空の時計

さかもと希夢

空の時計

――カラン、カラン

 古ぼけた骨董品屋の入口に設置されているカウベルが、深夜の住宅街にそぐわない大きな音をたてた。

 ともすれば消えがちな街灯にぼんやりと照らし出されたその店は、閑静な住宅街から一歩路地裏に入ったところにあった。昼でも人通りの少ないこの近辺に、騒がしい音がたてられることはまれであった。ましてや今は、人一人通らないはずの深夜である。

 乱暴に押し開けられた重たいドアから、完全に扉が開ききるのを待ちきれない男が、体当たりをするように無理矢理体を店の中にねじ込んできた。

 男は扉をくぐると、扉が自然に閉まるのを待ちきれず、力の限りに引っ張った。無理矢理閉められた扉は、いやいやするかのようにギギーッと音を立て、外界と店内を遮断してゆく。

 やがて重たい音を立ててその扉が閉まると、流れ込んだ外の空気がぴたりと止まり、かびくさい湿った香りが元通りに店の中に漂った。

 静かな店内には他に物音を立てるものが存在せず、押し入った男の荒い呼吸だけが繰り返されていた。男は一瞬店の中を見渡してから、勝手に店のドアに鍵をかけて閉めたばかりの扉にもたれかかった。まるで心臓が耳のすぐ真横に来てしまったかのように、大きく脈打っている。

「くそっ!」

 男は舌打ちと共に言葉を吐き散らし、顔を覆った。

 まるで悪夢でも見ているようだ。目の前が全て不確かなもののようにグルグル回っている。

 ふと気になって、ドアに耳を当て外の様子を伺ってみた。彼とたった一枚の扉しか隔てるものがない外の道路には、走り抜けていく荒い足音と怒声が響き渡っていたが、その音の主達は男がこの店に逃げ込んだことなど、全く気が付いてようだった。

 しばらく硬直したまま外の物音を伺っていたが、音が店から遠ざかるのを最後まで確認してから、力が抜けたようにどっかりと座り込んだ。ホッとした瞬間に、手にしていたものが床に転がり落ちる。それは金属的な音を立てて、男の足下に転がった。

 おぼろな光に照らされたそれは、刃渡り二〇センチはありそうな包丁だった。それは濡れたようにてらてらと生々しく輝き、店の暗い明かりを反射している。包丁からこぼれた液体が、じわり……じわりと床に広がり染みを作った。

 どうしようもなく見ていると、薄ぼんやりとした明かりの中で、ゆっくりとその染みは広がっていった。男の目には、それが異様に禍々しく、そして怖いほどに朱く見えた。そう感じるのは先ほど見た、人間の断末魔の瞳が目の裏に焼き付いてしまったせいだろうか。


 男はたった今、人を殺してきたのだ。


「くそっ……」

 男は言葉をはき出すと、うつむいた。こんなはずではなかった。殺すつもりでもなかった。金を奪おうとしただけだ。なのに何故こんな事になってしまったのだろう。

「どうしたらいいんだ……」

 頭を抱え呻く男の耳に、唐突にしわがれた声が飛び込んできた。

「いらっしゃい」

「ひっ!」

 男は息を飲んで立ち上がった。今迄物音も気配も全く感じなかったその店には、人がいたのだ。顔を上げるとそこには、幾つであるのか皆目見当も付かぬほど、年老いた老婆の姿があった。

「……何にしましょうかねぇ」

 老婆はゆったりと、その深い皺に覆われた陰影の濃い顔に奇妙な笑みを浮かべて男を見つめた。顔を正視するのに耐えられず老婆の服に目をやると、その着物の値段が高価なことに気が付いた。手は腹の前当たりでゆったりと重ねられており、全体的な雰囲気は上品といったところだろう。だがその表情は深い皺に埋もれていて、感情を読むことが難しい。

