第2話

 物心ついた頃、すでに彼――宵川斗紀夫の中には「狂気」の種は根付いていた。

 家族と食卓を囲んでいる最中、テレビからは悲惨な事件のニュースが流れてくる。彼以外の家族は、事件の被害者に寄り添って同情し、あるいは自分もしくは自分の家族でなくて良かったと胸を撫で下ろすばかりであった。だが、斗紀夫は違っていた。

 悲惨な事件の被害者。それが自分の好みである若い女性であった場合に限っていたが、面識のない彼女たちの容姿や人となりについてが、目の前のブラウン管を通じ斗紀夫をうずかせた。彼女たちが自分と同じ時代に生き、確かに人生を紡いでいた。その人生のなかで思い描いていた夢や未来、そして周りの者との愛がいきなり断ち切られたということ。死への恐怖。絶望。天寿を全うすることができなかった一つの魂。それを思うと、斗紀夫は甘美な歓喜に、全身を包まれているように感じた。そんなニュースを見た夜、彼は必ず布団の中で腹の下に手を伸ばしていた。

 時にはニュースから目が離せなくなり、母親に注意されたことも何度もあった。だが、彼の母もそれ以外の家族も、彼の中にある「狂気」に気づくはなかった。

 表向きの宵川斗紀夫は、割と恵まれた容貌と、おおよそのことはそつなくこなせる人当りのいい少年として、思春期を迎え、大人となった。

 彼自身も、自分の「狂気」=「特殊な性癖」の種をうまく取り扱っていた。そのうまく取り扱った結果が、彼の小説家としてのまずますの成功を築き上げていった。そんな斗紀夫が恋人として選ぶ女性は、明るくさっぱりとした性格で、自分に頼らなくてもしっかりと生きていけそうな女性が大半だった。そう、ちょうど狂った執着心に支配される前の相田千郷のような――ただし、彼の書く小説のヒロインは、彼の理想の「事件の被害者」としてのタイプであったが。

 宵川斗紀夫は自分の中にある「狂気」を受け入れつつも、決して、その種に灯をつけてしまうことのないよう用心深く月日を重ねていた。

 

 そんなある日、彼は夢を見た。

 何もない暗い部屋を思わせる閉塞した空間に、男であり女でもあり、そして神でもあり悪魔でもあるとしか形容できない者がそこにはいた。そいつが暗い深淵から、こちらを見ている血走った眼をを斗紀夫は今でも思い出せる。そいつは斗紀夫に何か(これが何であるのかを思い出そうとすると頭が割れるように痛くなってくる)を渡そうとしていた。斗紀夫は、何晩も続けてその夢を見た。そして、ついに彼は”それ”を受け取ってしまったのだ。

 受け取ったからといって、何も変わることはなかった。だが、それからまた幾月もたった時だった。

 彼はX市で発生した女子生徒による同級生一家殺害事件の一報を聞く。

 被害者は3人。うち2人は男児で1人は女性だった。被害者の女性だが、自分より年上であり、経産婦(3人産んでいる)だったため、斗紀夫の好みからは外れていた被害者であった。それに斗紀夫は、この事件について、当初、高校生のカップルが一丁前に痴情のもつれを起こし、女子生徒が彼氏である男子生徒の家族を殺したんだと思っていたため、そう興味をそそる事件ではなかった。

 けれども、連日報道されるニュースにより、どうやら女子生徒の一方的な思い込みが原因であるとのことであった。

――ストーカーか……人の気持ちなんて、全く考えない奴はいるからな……

 この事件はネットでも祭りとなり、まとめサイトまで作られていた。暇つぶしに斗紀夫は、男子生徒の家族を惨殺し、自らは自殺した女子生徒が残した日記を読み込んでいった。そこに、こんな記述を見つけた。


 「夢の中でプレゼントをもらったの。私たちは選ばれた特別な人間なの」と。


 まさか、ただの偶然だ、この女子生徒――A子は狂ってるんだ、と斗紀夫は、心の枝葉に重くひっかかる、その記述について深く考えないように努めた。

 

