第43話 弓もストーカー ③

 「

 真っ白な部屋だった。壁と天井からカラフルで太いプラスチックの棒が縦横に張り出しており、異様な光景だ。


「ほい」と、ペットボトルを渡される。中には真っ黒いものがわさわさうごめいていた。

「これぁ……」

 一瞬、ゴキブリかと思って弓は手を離しかけた。大量の、コオロギだ。いやそれでも気持ち悪いけどぁ。


「クジ

 エロスが呼びかけるように声を出す。

 棒を伝って、何かの生き物が部屋の中央に近づいてくる。最初はアライグマかなと思ったが何か違う。ナマケモノにしては小さすぎる。奇妙に大きな爛々らんらんと輝く丸い目、灰色の体。警戒しているのかなかなか近づいてこない。背中にはナメクジみたいな太い線があり、可愛いと言えなくもない。弓的には恐怖感がまさった。


「これはぁ……?」

「うちで飼ってるスローロリスだ。これでコオロギをやってみてくれ」

 と、箸を渡された。

 たっ、食べさせるのかぁ。

 しかしエロスのいうことなら何でも聞くつもりの弓は仕方なく箸でコオロギをはさんでスローロリスに差し出した。スローロリスはコオロギを見つめるとのそのそと小さな腕を伸ばし捕まえ、バリバリ食べ始めた。弓は悲鳴を上げる。そしてふと我に返り、エロスに抱きついた。


「ペットボトルを切って叢に埋めておくと、コオロギがたくさん獲れる。いつもは果物をやってるんだが、本来主食は虫だからな」

 よかったぁ。人殺しじゃなかったんだぁ。と安心すると同時に。

 こんなに弓が引っ付いているのに。エロスはまるで意に介さなかった。犬にでも構われてるみたいに意識されてない。


 やっぱり、そうかぁ。

 コーチはくだんの事件で、おっぱいが大きな子にその……反応したと言っていたぁ。

 弓みたいなちっぱいじゃダメなんだぁ。


 炭水化物をたくさん摂って太ろうとしたけど、ダメだった。脂肪は腹について、せるときは胸から痩せた。スタッフなんかは、食べたものが片っ端から胸にいくんだろうぁ。


「あの、体触って、いいぁ?」

 もう触ってるじゃないか。とは思ったが。

「好きにしろ」

 弓は指を小刻みに動かしながらエロスの体をまさぐった。ああ~筋肉の厚みがたまらないぁ。太ももの張り、お尻すら筋肉質。

「お前、俺のことが好きなのか?」

「うんぁ」

「俺のどこがいいんだ」

「声ぁ。低音がね、子宮に響くのぁ」

 エロスはトロールの糞を二三個頬張ったみたいな顔をした。

 欲張りなエロスはこうも考える。子宮とやらが俺にあったらもっと男を好きになれるのだろうか。


 もし、弓が男だったら、コーチは弓に惚れてくれるのかなぁ。いややっぱり弓は女としてコーチに愛されたいぁ。

 エロスは、飼い主にしつこくいじられ過ぎて不機嫌になった猫のように身じろぎすると、クジャの部屋を出て行ってしまった。 


 エロスはPCの前に座った。

 弓のような残念な子を見て、改めて覚悟が決まった。JFAのホームページにアクセス。

「うおっ! 申込期限今日までかよ!」

 やっぱり、迷う。でも弓が傍らにいることで、ほんの少し、背中を押してもらった。

 必要事項を書き込んで。JFAのIDを取る。ああ、もうなるようになれ!

 公認C級コーチ養成講習会への参加を申し込んだ。


 お腹がすいたぁ。なんか食べておけばよかったぁ。

 コーチは弓に構わずサッカーを観ていたぁ。ネイマールがロビングパスを送ると走り込んだメッシが真後ろから来たボールをハーフボレーぁ。キーパーとニアポストの間に叩き込むぁ。セルティック相手に先取点を挙げたぁ。コーチは笑ったぁ。

「凄すぎるわ」

 落胆と満足を背負って、「んじゃ、帰るねぁ」と声をかけた。

「おう」


 ああ、そうだぁ。自転車のところに戻らなきゃぁ。

 階段を降りて、さみしい夜空の下をくぐり抜けていく。

 一歩一歩、冷えたアスファルトが弓を殴りつける。

 歯を食いしばっていたけど、無理だった。

 声を上げて、泣き出した。

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