 再びその顔に目を向けたがその印象は変わらず、最初の時以上にその顔にある違和感や、底知れぬ影のようなものが伺える。

 観察していた時間は長いように感じられたが、実際には非常に短かった。男は一瞬で正気に戻ると老婆に驚いた自分に腹をたて、足下の包丁をゆっくり拾った。まだ早い鼓動を隠すように余裕の表情を浮かべて老婆に近づく。その余裕の表情は多分引きつっているだろうが、そんなことは関係ない。この老婆もすぐに男の足下にひれ伏すのだろうから。

「ばあさんよ、俺は人を殺してきたんだぜ、がたがた騒ぐとてめぇも殺すからな!」

 包丁を構えて老婆に歩み寄り、包丁を顔に突きつけた。男の計画では、ここで老婆が悲鳴を上げて男の前でがたがた震え出すはずだったが、老婆の行動は予想外だった。

「お探しのものは何でしょうねぇ……」

 皺に埋もれた目が半月ほどの細さからスッと新月ほどに細められた。老婆は目の前五センチに突きつけられた包丁を一瞥し再び元のように奇妙な笑みを浮かべる。老婆に肉薄している男はぞくりと体を震わせた。その老婆の奇妙に輝く瞳は、冷たく凍っていた。

 背筋に冷たいものが走った。その目は冷たい中にも理性と知性を宿しており、そのまた奥に狂気を隠しているように思えたのだ。

「どうしました……まだ迷うているの? ここは沢山の商品があるでね、じっくり見ていくがいいわねぇ」

 老婆はゆっくりとした動作で包丁に手を伸ばした。男が包丁を慌てて引っ込めると、老婆は押さえたような声で笑った。

「私に包丁を差し出してるんでねぇ、買い取りかと思っただけよ。違うんならいいわ」

 男は息を飲んで包丁を握りなおした。何故だろうか、このひ弱そうな老女がやけに恐ろしい。包丁は彼の最後の砦だ。それを放せば彼はきっとこの老婆に圧倒されてしまう。

 だが彼は、ここで老女に負けを認めるわけにはいかなかった。殺人を犯して追われる身になった彼には、しばらく隠れる場所と金が必要なのだ。

 店内を見渡してみると、壊れた役に立ちそうにないものに混じって、高価そうなものもぽつぽつ混じっているのが分かった。逃げ込んだのが骨董品屋で、ある意味正解だったかも知れない。いい金になるものは必ずあるだろう。

 男は自分を奮い起こした。このままいくと彼の未来に待っているのは、冷たい監獄だ。それならまだいい、もしかしたら絞首刑ということも考えられるのだ。

「おいばあさん、聞いてるのか? 俺はな、今、人を殺してきたって言ったんだぜ?」

 男は包丁を片手に、老婆に押し殺した声で話しかけた。

「ほうほう」

 老婆は皺の中の目を爛々と輝かせながら相槌を打つ。その目は男の期待から遙かに遠い表情を浮かべている。楽しそうな色さえ見えるその目が、男にはうすら寒かった。

「それで、どうなさるね? この婆を殺すのかい?」

「がたがた騒ぎやがったらな。騒がなきゃ命は助けてやる」

 男は包丁を老婆の首筋に押しつけた。強がるしか自分にできる防御はない。金目のものを奪えば、この気味の悪い老婆ともおさらばだ。

「それはありがたいね。私は騒ぐのは好きじゃない。あんたは私を殺さないって事だ」

 老婆は身動き一つせずに、喉の奥でくつくつと音を立てた。包丁を通して男にその振動が伝わってくる。

「……何を笑っている?」

 問いかけに答えず、老婆は笑い続けた。まるでコントだ。しかも出来の悪いコントを自分で演じてしまっている。この老婆に怖いものは無いのか。

 それとも狂っている?

