第6話

――こんなところで、こんな奴に、殺されるなんて……!!

 骨までしびれるほど冷たい川の中で、佐保は自分の両脚をつかむA子から逃れようと必死でもがいた。だが、びくともしない。

 佐保の口から、大きな水泡がゴボゴボと幾度となくあふれ出た。

 それでも、佐保は懸命にもがき続けた。生への希望を捨てること、それはこのA子に屈してしまうことになるんだと。

 母・優美香の顔が浮かんだ。そして、祖父母の顔も。友人たち、日香里や翼、梨伊奈や亜由子の顔も、佐保の脳裏を駆け抜けていった。

――もう一度、会いたい。会いたいのよ! このまま、会えなくなるなんて、そんなの絶対に嫌だ!!

 けれでも、佐保の動きは徐々に鈍くなっていく。薄れゆく意識のなか、佐保はA子の不気味な笑い声を聞いた。それは佐保を絶望の底に落とすものだった。

――会いたい人達にどんなに会いたいと願っても、私はもう二度と会うことができないの? そうか、死ぬってこういうことなんだ……ごめんね、ママ……親孝行も何もできないまま、先に死んじゃってごめんね……

 力も尽きた佐保の腕が水中でダラリと浮かんだ。

――そうか、私は死ぬんじゃなくて、”殺されるんだ”……矢追くんのお母さんたちもあの千郷って女性も、きっとこんな絶望を……


 けれども、佐保の両脚を掴むA子の手がゆるんだ。

 ぼやけた視界のなかで佐保が見たのは、A子の手を振りほどいている貴俊であった。

 囚われていた佐保は、自由になった。

 今にも意識を失いそうになっていた佐保は、貴俊に抱きかかえられ、川岸へと引き上げられた。


 佐保はお腹を押さえ、口からゲホゲホと水を吐き出した。思いきり空気を肺に吸い込む。頭はグワングワンと鳴り続けている。

 手で自身の体を支えたが、うまく起き上がることができず、佐保は再び川岸の草や土の上にドサッと倒れ込んだ。水をたっぷりと吸った制服が気持ち悪いほど、肌にはりついてくる。

 佐保の傍らの貴俊も、後ろに両手をつき、肩でゼイゼイと荒い息をしていた。

 彼の髪からも雫が滴り落ち、ぐっしょりと濡れた制服のワイシャツがその肌にへばりついていた。

 貴俊が荒い息のまま、呟いく。

「……これで終わりじゃない……」

 その貴俊の言葉通り、佐保の眼前にある川より、A子がザブッと顔を出した。

 頭上にある月の光が、A子のまばらに残っている黒く長い髪の毛が腐りかけた顔の皮膚にはりついているその様を、くっきりと見せていた。そして、A子のその瞳は、沼工場の中で見た時よりも一層白く濁り不気味な光を発していた。

 A子は佐保に向かって、その白くブヨブヨとした手をヌウッと伸ばしてきた。

 だが、A子が佐保に触れるよりも早く、貴俊がA子のその手をガッと掴んだのだ。

 A子が川の水面に浮かび上がってくる。そのA子の手を掴んだ貴俊も、よろけながら立ち上がった。そして、彼はA子に向かって一歩を踏み出した。

「……分かったよ。僕が君の思い通りになったら、満足なんだろ……僕の負けだよ……」

 A子の顔にある口らしきものの両端がグッとあがった。

 A子は笑っているのだ。貴俊の心をやっと自分の思い通りにできたという嬉しさに。

「……矢追くん……駄目……」

 佐保は痛む喉からかすれる声を出した。

――A子と一緒に逝く気なの……そんなの駄目……矢追くん、お願い、思い出して……

 ふらつきながらも立ち上がろうとする佐保は、貴俊のもう片方の手が制服のズボンの尻ポケットに伸びていることに気づく。そこから彼が取り出したのは折り畳みナイフ――千郷が谷辺に殴られた時に床に転がったもの――であった。

