯が食えないんだ。迷惑をかけてる魔族がいると聞けば、それを倒して金をもらう他に生きてはいけないのさ」
弓の男がヘラヘラと笑って言った。
「争いがなければ争わせればいい、被害がなければ被害を出せばいい、そうやって俺たちは自分達の需要を増やしてるってわけだ。あーガキにはわかんないかな?」
ついには、斧の男が言う。
「わかろうがわかるまいが、関係ねえ。バカハンターが姿見られてるんだ。どのみち、生きては返せん」」
私は、震えていた。
この人達が、あの洪水を起こしたんだ…この人たちのせいで、父さんと母さんが死んだんだ…村の畑がダメになって、私が生贄で捨てられたのも、この人たちのせいなの…?
どうしてそんなにひどいことができるの?なんでそんなに残酷なことを考えつくの?!
「そんなの、ひどい…ひどすぎるよ!」
私は叫んだ。でも、それを聞いた勇者様は笑った。冷たく、私を見下すような表情だった。
「何がひでえんだよ、おい?お前だって同じだろ?動物の命を奪って肉を食う。魚を採って食べる。それと何が違うんだ?」
「…!」
「俺たちもよ、俺たちが生きるために仕方なくやってんだ。誰にだって幸せになる権利はあるだろう?」
「うまいものを食って暖かいベッドで眠るためには、こうするしかねえんだよ。それがこの世界の現実、ってモンなんだ。まぁ、ガキにはわからねえとは思うけどな」
私は、言葉を失くしてしまった。
確かに、勇者様の言うとおりかもしれない。
私は、私たちも、同じなの…?
昼間は、お姉さんと一緒にお魚を焼いて食べた…でも、確かにお魚にだって命はある。それを殺して、私は食べた。だから、お腹がいっぱいになった。
勇者様たちがしていることは、それと同じなの?自然の中で、狼が鹿の子供を襲って食べるのと同じで、私たちが、お肉屋さんでベーコンを買うのと一緒で、者様たちはトロールさんを殺して、それでご飯を食べるないといけないの?
「違ウ」
ゴロゴロと声がした。
振り返ると、トロールさんが大きな傷から血のようなものを流しながら、震える体で立ち上がろうとしていた。
「トロール、ダメ!」
妖精さんが止めているけど、トロールさんは聞こうともしない。
「あぁん?何が違うってんだ、このデク!」
勇者様はトロールさんにそう言葉を投げつける。だけど、トロールさんは言った。
「お前たちはただ、いたずらに利益を求めて食らっているだけに過ぎない。自然とともに生きる者たちは違う」
「自然と共に生きる者は、その命に感謝し祈る。そして自らもまたその一環であることを知っている。手に入らぬときは諦め、別の何かを探すのだ。」
「自らの手で獲物を作り出し、それを獲って食うなどするのは貴様たち汚らわしい人間どものみよ!」
トロールさんは、そう言って、雄叫びを上げた。バリバリと体も空気も震えるような恐ろしい声で。
だけど、勇者様はそんなトロールさんを軽蔑するような視線で見つめて言った。
「デクのクセに、生意気だな。黙ってろ」
勇者様はバッと手のひらを前につき出す。火の玉がトロールさんの顔を直撃して、ズズン、とまた地面に倒れた。
「トロールさん!」
私はトロールさんに駆け寄った。
「トロールさん、大丈夫!?」
トロールさんは、大きな肩と胸を上下させている。苦しそう…!
「人間、スマナイ。オ前マデ悪ク言ッテシマッタ」
「そんなことどうだっていい!しっかりして!」
「羽妖精、人間ト一緒ニ、逃ゲロ…」
「トロール!」
「オイハ、コイツラト戦ウ…」
「無理だよ、勝てっこない!勇者様なんだよ!?魔王を倒したっていう、勇者様!」
「分カッテル…グフッ!」
「トロールさん!」
ザクザクと地面を踏みしめる音が聞こえて振り返った。
そこには剣を掲げた勇者様がいた。
「お別れは済んだか、嬢ちゃん?」
私は、トロールさんの巨体の前に立ちふさがる。
お願い、妖精さん!急いでトロールさんを回復させてあげて…早く!
「まぁ、すぐにお嬢ちゃんもあとから追いつくから安心しな。もちろん、俺たちを十分に楽しませてくれてから、だが」
勇者様は持っていた剣を高々と振り上げた。
「さぁて、仕舞いだ」
どうして…?
どうしてこんなにひどいことができるの?
どうしてそんなに、自分の幸せばかり考えられるの?
どうして自分の幸せだけのために、誰かを傷つけることができるの?