 しかし、その後、彼の元に1通のファンレターが届いた。そのファンレターには、まさしく斗紀夫やA子と全く同じシチュエーションで、夢の中で不気味な者に何かをもらったと書いてあった。丁寧に差出人の連絡先が書いてあったため、斗紀夫はファンレターを送ってきた者に連絡をとった。普段の斗紀夫なら、ファンに個別に連絡をとったり、ましてや直接会うなんてことは絶対にしなかったのだが。


 その者の住むY市に向かい、直接話をした斗紀夫はこう結論付けた。

 その者も自分も、そしてX市の女子高生・A子も同士であると。

 夢で不気味なあいつより、”それ”をもらったものは、自分のなかの欲望、執着、嫉妬を起こし、ゾっとする人間ならざる存在となることができる。

――呼びかければ同士たちとコンタクトをとることだってできるはずだ。自分たちだけでない、他にもこの日本、いや世界に何人かいるかもしれない。もし、人の運命を握る存在がいるとしたなら、どんなつもりで俺たちにそれを与えたのかは分からない。だが、俺たちは人の運命に多大な影響を与えることのできる選ばれた同等の存在なんだ。

 ついに彼の「狂気」に灯がともされてしまった。

 

 だが、斗紀夫は自分が直接の加害者となって、誰かに危害を加える気は全くなかった。

 そんな彼は、偶然にも引っ越した一軒家の隣に住む自分好みの可憐な少女・我妻佐保に心惹かれた。彼女を「主人公」=「被害者」とした事件を作ってみたい、と強く思った。我妻佐保が処女だということは、彼女の雰囲気や服装から推測できた。

 佐保ちゃんには性犯罪がいいかな、といろいろと策を練っていた時に、ちょうど彼女の誕生日を知った。これから一生、彼女が年を重ねる度、18才の誕生日にあった”事件”を思い出せるように、7月7日を事件の発生日と設定した。事件の「加害者」として選んだ馬鹿な少年たち3人も佐保を死にまでは至らしめないと推測していた。命を断ち切られるよりも、ズタズタに傷つけられたこれからの人生を佐保が「生きていく」という姿こそが、癒えぬ悲しみに満ち、なおかつ美しいものであると斗紀夫は思った。

 ただの隣人として佐保のすぐ側にいた斗紀夫は、自分が「加害者」ではないという安全地帯で、自分が書き上げた物語(事件)をこの目で見ていることにかつてない歓びに震えていた。

 「加害者」である3人の少年のうち、2人は斗紀夫が想像していた通りに動いてくれた。けれども、世間体を第一に考えそうな佐保の家族(主に祖父母)が警察に訴えようとしていた。斗紀夫は口では弁護士を紹介するなどと言いながらも、内心は焦っていた。もし、警察の手により、この事件が表ざたになるともしかしたら、自分のところまで捜査が及ぶ可能性があると、斗紀夫は危惧した。そのため、同士のA子に呼びかけ、矢追貴俊(長倉貴俊)の命を引き換えに、佐保を傷つけた少年たちに正義の鉄槌を下そうと考えた。肝心の犯人が死亡したら、もう事件(性犯罪は特に)の追及がされる可能性は少なくなる。そして、佐保にも佐保の家族にも、被害にあったというそのことだけが残ると――


 斗紀夫は逢坂夏樹に鉄槌を加えるために、呼び出しの手紙と隠し撮りしていた写真を送り付けた。そして、気分転換にY市より自分に手紙をよこした者に再び会いに行った夜、ついにその者は自分の中で煮えたぎっていた闇を押さえることができなくなってしまったのだ。

 そして、20×6年8月4日、その者はY市にて八窪真理恵含む10名を殺害した「殺戮者」となってしまった。


 X市のA子は、矢追貴俊に触れる女に危害を加えるゾンビストーカーであり、Y市の「殺戮者」は映画に出てくるようなグロテスクなモンスターとなって、無関係の人間までを惨たらしく殺害した。

 

 こんな同士たちの変貌をこの目で見つつも、斗紀夫は今までと変わらない人間の姿のまま暮らすつもりだった。斗紀夫は人間の姿をしているも、人の痛みを自分の痛みとして考えることをしなかった、いやできなかった。他者に対する思いやりを見せるような言動をとっていても、それは彼の表面に張っている薄い膜のようなものであった。自分以外の人間は、彼にとって、全て自分が脚本を書いた人形劇の中の人形、もしくは自分のゲームをうまく進ませる駒であったからだ。