 佐保が驚きに目をハッと見開いたと同時に、貴俊の手によりナイフはパチンと音を立てて刃先を現わした。

 そして――

 貴俊はA子の腹部に向かって、それを突き立てた。

 ブチュッという腐った肉を裂く音。ナイフをA子より引き抜いた貴俊であったが、彼はなおもA子に向かって、ナイフを持つその手を振り下ろし続けた。

「なんでだよ! なんで……」


――なんで、僕のお母さんと弟たちを殺したんだ――


 貴俊の声なき叫びは、月輝く夜空の下に響き渡った。

 何度も肉を切り裂く鈍い音と、A子の口から発せられる、空気が音を立てているようなかすれた悲鳴。

 やがて……

 最後にA子は貴俊へと手を伸ばすような動きをわずかに見せたが、仰向けに倒れ、川の流れの中へと吸い込まれていった。


 貴俊はA子の体液が滴り落ちているナイフを握りしめたまま、流れてゆくA子の姿を見ていた。

 そして、彼は決意した。グッとナイフを握り直し、自身の喉元へと――

「駄目、やめて、矢追くん!」

 佐保が貴俊の手を押さえた。男の人に触れるのは怖かった。でも、貴俊をこのまま死なせるなんて、できなかった。

「我妻さん、僕はもう死ぬしかないんだ……」

 貴俊が虚ろな目で力なく呟いた。

「お願い! お願いだから、思い出して! 矢追くんのお父さんのことを!」

 佐保は貴俊の父とは、一度も面識はなかった。けれども、ここで貴俊が死を、それも自殺という方法で迎えてしまったら、彼の父は無惨に殺された妻や2人の息子のみならず、たった一人自分とともに生き残った息子までもを永遠になくしてしまうことになるのだ。

「お願い……」

 佐保は涙に濡れた顔で、貴俊を見上げ、懇願した。

 喉元で硬く握りしめられていた貴俊の手からナイフが落ちる。

 月が貴俊の水に濡れた横顔を照らしていた。佐保は彼の瞳から一筋の涙がつたうのを見た。そして、やがてそれは大粒の涙に変わり――

 貴俊はその場に座り込み、顔を覆った。夜空の下、貴俊の慟哭が響いた。

「矢追くん……」

 佐保の頬にも涙が止まることなく流れていく。佐保の瞳のなかで、むせび泣く貴俊の姿が徐々に霞んでいった。



 沼工場の中で、谷辺は崩れ落ちたままだった。

――目の前で千郷が……妹が死んだ。薄汚れたセーラー服を着た、まるでゾンビのような女に殺されてしまった。私は体が硬直して動けず、千郷を助けることもできなかった。そして、今、あのゾンビは我妻さんを襲っているはず……

 完全に生気を失った谷辺は、ぼんやりと考えていた。

――裏口から飛び出て行った矢追くんは我妻さんを助けに行ったのか、それとも担任教師である私の犯罪を警察に知らせに行ったのかは分からない。でも、一つだけはっきりしているのは、私はもう終わりだ。私は守ろうとしていたのに、何も守ることができなかった。それどころか、全て失って……

「……千奈津さん、自首してください」

 後ろ手に縛られたままの斗紀夫が、彼女に向かって静かに言った。谷辺は顔をあげて斗紀夫を見た。妹の元恋人であり、かつては自分とも良き話相手であった、宵川斗紀夫の顔を。