あなたなんて…あなたなんて…
「あなたなんて!勇者なんかじゃない!あなたは獣以下よ!この欲まみれの化物!」
私の言葉を聞いた勇者と名乗る男は、引きつった笑みを浮かべて、私を見下ろし言った。
「よし、まずはお前から殺すことにした」
次の瞬間、男は私めがけて剣を振り下ろしてきた。
怖くなんてなかった。
ただただ、私は悔しかった…
なんにも言い返せなかった。なんにもできなかった。こんなやつに、私は…私は…
そう思いながら男の目をにらみ続けていた私の視界を突然何かが遮った。
次の瞬間、ギィン!と金属同士の音が弾ける音があたりに響く。
目の前にあるのは大きな背中。見覚えのある、ボロボロの服。見上げれば暗い色の髪。
「お、お姉、さん…?」
私は、気がつかないうちにそう口にしていた。
「騒がしいと思って急いで戻ってきたら、なんだよ、ずいぶんとひどい目に合わされてんじゃないかよ」
お姉さんだ…私は、そのことに気がついた瞬間、ガクガクと膝が震えてくるのを感じてその場に座り込んでしまった。
張り詰めていた何かが切れちゃったみたいに、体から力が抜けて身動きできなくなる。
「なんだ、貴様は?」
「通りすがりだよ」
お姉さんはそう言うと、素早い動きで勇者の下腹を思いきり蹴飛ばした。
勇者の男は、それを読んでみたみたいに軽く後ろに飛び退いてその衝撃を逃がしたみたいだった。その隙に、お姉さんがチラっと私たちをみやった。
「トロール、だいぶやられてるな…妖精ちゃん、できる限りの手当をしてやってくれ」
妖精さんがコクコクっと頷く。それから、お姉さんは私の頭をクシャクシャっとなでてくれた。
「よく頑張ったな。あとはあたしに任せておけ」
お姉さんはそう言って笑うと、勇者達の方へと向き直った。
とたんに、弓の男がヒューと口笛を吹いた。
「なかなかのべっぴんさんじゃないかよ。おい、殺すなよ、俺はこっちのほうが好みだ」
「クフフ、ならあちらのお嬢さんは私と勇者でシェア、ということでいいですかね」
「俺ぁ、こういう気の強い女は好かないからな」
「わかってないな、勇者。こう言うのを力任せに汚すのが楽しいんだろうよ?」
男たちがそう言葉を交わして下品な笑い声を漏らす。お姉さんはそれを聞いて、ピクっと何かに気がついたみたいな雰囲気になった。
「おい下衆ども。今勇者って言ったか?」
お姉さんの言葉に、勇者の男が声を上げて笑い出した。
「あははは!そうだ、この俺がかの魔王を倒し世界に平和をもたらした救世の勇者だ!」
「そのとおり。いっぱしの使い手ではあるようだが、魔王を討ったこの男に勝てる見込みは万に一つもないだろう」
黒装束の男が勇者の言葉に続いて笑う。
それを聞いたお姉さんは、ふぅ、っと大きくため息をついた。
「勇者、ね…なら、あたしを殺せるかもな」
「なんだと?どう言う意味だ?」
勇者の男は怪訝な顔をしてお姉さんに聞き返す。でも、お姉さんはそれを無視して左腕の袖を捲くった。
そっちは、確か、呪いが刻まれている方の腕じゃ…?
「あぁ?なんだ、その腕?呪文の類か?」
「呪いじゃないのか?うへぇ、やっぱ俺、その女要らねえわ」
「切り落とせばどうとでもなるだろう?」
そう言い合う男たちの言葉を聞いて、お姉さんはクスっと笑った。それに気づいた男たちが、とたんに表情を険しくする。
「おい女…今俺たちを見て笑ったか?」
「あぁ、ごめん、つい可笑しくってさ」
「何が可笑しいって?言えよ、次第によっちゃ、今すぐその首ハネ飛ばしてやる」
「えー?そっちの魔道士は何か知ってるみたいよ?」
お姉さんはそう言って、後ろの方にいた黒装束の男を顎でしゃくって言った。
男たちの視線が黒装束の男に集まる。もちろん私もつられるように男を見ていた。
黒装束の男は、真っ青な顔をしてガタガタと震えていた。
え、どうしたの…?お姉さんの呪い、そんなに危ないものなの…?
「お、おい、なんだよ、どうしたってんだ?」
「あれがなんだか知ってるのか?」
男たちも黒装束に矢継ぎ早にそう問いかけた。
すると黒装束の男は、ガタガタと歯を鳴らしながら、まるで首を絞められているみたいなか細い声で、絞り出すように言った。
「も、も、も、紋章…ま、魔王の…紋章…!」
え?
い、い、い、今…魔王って、言った、の…?
