嵐の夜の怪異2編

しのはら

荒れ狂う嵐の一夜、岩場では悪魔が躍り、かわいそうなジルは悲しんだ。


 __山あいの小さな村での話。

 街道につながる山道を脇に入ったところの岩場には悪魔が棲んでいると噂されていた。嵐の夜にそこを通った人は岩場の方からなにやら恐ろしげな呻き声が聞こえたと主張したものだし、中には岩場のてっぺんで踊る不気味な影を見たという人もいた。

 昔その村にジャックとジルという愛し合う若い男女がいたのだがある時ジルが病に倒れてしまった。これが大変な難病で村の物知り婆さんにも司祭様にも治せなかったし、町から呼んだ高名なお医者様も「助かる見込みは無い」と言い荷物をしまって帰って行った。恋人の命を救おうとジャックは八方手を尽くしたのだが看病のかいも無くどうにもならないうちに日々は過ぎ、ジルはただただ弱っていった。彼女は今や粗末なベッドに横たわり食事ものどを通らずに、か細い声で「平気」と言って無理に笑っているばかり。命の灯は消えようとしていた。

 ところが、ある嵐が去った朝のことなのだが昨日まで死に瀕していたはずのジルが病から癒えて一晩ですっかり快復していたのだ。人々は喜び神の奇跡を祝福したが、一番喜ぶはずのジャックがなぜか村のどこにも見当たらなかった。

 健康を取り戻したジルが姿をくらました恋人のことを考えては胸を痛めて三日間。村にジャックの消息をもたらしたのは街道につながる山道からやって来た旅の商人だった。

 ジャックは山道の岩場の近くに倒れていた。その胸は破れ肋骨が突き出して中にあるはずの心臓がぽっかりと失われていたが、奇妙なことに餓えた狼や鳥たちは一匹たりとも彼の遺体に近付こうとはしなかった。

 真相は誰にも分からないけれど、おそらくジャックは岩場の悪魔と取り引きをしたのではないか、ジャックは自分の心臓とひきかえに恋人の命を救ったのだと、村ではもっぱらの噂となった。

 そして愛する人を永遠に失ったジルもまた、悲しみのあまり胸が張り裂けて死んでしまった。しかし二人が天国で再会することは無い。なぜならジャックは悪魔と取り引きをしたのだから彼の魂は地獄の悪魔のものなのだ。悪魔との取り引きは結局誰も幸せにしないのだと司祭様は話を結ぶのが常だった。



 かわいそうなジャックとジルの話は村の者なら誰でも知っている。子供たちはこの話を聞かされて育ち山道の岩場で度胸だめしをするようになるのだ。ビリーもそんな少年たちのひとりだった。

 だが人は成長するもので、ビリーも今や大人になった。悪魔の存在を否定するわけではないけれど、少なくともあの岩場では見たことが無い。岩場の悪魔なんて本当はいないのだ。あれは単なるお話で恐ろしげな呻き声だとか踊る不気味な影だとかは嵐の夜の錯覚なのだ。ビリーにとってはレイチェルとの結婚の方が重要なことだった。

 レイチェルは心の優しい娘だった。ビリーは彼女のことをとても愛していたし彼女もビリーのことをとても愛していた。ふたりは結婚する予定だったし村のみんなもこのふたりなら必ずうまくいくと思っていた。

 けれど婚礼を目前にひかえたある日、レイチェルは病に倒れた。難病だった。村の物知り婆さんにも司祭様にも治せなかったし、町から呼んだ高名なお医者様も「助かる見込みは無い」と言い荷物をしまって帰って行った。恋人の命を救おうとビリーは八方手を尽くしたのだが看病のかいも無くどうにもならないうちに日々は過ぎ、レイチェルはただ弱っていった。彼女は今や粗末なベッドに横たわり食事ものどを通らずに、か細い声で「平気」と言って無理に笑っているばかり。婚約者のそばにいて優しくはげましてやることしかできないのがビリーにはとてももどかしかった。愛する人のために、何かほかにできることはないのか。