 何ともいえない沈黙の中で、男は背中に鳥肌を立てながら老婆に包丁を突きつけ続けた。そうしていなければ自分を見失いそうだった。

「……金だ、ありったけの金を出せ。俺は人を殺してる、本当だぞ、笑ってるんじゃねぇよ。いいか、一人殺すも二人殺すも同じ事だ……俺は本気だぞ!」

 震えそうになる声を必死で押し殺して老婆に命ずると、老婆は手近にあったタイプライター式のレジを開けた。

「今日の売り上げしかないわ」

 男がレジの中を覗き込むと、そこには使い古されたようにボロボロになっている千円札が一枚だけ入っていた。

「これだけか?」

 驚いたように尋ねる男に、老婆はまたくつくつと音を立てた。

「これだけ。当てが外れたようじゃねぇ」

 急に力が抜けた男は、包丁を老婆の首筋から離してがっくりと肩を落とし、丁度真後ろにあったマホガニーの本棚にもたれ掛かった。

 これではどうしようもない。千円では逃走資金にもなりはしない。

 ただいたずらに時間を消費し、この老婆に顔を覚えられた。それだけだ。

 このまま老婆を殺して次の店に入ろうか……そんなことを考え始め店内を見渡した彼の目にふと飛び込んできたのは、沢山の宝石が陳列されている一角だった。

「金はないけど、宝石はあるんだな」

 警察を呼ばれないように老婆からなるべく目を逸らさずに尋ねた男に、老婆は頷いた。

「安もんだがね」

 宝石のところに行くべきか、老婆を見張っておくべきか迷っている男が、一瞬老婆から目を離したすきに、老婆の姿が視界から消えた。

「おい、婆ぁ!」

「まだ耳は遠くないよ」

 怒鳴った男の隣から、老婆が答えた。老婆のなま暖かい息が耳にかかるほど近くに、その老婆はいた。弾かれたように飛び退くと、老婆はくつくつと笑い声を立てた。老婆は男の知らぬ間にカウンターを越えて真横に移動していたのだ。

「……い…いつの間に……」

 男には移動した気配も、物音も何も感じられなかった。瞬間移動でもしたのか……?

「商品の説明じゃね?」

 老婆は平然と宝石の棚に向かって歩いていった。

「お、おい婆ぁ!」

 老婆は逃げるでもなく、物音一つたてずに沢山積まれた骨董品の間を移動していった。

 男が山と積まれた骨董品の間に通る細い道を通り、苦心のすえやっと老婆に追いつくと、老婆はすでに宝石の棚の前に立ち、中の商品を改めていた。

「勝手な真似するんじゃねぇ! 殺すぞ!」

 男が押し殺した声ですごんでも、老婆は喉の奥でくつくつと笑うだけで答えなかった。男が無言で立ちつくしていると、老婆の方から男に語りかけてきた。

「これは価値のない宝石じゃよ。見た目は綺麗かもしない、でもね屑なんだよ」

「屑だと?」

「ああ、屑さ」

 それだけ言うと、老婆はまたくつくつと音をたてた。静まりかえる店内に老婆のしわがれた笑い声だけが静かにこだまする。高くはないが、低すぎもしない。ただただ不快な繰り返し空気が漏れるそんな笑い声だ。

 薄気味悪くなった男が、老婆から目をそらし宝石棚に再び目を戻すと、その宝石だなの向こうに大きな古時計が置いてあった。どっしりと構えたその姿は、殆どこの店の暗い雰囲気に同化していたが、今迄気が付かなかったことが不思議なくらい存在感に満ちている。

 外側は丁寧に磨かれたであろうマホガニーで出来ていて、高さも男の身長くらいの大きさと、骨董品屋にありがちなグランドファザーズクロックだった。

 その時計の存在感を高めているのは、特徴のある文字盤と針だった。普通はくすんだような白であるはずの文字盤は濃紺で、まるで満点の星空を表しているかのように無数の星々で埋め尽くされてキラキラ輝いている。時計の針は、まるでその文字盤の中に広がる宇宙に浮かび上がっているように、非現実的に見えた。たが表面を見た限り、ガラスや宝石が埋まっているわけではないようだ。

 ただ不思議なのは、手入れは行き届いているように見えるのに、時計の針が動いていないことだった。

「時計がお気に召したのかねぇ?」

 老婆が男に語りかけたが、その老婆を乱暴に押しのけた。この時計以外への興味が全く失われていたのだ。男の目と心は、吸い寄せられるかのようにその時計へ向かっていく。それは一目惚れの瞬間にきわめてよく似ていた。この時計のために全てを投げ出しても構わないと、そう思った。

