Missing.

 私がヒロキに振られたことを理解できたのは、彼がはじめて約束を破った土曜日から一週間がたった雨の日だった。私はあてもなく、日々の水面の上をさまよい流れていた。時々胸がきゅっと苦しくなって、メールも送れずに返事が返ってくるはずのメールを見つめ続けて、そこに意味が生まれるのを待っていた。

 そして突然思い出したのだ。彼がブログをやっていた事を。私は友達に彼のブログを教えてもらった。それはなかなかたくさんの人に読まれていた。日常を面白おかしく綴ったブログ。中には、私にとって不誠実にとれるような記述もあった。けれど、それは笑いを取るためだってことは理解できたし、ちょっとしたお茶目も分からないようなお堅い女に見られるのは嫌だったから、私は彼のブログを受け入れた。

「ただし、私の前でブログのことはあんまり話さないでね。あと、あんまり私についてのことを書かないでね」

 見つけたときに一気に読んで、その後はもう見る気がしなくて、ずっと放っておいた彼のブログ。今、それを開いてみる。そこには、彼が直接伝えてくれなかった言葉が綴られていた。「僕たち、別れました。」――意味が理解できなかった。そこに綴られている言葉は、私に伝えるはずの意味をなくしてしまっていた。すっぽりと抜け落ちてしまっていた。白い光を放ち続けるディスプレイ。その中で光を放っていない黒文字。

 その日の夜、パスタに塩を振る時に、周回遅れになってくたびれた意味が、やっと私の元に届いた。そっか、私、振られたんだ。「どうして私よりブログの読者が先なの?」、精一杯打ったメールは、朝になって帰ってきた。「ごめん。でももう無理なんだ。お前は重すぎるから」、それがヒロキから私への最後のメールだった。

 ヒロキに最初に抱きしめてもらった夜。ヒロキは髪の毛に触って、何度も何度もキスをして、そして私を強く抱きしめた。愛しい力が私の中に注ぎこまれて、全身に染み込んでいった。少し強い柑橘系の香水の匂い、それにも打ち消されない煙草のかすかな匂い、彼の温度。「心臓が、動いてるな」と彼は言った。あれ以上に優しくて、そしてリアルな言葉を私は知らない。一人暮らしの夜はとても寒かった。彼からの最後のメールを消した。寒いよ、寒いよヒロキ、早くきて、あっためてよ。私の心臓は、今も動いてるよ。

「大丈夫? 辛いのは分かるけど、そろそろ元気だしな?」

「うん。ありがと……」

 友達の言葉はありがたいけれど、「元気だしな」は私にとって残酷な言葉だった。元気を出すことは、ヒロキを気にしなくなることを意味している気がした。それは私自身を裏切ることのような気がした。私は元気でいてはいけないんだよ? 先生の言葉なんて、何一つ耳に入ってこない。私はノートをとる代わりに、何度も携帯電話で同じページをリロードする。彼のブログが彼を知る最後の手がかりになってから、私は彼のブログを気にするようになった。ヒロキの更新はあんまり早いほうではなかった。それでも私は彼のブログを分刻みで何度も何度も見た。更新していて欲しいのか、そうではないのか、自分でもよく分からなかった。ただ、更新されていないほうがなんとなく安心するかもしれない。

 絶望の色は濃い黄色だ。それは私の視界をグロテスクに塗りつぶし、私の心にたっぷりと注ぎ込まれる液体だ。私はおぼれていた。水に浮けない浮き草。大好きな音楽すら聞く気になれずに、時間は溢れてこぼれていった。毎日携帯電話でお決まりのブログを開く、それ以外は何もしなくても、日々は私の隣を通り過ぎた。私が再び音楽を聞けるようになるまで――音楽を注ぎ込む隙間が心の中に生まれるまでに、二ヶ月が経過した。

 最近よく聞いているのは、syrup16gの曲。彼らの音楽を聞くと、いつも安心する。人間的な弱さは暖かい。最近はやっと、友達に「元気出して」って言われなくなった。もしかしたら諦められたのかもしれない。それでもいいや。私は携帯電話を開き、彼のブログにアクセスした。最近の彼の文章は当たり障りがなくて、心がきゅっとすることもなく、時々は笑えるようにもなった。

 けれど、その日の記事は、最近の記事とは何かが違った。最後の一行が、私の胸を締め付けて、私は反射的に電源ボタンで携帯の画面を戻し、携帯電話を閉め、そしてまた開いた。もう一度目に飛び込む文字列。オフ会。彼が東京にやってくる。私の家まで一時間足らずの、東京へ。

 どうして、と思った。どうして彼は東京に来るの? どうして私の近くに来るの? 私の近くに来るのに、私に会ってくれないの? 本当は、もう一度会いたい、引きずっていると思われて構わない、かみ殺した言葉達を彼にぶつけたい。ううん、ぶつけなくてもいい、ただ、当たり障りのない話をするだけでもいい、私は会いたいと思ってる。彼にまた会いたいと思っている。どうして、と思った。

 キーボードを打つ私の手は震えた。彼に何を伝えたいか分からない。オフ会に参加したいわけじゃない。私はヒロキと話したいだけ。でもその気持ちをどうすればいいの。その気持ちをどこに書けばいいの。私はただ事実を羅列した。東京に来るんですね。私の家の近くに来るんだね。一時間なら電車に乗っていけばすぐだね。そうなんだ、東京に来るんだね。気持ちを一緒に羅列する事は、とても怖くて、とても怖くてできなかった。HNは「元カノ」にした。すごくいびつな言葉に思えた。

 ……気が付いたら私は眠ってしまっていた。パソコンはスリープ状態になって、ディスプレイは奇妙な幾何学模様を描いていた。エンターキーを押す。すぐにヒロキのブログが映った。オフ会、の文字も見えた。彼が東京に来る。夢だったらよかったのに、夢じゃなかったみたいだ。

 けれど、不思議な事が一つあった。コメント欄に「元カノ」というHNのコメントはなくなっていた。おかしいな、やっぱり夢だったのかな。私は結局あのコメントを送信したのか、よく分からなかった。もしかしたら送信しなかったのかも。それとも、送信して思いなおして消したのかもしれない。いずれにせよ、もう一度あのコメントを入れる気にはなれなかった。朝の肌寒さに震え、私はシャワーを浴びる事にした。変な態勢で眠ったからか、鏡の向こうの私の顔には、気持ちの悪い、赤い模様が這っていた。

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