私は、ゾクっと背中を駆ける抜ける悪寒に震えた。勇者の男たちも、急に表情がこわばり引きつった笑顔を浮かべている。
「お、おい、嘘だろ?」
「どう見たって人間だぜ?あ、あれだろ、タトゥーかなんかだろ?」
「そ、そうだぜ…魔王は勇者に倒されたんだろ…?」
男たちのやり取り聞いて、お姉さんが口を開いた。
「えぇ?なに、あんたら、勇者のくせに魔王の顔も知らないんだ?」
その言葉に、男たちがギクリ、と体を硬直させた。
そうだよね…勇者なら、魔王と戦っているから、もし、あの呪いの痕が魔王のその、紋章ってやつなら、知らないはずがない…
「おかしいなぁ、勇者様よう?魔王を倒したんだろ?でも、あたしはあんたの顔に見覚えはないし、あんたもあたしを知らないってんだ」
不意に、お姉さんの左の腕がほのかに赤く光を放ち始めた。
これ、何…?何が始まるの!?
「どうしてだろうなぁ?」
お姉さんは低く、まるで呪いの言葉みたいにおどろおどろしい声でそう言った。次の瞬間、お姉さんの腕の赤い光がパッと輝いた。
お姉さんの左腕が、みるみるうちに青黒く染まりだし、爪が鋭く伸びる。腕を染め上げたその色がやがてお姉さんの左肩に至ると、お姉さんの背中から服を突き破り大きくて真っ黒な翼が姿現した。
色は、肩から首へと這い上がり、お姉さんの左の目のあたりまで進んで止まった。
でも、その色に染められたお姉さんの目は、もう、人間の目じゃなかった。トカゲか、羊の目みたいに縦長の、血のような真っ赤な瞳が浮かんでいた。
お、お、お、お、お姉さんが、本当に、ま、ま、ま、魔王なの!?だってこれ、本当に…まるで、絵本に出てくる、悪魔と、おんなじ…!
「は、ははっ、ビ、ビビらせやがって!た、ただの人魔族じゃねえか!」
勇者の男が剣を構えた。
「なんだ、やる気か?偽勇者くん?」
「ぬかせ!俺は正真正銘の勇者だ!俺の前で正体を表したことを後悔させてやる!」
勇者の男はそう言うと、雄叫びを上げながらお姉さんに斬りかかった。
お姉さんはその場を動かなかった。ただゆっくりその手を振り上げると、まるで空間が歪んだように空気が揺らめいて、次の瞬間には勇者の男が真後ろに二十歩程の距離を弾き飛ばされた。
男は、呆然と地面に座り込んでいる。
「まだ勇者だと言い張るんなら、もう一つ見せてやろうか」
お姉さんは、地面に転がった男を見ながらそう言って、右腕の袖を捲くった。そこには、左腕とは違った痕のようなものが浮き出ている。
「ま、まさか…それは!」
黒装束の男がそういうなり、尻餅を着いてうろたえ始める。他の男たちは意味がわからないのか呆然とただ見つめているだけだ。
お姉さんが右腕にぐっと力を込めると、右腕に浮いていた痕が青色に輝き始めた。
私は、その模様に見覚えがあった。
あれは確か…まだ本当に小さい頃に母さんに読んでもらった絵物語の中に掻いてあったんじゃなかったか…
うん、そう、間違いない…あれは、あの紋様は…
「ゆ、ゆ、勇者の紋…!」
黒装束の男が口にした。
そう。
絵物語のなかで、世界を二つに分けたと伝えられる人の証。
―――勇者…
「ばばば馬鹿な!なぜっ…ありえない…勇者と魔王、両者の紋章を持っているなんて…!」
黒装束だけじゃない。勇者と名乗った男も、弓の男も斧の男も、その場に座り込んでガタガタと震えている。
だけど、お姉さんはそんな男達に冷たく笑って言った。
「怖いか?恐ろしいだろ…それが絶対的強者に出会った恐怖ってもんだ…これまであんたらが食い物にしてきた連中が感じただろう絶望だよ」
「くっ…クソがぁぁぁ!!!」
勇者の男がそう怒鳴ってあの火球をお姉さんに放った。でもお姉さんは、まるでろうそくの火を吹き消すみたいにふっと息を吐いた。
何が起こったのかわからない、風なんて吹いてないはずなのに、火球がまるで火の粉のように炎を散らせて消えた。
「ひっ…ひぃぃ!」
弓の男がそう悲鳴を上げる。男たちはまるで雷のなる日の子犬みたいに小さくなってひとまとまり固まって震えている。
「この仕打ちの報いは、体で払ってもらうとしよう」
お姉さんは、冷たい笑顔でそう言うと、なんにもない空間を指でピンっと弾いた。
「うぐぅっ!」
その瞬間、黒装束の男のうめき声が聞こえた。見ると、黒装束の男が口から泡を吹いて伸びてしまっている。
「や、や、やめてくれ!もうしない、二度としないから!」
「こ、こ、殺さないでぇぇ!」
斧の男がそう喚く。
でもお姉さんは、ニヤニヤと、まるで楽しそうじゃない笑顔で笑いながら、冷たく言い捨てた。
「安心しろよ、すぐには殺さない。腕をもいで、脚ももいで…そうだな、死なないように体を開いてみるってのも苦しみそうで楽しいだろうな」
男たちの顔色が一瞬にして見たこともないくらいに真っ白になる。
それを見たお姉さんはまたピンピンピンっと指を弾いた。男たちは、何かに殴られたみたいに体を弾けさせ、その場に倒れ込んで動かなくなってしまった。
お姉さんはふぅとため息をついた。すると、両腕から光が消えて、皮膚の色がみるみる元に戻り、背中から生えていた翼が霧に溶けるようにして消えていった。
ど、どういうことなの?お姉さんは、魔王なの…そ、それとも、本物の勇者様なの…?そ、それとも…両方、なの?そんなことって、ありえるの…?