 男の心はあっという間に、時計から放たれる妖しい魅力という名の糸に絡み取られてしまったのだ。文字盤に輝く無数の星々が彼の心を魅了した。どうしても目が離せない。

「もし、お若いの」

 老婆が腕を揺さぶったことに男はようやく気が付いて、自らを夢見心地から抜け出せと諫めた。こんなところで時計に見とれている場合ではないはずだ。逃走の際に役立ちそうな宝石を老婆に選ばせなければと思う心とは別に、この時計のことしか考えられない自分が存在した。気が付くと口からは全く違う言葉が出てきていた。

「おいばあさん、この時計を貰うぜ」

 言葉を口にした瞬間に、ぞろりと男の背筋を何か冷たいものが這い上がってきたような気がした。そんなことをいいたいのではないのに、理性とは逆に彼の感情が勝手に言葉を発しているのだ。

 自分で自分の心がコントロール出来ない。恐怖で震える指先で時計を指し示し、なおも男の口は勝手に言葉をつづった。

「ばあさん、この時計をくれ」

「ほう、お前さんこれを持って逃げる気かね? これは重いし、金にはならんよ?」

 男は心の中でそんなことは分かっている、そんなものはいらないと叫び続けるが、目は時計に釘付けだった。何かが男に抵抗することを諦めれば楽になれるかもしれないと囁くが、彼は頑なにその声を無視し続けた。

 ……このままでは何者かに支配されそうだ。

「ふんふん。お前さん、時計に気に入られたようだねぇ……」

 脂汗を流しながら時計を見つめる男を、老婆はその冷たい瞳で見据え、小声で呟いた。

「この時計はねぇ、自ら持ち主になる資格がある人間を選ぶのさ」

「……自ら……持ち主を選ぶ……時計?」

 自らの言葉を発した彼の体がやっと心の何かから解放された。がっくりと体を前に傾けて、肩で荒い呼吸を繰り返す。体中から噴き出した汗が、体を伝って床に落ちていく。

 理性を取り戻した男が、ハッと右手を見ると包丁がまだしっかり握られていた。心なしかその刃に絡んだ血液が、緩やかに鮮やかな朱に変わりながら滴っているように感じられた。

「……これは、悪夢なのか?」

 自由になる両手を上げ、じっと見つめてみると、血塗られたように朱かった。じわじわと鮮血が頭の中に広がっていくような、奇妙なイメージが広がっていった。

 まるで彼の心を侵略していくようだ。脅えた目を上げた先には、あの時計があった。

「あ……」

 時計の文字盤の煌めきに、彼の心は今度こそ本当に取り込まれてしまった。もう時計から目を離せない。

 あの時計を手に入れたい……どんなことをしても手に入れたい……彼の心からは、他の全ての感情が消え去っていた。

 じっと時計を見つめる男の横で、老婆は押し殺したようにくつくつと笑った

「完全に喰われなすったねぇ……」

 時計の文字盤は、老婆の声に答えるかのようにキラキラと星を輝かせて見せた。それはまるで生き物のように感情を持っているようだった。

「ばあさん、この時計をくれ、どうしたって貰っていくぞ」

 焦点の定まらぬ目で男は時計から視線を外した。その手に握られた包丁が妖しく輝く。男は老婆を殺してでもこの時計を奪っていきたかった。今の彼はそのために老婆を殺すことに何のためらいも感じない。

「若いの、この時計は持ち主を選ぶ。お前さんにその資格があるかこの時計に決めて貰ったらええよ」

「時計が決めるだと?」

 老婆は答える代わりに時計に目を移した。そっと慈しむように時計に手を触れる。

 じっとその姿を見ていた男の頬にさっと血の気がのぼった。時計に手を触れるという老婆の行動が、何故か男を逆上させた。

 彼の中でその時計はもうすでに彼のものだったのだ。他人に触られたくない。

「汚ねぇ手で触れるんじゃねぇ!!」

 無我夢中で男は右手を振り上げた。無意識の行動であったが、彼の手に握られていた包丁は、その役割を正しく果たした。

 彼の手に弾力のある肉の感覚と、なま暖かい血液の感覚が、生き物のようにぬるりと伝わってきた。老婆の小さい体から思いもよらぬほど大量に吹きだした血が、彼の全身を包むように暖かく濡らしていく。

