島田黒介 短編集
島田黒介
シナプスの知らないたずねびと
やあ、はじめまして。君は誰なのかな、いや、どうぞ入って入って。
ちょうどお茶が入ったところでね、あまり高級なお茶菓子は用意できないんだが……甘いものはお好きかな?
私は素朴な味が好きでね、ああ、うん。そうだね、それを先に説明しないと。私の記憶は一日しか持たないんだ。
寝て、起きると全て忘れてしまう。いや、覚えていることもあるんだよ。お茶の入れ方と、記憶がないということだけは覚えている。
もちろん社会に出れば不便だろうが、私はずっとここにいるのでね。
ああ、何故かなんて聞かないでくれ、私には記憶がないのだから。ささ、遠慮しないでお食べ。
さて、君は誰なのかな? おや、それは失礼した。初めまして、本当に初めましてだ。
私は……私の名は、ああいや、そうだ、思い出せないんだった。
でも、名前がないというのは困るね。今までの私はどうしていたんだろうか。
おいしいかい? それはよかった。おかわりもあるからね。
さて、君はこんな部屋に何をしにきたんだろうか、私は今それを考えているよ。
当てられるかな、ううん。君は黒い服で……お世辞にも優しいとは言えない顔だな、辛い仕事をしているんだろう。
だけど押し入り強盗ってわけでもないだろう、なにせこの家に金目のものなんていくらもないのだから。
当たっているかい? いいや、言わなくてもわかるよ、それはね。
歳って言うのは重ねてみるものだ、重ねなければわからないが、それは確かに自分の中にため込まれている。
だからわかるんだ、君は私に良い事をしにきたわけではない、とても悲しい顔をしている。
隠そうとしたって、私にはそれがわかるんだ、それも悲しいことなのかもしれないね。
そう考えてみれば、年を重ねるというのはつらいことでもあるかもしれない……。
ああ、すまんね、老人のよた話に突き合わせてしまって、でも急ぐ話じゃないんだろう?
老いぼれといっても私は幾つだろうか、自分の年もわからないとは、多少不便があるね。
君から見て、幾つに見える? それを私の年にしようじゃないか。
いやなに、こんな老いぼれを訪ねてくれた縁だ、それくらいの遊びがあっていいじゃないか。
ああ何、やけに細かいね、私もそんな歳なのか。いやそうか、もうそんな年月が……。
ああ。そうかい。私のことを知っているのかい。
ああ、なるほど、君が何をしに来たかわかったよ。
もうそんな頃合いかしら……いや何せね、覚えていないもので、それすらわからない。
そうさね、それならいつまでも腰を落ち着けている訳にもいかないね。
おかわりはどうだい?
そうかい、私もあと一口で飲み終わる、そうしたらいこうじゃないか。
ああ、私は何も覚えていないのに、涙が出るもんだ。
いや、何も覚えていないから涙が出るのか、全てが、むなしい。
このティーカップも、テーブルも、イスも、全てがむなしくて涙が出る。
……さあ、いこうか。悪いが、手をとってくれないかな。膝が悪いもんでね。
そう悲しい目をしなさんな、君はそれが仕事なんだろう。
お迎えをする度に泣いていたら、しょうがないじゃないか。
だから、せめて悲しむのは逝く人間だけでいいのだ。
ああ、私はこの事さえ覚えていないだろうが
もし、もし君がよければ、私が淹れた紅茶の味を覚えておいてくれないだろうか。
そうすれば、それならば私はかけらでもこの世に残るのだ。だから、お願いだ……。
ああ、そうだね。
では、さようなら。
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