焼き肉食べたい

九紫かえで

焼き肉食べたい

 目を覚ましたのと同時に、焼き肉の臭いが僕の鼻を刺激した。

「お、起きたか」

「うん」

 まだ頭がぼうっとするけど、同居人が帰ってきたことと、今日は金曜日で今が夜だということはすぐに認識できた。

「飯は食べたか?」

「七時ごろに残ってた雑炊を」

「悪いな」

 なにも謝ることなんてないのに。

「本当は飛んで帰ってやりたいところなんだけど、付き合いってものはどうしてもだな」

「わかってる」

 謝らなくちゃいけないのは、涼子にばかり負担をかけている僕のほうだ。

「ごめん、ちょっと着替えてくる」

「待って」

 僕は涼子のほうへと右手を伸ばす。

「なんだ?」

 振り返った涼子はそのまま僕のベッドに近づき、手を握ってくれた。

「よいしょっと」

 僕はなんとか起き上がると。

「抱きしめていいかな」

 返事を聞く前に、ぎゅっと僕は涼子の体に腕を回す。

「え、ちょっと……」

 涼子の抗議を無視して、僕は大きく息を吸い込んだ。

 カッターシャツから広がる焼き肉の臭いが僕の体中を駆け巡る。

「やめろって。焼き肉の臭いが染みついてるから……」

「うん。くさいね」

「わかっててやってるのかぁぁぁ! お前、病人だからってやっていいことと悪いことが――」


「ケホッケホッ」


 街行く人々の食欲をそそる焼き肉の臭いも、食欲があまりない僕にとっては毒だ。

「ほら、言わんこっちゃない。大丈夫か?」

「だいじょ……うぶ……」

 枕元にあった水を口にして、なんとか吐き気は抑えた。

「着替えてくるから待ってて。こんなところで無理しなくていいから」

「無理しているつもりじゃなかったんだけどね」

 僕の「言い訳」を聞くことなく、涼子は部屋を出ていった。

 五分もしないうちに涼子はまたこの部屋へと戻ってくるだろう。

 でも。


(焼き肉の臭い、か……)


 * * * 


 JRと私鉄が交差しているあの駅のことを思い出す。

 近くに焼き肉屋が多くあったあの駅は昼夜問わず焼き肉の臭いで充満していた。

「焼き肉食べたいなぁ」

 出会ったころの僕達は大学からの帰りにあの駅で別れることがいつもの決まりだった。だいたいが夕食時だったから、私鉄線の駅のホームに降りるなり、いつも涼子はそう口にしていた。

「焼き肉好きなの?」

「いや、特に好きってわけじゃないけど、たまになにも考えずに肉を食いたくなるところがある」

「ふーん」

 僕も焼き肉を食べたことがないわけじゃないし、別に嫌いなわけでもない。

 でも、わざわざ焼き肉屋まで食べに行こう、という気分になったことはなかった。

 僕の中での「好きな食べ物ランキング」で焼き肉はそんなに高い順位じゃなかった、ということだけなんだろうけど。

「ツトムも少しは肉食べた方がいいぞ」

「いや、別に僕、ベジタリアンってわけじゃないからね」

「そう? いつも食堂で一人でうどんをすすっているイメージだったからなぁ」

 間違ってはいないだけになにも言えない。うどん、大好き。

「ということで決定だな」

「なにが?」

「焼き肉食いに行こう。今週の金曜日とかどう?」

「いや、どうって言われても」

 やっぱり焼き肉はそんなに得意じゃないから断ろう。

 そう伝えようとして。


 ――涼子の顔を見たときに僕の考えは百八十度変わった。


「……ま、たまにはいいかな」

「そうか。忘れるなよ。絶対だぞ」

「はいはい。僕が今まで予定を忘れたことありますかって」

 ちょうどそのタイミングで涼子の乗る快速電車が来てしまい、涼子は勢いのままに飛び乗ってしまった。

「それじゃ……また明日な」

「うん、また明日」


 * * * 


「ったく」

 ぶつくさ言いながら部屋に戻ってきた涼子はいつものジャージ姿だった。

「具合は?」

「問題ないよ」

「ツトムの『問題ない』ほど信用できないものはないんだけど」

 テレビをつけて、持ってきていた缶ビールを開けた。

「ふぅ、うめぇ」

 涼子が勤めている会社は金曜日にいつも飲み会をやっていて、たいがい焼き肉屋に行く。

 でも飲み会だというのに、そこではお酒を決して飲まずに、いつもうちに帰ってから缶ビールを開ける。

 涼子曰く、僕の生存確認をすましていないのにおちおち酔うこともできない、だそうだ。

「明日は一日中雨みたいだな」

「そっか、じゃぁおでかけできないね。遊園地に行きたかったな」

「寝言は寝てからいえ」

 涼子は肩をすくめてから。

「ま、こうして、ツトムと二人きりでゆっくりとした時間をすごすのも悪くないけどな」

 昔は顔を赤らめていたであろう一言も、最近はさも当たり前だといわんばかりに口にすることができるようになっていた。

 それだけ僕達の間で時間が流れたということだ。

「さっき、昔のことを思い出してたんだ」

「うん?」

「『初デート』のこと」

「あぁ……」

 僕達の間で「初デート」といえば、付き合いだす前のことだけど、初めて一緒に焼き肉屋へ行った出来事のことを指す。

「さっきの焼き肉の臭いで思い出したのか?」

「そうだね。昔はなんてことなかったのになぁ……って」

 自嘲がすぎたようだ。僕はごめんと謝った。

「あのとき、涼子が僕を焼き肉に誘ってくれなかったら、今はないもんね」

「……そうかもな」

 ぐいっと涼子はビールを飲み干した。


 大したことじゃないだろ。

 ただ腹が減っていただけだから。

 焼き肉屋に行っただけなのにありがたがるのはやめろって。


 「焼き肉屋デート事件」の神格化に必死に抵抗していた涼子だったけど、いつの日か歴史的転換点だと認めてくれるようになった。

 抵抗するのを諦めた、というよりかは、思い出の一ページになったのだろう。僕の体調悪化によって。


「約束しよっか」

 僕達の間の言葉にもう理由なんていらない。

「体調がよくなったら焼き肉食べに行こう」

 自分の感情を隠したり、恥ずかしがることもない。

「だったら少しは肉を食えるくらいにまで体調を戻すことだな」

 ただ思うがままにしゃべり、ぶつけあう。

「そうだね。それくらいならすぐにどうとでもなるよ」


 彼女と焼き肉を食べたいから、食べる。

 彼女と一緒に居たいから、居る。

 彼女と一緒に生きたいから、生きる。


 僕にとってはたったそれだけのことだ。



Fin.

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焼き肉食べたい 九紫かえで @k_kaede

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