小林稲穂
透明人間
たった今、俺は透明人間になれる不思議な力を手に入れたらしい。
やり方はすぐにわかった。息を止めるだけ。そうするとすうっと自分の体の色が消えていき、やがてまったく見えなくなるのだ。ずっと息を止めることはできないから、我慢できなくなったらちょっとだけ息をする。でもそれだけなら体の色はほとんど出ないから、いくらでも透明でいられるのだ。
『もし透明人間になったら、網膜も透明になるから、目は見えなくなるはずだ』などと科学的に考察した作家がいたらしいが、ぜんぜんそんなことはないじゃないか。問題があるとしたら、音は消えないことと、服までは透明にならなかったことだ。まあ今は夏なので、服は脱いでしまえば構わないだろう。
俺はいま泊まっている旅館の部屋の真ん中に立った。服を脱ぐと、何度か深呼吸し、それから大きく息を吸ってそのままぐっと止める。すると俺の両手からすぐにすうっと色が消えていき、腕も足も腹も見えなくなるのがわかった。念のため、見える限りの全身をよく確認する。手足はもちろん、肩や胸、鼻や舌先まで、間違いなくまったくの透明だ。
さて、この部屋を出て、どこへ行くかだが……。廊下に出てみると、小学生くらいの少年が歩いているのが見えた。ちょうどいい、あの少年で試してみよう。相手が子供なら、万一失敗してもごまかしが効く。うっかり半透明状態が見られてしまっても、子供の話を信じる奴はいないだろう。
俺は足音を立てないように少年に後ろからそっと近づいて、トントンと肩を叩いてみた。少年は驚いて振り向くが、俺の腹のあたりを見ながら不思議そうにキョロキョロしている。しめしめ。まったく見えていないようだ。
さて、透明人間になったらまず何をするかって?盗み食い?嫌いなやつを殴る?まさか。もちろんあれだ。わかるだろう。俺は廊下を抜けて、旅館の奥へ向かった。
浴衣姿の髪の長い女がひとり、女湯に入っていく。俺は後を追いかけて暖簾をくぐった。横顔はなかなかの美人だ。ついているな。脱衣所で女が帯に手を掛けたところで、俺の気配を感じたのか、俺の方に振り返る。
女が固まった。一瞬の間、そして悲鳴。
あっという間に女は脱衣所から逃げていった。ちっ、いいところで。なぜバレたんだ。一応手足を確認してみるが、完璧な透明度だ。まさか、俺の後ろにいる別の何かに驚いたのか?何しろ透けてるからな。そう思って振り返ったが、後ろにも誰もいない。じゃあなぜ女は悲鳴をあげたんだろうか。
ふと脱衣所の鏡を見ると、そこには血走った眼球がふたつ、宙に浮かんでいた。
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