「斗紀夫さん……私、今になって自分がどれだけ馬鹿だったのか、はっきりと分かったわ……」

 そう、本当に私は馬鹿だ、と谷辺は思った。

――私は自分の賢さには自信があった。学生時代だって、ずっと成績は上位だったし、教員採用試験だって結構な倍率をくぐりぬけて突破することができた。教師という仕事は、大変だったけどやりがいのある仕事で、生徒や保護者、同僚教師とトラぶったことも数えるほどしかなかった。それに、千郷から我妻さんの誘拐と殺人を聞かされた時だって、自分たちの計画にぬかりはないと思っていた。でも、こうなった今は、計画に穴がありすぎだったことがはっきりと分かる。仮に計画が最後まで成功していたとしても、すぐに私たちは警察に捕まっていたに違いない。警察をなめてはいけない。……でも、なんで、こんなことにまでなっちゃったんだろう。借金のことにしたって、額が少ないうちに田舎の両親に頭を下げればよかった。それか心療内科の扉を叩けば良かった。他人の手を借りてでも、きちんと自分にブレーキをかけるべきだった。私は膨れ上がっていく借金と、子供への愛ではなく自分の体面を取り繕うことに頭がいっぱいで何も考えられなかった。私は自分の生徒たちを殺そうとしていたんだ。我妻さんと矢追くんの信頼を裏切り、いや彼女たちだけじゃない、他の生徒たちまで裏切って……私はなんて恐ろしいことを……

 谷辺は自分の両手を見る。

 視点の定まらない視界の中で見る、彼女の両手は震えていた。そして、彼女の脳裏にはまるで走馬灯のようにいろんな映像が浮かんできた。

 幼き日、妹と手を繋いで夏の日をあぜ道を虫取り網と籠を持って歩いた日。中学生の時、家族4人で北海道旅行を楽しんだ日。教員採用試験の合格を知らせた時、父も母も目を潤ませて喜んだ日。真新しいスーツに身をつつみ、緊張しながらも初めて教卓に立った日。タキシード姿の凛々しい夫と、ずっとこの先一緒に生きていくんだと決意した日。そして、最愛の子供が生まれた日。

――あの子はもうきっと私の顔も忘れてしまうだろう。それどころか、犯罪者となってしまった私のことを恨みはしても、焦がれることはないだろう。私は誰よりも愛していたあの子の人生に、母親である私が守らなければならなかったあの子の人生に、自らの手で消えない汚点を刻みつけたまま……

「千郷さん……」

 斗紀夫のその声に、谷辺は再び視線を斗紀夫に戻した。

 勘がいい斗紀夫は、谷辺の「死への決意」を感じ取ったのだろう。ビクとわずかに身を震わせた。

「……そうよね、千郷。私たちは確かに許されないことをしたわ……でも、あんたをこんなにも苦しめたこの男はこれからも平然と生きていくのよね。この異常者は……そんなのって許せる? ………………させたのだって、斗紀夫さんなのに」

 ブツブツと呟き始めた谷辺は、床の上の出刃包丁をそっと手に取った。

「何をする気だ! 千奈津さん、やめるんだ!」

 谷辺は、後ずさる斗紀夫にツカツカと歩み寄り、出刃包丁をぶんっと振り下ろした。

 沼工場に響いた斗紀夫の絶叫。

 谷辺が握りしめたままの鋭い出刃包丁は、斗紀夫の右太腿に深く突き刺さっていた。

「千郷の苦しみを知るべきよ! 千郷はあんたのことを全て”分かっていた”のよ!」

「……何を……言って……」

 谷辺は出刃包丁をもう一度、斗紀夫に押し込むように震わせた後、引き抜いた。引き抜いたその痕からは、血がドドッとあふれ出、斗紀夫のズボンを朱に染めていく――

 血だらけの下半身で苦し気に呻き続ける斗紀夫を、谷辺は冷たい目で見下ろした。

 ついに覚悟を決めた谷辺は、斗紀夫の血をたっぷりと吸った出刃包丁を、ゆっくりと自分の喉元に垂直に向けた。

「ごめんね……」

 谷辺は静かに目を閉じた。

 最初は数回ためらったものの、谷辺は「死の決意」を自らの手で実行へと移した。


 喉から真っ赤な血を噴き出した谷辺は、やがて物言わぬただの肉体となって、沼工場の汚れた冷たい床に倒れ伏しているだけであった。



 犬の散歩中だった老人が、川べりでずぶ濡れのまま、泣きじゃくっている佐保と貴俊を発見し通報した。佐保たちは駆け付けた救急隊員によって保護され、病院へと運ばれた。運ばれる際、佐保たちは沼工場のなかにいる斗紀夫と”谷辺をも”助けてやってくれ、と救急隊員たちに伝えた。

