ミミック
輝竜司
栗須 正宗(19)学生
素っ頓狂な、それでいて切羽詰まった絶叫が、講義棟と実験棟とを繋ぐ渡り廊下に響き渡った。
「あの彼が先生の甥っ子さんで?」
悲鳴の主は栗須正宗といった。研究室の手伝いをしつつ、夜は二部の学生だ。
未知への恐怖から全力疾走。
「うちで面倒見とるんですよ。母親が入院しましてね」
彼の後ろを追いすがるのは、空中に浮かんだ球体だ。重力を無視し、滑るように少年を追いかける。正面には、漫画のような子供の落書きのような、棒と線のユルい笑顔が張り付いている。
栗須少年がにっこり笑ったのなら、きっとこんなだろう。どうやら真似ているらしい。
「あー、ミミック」
「また入り込んでますなあ」
困るなあ、とつぶやきながら、教授と事務員はその光景を眺めていた。
今の日本の日常だ。
ミミック。
地球上の定義でいうなら、生物ですらないその『生き物』は、ある日突然空から無数に降ってきた。
あるものは縁側で老人の傍らに留まり日向ぼっこ、あるものは猫を追ったり追われたり、あるものはお引越しをするカルガモの親の後を追い、あるものは紛争地帯で、ミミックを収容した研究所で、ぽこぽことゴムまりのように人に繰り返しぶつかり。
目にしたものの傍にはりつき、相手をゆるく真似するだけの、やわらかな、しかし決して壊れることのない球体。
最初は警戒され、周囲は立ち入りを禁止され、世界は恐怖のどん底に。
しかし数日経ち、数か月たち、数年が経った今、何が変わるでもなくデフォルメされた人真似をするだけのそれ。
知的には見えない。警備の手も足りない。
どこか間の抜けた、かわいらしくすら見えるそれが傍らにいる生活はもはや、日常になりつつあった。
「よく似てるよな」
「誰に?」
「お前」
ミミックと栗須、研究室の仲間たちの毎日はゆっくりと過ぎていく。
弁当持参の翌日には勝手に昼飯を食われ、笑えば横には落書きのような笑顔が並び、引っ張れば白衣の真似か、べろんと伸びる。
どこか、あたたかな、笑顔に満ちた毎日。
「これ、あれなんじゃないの。もうお前の弟じゃね?」
「弟?」
「ミミックって呼びっぱなしもねえ。名前なんだろう」
「正宗の弟かー」
「刀シリーズで村正?」
「ムラサマ?」
「音が似てるし長船とか」
「そんな、ゲームじゃないんだし。それに『さ』と『ね』しか合ってないじゃん!」
「合ってるじゃん」
「だいたいあってる」
そして、死病の床の母を見舞う栗須にも付き添って。
ぽつねんと床に留まる球体は、来るべき終わりを見越してか、どこか悲しげに揺れていた。
一本の電話で日常が終わる。
ほどなく母は旅立った。
叔父と研究室の皆、そして笑顔の消えたミミックと。
栗須を喪主に、皆でささやかな葬式を出した。
喪服のまま白衣を羽織り、細胞の面倒を見に、ひとりで研究室に居残る栗須。
視界がにじんで、顕微鏡を覗けない。
乱暴に目をこすり、ふと見ると、ミミックの漫画のような棒きれの目から、胴体が丸くちぎれてぽたぽたと、地面に落ちて積み重なる。
口も、眉毛も、真ん中寄せてへの字になって、どうもこれは泣き顔らしい。
「なんだよ…おまえ」
地面に積もったミミックの一部は、やがてふわりと浮いて、ミミック本体に戻っていった。
くるくるとそれの繰り返し。
「なんだよそれ。泣いてるつもりなのか」
漫画のような困り顔で、ミミックは涙をこぼす。
栗須は思わずミミックを抱きしめ泣き笑った。
そのまま研究室に泊まって帰った翌日。
ミミックは地面に落ちて動かなくなっていた。
あのらくがきのような顔はなくなり、のっぺりとした丸に。
『長船』だけではない。世界中のミミックに、異変が起きていた。
同じように地面に落ちて、つついてもはたいても、まるで動かない。
片隅に球体を転がしたまま、研究室の、街の、世界の毎日は、淡々と過ぎていく。
いくつかの季節が過ぎ去ったある日。
「みんな、ちょっと来てくれ」
研究室の仲間の一人が、顔色を変えてやってきた。
居室のテレビを皆で囲む。緊迫したニュースキャスターの表情。
テレビのニュースの速報に、次々とテロップが挟まる。
ミミックを収容していた研究所から連絡途絶。
職員全員が不可解な死。
紛争地帯では敵味方問わない、前代未聞の大虐殺。
すべてミミックがかかわっているという。
生存者の発言も的を得ず、詳細は未だ不明。
中継にはかつて、ほのぼのしい光景だったはずのカルガモ親子の棲む池。
今や火器を構えた自衛隊が様子をうかがう様が見える。
間をおかず大学構内にも、即時退去を告げる放送。
実験室に転がったままのミミックを一目見る暇もなく、全員外へと追い出された。
立ち入り禁止になった研究棟の裏庭で、自衛隊の突入結果を待ちながら、カルガモ池のミミック排除中継配信を見守る栗須と仲間たち。
棟内では、火器を構えた男たちが、ミミックの転がる研究室へと迫る。
『ミミックが…ミミックの殻でしょうか、割れていきます!』
カルガモ池中継の音声を背負いつつ、研究室の入口の前で様子をうかがう男たち。
『どんな化物が姿を現すのでしょう……あっ!』
そのドアが、ガラリと開いた。
『なんと、ミミックが……カルガモが!』
「どうされました?」
顔を出したのは緊張した面持ちの、穏やかそうな白衣の少年。
名前を問われて彼は答えた。
「栗須長船といいます。正宗の弟です。……何かあったんですか?」
『ミミックはカルガモに……カルガモになりました!
カルガモの赤ちゃんが、一匹増えました……!』
ミミックは、見たものをごたまぜに真似て『成体』?になるらしい。
紛争地域の銃弾乱れ飛ぶさなかに落ちたミミックは、銃弾振りまく殺戮機械に。
研究所に収容されたミミックは、研究員を切り裂き毒物をぶちまけた。
カルガモの親を追いかけていたミミックは、兄弟たちと同じ姿に。
街には野良猫とカラスがずいぶんと増えた。
そして、研究室の仲間として過ごした栗須長船は、『兄』とよく似ているけれど、どこか仲間たちの面影も。
世界は再びいつもの毎日に戻る。
一人実験助手の増えた研究室にも、おおらかな毎日が戻ってきた。
しかし成体となったミミックは、全く真似した相手のように見えるけれども、やはりミミックはミミックだ。
長船の白衣を引っ張ってみたら、びろん、と、不自然に伸びた。
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