 だが、我妻佐保も矢追貴俊も、そして彼女たちの家族も斗紀夫のことを今も心から信頼している。相田千郷と谷辺千奈津が起こした事件で、斗紀夫も一応「被害者」となり、一生残るような大怪我を負った。代償は大きかったが、このことが、彼を「被害者」という他者に責められたり叩かれたりすることが少ない安全な身分に立たせた。 


 斗紀夫は病院の待合室へと向かった。

 ちょうど、そこに設置されているTVでは、今年の夏にY市で起こった殺人事件についての特集番組が放映されていた。

 人間の仕業とは思えないこの事件。オカルト好きな者が集まるネットの掲示板では、「狼男の仕業」「平成の山姥伝説」「オークたちによる無差別殺戮」といったアホじゃないかと突っ込みたくなるような推理が展開されているのを斗紀夫は知っていた。

――俺、事件が発生したあの夜、取材旅行と称して、Y市の「殺戮者」に会いに行ってたんだよな。死体となった八窪真理恵(佐保ちゃんに似た雰囲気を持つ清純そうな美人であり、写真だけでなく生前に一度会ってみたかった)の死体写真を撮り、浮かれてしまってあの逢坂夏樹にも送り付けた。あのY市の「殺戮者」の話によると、犠牲者の八窪真理恵は異母妹の八窪由真とともに、必死で「殺戮者」から逃げていたものの、逃げきれなかったとのことだ。なかなかに美人姉妹な八窪真理恵と八窪由真。彼女たちは本妻の娘と愛人の娘であった。そういった関係であるにも関わらず、彼女たちは固い絆で結ばれていたらしい。あの「殺戮者」は一般人の中に紛れ込んで今も生きている……そして、あの「殺戮者」があの夜のように変身(いや、自分の醜い心をさらけ出すだけか)しない限り、事件は永久に未解決のままだろう。

 斗紀夫は思わずニンマリと上がっていった唇の端を掌で覆い隠した。幸いにも誰にも見られていなかった。そして、彼は決意する。

――そうだ。ほとぼりが冷めたら、Y市へ引っ越そう。姉を目の前で惨たらしく殺された八窪由真の姿を見に行こう。ちょうどネットで”他の同士”も見つけたことだし、彼女に会って声をかけよう。彼女も生きている。彼女の物語はまだ続いている。俺が「安全地帯」で眺めることのできるその物語は……



 佐保は玄関の扉を開けた。

 家の前の道路を小さな女の子が2人、春の始まりを告げる風とともにキャッキャッと駆けていった。彼女たちの天真爛漫に笑う声が佐保の心に、切ない痛みを思い起こさせた。

 視線を落とした佐保の足元に、春の陽が差し込んでくる。

 シンプルなカーディガンにジーンズ姿の佐保は、自分の背後に立っている優美香を振り返った。優美香は心配そうな顔のまま、佐保をじっと見つめている。優美香が佐保をかばったために受けた、左のこめかみの傷の痕はもう分からなくなっていた。

 優美香に行き先を告げ、佐保は玄関を後にした。

 今日、佐保が一人で出かけることを優美香はとても心配していた。そして、佐保も優美香に心配をかけているということは充分に理解していた。けれども、どうしても佐保はこれから一人で彼らに会いに行かなければならない。

 

 佐保は購入したばかりの菊の花を手に、墓地へと足を踏み入れた。たくさんの墓石が並んでいたが、佐保はすぐに彼がいる場所を見つけることができた。

 まだ冷たさを含む春の始まりを告げる風に吹かれる場所で櫓木正巳は骨となって、眠っていた。彼が眠る場所には、彼の両親もともにいた。

 櫓木正巳は一度も目を開けることも、何度も呼びかけていた姉・麗子の手を握り返すこともなく、彼の18才の誕生日の前日、その生涯に幕は下ろされた。

 今、佐保の目の前にある墓石は、綺麗に清められ、すでに花が供えられていた。おそらく麗子だろう。あの夏休みの日以来、麗子が佐保の家を訪ねてくることはなかった。佐保は、麗子から届いた手紙で櫓木正巳の死を知った。手紙が届いた時、すでに正巳の49日は過ぎていた。