ただただ呆然とそんなことを考えていた私に、お姉さんが振り返った。
その顔を見た瞬間、私は、ギュッと胸を締め付けられたような気がした。
お姉さんは、笑っていた。でも、言いようのないくらい、悲しい顔をしていた。泣いていたわけではないけど、でも、乾いたように笑うお姉さんの瞳は、悲しいのと淋しい色に染まっていた。
「お姉さん…」
私は思わずお姉さんの名を呼んだ。お姉さんは悲しい笑顔のまま言った。
「ごめん。怖い思いをさせちゃったね…大丈夫、もうしないから。だから、もう少し一緒に居させて。トロールの具合いだけ見させてよ」
そ、そうだ!トロールさん!
私は慌てて振り返って、トロールさんの様子を見た。
妖精さんが一生懸命に光って回復魔法を唱えているけど、トロールさんの傷は治っているようには見えない。
それどころか、さっきお姉さんの背中に生えていた翼が消える時と同じように、チリチリと体のあちこちから霧のようなものが立ち上っているのがわかる。
「妖精さん!」
「…いくらやっても、回復魔法が効かない…生命力を失い過ぎてる…!」
「そんな…!」
それってつまり、怪我がひどくって死んじゃいそうってことでしょ!?ど、どうしよう…トロールさん、トロールさんが!
「お、お姉さん!」
私は考えるよりも早くお姉さんに飛びついていた。
「お願い、お姉さん!トロールさんを助けてあげて!トロールさんは私と妖精さんを守るために戦ってくれただけなの!悪いことをしようとしたんじゃないの!」
トロールさんが死んじゃうかもしれない、って思ったらいっぱい涙が出てきてとまらなくなっていた。それでも私は、お姉さんにそうお願いした。
お姉さんは、悲しい表情のまま、でも、かすかに笑って、私の髪をクシャっとなでてくれた。お姉さんはそれから、トロールさんの頭の方に行くと、ゆっくりとその傍にしゃがみこんだ。
「おい、トロール。聞こえるか?」
「…ウグッ」
「聞こえてるんなら…もういい。もう頑張らなくていい…あいつら全部あたしが片付けた。だから、もう休め…」
お姉さんの言葉が、私に突き刺さった。
そんな…トロールさん、ダメなの?た、助けて上げられないの!?
そう思い至った瞬間、胸の奥から痛い気持ちがブワっと湧き上がってきて、さっき以上に涙が溢れてくる。
「ゲホッ、ガフッ…マ…魔王、様…ゴ、ゴメンナサイ…」
「トロール!」
トロールさんが、苦しそうにそう声を上げた。妖精さんが悲しそうな声を上げている。
「ん、どうした?」
それを聞いたお姉さんが、左手で優しくトロールさんの頬に触れた。
「オイ、逃ゲタ…戦ウ事、怖クテ、オイ、逃ゲタ…魔界モ、森ニ住ンデタ仲間モ、裏切ッタ。オイハ、ヒドイヤツ…」
「そんなことないさ…」
「魔王様、オイ、裏切ッタコト謝ル。逃ゲタ事モ謝ル。オイガ悪カッタ。オイハ、悪イトロールデイイ。ソノ代ワリ…ソノ子供、守ッテ欲シイ…」
「お前…」
「オイハ…オイハ…」
「わかった…もうしゃべるな…」
お姉さんはそう言うと、トロールさんの頬に当てていた手のひらをおでこのあたりに移動させた。
「魔王の名において誓おう。お前の頼み、確かに聞き届けた」
そう言ったお姉さんの手のひらがポッと明るく輝きだした。
「だから、もう休め…」
そう言ったお姉さんの目から、ポタリと一筋の涙がこぼれた。
お姉さんの手の光が強くなる。すると、トロールさんの体中にその光が広がって、あの煙のような霧のようなものがもっとたくさん立ち上り始める。
「うぅ…うわぁぁぁん!」
妖精さんがトロールさんの体にすがりついて泣き出した。
「お姉さん、やめて!」
私はお姉さんに飛びついてトロールさんから引き離そうとした。でも、お姉さんは私の突進なんかじゃびくともしない。
お姉さんは私の体を空いていた右腕でギュッと抱きしめた。暴れても、何をしても、お姉さんは離してくれない。
お姉さんにも、もうどうすることもできないんだ…だから、これ以上苦しくないように、痛くないように、ってそうするつもりなんだ…
トロールさん、私を助けるために…私のために…こんな、こんなことに…
そう思ったら、もう頭の中も胸の中も壊れそうな気持ちが膨れ上がって、爆発して、私は絶叫しながらお姉さんの胸に顔をうずめていた。
