夏色の旅歌

九紫かえで

Prologue 1

 さぁ、新しい物語を始めましょう。


 向日葵が彩るステージで、歌姫は目いっぱい手を広げた。




Prologue




 ――適当にどこか旅行にでも行ってこい。


 編集長に笑いながら背中を叩かれて、フリーきっぷを手渡されたのは一昨日のことだった。

 一応これでも旅行雑誌のライターの端くれだから、有名な観光地に足を運ぶことはそう珍しくはなかった。だけど、今回みたいに休暇をもらって、お前の好きにしろ、と言われたのは初めてだった。

 さて。

 今僕は必要最低限の荷物ときっぷを手にして、ターミナル駅のいくつもある行先案内板とにらめっこしている。

 このきっぷは新幹線や特急では使えない。必然的に鈍行列車の旅となるわけだが、東西南北あらゆる方角に向かって線路が伸びているものだから、せめてどのホームに行くかくらいは決めないといけない。

「……やっぱ東かな」

 東へ行くのよ、あなたの想いをのせて――。

 昔流行っていた歌謡曲を口ずさみながら、僕は七番線へのエスカレーターをのぼる。ちょうど新快速電車が来ていたので、僕はそれに飛び乗った。

 いきなり最初から各駅停車の旅をする必要はない。このあたりは、タウン誌の取材でもう飽きるほど訪れているのだ。都心部は早々に抜けてしまうに限る。

 いつも通勤通学客で混雑している新快速電車だが、ラッシュ帯を過ぎた火曜日のお昼前、幸運にも座席に座ることができた。

 ご年配の方や、小さい子供連れの母親の姿が見える車内。

 彼らにも物語がある。始まる前なのか、終わった後なのか、それとも今まさに最中なのか、それはわからないけど。新快速は今日も彼らの想いと物語をどこかへと運んでいる。

 いったいこれから、僕にはどんな物語が待っているのだろう。


 + + +


 降り続く雨はいっこうにやまなかった。

 あいにく傘を忘れてしまったので、図書館で時間をつぶしていたが、気がつけば完全下校時刻も近い。

 仕方がない。職員室で傘を借りることにしよう。


 古びた校舎にも雨が打ち付けるグラウンドにも誰も人がいない。

 ……もしかして、職員室にももう誰もいなかったりして。

 そんなことを考えていると。


「東へ行くのよ、あなたの想いをのせて――」


 音楽室から女の子の声が聞こえてきた。


「もう一度始めるの、新しい物語を――」


 どこかで聴いたことのある曲。

 どこかで聞いたことのある声。

「……山崎君?」

 彼女に呼び止められたところで、ぼやけていた視界は真っ白になった。


 + + +


「ん……」

 目を開けると、車内の人数は減っていて、外の風景も住宅街から田園地帯に姿を変えていた。

 車内の電光掲示板で県境を二つ越えたことを知った。スルーした場所も国際的な観光都市で、いまさら足を運ぶ必要性は皆無だ。日常が届く範囲では、まだ旅行に来たといえない。

 で、そろそろどこの駅で降りるかを決めないといけない。このまま北行きの電車(寝ている間に方角が変わるのだ)に乗って、まず行くことのないさらに隣県の終着駅まで行くのが一つ。もう一つは著名なとある乗換駅で乗り換えてしまって、さらに東へと向かうのが一つ。

「……東かな」

 先ほどまで見ていた夢を思い出す。

 高校の頃、音楽部にいた先輩だ。すごく綺麗な歌声の持ち主で、彼女の歌声を聴いて、足を止めない生徒はいなかった。学園の歌姫、と当時呼ばれていた。

 僕みたいな一般の生徒が、音楽部の活動に接することは少なかったけど、学園祭でのステージは毎回行っていたし、外部での音楽祭にも何度か足を運んだ。

 でも。

 さっき見た情景は夢だ。僕が傘を忘れて図書館で時間をつぶした、という記憶なんてないし、彼女があんな昔の歌謡曲を口ずさむことだって、当時の彼女を考えると想像できない。クラッシックだけでなく、流行りの歌を歌うということはあったにせよ、あの曲は僕らが高校生だった時代からでももう二十年は前の曲だ。

 それに。


 僕が一方的に彼女を慕っていただけで、彼女は僕のことなんて知らないはずだから――。


「まもなく麦原、麦原です。東海線は乗り換えです――」

 まぁ、いい。もう昔のことだ。僕と彼女の人生が、交わることなんてないのだから。

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