 佐保の元には、優美香と祖父母が駆け付けた。

 自分が今ここにいるということ、生きているということ。会いたかった優美香にもう一度会うことができたことを確認するかのように、佐保は濡れた制服のまま、優美香と強く抱きしめあった。

 その優美香の肩越しでは、誠人と美也が佐保の無事に涙を流していた。祖父母が自分の前で涙を流すところを初めて見た佐保は、胸が痛くなるほどしめつけられた。

 貴俊の元には、父・滋が駆け付けた。今日の8時に会うはずだったのにいっこうに連絡がつかなかった息子の行方を、彼は必死で探していた。

 ずぶ濡れの貴俊の姿を見た滋は、まるで怒っているかのように唇を震わせた。青い顔をした滋が貴俊に向かって手を動かした。こんなに心配をかけたことで父に殴られると思い、思わず目をつぶった貴俊であったが、彼が受けたのは父の拳などではなかった。

 貴俊は滋に抱きしめられていた。滋は泣いていた。肩を震わせながら、貴俊を抱きしめたまま泣いていた。二度と離さぬというように、自分をきつく抱きしめ泣き続ける滋の肩越しに貴俊が見たのは、「義兄さん、貴俊くんは?」と叔父(母・芳美の弟)も息を切らせながら走ってきている姿であった。


 佐保も貴俊も、事情聴取のため病院を訪れた警察より、以下のことを聞かされた。

 容疑者・相田千郷の死亡確認。そして、沼工場の中に監禁されていた宵川斗紀夫は、同じく容疑者の谷辺千奈津により脚を刺され、重傷を負い、救急搬送されたこと。谷辺は斗紀夫を刺した後、その場で自らの喉を突き、自殺したことを――

 多額の借金を抱えた現役の高校教師が自分の妹と共謀し、自らが担任をつとめるクラスの女子生徒の身代金目的殺人を行おうとした。女子生徒を監禁している現場に偶然にも、妹の元恋人である有名作家と自分のクラスの男子生徒が現れたため、彼らまで口封じに殺そうとした。

 連日、TVでもネットでも、谷辺千奈津と相田千郷の犯行が報道された。

 中牧東高校の生徒にマスコミが谷辺千奈津の評判について聞いている映像(「いい先生だったよ」「こんな事件起こすなんて信じられない」との意見しか聞くことができなかったが)も、年老いた彼女たちの両親が涙ながらにカメラの前で謝っている映像も、谷辺の夫にマスコミが直撃した時、顔をブリーフ鞄で隠し続けているその夫が「私には関係ありませんから」と言い放った映像も全て電波に乗って、流れていた。

 被害者の1人である宵川斗紀夫については、彼が元からそこそこ有名人であるということもあり、何とか事件についてのコメントを取りたいと、彼が入院している病院に押しかけるマスコミもいた。佐保と貴俊については、未成年者でもあるため、表向きは名前は伏せられていた。

 だが、こんな噂はネット上に漂っているままであった。「女子生徒は、今年の夏にレイプの被害にあったらしい」「男子生徒は、去年X市で起こった女子生徒による一家殺害事件の被害者かもしれない」と。



 早朝、マンションの自室にいる貴俊は、本格的な冬を告げる冷たい空気を感じ、厚手のフリースをチェストから出した。

 うつろいゆく四季。それを感じることができるのは、生きているということだ。だが、どれだけ四季を重ねても、決して忘れられない、忘れてはいけないことがある――

 貴俊は自分の両手をじっと見つめる。そして、思い出す。

「僕は人を殺しました」

 警察の事情聴取にそう答えた貴俊は、自身の両手を彼らに向かって差し出した。

 だが、貴俊のその手に手錠がかけられることはなかった。

 警察もいくつも残っている事件の不可解な点には幾度も首をかしげていたが、貴俊や佐保については事件に巻き込まれたショックで錯乱状態を起こしたのだろうと結論付けたようであった。彼ら2人とも最初から最後まで、正気を保っていたにも関わらず。