ごめんなさい、トロールさん…私を守るために、こんなことになっちゃって…ごめんなさい、ごめんなさい…
そう心の中で必死に謝りながら私は、お姉さんの体にギュッとしがみついていた。
***
「グフッ…カハッ…」
「はぁ…はぁ…」
「ク、ククク、我の命運も、ここまでと言うところか…」
「魔王様!」
「侍女よ、下がれ!手出し無用だ!」
「…なぜだ…なんでだよ!?あんた…あたしに勝つ気なんてこれっぽっちもなかったじゃないか!」
「ゲホッ…フ、フフフ…勇者よ…見事であった。その力、その魔力、その剣技…何をとっても、遜色ない…そしてなにより…その目だ」
「…な、何を言ってる?」
「悲しみに満ちたその目のことだ…救えずに捨て置くしかなかった命の重さを知っている目…」
「…!」
「勇者よ、聞け…我はこれより、貴様に呪いをかける」
「なっ…!」
「それは貴様を苦しめるだろう…命を絶ちたくなる日も来るだろう…だが、勇者よ。お前になら、我に見つけられなかった答えを探してくれるように思う」
「なっ…なにをする!あたしの腕を離せ!」
「クッ…クフフフ、どうだ?我のすべての力を継承させてやった…」
「こ、これが呪い!?」
「いや…これは、贈り物だ。いや、あるべきところに返った、と言うべきか、勇者よ」
「!?」
「呪いは今掛けてやる…」
「やめろ!」
「ぐはっ…ク、クフフフフ、あはははは!最後に…あなたのような者に出会えて、我は幸運であったな…」
「何を!?」
「勇者よ…」
「…!」
「頼みがある…我が民を…魔界の住人たちを、どうか守ってやってくれ…愚かな我は、人間と戦う道しか選べなんだ…だが、あなたなら見つけてくれると我は信じる。魔界に、世界に示してくれ…真の、平和への…道を…」
「な…な…!」
「フ、フハハ、んっガフッ…今のが…呪いの言葉だ…。頼んだぞ…勇者…次期魔王よ…我が民を…この世界に、平和と…は…えい、を……」
「おい…おい、魔王…!魔王!魔王ーーー!!」
「ガフッ…」
ドサッ
「魔王様!」
「…」
「魔王様!しっかり!魔王様…!」
「侍女よ…」
「はい!私はここにおります!」
「そうか…はは、すまぬな」
「…そのようなお言葉で赦されるとお思いですか…?」
「ゲフッ…て、手厳しいな…ククク」
「魔王様…」
「侍女よ…いや、サキュバスの娘よ」
「はい…」
「…愛しておったぞ」
「私もです…!」
「ハハ…良いものだな…」
「…魔王様…?」
「…」
「魔王様!?」
「…」
「魔王様…くっ…うぅぅ…」
トサッ
「勇者様…」
「…!な、なんだよ…?」
「お手をお貸しいただけますか…?」
「…」
スッ
ギュッ
パァァ
「何をした…?」
「私からの贈り物です…人間の姿のまま、魔王などやれますまい?」
「…」
スチャ
「な、何を!」
「これでも、魔界が王に遣える身。主亡き後に生きさらばえるなど、滑稽でございましょう?」
「…」
「さぁ、どうぞかの首をお刎ねください」
「…できない…」
「…そうおっしゃらずに…どうか、お願い到します」
「どうして!」
「お傍に侍りたいのです…愛した人の、傍に…」
「くっ…」
「お願いします…どうか、私にお情けをくださいませ…」
ギリッ
「愛する人のところに、ともに旅立たせてくださいませ…」
ポロッ…ハラハラ…
「くっ!」
チャキッ
「…」
「…」
「…」
「…」
「うぅっ…うわあぁぁぁぁ!!!」
ブンッ!
***
目が覚めた。
ふかふかの、暖かい何かが私を覆っている。
えぇと…ここ、どこだっけ…?
私はそんなことを思いながら体を起こした。
そこは、洞穴の中のいつもの場所だった。
奥の方からは、日の光が差し込んできている。
朝だ…私、どうしてここにいるんだっけ…?
私はそう思って、昨日の夜の記憶をたぐり寄せる。
そう、確か、人間が来て、それで、トロールさんと戦っていて、お姉さんが来て…そうだ。
トロールさんが、死んじゃったんだ。それで私、お姉さんにしがみついてずっと泣いてて…そのまま、寝ちゃったのかな…?
ふと、私は自分の肩を見た。昨日、私はここを矢で射られたはず…でも、今はもうなんでもない。
夢だった、ってワケじゃないよね…?