 血にまみれた老婆は、ゆるりと嗤った。もたれ掛かるように、だが皺の中の瞳を大きく見開いて男の両肩に手をかける。

「時計に物語を聞かせてやったらええんだよ。お前さんの物語をねぇ……」

 老婆は凍った瞳で男を楽しそうに見つめると、くつくつと喉の奥を鳴らす。

「お前様次第さねぇ……」

 壮絶なまでの微笑みを浮かべると、老婆は男の視界から消え、足下に広がっていた自らのなま暖かい血液の中に沈む。足下で転がる老婆を前にしても、何の恐れも浮かばなかった。それどころか、彼には何の感慨も存在しなかったのだ。

 ただ時計が自分一人の元に存在すること、それだけが喜ばしい事に感じられた。

「俺の時計に触るからだ、てめぇが悪いんだ……」

 返り血を浴びた顔を、男は腕で拭った。ぷんと血の香りが男の鼻孔をくすぐった。温度を持った鉄の香り……今日二度目の匂いだ。

「選ぶんだってな、持ち主を……」

 時計に向かって語りかける男の口調は、すでに愛しいものに話しかけるそれに変わっていた。

「選べよ、俺をよ」

 時計の文字盤はただキラキラ光るだけで、何も答えない。だが男は独り言のように呟きを止めることが出来なくなっていた。

「……ああ、俺の話をお前は聞きたいんだったな。よし話してやる」

 男一人しか存在しなくなった店の中は、外界から隔てられた水の底にあるかのように、静まりかえっていた。男は返り血で、しつこく顔にまとわりつく髪をかき上げて、時計の正面の骨董品に腰をおろした。

「時計よ俺はな、ついてねぇんだよ。いつもいつも俺ばっかり貧乏くじ引きやがる。世間のヤツも俺の事なんて理解しやしねぇ……」

 夢見るように時計を見つめる男に答えるように文字盤はキラキラと輝きを放つ。それが男には彼への同意と感じられたようだった。

「仕事をな、首になったんだよ。要するにリストラって事さ。会社の連中はいっつも俺のことを気味悪いもんでも扱うように扱ってたからな、俺が邪魔だったんだろうよ」

 その時に時計が微妙に変化を始めていた。濃紺の文字盤が、下の方からじわりじわりと朱くにじみ始めていたのだ。赤くにじんだ部分は明るい朱に変わり、少しずつ星の光が失われていく。やがて文字盤は一面夕焼け空のような真っ赤な色に変わった。

 男は全く気付かずにくすくすと忍び笑いを漏らした。

「……だからさぁ……そいつらから金を巻き上げてやろうと思ったのさ……」

 男の脳裏に、先ほど犯してきた殺人が浮かんだ。彼の頭の中には会社への復讐が渦巻いていたが、彼が襲ったのは結局、彼を毛虫のように毛嫌いしていた上司ではなかった。彼には上司とやり合えるほどの勇気がなかった。だから女性事務員をターゲットに定めたのだ。

 彼女は彼に、いつも軽蔑の眼差しを向けていた。あの冷たい目、彼をからかう半笑いの赤い唇。

 思い知らせてやりたい。自分を蔑んだその罪を。

 金を取るだけでは飽き足らない。恐怖に怯えるその女を、暴力でねじ伏せて征服してやりたい。男はその為に必要なものを着実に、そして注意深く準備していった。足が着かないよう、ひと品ずつ他の店で購入するようにもした。

 彼を動かしていたのは、この世界全てに対する憎しみだった。彼にとって、この世の中は全て、彼を受け入れてくれる世界ではなかった。全ての人間が彼の憎悪の対象で、彼を追いつめた加害者だ。そしてそんな人類を代表して罰を受けるのがその女だ。

 泣くがいい、喚くがいい、自分の前にひざまずき、許してくれと懇願するがいい。

 実行の日は、満月の夜だった。

 満月の夜は人を狂わせる力があると、人はいう。その通りかもしれない。多分男も狂っていた。影のように彼女の後ろを付けいてく彼の目が正常だったと、一体誰が思えるだろうか?