 その理由の1つは、事件の翌日にA子が身を投げたX市の川にA子の遺体が浮かびあがってきたからであるだろう。A子が身を投げてから、すでに1年以上経過している川からA子の遺体が発見された。当時、何度も捜索したはずなのに発見できなかった地元の警察に、批難の声が上がっていることはX市から遠く離れた貴俊の耳にまで届いてきた。

――でも、僕は確かにあいつを、A子を刺したんだ。この手で殺そうとして刺したんだ。まだ、僕はこの手に感触は残っている。僕はA子と同じ殺人者だ。人殺しなんだ。だから、裁かれるべきだ。

 貴俊は父・滋が自分の名を呼ぶ声に顔を上げた。

「貴俊、お前がA子を殺したんじゃない。検死結果でもA子は溺死とでたんだ。それも1年以上前に死んでいると。だから、もう……」

「でも、お父さん……」

「分かったよ。お前がそういうなら信じよう。でも、お前が気に病む必要なんてない。お父さんだって、お母さんたちの命を奪ったA子が今でも憎い。もしA子が目の前に現れたら、正直お父さんだって何をするか分からないさ。お前はお父さんの代わりにその手を汚してくれたんだ。お前が無事で本当に良かった。お前までお父さんより先に死んでしまったら、お父さん、お母さんに合わす顔がないじゃないか」

 貴俊は、A子を刺した後、自らも死のうとした。明確な殺意を持って人を殺してしまった自分は――つまり、A子と同一の存在となってしまった自分は、もう父と同じ世界で生きることなんてできるはずがない、とそう思ったからだ。

 だが、我妻佐保に、”父のことを思い出せ”と止められた。

――我妻さんがあの時、僕を止めてくれなかったら、僕はお父さんを一人にしてしまっていたんだ。

「お父さん」

 貴俊と滋は抱き合った。あの時、自分が死んでいたら、もう二度と父親のぬくもりを感じることもできなかった、そして父も息子のぬくもりを二度と感じることもできなかったということ。滋が自分にしがみつく貴俊の頭を優しく撫でた。

「……ごめん、お父さん。僕のせいで会社もずっと休んでるんでしょ」

「ちゃんと有給を使ってる。子供が気にすることじゃない。それに、お父さんはずっと、お前に謝りたかったことがある」

「?」

「事件当時、俺はお前に『本当にA子と何もなかったのか?』と聞いたことがあったろう。俺はお前が生まれた時からお前のことを知っている。なのに次々に飛び込んできた無責任な噂に惑わされて一瞬でもお前を疑ってしまった。すまなかった」

 その言葉は、事件以来、外から槍のように飛び込んでくる噂に傷つけられた貴俊の、記憶の彼方に押しとどめられていた滋の言葉であった。滋の潤んだ瞳を見た貴俊は、何も言わずただ滋をギュっと抱きしめた。

「貴俊、学校はどうするんだ?」

「たぶん……『退学届』を出すことになるだろうね。A子の死体が見つかったこともあるし……ね。でも、仕方ないよ。宵川先生のお見舞いに行ったら、すぐにこの町を立とうと思うんだ。中牧東高校でできた数人の友達と我妻さんにだけは何とか挨拶をしたいけど……」

 その時、家のチャイムが鳴った。部屋にある時計は、まだ朝の8時前の時刻をさしていた。

「まったく、マスコミはしつこいな。お父さんが出るから、お前はここにいなさい」

 貴俊は玄関に向かう滋の背中を心配そうに見つめた。


 玄関先で訪問者と話をしている滋はなかなか貴俊の元に戻ってこない。

――一体、誰が来たんだ? 