そう思って、私はトロールさんの寝床をみやった。やっぱりそこに、あの大きな体はない。
日が昇っているのに、トロールさんが外に出ているはずはない。やっぱり、夢なんかじゃなかったんだ…
プン、と何かがにおった。
これ、煙の匂いだ…お姉さんかな?
私は板岩の上から降りて洞穴の奥へと歩いていく。パッと眩しい光が目に差し込んできて、思わず目を閉じてしまった。
ゆっくりと慣らしながら目を開けると、木の下のカマドのところに座っている人がいた。
お姉さんだ。
「お姉さん」
私は声をかけてお姉さんの方へと歩いていく。私の声が聞こえたみたいで、お姉さんはヒョイっと顔を上げると楽しそうな笑顔で
「あー、もう起きたか」
なんて言って私を手招きしてくれる。
カマドを見たら、お魚が三匹、火に掛けられていた。お姉さんは鼻歌混じりに薪をいじりながら火加減を調整している。
私はそんなお姉さんの様子を見ながら考えていた。
昨日あれからどうなったんだろう?あの勇者って人たちとかはどこへ行ったの?トロールさんは、どこに埋葬してあげたんだろう?妖精さんは無事かな…?お姉さんは昨日、なんであんなに悲しい顔をしてたんだろう?
わからないことがたくさん…お姉さんに聞いてもいいかな…?
そう思って、お姉さんに聞こうとしたけど、一瞬、昨日のお姉さんの表情が浮かんできて言葉を飲んでしまった。
あの呪いは、魔王になっちゃう呪いだったんだね…お姉さんはもう人間じゃないんだ。でも、きっと魔族でもないんだろう。
悲しそうな、さみしそうなあの顔は、一人ぼっちになっちゃったってそう思い知らされたからなのかもしれない。
そっか、だから昨日お姉さんは私に、「もう少し一緒にいさせて」なんて言ったんだ。お姉さんはきっと、私を怖がらせたって思ってるんだ。
それで、怖いから一緒に居たくないって思うんじゃないかって、そう感じたんだ。
それなら、私、お姉さんにちゃんと言ってあげないと…
「ね、お姉さん」
「ん、なんだ?お腹すいたか?もうちょっと待ってくれよなぁー」
「ううん、そうじゃなくって」
そう言ったら、お姉さんは不思議そうな表情をして私を見た。
「あのね、私、お姉さんのこと怖くないよ。お姉さんは、人間でも、魔族でもないのかもしれないし、勇者様で、魔王なんだろうけど…」
「お姉さんは私と妖精さんを助けてくれた。優しい人なんだって、私知ってるよ。だから、お姉さんは怖くないよ」
私は、お姉さんの目をジッと見つめてそう言ってあげた。
そしたらとたんにお姉さんはギュッと唇を噛んで、なんだか泣きそうな顔をして
「…無理しなくていいよ」
なんて言った。
素直じゃないな、なんて思っちゃったけど、もしかしたらきっとたくさん傷ついてきたのかもしれない。仲間や、他の人にも、怖がられちゃったのかもしれない。だから、あんなに悲しい顔をしてたんだ。
私は考えるよりも先に立ち上がってお姉さんの胸元に飛び込んだ。
言葉でいくら言ってもきっと伝わらないんだろうって思った。それなら、怖くないってやって見せてあげるのが一番だ。
「怖くないよ」
「…だって…だってあたし、殺すことしかできないんだぞ。今のあたしは、休憩なしに世界を二、三回滅ぼせるくらいの力があるんだぞ…どんな魔法もあたしには効かない。どんな武器もあたしには届かない。あたしはもう、人間でも魔族でもない。ただの化物なんだぞ…?」
「そんなことない。お姉さんは、あたしと妖精さんを守ってくれた。優しいの、知ってる。魔族でも人間でもないのかもしれないけど、お姉さんはお姉さんでしょ?」
「…うん」
「だから、怖くないよ」
「…うん…うん、ありがとう…」
私が言ってあげたら、お姉さんは掠れそうな声でそう言って、ポタリ、ポタリと泣き出してしまった。
寂しかったんだろうな、悲しかったんだろうな、って思った。
私はまだ子供だし、どうやって慰めてあげていいのかはわからないけど…でも、お姉さんを一人ぼっちにしない方法は知ってるよ。
そんなに難しいことじゃない。力とか、魔法とか、肌の色とかそんなんじゃない。お姉さんの心を見ててあげればいいんだ。
悲しい気持ちを知ってあげたり、辛い気持ちを知ってあげたりするだけでも、それはきっと伝わるんだって母さん、言ってたもんね。
「あー、起きてるー!」
不意に声がした。振り返ったらそこには、パンパンになったお姉さんの革袋を抱えてパタパタ飛んで来る妖精さんの姿があった。
「あ、おはよう、妖精さん」
「あれ、魔王様、なんで泣いてるです?」
「グスッ…魔王だなんてやめてくれよ」
「んーでも、勇者と呼ぶのは抵抗があるので、魔王様と呼ぶです。魔王様、木苺獲ってきたですよ」
妖精さんはニコニコ笑いながらそう言って、お姉さんの荷物に入っていた金属の食器に革袋の中の木苺を開けた。