 全てがあるべき位置からほんの少しずれている、そんな夜だった。

 彼女が自宅近くの暗い道に差し掛かった時、彼はおもむろに彼女を後ろから羽交い締めにした。彼はその女が彼の持つ刃物で恐怖に脅え、彼のいいなりになり金を出して、彼に命乞いをすると思いこんでいたのだ。

 だが女は彼の想像とかけ離れた行動を取った。抵抗し、暴れてついには彼の手を逃れたのだ。想像外の行動に動揺した男は、思わず一歩下がっていた。

 その一瞬の隙を女が見逃すはずもない。数歩男から離れたところで女は、また予想外の行動を取った。

 振り返った女は薄暗がりの中で彼の名前を呼び、彼にこう告げた。

『前々から陰気な変人だと思っていたけど、あんたはそれ以下よ。最低の人間だわ!!』

 それは彼にとって許せない冒涜だった。

 男の視界は逆転した。嫌な耳鳴りが耳の奥でキーンと鳴り響き、体中の体温が上昇して目の前が真っ白に変わった。

 気が付いた時、彼の目の前には恐怖に見開かれた女の瞳があった。

 女の口から漏れていた叫び声は小さく尾を引くように消え、代わりにその口からは大量の血液がとめどもなく流れ出していた。男は、女の腹に深々と包丁を突き立てていたのだ。

 一瞬何が起こったか分からず、彼の耳の中でだけ鳴り響くサイレンの音を聞きながら、ようやく彼は足下に横たわる二度と動くことのないであろう女に気が付いた。

 女の胸には彼の持っていた包丁が深々と突き立ち、まるで闇夜に浮かぶ墓標のようにうっすらと、彼女の胸の膨らみに微妙な影を落としている。

 気が動転し焦った男は、包丁を抜き取ろうと躍起になった。

 瞳を見開いたまま倒れる女に足を掛けて、無理矢理包丁を引き抜こうとしたが、なかなか抜けない。思いもよらず苦労し、やっと抜けた時には彼の手は血にまみれていた。女も男に踏みつけられて着ていた服もはだけ、むき出しになった乳房が泥と血にまみれた哀れな状態になっていた。どうしたらいいのか分からず、男は呆然と座り込んでいた。

 こんなはずではなかった。脅して金を取って、命乞いする女を自分に従わせてやろうと、そう考えただけだったのに。女の瞳は見開かれたまま、電灯の明かりを映している。

 混乱が男を支配する。

 分かっているのは、女が確かに死んでいるということ、それだけだ。

 抜けた包丁を片手に気が抜けたように立ちつくしていた彼の耳に聴覚が戻り、初めてパトカーのサイレンの音が聞こえた。彼女の悲鳴を聞きつけてこのあたりの住民が通報したのだろう。どうやら自分は随分とここに座っていたようで、もうパトカーはすぐそこだ。

 男は、慌てて逃げ出した。後ろから迫ってきたパトカーから逃れようと、走って車の通れない何本かの細道と、何本かの暗い路地を駆け抜けた。彼に気が付いた警官が怒声を上げながら彼を追いかけてきたが、振り返る余裕はない。