 嵐が来た。

 激しく叩きつける雨音と吹きすさぶ風の音。その夜、ビリーは誰にも告げずに家を出た。


 街道につながる山道を脇に入ったところの岩場には悪魔が棲んでいると噂されていた。嵐の夜にそこを通った人は岩場の方からなにやら恐ろしげな呻き声が聞こえたと主張したものだし、中には岩場のてっぺんで踊る不気味な影を見たという人もいた。ビリーの耳にも恐ろしげな呻き声が聞こえている。子供の頃の度胸だめしの時には聞いたことの無い声だった。凍えるように冷たい雨風のなかでビリーは声を張り上げた。

「岩場の悪魔よ! どうか俺の話を聞いてくれ!」

 一瞬嵐が激しくなった。岩場のてっぺんで影が踊る。

【ビリー、おまえさんは俺のことを信じていないんじゃなかったのかい?】

 嵐をつんざく濁り声。ビリーは少しひるんだがここで引き下がるわけにはいかなかった。

「こうして話をしてるのに信じないわけがないじゃないか! 頼む! 俺の願いを聞いてくれ!」

【ああビリー、分かってくれれば問題は無いのさ。願いってのはかわいそうなレイチェルのことだろう? 彼女を助けてやることはできるが、そのかわりおまえさんの一番大切なものをもらおうか】

 悪魔は人の弱みを知っているしそこにつけこんでくる。ビリーの一番大切なものはレイチェルだから嵐の夜にここまで来たのだ。


【レイチェルを】


「だめだ! それはできない!」

【ビリー、願いをかなえるためにはそれなりの対価が必要なんだぜ】

 ビリーはうつむいてしまった。

【ではこうしようか。俺は彼女を助けるが、おまえさんは二度と彼女に会うことはできない。今ここで死んで俺に魂を渡す】

「そんな……!」

【いやだと言うのならこの話は無しだ】

 ビリーは考える。どうしよう、どうしたらいい? 彼女の命をほんとうには救うことができるのならば、それならば__

「……本当に、レイチェルは助かるんだな」

【請け合うよ。病気は全快する】

「……分かった」

 震える小声は暴風にかき消された。

【ビリー、今なんて言ったんだい? 声が小さくて聞こえないよ】

「分かったよ!」

 ビリーは嵐に逆らって絶叫した。「あんたの言うとおりにするから! だから彼女を助けてくれ!」

【ああビリー、おまえさんならそう言ってくれると信じていたよ!】

 悪魔の声が、歓喜の声が嵐のなかでとどろいた。

【善は急げだ。さっそく実行しようじゃないかね】

 ビリーは死を覚悟して目を閉じた。足がすくむ。肩がこわばる。拳を握りしめる。しかし冷たい雨風が体を打つばかりでなかなか最期の時が訪れない。

【ビリー! ビリー!】

 うろたえる悪魔の濁り声。

【頼むからそいつをどけてくれ!】

 何のことだか分からずにビリーは目を開き、そして見た。


 それは白い衣に身を包み、嵐のなかでビリーに背を向けて悪魔と対峙する若い女性の姿だった。


 ますます強さを増した風が彼女の髪を闇のなかに舞い躍らせて、その向こうでは悪魔の黒い影がゆらめいていた。

 恐ろしかった。不思議だった。

 ただ見つめるしかないビリーの方を彼女がふっと振り向いた。視線が合う。ビリーが見たものは澄んだ瞳。

 かわいそうなジル__悲しみのあまり胸が張り裂けて死んだ__ああそうか__彼女は今も悲しんでいる__


 ビリーは意識を失った。そこから先は覚えていない。


 __朝が来た。

 嵐は一夜にして去り、ビリーは村に帰ってきた。それ以来岩場の悪魔の姿を見た者は誰もいないし、嵐の夜に岩場の方から呻き声がするという話もぱたりと聞かなくなった。

 あるいは岩場の悪魔なんて最初からいなかったのかもしれない。恐ろしげな呻き声だとか踊る不気味な影だとかは嵐の夜の錯覚だったのかもしれない。ビリーは薄れゆく意識のなかで幻覚を体験したのかもしれない。

 でも結局のところレイチェルの病気は治ったし、ビリーは彼女と結婚したのだ。


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