「おー、今日はずいぶん採れたじゃないか!」
「はい!頑張ってきたです!」
「ありがとな。よし、魚もいい具合だし、食べちゃおう!」
「はい!」
そうして私たちは昨日とおんなじようにお魚と木の実を食べた。
お芋のスープもあると良かったんだけど、お芋は昨日全部食べちゃったしね…トロールさん、どこでお芋採ってきたんだろう?私も行けるように教えてもらわなくっちゃ。
食べながらそんなことを思って、私はトロールさんがもういないんだっていうのを思い出してしまった。
とたんに体から力が抜けて、ポロポロと涙がこぼれてくる。
そんな私を見て、お姉さんがギョッと言う顔をした。
「ど、どうした、急に?」
「ご、ごめんなさい…死んじゃったトロールさんのこと、思い出して…」
「死んじゃった?」
「…はい」
私はお姉さんにそう返事をしてから、お姉さんが変な顔して私を見ていることに気がついた。
「な、なに?」
「あ、いや…えーっと、ちょっと待って…」
お姉さんはそう言いながら、傍にあった荷物をゴソゴソとやって、中から布に包まれた何かを取り出した。
丁寧にその布を開けると中にはお姉さんの拳ほどの石ころが一つ入っていた。
「石?」
「いや、これ、トロール」
お姉さんはそう言った。
でも、私にはその意味がよくわからない。形見とか、そういうこと、なの?
首をかしげた私に、お姉さんは苦笑いを浮かべて言った。
「トロールは大地の妖精なんだけど、知らない?」
「大地の、妖精さん?」
「そう。トロールってのは、そもそも羽妖精ちゃんと変わらない大きさの石人間みたいなナリをしてるんだよ」
「…?」
「そんでもって、非力なんだ。小さいからな。でも、トロール族には秘術があって、こいつらは魔力と自然の力を錬成して自分の周りに纏わせることができるんだ」
「……?」
「機械族の外骨格鎧なんかと感じは近いんだけど、とにかく、あのでっかいトロールってのは、トロール族が魔力を使って作った体っていうか、鎧みたいなもんなんだ」
「………?」
「あー、だから、要するに、あのでっかかったトロールは作り物で、中には小さな石人間が入ってたってこと。で、それが、これ」
お姉さんはそう言って私に石ころを手渡してきた。
私は手のひらでそっとその石ころを受け取った。見かけはただの石ころなのに、不思議とほのかに暖かな感じがする。
「ただ、あの体を維持したり作り出したりするのは結構な力がいるらしくてさ。ひどいときには、それに力を使いすぎて死んじゃうこともあるらしい。だから、こうやって一旦封印してやったんだ。魔力が回復すれば、じきに自分で封印を解いて石人間にもどるだろ」
も、もどる…?
えっと、それって…
つまり…
「トロールさん、死んでない、ってこと?時間が経てば、この石から元に戻る、ってこと?」
「だからそうだってば!それ!トロールは今、その石!」
お姉さんはちょっと呆れたって感じで私の持っていた石ころを指差した。
これがトロールさん…?ホントなの?死んじゃったりしてないの…!?
私はやっと、そのことが理解できた。
それと当時に、我慢していたのがプツっと切れたような気がして、目からぶわっと何だが溢れてきた。
「トロールさん…よかった…トロールさん!」
私は爆発しそうに嬉しい気持ちに動かされて、自分でも気がつかないうちに手のひらの石ころを抱きしめて大泣きしていた。
そんな私の様子を、お姉さんと妖精さんがポカーンと見つめていたらしいけど、全然気がつかなかった。
それから私はお姉さんからあれからの話を聞いた。
勇者一行だと言っていたあの四人組は、どうやら同じ方法であちこちで悪さを繰り返していたお尋ね者だったらしいっていうのを、お姉さんが転移魔法で連れて行った先の王国騎士団の人が話してたそうだ。
悪い人だったんだ…それなのに勇者様とか言っちゃって…本当にひどい人たちだ。
山にできた泉も、トロールさんが作った堰のおかげでちゃんと川の流れに沿って行って、今はもう元通りの山あいの窪地に戻ったらしい。
お姉さんは、夜な夜なそれを見張っていたから、昨日は駆けつけてくれるのが遅くなっちゃったんだ、と言って私に謝ってくれた。
でも、そんなのはもういいんだ。だって、みんな無事だったんだもん。お姉さんが謝るようなことじゃないよね。
私が肩に受けたケガは、お姉さんが治してくれたみたい。
痛くないようにって催眠魔法をかけてから矢を抜いたりしたから、覚えてないだろうけど、なんてお姉さんは言ってた。うん、痛かった記憶も、治してもらった記憶もない。
魔法ってすごいな、って思う。私も、回復魔法くらいできたら便利かも。あと、火の魔法もね。だって、薪に火をつけるときに使えたら便利じゃない?