 吸い寄せられるように飛び込んだのが、この骨董品屋だったのだ。

「……俺は悪くない。あの女が悪いんだ。あの女は俺を馬鹿にしやがった」

 ぶつぶつと呟く男の前で、時計はまた変化を始めた。朱がじわりと滲んで、徐々に目の覚めるような蒼に変化してきたのだ。

 男が呟きをやめて時計の文字盤をじっと見つめた時、変化はすでに終わっていた。

 目に染みるほどの真っ青な空は、まるで異空間の入口であるかのようにぽっかり口を開け、男を見下ろしていた。

「……空? 青空か? いつの間に……」

 男は何者かに導かれるように、空の文字盤に浮かんだ針にそっと手を触れその氷のような感覚を味わった。冷たい……これはどこかで感じたことのある感覚だ。

 彼の頭の中で色々な情景がフラッシュバックした。そして彼の脳裏に、その冷たかったものが思い浮かんだ。

 血にまみれたあの老婆の凍った瞳。

 殺した女性事務員の見開いたままの断末魔の瞳。

 そして血塗られた包丁の冷たい輝き……。

「あ…あ…」

 突然脳裏を包んでいたもやが晴れ、彼は時計の魅力から解き放たれた。自分の手が時計の針に触れていることに気が付き、その時計の薄気味悪さに恐怖感が襲った。

 今迄一体何をしていたのか、早く、一刻も早くここから逃げなければならないのに……。

 動揺した男は時計に触れている手を引っ込めようと試みた。

 ……だが、彼は遅すぎたのだ。

「て、手が離れない!」

 文字盤はゆっくりと彼の手を飲み込んでいく。異様に大きく開かれた彼の目には、青空の中に吸い込まれるようにして消えていく自分の指先が映った。そして同時に襲い来る狂わんばかりの痛みと恐怖。

「離れろ! 離れてくれ!!」

 狂ったように暴れる彼の恐怖を味わいながらじわじわと飲み込むように、文字盤の空は彼を貪っていく。ぼりっ、ごりっと、音を立てながら腕が激痛と共に時計の中に消えてゆく。ようやく男はこの時計が彼に対して行っていることが何であるか知った。

 時計は……彼を食べているのだ。生きたまま彼は時計に喰われている……。

 腕がもぎ取られ、足がもぎ取られる極限の痛みが彼の神経を摩耗させ、足下からぞろりぞろりと狂気が這い登ってきた。

 だが時計は彼に気を失うことすら許されなかった。

「いやだ……いやだ< 助けてくれ!!」

 ほぼ全身を飲み込まれた男は、身もだえし足掻いた。だがここには誰も彼を助けるものは存在しない。

 いや、先ほどまでは助けを求める相手がいたのだ。だがその人物は先ほど彼の手で自分の体からあふれ出す血の海に沈んだ。

 ほぼ全身を飲み込まれ、顔だけをこの世に残していた男は、目の前に迫る青空に最後の抵抗を試みたが、それも全て無駄だった。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 彼が最後に見たのは、抜けるように蒼い、雲一つない青空だった。

 男が喰われた店内から騒がしい物音が消えた。店の中から聞こえるのは、規則正しく動き始めた時計の音だけ……。

 今迄ピクリとも動かなかった老婆が、のっそりと物音を立てずに起きあがった。刺されたはずの腹には何の傷もなく、先ほど彼女を染めていた大量の血液もそこにはなかった。

「喰われちまったねぇ。まあ仕方ない、所詮あの男もここに並んだ宝石と同じ、空っぽの男だったんだねぇ」

 老婆は体についた埃を億劫そうに両手ではたいた。老婆と時計だけの静かな時間が、またこの空間に戻ってきた。

「時計の文字盤は空(くう)……つまり空っぽ……何も入ってない……」

 呟きながら老婆は時計に取り付けられた小さな引き出しを開けた。中には、血のように見事に朱くはあるが、どう見ても安っぽいガラス玉が一つ転がっている。

 ガラス玉を手にとって、老婆は語りかけた。

「所詮空っぽのお前さんは時計を満たすことが出来なかったのさ。持ち主になる資格は無かった。これが時計の出した答えだよ」

 それはガラス玉になった男には、聞こえるはずもない答えだった。だが老婆はそんなことを一向に気にする様子はない。

「ああそうだ、この時計はねぇ、『空の時計』というのさ」

 老婆は朱いガラス玉を宝石の飾ってある棚の最下層に収めた。  

「正しくはね、『空虚の時計』…聞いてるかい、若いの……」

 老婆は、棚の戸を音もたてずに閉めると、喉の奥でくつくつと一人嗤った。

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