 訪問者の姿を確認しようと貴俊が身を乗り出した時、滋が振り向いた。

「貴俊、学校の友達が迎えに来てくれたぞ」

 滋の肩越しには、荒武をはじめとする数人の男子生徒が立っていた。荒武が貴俊に向かって言う。

「俺たちは、噂やネットよりも、俺たちが知っているお前を信じているからさ」

 荒武の後ろより、あの千野がひょこっと顔を見せた。



 斗紀夫は松葉づえをついたまま、病院の廊下をのろのろと歩いていた。

 一生残る後遺症。

 医師からこう告げられた時は、ただ絶望するよりほかなかった。

――俺は一生、この足を引きずって歩かなければいけないのか?  

 生きながら、地獄に片足を突っ込んでしまったかのような気持ちであった。そして、その地獄では相田千郷と谷辺千奈津が自分の右脚にまとわりつき、引きずり込もうとしているようにも斗紀夫には思えてきた。

――消えろ。お前たちはもう死んだんだ。

 心の中で彼女たちに吐き捨てた斗紀夫であったが、思わず舌打ちが表に出てしまった。

 視線を少しだけ上にあげた斗紀夫は、廊下の向かい側より一人の女性が歩いてきているのに気付く。

 女性と形容したが、彼女はほんの数年前までは少女と言える年齢であっただろう。

 小柄で細いその女性は、紙袋を下げ、見るからに疲れた足取りで歩いてきていた。斗紀夫が近くで彼女を見ても、彼女の全身から発せられている疲労感はありありと分かった。

 顔立ち自体は素朴ではあるものの、なかなかに可愛らしいのに手入れが行き届いていないのか、そのスッピンの肌はカサカサとしていた。栗色に染めた彼女の髪の根元からは黒い髪が5センチ以上のぞいていた。そもそも彼女の表情には、生気というものが全くなかったのだ。

 斗紀夫とすれ違った後、彼女はある病室の扉を開けて、中に吸い込まれるように入っていった。斗紀夫は、顔をその病室のプレートを確認する。

 櫓木正巳。

 そこにはそう書かれていた。

 その場で首をグッと伸ばした斗紀夫であったが、彼女が消えたその病室の中の様子をうかがい知ることはできなかった。

「気の毒にねえ」

 いきなり聞こえた女性の声に斗紀夫はハッとし振り返った。彼の背後には、その声の主であるふくよかな中年女性と、入院着を着た痩せた老人がいた。おそらく父娘であると思われる2人。実の父娘か、義理の父娘かは分からないが。

「ここにいる少年は一体?」

 斗紀夫の問いに、中年女性は頬に手をやり、視線を天井へと向けた。きっと彼女は自分の記憶のデータベースに問合せを行っているのだろう。

「えーと、確か8月の中ごろぐらい? いや、もっと前だったかしら。男の子が事故にあって運ばれてきたのよ。それから、ずっと意識不明。警察の人も来てたけど、本人が目覚めないことには何も分からないしねえ」

「事故……ですか?」

「そうよ。それに、さっきの派手な感じの女の子が毎日病室に来てるらしいけど、あの子もみるみる痩せていってるし、気の毒よねぇ。脳に損傷を受けているらしいから、目覚めたとしても今まで通りの生活も送れないそうだし……」

 世間話を終えた女性は斗紀夫に頭を下げて、父と一緒に廊下の向こうへと歩いていく。斗紀夫は土偶のような娘と、その傍らの一本の枯れ木のような父の後ろ姿が廊下の向こうに消えたのを確認し、再び「櫓木正巳」と書かれた病室に顔を向けた。

――そうか、さっきの女の子は、いつ終わるともしれぬ地獄に身を浸して生きているんだな。そして、”あの少年”は、現在も生と死の間を漂っているのか。自分をこんな目にあわせた張本人がドアのすぐ外にいることも知らずに。

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