第64話 おっさんの計らい

 明くる日、寮に戻ったフランは寮母にこってりと絞られた。外泊届けを出してはいたが突然外に飛び出したフランを寮母は寝ずに待っていた。

 滅多に叱られた経験のないフランは心底反省した。そして赤い目のままジャージに着替えた寮母を見て、フランはこの人がエレメントUアンダー-18 の監督であることに気がついた。

 

 寮生は寮母を陽子さんと呼んだ。

「♪サッカーの練習を苦しいものにしちゃ駄目~。常に楽しむのよ~」

 陽子はオペラ歌手ばりの美声で指示を出す。練習中ずっとだ。最初は暑苦しさを感じたが、まもなく慣れた。


 練習の全てに競争の要素が入っていた。そしてウォーミングアップからゲーム性があり、ボールを使った練習はとにかく頭を使わされた。

 練習が終わると頭が鉛になったように重い。これは大変だ。フランは珍しく居残り練習もせずに引き上げた。



 

 二日目の講習はより内容が複雑になった。俺がパスを出すと講師が笛を吹く。ゲームが止まる。講師が駆け寄ってくる。

「今、ボールを前に止めて、左を向いて、後ろに戻したね。今のプレーで正しかったと思う?」

「味方が前に走り出してないか見たんだ。味方の準備ができてなかったのが悪い。後ろに戻すしかなかった」

「サイドも空いていた。できるだけ、味方の位置を確認しておくべきだよ」

 顔の筋肉がぴくぴく引きるのが判った。ああそうだ今の俺は小学生だ。こんなところで講師を殴っても仕方ない。

 受講生の視線が俺に突き刺さる。ラケットがあったら折りたい気分だ。


 理論はあるつもりだが技術が追いつかない。ボールは俺の言うことを聞こうとしない。処理にもたつく。長いパスを通そうとして失敗を繰り返す。大体なんだよドリブル禁止って! 俺の走力なら一人でガンガンぶち抜いてやるのによお!



「では今日は仕事をもう閉めますんで、はい。よろしく」

 おっさんAと顔を突き合わせることを考えると、少し気が重い。

 大体さ、忘年会ってネーミングセンスがないと思うんだ。その年の苦労を忘れるため? そんなに忘れたいことばかりの一年だったって考えるのか? 消極的なマインドにもほどがある。

 

 おっさんBが選んだのは代官山にある居酒屋だった。中に入るとGreen DayのMinorityがかかっていた。俺は中学校の修学旅行でbasket caseを歌ったことを思い出した。俺は全然勉強しなかったから洋楽を歌い出した俺を英語教師の担任はニコニコしながら見ていた。だが奴は突然激怒して俺をぶん殴った。


「ああ、エロス君、こっちこっち」

 おっさんAとB、雲母きららが俺を待っていた。テーブルに着く。

 酒に免疫がないものだから一杯目のビールでしたたかに酔った。いつの間にやら、おっさんAとくだを巻いて愚痴をこぼし合っていた。

「五年前、なでしこが金メダル獲ったでしょう。うちの親会社があれでこれからは女子サッカーだ! って盛り上がってね。んで翌年、ヴァッフェを創立したんですよ」

「しかしあれだね。なでしこJapanが勝ってくんないと。全体的に波及するんだね。うちの観客動員にも影響が出る」

 次々とパンクロックがかかっては剣を揺さぶった。

「澤穂希の力は絶大だったんだねえ」

「で、JFA日本サッカー協会からね、下部組織を立ち上げてくれとお達しがあって……せっかくやるんだったら申し訳程度の中途半端なものにせず育成型のクラブにしようって大きな話になってね。日本にフランス人の有能なスカウトがいるってんで、様々なルートからたくさんの有望な選手を獲ったんだよ。でも、まあ、夢を見すぎたかもしれないね。うちみたいな小さなクラブが見つけた鯛は、水たまりになずまず海に出て行くんだね」