 麗子が何度も書き直し、佐保が何度も読み返した手紙にはこう書かれてあった。

 

――もう二度ととあなたの前には現れません。正巳は永遠の眠りにつきましたが、私は生きている限り、あなたのことを忘れません。あなたの苦しみと痛みを私は一生胸に刻んで生きていきます。正巳が背負うべき罪も私が一生背負って生きていきます。


 たった1人の家族であった弟を亡くした麗子の心情を思い、佐保は胸を押さえていた。

――もし、私があの被害に会った時、すぐに警察に訴えていたとしたら……もしかしたら、あの人の弟さんも死ぬことはなかったかもしれない……そして、”本当の「依頼者」”が、警察の調べで分かったかもしれない……あの人は弟さんが死んでしまうまで、一体どれほど苦しんでいたんだろう……そして、実際に弟さんが死んでしまった今は……

 佐保は涙が滲みだした目じりを指で押さえる。

 そして、佐保は花を供え、彼に向かって手を合わせた。彼に対し、許すとか許さないとか、そういった思いは全く浮かばなかった。

 目を閉じたまま、佐保はじっと手を合わせていた。ただ安らかにと。


 墓地から出た佐保は歩き出す。

――これから、もう一人、私は会わなければいけない人がいる。彼と話をするのも、きっと今日で最後になるはずに違いない……

 佐保は彼と待ち合わせている公園に着いた。この公園はビジネス街に近いらしく、人通りも多かった。スーツ姿のサラリーマン。子供連れの母親たち、ジョギング中の女性、犬を散歩させている老夫婦が佐保の横を通り過ぎていった。

 後ろからの足音に佐保が振り返ると、そこにはこちらに歩いてくる貴俊の姿があった。吹き抜けた一瞬の風が佐保と貴俊の髪をふわりと撫で上げていき、彼女たちの視線はまっすぐに交わった。

 2人は公園の一角にあるベンチへと腰を下ろす。同じベンチに腰を下ろした彼女たちの間には、人1人分ほどの隙間が設けられていた。頭上にある桜の木は、もう1週間ほどしたら、本格的な春の訪れを告げるように咲き誇るのだろう。   

 貴俊がわずかに視線を落としたままの姿勢で切り出した。

「宵川先生、昨日、Y市に引っ越して行ったね。僕のところにも挨拶に来てくれたんだ」

 佐保は頷く。

「……そうね。うちの家族もみんな、宵川先生のことを物凄く信頼していたし、あんな怪我を負ったことをとても気の毒に思っている……あんな一生足を引きずって歩くほどの後遺症なんて……」

 宵川斗紀夫は松葉づえをついたまま、佐保の自宅にも引っ越しの挨拶に来た。

 彼の話では、Y市の病院に転院し、リハビリを続けるとのことだった。じきに松葉づえなしで歩けるようになるとも彼は言っていた。

 沈黙が訪れる。貴俊が膝の上の両手を握り直し、切り出した。

「……ひっかかっていることがあるんだ。相田さんは恋敵と思い込んでいた我妻さんだけでなく、なぜ、僕のことまで……その……辱めようとしたのか……」

 佐保もそれは不思議に思っていた。あの時、貴俊に手を伸ばした相田千郷が発した言葉――


「……安心して。まだ、殺さないわよ。あんたってさあ、私があんたのためならなんでもするって思ってるでしょ……そうよ、その通りよ! 愛しているんだもの……私があんたの見たいものを見せてあげるわよ!」


 佐保は思う。

――宵川先生も相田さんも、大人の男性と女性だ。間違いなく肉体関係はあったと思う。でも、なぜ、相田さんは愛する人の目の前で、矢追くんに迫ろうとしたのかしら? ジェラシーを起こさせるため? それとも何か、特殊な性癖を持っていたのかな? 俗に言う夫婦交換や、もしくは人前で性行為を行うのに興奮する等の……

