偽物の世界

 偽物の横断歩道の手前で、椎名真紀は溜息を吐く。ビルが建ち並ぶ都会的な景色は、真紀にとって偽物に過ぎない。この世界の真実を知らない人々は、嘘を疑わず少女の後ろを通り過ぎていく。

 信号が青に変わった瞬間、彼女はラブの声を聞いた。

「真紀ちゃんは、こちらの世界の住人」

 少女は周りを見渡す。だが、どこにもラブの姿はなかった。どこかから聞こえて来た声。それは1年前にラブから聞いた問いかけだった。


 1年前。5月中旬の朝。自宅のベッドの上で椎名真紀と呼ばれる少女は眠っていた。

気配を消した人影は、少女の横顔に近づき、彼女の耳元で囁く。

「真紀ちゃん」

 訪問者の声に反応したのか、眠る少女は瞳を開けた。視線の先には、相変わらず額にハートのマークが印刷された覆面を被った黒いスーツ姿の人物が立っている。

「何の用? まさか寝ている所を襲おうとしたの?」

 突然の訪問者に警戒する真紀に対し、ラブは肩をくすねた。

「まさか。そんな趣味ないよ」

「だったら何? 特に用がないのなら、今すぐ持ち場に帰ったら? こんな所で油を売る暇があったら、夢を叶える努力をするべきだよ」

「真紀ちゃん。冷たい。用事が終わったら帰るから」

「用事って?」

「業務連絡。今日の放課後から真紀ちゃんは、二重生活をすることになるから」

 二重生活と聞き、いよいよかと真紀は思った。無事に放課後を迎えれば、あの世界に行くことができる。少女はこの日を心待ちにしていた。真紀はウキウキとした気持ちで、ベッドから起き上がる。

「良かった。今回は優秀みたいだね。前回は反抗的な男子が多くて、出番がなかったから」

「そう。前回はゲームに参加せず、警察が助けてくれるのを待つっていうバカが多かったから、ゲームのルールを厳しくしたよ」

「放課後が楽しみ。モニター越しでしか見たことがない世界に行けるんだから」

 罪の重さを知らない少女は、笑顔になる。一方のラブも、覆面の下で彼女の喜びを受け入れた。その痕でラブは部屋のドアを開ける。

「真紀ちゃん。そういえば、今日は全国模試の結果が分かるんだっけ。また結果を教えて。今度は放課後に会いましょう」

 そう告げたラブが部屋から出て行く。数秒の沈黙が流れ、真紀は背伸びをしてから、同じように退室した。

 

 リビングにはラブの姿がない。おそらくあのコンピュータの埋め込まれた地下室にいるのだろうと真紀は思った。

 しばらく経ち、彼女は朝食のパンを焼き、テレビのスイッチを押す。丁度朝のニュース番組の時間で、彼女自身が関わっている事件が報道されていた。

『拉致された高校2年生の少年が殺害され、遺体が家族の元に送り返される謎の事件の被害者が50人を超えました。手がかりはなく、警察の捜査は難航しています』


 連日報道されているニュースを観ても、椎名真紀は何とも思わない。被害者の少年がどんな人生を送ってきたのかを、マスコミは報道するが、そんなことはどうでもいいのだ。

「彼らは犠牲者なんかじゃない」

 冷めた目でニュースを観ていた少女が呟く。

彼女には罪悪感がない。自分達の目的を達成させるために、多くの命が犠牲になっているとしても、心が痛まない。

 

 それから椎名真紀は、いつもと同じように高校へ向かった。思いがけない出来事があるとは知らず。

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