「育成に金をかけるなら出て行ったときにしっかり金を取れるような契約にしないといけない。勉強になったよ」

 剣は渋い顔をした。女子サッカーはまだまだそんな規模に達していない。移籍金を払ってまで選手を獲得するなんて話はほとんどないだろう。ましてや、14歳の選手だ。

「そのためにもとにかくお金だよ。お金がなきゃ選手は出て行ってしまう」

「来年は大変だ。1部リーグで当たるような所は強敵ばかり……。残留できるかどうか」

 おっさん同士で話は進む。俺もたまには喋っておこう。

「1部に上がったんだから、観客も期待できるんだろ?」

「勝てば。観客も喜んできてくれるでしょう。負けが込むとねえ……」

「だからかえって、2部で勝ったり負けたりを繰り返してるぐらいの方が観客が入ったりもするわけです」

 なんだか場がじめじめした。俺が口を挟むといつもこうだ。


 しばらく四人でもくもくと肴をついばんでいた。俺が注文したエビピラフはブラックタイガーがゴロゴロ入っていて旨そうにみえたがエビに下味が付いておらずなんだか味気ない。なので御飯に付いた塩味でエビを頂く。

 エビが食べたくて頼んだのに、御飯をおかずにエビを食べている気分になった。これはいけてない。生徒に先生が勉強を教わっているようなものだ。まるで俺じゃないか。

 

「雲母ちゃん、今日はずいぶんおしゃれだね」

「いや、ほんとほんと」

「え? そんなことないですよぉ」

 アイボリー色のフェミニンなフレアブラウスはウエストにピンクベージュのリボンがベルトのように巻かれ結ばれていた。花をかたどったレースとタックの入った深緑のタイトスカートもライトグレーのパンプスもいつもの格好とは何か違う。今日は髪を下ろしていて案外きれいなストレートだということも判った。

「今年はオリンピックがあったでしょ。エロス君は何か観ました?」

「球技、柔道、レスリングは観てたな。陸上とか水泳は何が面白いのかさっぱりわからん。今年は卓球の魅力に気付かされた年だった。こうね、相手の玉を卓球台の下でリターンするとね、相手からするとどんな回転が掛かってるか判らなくて困るわけだ。色々と駆け引きが多くて楽しいスポーツだわ」

「ところでさ、いつも社会の窓がいているんだけど……」

「開けているんだ」

「解った……解ったから。……あの、せめて、ブリーフはやめてもらえるかな? もっと地味な色に……」

「えっと……そうですね。伸縮性のある、ボクサー型のって感じですかね。ちょっとスパッ……ツに近い感じ」

「いや、それはブリーフだよね?」

「うーん……ブリーフも多いんですけど、ふたいたいはボクサー型の……」

 おっさんは顔を見合わせた。


 今日はずっと隣に座る雲母の視線が気になっていた。嫌でも視界に侵入してくる。

「ラストオーダーになりますけど、宜しいですか?」

 店員が告げる。

「結構です」

 おっさんAが口を開く。

「今、うちの選手にプロ契約はいません。全員がわばパートタイム契約です。他に仕事を持っている人しかおりません。勝っていくためにも、より魅力的なサッカーをしなければなりません。そうして、来場者様、観戦者様にヴァッフェはすごいぞ。また観たいと思わせるようなサッカーをしなければなりません」

「現在、ヴァッフェは赤字でやっています。親会社が補填しているのが現状です。ご協力を、お願いします」

 二人は突然、頭を下げた。雲母が慌てて顔を上げるよう促している。

 確かにそうだ。育てていく先から他のクラブにすくわれていくようじゃやりがいがない。俺の立場からすれば、いい選手を育てるほかにない。


「我々は寄るところがあるから、あの、エロス君は、雲母ちゃんを送ってってね」

「♪おひげを生やしたおじさんもぉむかしはぁこ~ど~もー」

 おっさん二人はふらつく足取りで夜の街に消えていった。俺の淡い期待はさらさらと崩れてかき消える。


 仕方なく俺は雲母と喧噪の街を歩き出した。落ち込む俺に雲母は何か話しているようだが耳に入らない。俺はいらっとした。

「あのさ、お前さっきから何を見てるんだ?」

 雲母は足を止めた。

「あの、私、のどぼとけが好きなんです」

 俺は前を向いたままのどを触った。なんだかぞわぞわした。リンゴを呑み込んだおぼえはない。勝手にリンゴを突っ込んだのは誰だよ。

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