「それに、相田さんは僕の手を縛る時、かすかではあったが、僕の手に触れたんだ。僕はすぐにA子が現れると思った……でも、その時にはあいつは現れなかった……」

 その後、貴俊にキスをした千郷は、A子は即、水に引きずり込まれ殺された。そして、貴俊の手にうっかり触れてしまった佐保も、A子に殺されそうになった。

――なぜ、A子は相田さんが矢追くんに触れた最初の段階で現れなかったんだろう? まるで、誰かに言い聞かされ、止められていたかのように……

 佐保の隣で俯いている貴俊もきっと同じことを考えているようであった。

「矢追くん……私は他にも分からないことがあるの……私を拉致した少年のうちの1人のお姉さんが、私の家に写真を持ってきたの……私の拉致を企んだらしい『依頼者』が私を隠し撮りした写真よ。その写真のなかの私は冬の制服を着ていたの。散り始めた桜の花も映っていた。その頃の、相田さんは宵川先生とはうまくいっていたはずよ。もしかしたら、私の存在すら知らなかったんじゃないかと……」

 佐保が優美香と一緒に斗紀夫のお見舞いに行った時、斗紀夫が「俺が千郷を誤解させたから、あいつらはこんな事件を起こしてしまった。佐保ちゃんまで巻き込んでしまって申し訳ありません」と、優美香が恐縮するぐらい何度も頭を下げていた。

 その後、斗紀夫はポツリと言っていた。「もしかしたら、佐保ちゃんを不良少年たちに拉致させたのも、千郷かもしれません。あいつは死んでしまったから、もう真実は分かりませんけど」とも。

「宵川先生は相田さんが『依頼者』かもしれないと言ってたけど、私は他にいるような気もするの。”本当の『依頼者』”が……全ての事件につながっている1本の糸があって、それが複雑に絡み合っていて……”本当の『依頼者』”はその糸を手にとったまま、安全な場所で今もうれしそうに笑って……」

 佐保の言葉を受けた貴俊も、口には出さないもののそう思っていた。暴行を受けた直後であるだろう佐保の姿を見た相田千郷が、青ざめ慌てふためいていた様子はとても演技には見えなかったのだから。


 自分たちの身に起こった全ての事件を佐保と貴俊は思い返す。

 20×5年4月にX市で起こったA子による貴俊の家族殺害事件。これは、20×6年10月にのA子の遺体発見により「被疑者死亡」となり、書類送検された。

 20×6年7月7日。佐保の誕生日に起こった事件。加害者の逢坂夏樹と桐田照彦は、翌月に(一応自殺として処理されたらしいが)不審な状況で死亡。そして、生き残った最後の少年である櫓木正巳が年明けに病院で息を引き取った。

 20×6年10月、黒い車より自分たちに向かって洗濯のりをかけようとし、母・優美香が怪我をした。この件の犯人はおそらく死亡した相田千郷であると、警察の捜査で判明している。

 そして、その日から、わずか数日後の10月22日に発生した最後の事件。斗紀夫の元恋人で嫉妬と執着に狂った相田千郷と、佐保たちの担任教師である谷辺千奈津の姉妹による身代金目的誘拐殺人未遂事件。沼工場に拉致された佐保、偶然にもその日、沼工場を訪れた貴俊と斗紀夫も事件に巻き込まれた。そして、あのA子もそこに姿を見せ……容疑者である相田千郷と谷辺千奈津の両名とも死亡した。


 学年の始めに教卓に立って挨拶をした谷辺の笑顔を佐保は思い出す。

 中牧東高校の卒業式は約2週間前に終わった。佐保だけでなく、クラスの生徒の大半が沈んだ面持ちのまま、中牧東高校を旅立っていった。身近にいた大人の裏の顔。信じていた大人の裏の顔。まだ10代の少年少女たちはそれを知ってしまった。

 谷辺に殺されかけた佐保であったが、谷辺のことを思うと、憎いというよりもなぜか悲しくやるせなくなってくるのだ。人を殺してまで谷辺が守ろうとしていた彼女の子供は、彼女と諍いが絶えなかった夫の母親に引き取られたと、佐保は風の噂で聞いていた。