なんてことを言ったらお姉さんはクスクスと笑って、今度教えてくれる、ってそう約束してくれた。
「そういえば、これからお姉さんはどうするの?」
私はそんなお姉さんとの話の最後に聞いてみた。
そしたら、お姉さんは笑った。昨日の、悲しい目をした笑顔とは全然違う、何かを決意したみたいな、そんな笑顔だった。
「あたしは、魔界へ戻るよ」
「魔界に呪いを解く方法があるの?」
そういえば、それも気になっていた。
あの魔王の力の呪い…お姉さんは、それを解きたかったんじゃないの?時間がないって言ってたよね?
「いや…もう、呪いだなんて言わないよ」
お姉さんはそう言って、左腕の袖を捲くった。腕に浮き出ている紋章を、ジッと見つめたお姉さんは
「呪いなんかじゃない…約束と…誓いだ」
とつぶやくように言って、それから私を見つめて
「それに、どうやら時間内に答えを見つけられたみたいだしな」
と笑った。
なんのことかわからないで首をかしげていると、お姉さんはなんだかおかしそうに声をあげて笑うので、私もおかしくなって一緒になって笑ってしまっていた。
「なぁ、あんた村に戻るのか?戻るんだったらあたしがちゃんと事情を説明してやるけど?」
「ううん…もう戻れないよ、私。あの村にいても、きっとみんな私のこと厄介者だって思うに決まってる」
「…そうかもしれないな…少なくとも、あんたがいることで村の連中は罪の意識に駆られるだろう…別に村の奴らはそれでもいいけど、そんなのあんたが気まずくってイヤだろうな」
お姉さんがそう言って遠くに視線を投げた。
「だから、お姉さん。私も魔界ってとこに連れてってくれない?」
「はぁ!?」
「いいでしょ?だって、トロールさんがもとに戻ったらちゃんとお礼しなきゃいけないし、それに、魔法を教えてくれるって約束したでしょ?」
私が言ったら、お姉さんは一瞬、キョトンとした顔をしたけど、不意に吹き出して大声で笑い始めた。
「あはははは!やっぱあんたは一味違うわ!いいよ、わかった!一緒に行こう!楽しいばかりの旅じゃないだろうけど、それでも良いんならな!」
「うん、もちろん!」
私はそう胸を張って言った。
「なら、発つ準備でもするかなぁ」
「うん!」
「あははは!子どもに羽妖精に動けないトロールと勇者兼魔王か。はは!おかしなパーティだな!」
「私、寝袋畳んでくるね!」
「あー頼むよ!羽妖精ちゃん、出かける前に、歩きながら食べる用の木苺頼んでもいいかな?」
「わかったです!」
「よろしく!」
私たちはそうして、それぞれに旅立ちの準備を始めた。
洞穴の中に駆けていこうとしていたら、後ろからお姉さんの声がかすかに聞こえた気がした。
「約束の時間には間に合いそうだ…あたしは答えを見つけたよ…きっとあんたも、何かを見つけてるって、そう信じてる…」
***
ブンッ!
ガキィィン!
「…はぁっ…はぁっ…あー手ぇ痛っ!床、硬っ!」
「勇者様…」
「…すこし時間をくれないか?」
「時間、でございますか?」
「うん…」
「どれほど…?」
「…二週間…いや、ひと月」
「…なぜです?」
「…もしあたしが魔王とやるとなれば、人間を斬らなきゃいけない日が来るかもしれない。魔王にならないで、勇者でいるのなら…あんたを、いや、魔王が守ってくれと言った魔族を斬らなきゃならない」
「…いずれの役割に身を投じるか、考える時間が必要である、と?」
「…うん」
「私を斬ってはくださらないのですか?」
「…約束しよう。勇者としてここに戻ったら、必ずあんたの首を刎ねる…でも、約束をする代わりに、あんたも考えて欲しい」
「考える、ですか?」
「うん…魔王の侍女として、あたしに遣える気があるのかどうか」
「それは…!」
「いいだろう、考えるくらい。もしあたしが魔王として戻っても、あんたが死にたいって言うならその首、刎ねてやる」
「…その約束、違いませんね?」
「うん…約束は、必ず守る…」
「魔王となるか、勇者となるか…死すか、生きるか…お互いに、難しい二択でございますね」
「…答えを探そう」
「…選ぶのではなくてですか?」
「うん…答えを探すんだ」
「…分かりました」
「…じゃあ、あたしは行く。国王軍を下げさせる。あたしが戻るまで、魔界の統治を頼む」
「勇者様!」
「ん…?」
「約束、違いませんね?きっとですよ?」
「あぁ。約束する…あたしは必ず答えを見つけてここに帰るよ」
「では、そのときまで必ずお待ち申し上げております、約束でございますよ?」
「うん、約束だ」
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