咲くやこの花

九紫かえで

1

 八月の第一土曜日の昼下がり。阪急十三駅改札前。

 大阪市民に今日は何の日と聞けば、淀川花火の日や、って答えてくれるだろう。全国的にはPLのほうが有名かもしれないけれど、大阪市内在住のうちにとっては天神祭のときの奉納花火と淀川花火のほうがなじみがあるのだ。

 その淀川花火も子どもの頃に行ったきりで、ここ数年はご無沙汰していた。だったのだが。

 改札の向こうに、うちをここまで呼び出した張本人の姿を認めると、軽く手を振った。向こうもそれに気がつくと、小走り気味にこっちへ向かってきた。

 えらく大き目のクーラーボックスを持っていて、少々しんどそうにしていたのが少し気になった。

「ごめんごめん。待たせた?」

「うちも今来たとこ」

 待ち合わせ時間ちょうど。この人は遅刻もしなければ、時間に余裕を持って来ることもしない。そういう人だった。

 最初出会った頃は卯月さんと呼んでいた。付き合い始めてから卯月君になり、恋人同士なんだからお互い対等でいようということで、今は年上だけど卯月って呼び捨てにしている。最近は、自分とかあんたとか、大阪人にとってはごくごく普通の二人称が増えてしまった。親密ではあるけど、大阪のおばちゃんに一歩近づいてしまった気がする。

「暑いなぁ」

「せやね」

 鞄からうちわを出してくれたので、遠慮せずに受け取る。某在阪局の天神祭中継のうちわだった。

「本音を言うと、淀川沿いにマンション借りて、そこから見るのが一番楽やと思う」

「彼女の前で言うべきセリフやないけど、こんだけ暑いと同意するわ」

 花火大会を侮るなかれ。打ち上げ地点付近の河川敷の争奪戦は炎天下の時間帯から始まっているのだ。それに、打ち上げの二時間前にもなれば、駅から河川敷までの間はあまりの混雑のために、身動きがほとんど取れなくなってしまう。

 だから昼のうちから現地入りする必要があるのである。

 だけどここは天下の大阪。西日本最大の都市相応のヒートアイランド現象と、山に囲まれて熱がこもる瀬戸内の地形的要因が相重なって、とにかく暑いのだ。

 そんなわけで、暑さのせいもあってか、道中のうちらの会話も滞っていた。

「って、待てや!」

 反射的につっこむ。

「どうしたん?」

「どうしたんちゃうわ! 花火大会に向かうカップルが無言で歩いてるって、どんだけ冷めてんねん」

「そりゃ、熱すぎたら熱中症になってまうからな」

「せやな……って、なんでやねん」

 パシッと卯月の背中を叩く。

 そこからまた沈黙すること数秒。

「正直、ちょっと安直すぎたボケやったかなって思う」

「こっちこそ、ごめんな。いい返しが思いつかんかった」

 大阪人の笑いへの意欲すら減退させる暑さ。なんと恐ろしいことか。

「ついたらアイス食べよ。奮発してたくさん買ってきた」

「それで、でっかいクーラーボックス持っとったんか。楽しみにしてるわ」

 淀川が近づいてきたのか、少しだけ涼しい風がふわっとうちらを撫でてくれた。


「あるときとないときじゃ大違いや」

 真っ青なビニールシートの上で、うちは一本目のアイスキャンデーを堪能していた。

 ちなみに今のセリフは、このアイスを売っている三桁の数字の総菜屋さんの、有名なローカルCMだ。

 って、誰に解説してんねん、うちは。

「なんで中華の総菜屋がアイス売ってるんやろ」

 普段はあまりアイスを食べない卯月だけど(本人曰くお腹が冷えるかららしい)、暑さには勝てないらしく、アイスをぺろぺろなめていた。その仕草がちょっとかわいい。

「アイスキャンデーって実は中華料理なんとちゃう」

「や、それはないわ」

 既に河川敷では大勢の人が宴を繰り広げていた。おじさんにとっては、花火もお酒のためのつまみといったところか。

「あ」

「どうしたん?」

「小林のおっちゃんや。ほら、うちの店の常連さん」

 うちの家は天神橋筋商店街にあるお好み焼き屋さん。小林さんはうちの近所に住んでいて、いつもうちの店を贔屓にしてくれるおじさんの一人だ。週に何日かは店にお手伝いで顔を出すようにしているから、常連さんの顔はだいたい知っている。

 大阪市内でも有数のイベントだし、知り合いの一人や二人、居てもおかしくはない。

「なぁ、梅」

「ん?」

「一応確認しておきたいのですが、今日はどういう理由で店を抜け出してきたんですかね」

 なぜに丁寧語。

「元々今日は非番にしてもらってた。仲のいい友達と花火見に行くって言っといたで」

「友達なぁ……」

「どうせバレとるけどな。うちの両親があんたに一目置いてるのは知ってるやろ」

 週に一度は来店して、娘が親しげにしている若い男がいたら、普通の親ならなにかあると気がつくだろう。

「ご主人と奥さんがいい人なのは知ってるけど……」

「姉ちゃんならここんところうちに帰ってへんから大丈夫やで」

「そうか」

 露骨に安心したといったご様子だ。

「なんなら今から呼ぼか?」

「それだけはやめてください、お願いします!」

 だからなぜ丁寧語。

「だって、あの人怖いもん」

 ……聞こえなかったことにしよう。今さらだし。

「姉ちゃんのことはおいといて、そろそろ腹ごしらえせーへん?」

 うちはリュックサックから弁当箱と水筒を取り出した。

「え、早くない?」

「彼女の手作り弁当のご登場やというのに、えらい冷静やな!?」

 そこは嬉しそうな表情をしようよ、彼氏さん。

「そりゃ、今お腹すいてないし。彼女の手料理だからこそ、お腹すいてるときにおいしくいただきたいやん」

 そうでしょ、と卯月は微笑んだ。どう見てもドヤ顔やけど。

「あんまりかっこよくないで……」

「やっぱりそうかー」

 そう笑いつつ、卯月はうちの肩を抱き寄せた。

「実を言うと、梅がご飯作ってきてくれることはわかってた」

「うん」

「てか、毎週お店でごちそうになってるしな、梅の手料理」

「別に今更珍しくもないやろ」

「うん。珍しくないな。でも嬉しいわ」

 暑苦しいはずなのに、なぜか心地良い。そんな複雑な感覚。

「ほんまに?」

「好きな人にご飯作ってもらって、嬉しくない男なんておらんよ」

 うちの耳元で、ぼおっとしそうな優しい声が響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る