 これらすべての事件は、表向きは「解決」していると言えるだろう。だが、殺された貴俊の家族はもう二度と帰っては来ない。佐保が受けた苦しみや恐怖も一生、消えることはない。佐保や貴俊に刻まれた傷だけでなく、彼女たちの周りにいた者にも刻み込まれた傷は、一生呻き声をあげ続けていくのだ。


 訪れた沈黙を破るように、貴俊が口を開いた。

「あの沼工場も取り壊されるんだってね……取り壊し自体は数か月先の予定みたいだけど」

「うん……」

 佐保もそのことは祖父母から聞かされた。佐保にとって地獄と同じ意味を持つ場所。表の道路では逢坂夏樹が死に、櫓木正巳が瀕死の状態で発見された場所。佐保が再び拉致され、千郷がA子に殺され、谷辺が斗紀夫を刺し、自殺した場所。その場所は、数か月後には更地となり、時とともにこの町に住む人々の記憶から薄れていってしまうのだろう。

 だが、あの工場の裏を流れる川に貴俊に刺されたA子が流れゆく光景を、佐保は今もなお、まざまざと思い出すことができた。月明かりを受けたあの夜の川は、美しいというよりも不気味な波紋を立てながら、A子を捉え、まるで地獄から手を伸ばして、彼女が逝きつくべきところにいざなっているように、今でも思えていた。

 貴俊の横顔を見ながら、佐保は言った。

「……矢追くんはこれからどうするの?」

「明日にこの町を出て、父と一緒に暮らす予定だよ。大学はまた来年受けることになると思うし……」

「私も来年に大学を受けようと思うの……」

 佐保も貴俊も何とか高校だけは卒業できたという状態であった。とても、受験勉強に集中などできなかった。佐保は毎晩、机に向かって勉強していた頃が何十年も昔のことのように思えた。あれだけ成績に厳しかった祖父母も、まだ定まらぬ進路については何も言わなかった。佐保も貴俊もそれぞれの事件が起こらなかったら、一体どこでどんな気持ちで人生に一度しかない今日という日を迎えていたのか。

 けれども、時間は巻き戻せない。いつか少しでも傷が薄くなることを願って、これからも流れていく時とともに生きていくしかない。

「我妻さん。今日、僕がここに我妻さんを呼んだのは、ちゃんと僕の言葉でお礼が言いたかったからなんだ」

「?」

「……あの時……僕がA子を刺した後、自殺しようとした時、我妻さんが僕を止めてくれた。そうでなかったら、きっと僕は父まで……」

 貴俊の肩がわずかに震える。そして、彼は顔を上げて佐保を見た。

「ありがとう」

 貴俊のまっすぐな視線を受けた佐保も思う。

――矢追くんは相田さんにナイフを突きつけられても、私をレイプしようとはしなかった。それに、自分の身も顧みず、しかもあのA子がいる冷たい川の中に飛び込んで私を助けてくれた。私は本当は今でも男の人が少し怖い。でも、あなたみたいな男の人もいるんだと思った。人に傷つけられても、一人の人の存在が救いとなることだってあるんだと……

「……私の方こそ矢追くんに助けられたのよ。ありがとう」

 貴俊も佐保に頷き返した。彼のこの上なく整った顔に見えたその優し気な微笑みは、やはりどこか悲しさを感じさせるものではあったが。

 佐保も貴俊もどちらともなく、その場に立ち上がった。そして――

「お元気で」

 佐保も貴俊も互いに手を上げ、道を分かった。

 数歩歩き出したところで、佐保は振り返った。歩き始めていたはずの貴俊も佐保に顔を向けていたため、彼女たちの視線はぶつかった。

 もう二度と会うことはないだろう。でも、生きている限り彼女たちは互いのことを忘れることはない。どこかで、穏やかに幸せに暮らしてほしいと、それだけを彼女たちは互いの姿を見ながら、願っていた。

 彼女たちは互いにもう一度、軽く頭を下げた。

 そして、うららかな春の始まりを告げる風が吹き抜ける陽光の下で、それぞれの行く道へと一歩を踏み出していった。

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