第5話 スペース 前編

 俺がサッカーの試合を観戦すると、まだ幼い三浦は液晶画面を転げ回るボールに飛びかかるのが日常になった。

 ああ、言ってなかったと思うが三浦は生まれて八ヶ月ほどの猫だ。

 とりあえず今期が不作でよかった。甘々と稲妻とplanetarianぐらいしか観るものがなかったからな。


「わけがわからん」

 計二十二人もの選手が密集し、散開しあちらこちらでシャツをつかみ合って奇妙な動きを繰り返している。どうやらそれはオフサイドにるところが大きいらしい。中学、高校でサッカーの授業はあったが線審などいるはずもなく今までそんな面倒なルールに縁はなかった。


 平日の午後六時から二時間は俺の仕事の時間だ。俺の仕事は練習風景を傍観するぬいぐるみになることだ。それでバイトよりはいい金になるってんだから悪くない。

 ほう。

「お前、すごいシュート打つな。体は細いのに。体幹がしっかりしているんだろう」

「ふふふぁ」

 無回転シュートってやつだ。ボールが不規則な動きをする。ノートをめくる。

「弓か。可愛い名前だな」

「ふふぁ。コーチはぁ、この辺にお住まいですかぁ?」

「ああ、その辺の百貨店に上がってるアドバルーンの中に住んでるよ」

「ええぁ!? そうなんですかぁ? すごいですぁ!」

 その目が正面から俺を捉えている。俺の言うことをどこまで信じるだろう。地獄を見せてあげたい。世の中には悪い奴もいるんだぜ?


 午後八時。練習が終わるとグラウンドの照明が消え、そこにたかっていた虫達のお祭りも終わる。

 俺は練習後に日誌を書くことを義務づけられていた。あることないこと書き殴る。おっさんAおっさんBがまだ働いているというのに毎日速攻で帰るのはさすがにまずいかと思い至った大天使並みに心優しい俺は、目についた空っぽの桃缶×2に穴を開けひもを通して缶ぽっくりをこしらえた。そいつに乗ってひもをぎゅっと握り、闊歩闊歩カッポカッポ言わせながらクラブハウスを出る。

 シャンプーの香りが鼻をなでた。

「あ、フランベルジュちゃん、これからみんなでラーメン食べに行くんだけど一緒にどう?」

「わたくしは結構です」

 俺があまりにも何もしないものだから選手は毎回シャワーを浴びた後、自主的に反省会なるものを始めた。なるほど、親が無くとも子は育つとはこの事か。そんでちょうど反省会が終わったところのようだ。

 ブレザー姿のフランベルジュは自転車にまたがると暗闇に消えた。

「ああ、闇の手がわらわを慰撫する! 月の存在が恨めしい。夜空を曇らせているわ」

 相変わらずとんがり帽子に外套を着込んだスタッフはどうやら夜型人間のようだ。時間が深くなるごとにテンションが上がる。

 俺はかぽっかぽっと間抜けな音をさせ道路に出た。選手達の迎えの車が列を成し、フロントライトを幾重にも投げかける。親に見つかると面倒なので缶ぽっくりを急ぐ。敷地を出てからズボンのチャックを上げた。


「やれやれ、ひどい目に遭った」

 最近、下北に不審者が出没しているらしい。ひどい話だ。で、パトロール中の警察官が缶ぽっくりの俺に声を掛けてきた。当然、俺は逃げる。みんな知っての通り、缶ぽっくりを履いたまま警察官の追跡をかわすのは容易じゃない。

「時間がないんだよ……」

 もうじき試合がある。そしたら采配をせにゃならん。俺は開幕して間もない欧州主要リーグの試合とJリーグを観戦する。Rレアルマドリーとセルタ、横浜と鹿島のゲーム。熱い。


 Rマドリーの監督、ジダンの名は俺でも知っていた。頭突きで。

 今の俺と同様、下部組織で監督をしていたようなので下部組織の優秀な選手については知り尽くしていたのだろう。そこから選手を一軍に引き上げ、戦力として使いこなしている。選手を買うことなくお金を使わずに現有戦力を活かしきる。優秀な監督かもしれない。横浜はカウンター時の齋藤学の躍動が目についた。走力がありドリブルもまずまず。DFが少ないうちに1対1を挑まれると守る方は苦しい。

「似てる……か」

 憶えなきゃならないことは山のようにあった。


 そしてついに彼女は言った。

「コーチは何しにここに来てるんですか」

「まったくだな」

 こうなったらなるようになれ。やけっぱちになって一旦、皆を集める。

「俺には特にサッカーの経験がない。学校の体育だけだ」

 ざわつく。俺は続けた。

「誰か俺と1 on 1をしよう」

 皆が顔を見合わせる。ぴっと手が挙がった。

「お前が来ると思ってたよ」

「ルールは?」

 フランベルジュが立ち上がると歩み出る。

「俺がゴールを決めたら俺の勝ち。俺は素人だ。そんなもんでいいだろう」

 久しぶりに触ったボールは、そりが合わない女みたいに跳ねた。俺はメッシになれそうもない。そうしてセンターサークルにボールを置いた。


「準備ができたら言ってくれ」

「いつでもどうぞ」

 フランベルジュはシュートを打たれないよう、ボールににじり寄ってから言った。

「おっし。ではスタート」

 俺はボールを蹴り出した。ボールが浮き上がり、フランベルジュの右を抜ける。フランベルジュはすぐに反応、すかさず追いかける。しかし俺は身を躍らせボールに足を伸ばすとそのまま疾走し、ゴールに突っ込んだ。

「もう一度、やるか」

「はい」

 俺はボールを元の位置に戻した。

 フランベルジュは少し、俺から距離を取った。

「始めるぞ」

 俺はつま先にボールを引っかけ、持ち上げた。ふわっとしたボールがフランベルジュの頭上を抜ける。わずかに見えた彼女の目は明らかに狼狽していた。振り返ってボールを追う。俺は悠然と走り始め、フランベルジュに追いつく。フランベルジュは身を寄せ進行方向を塞ごうとするが俺にはじき飛ばされる格好になった。

「もう一度、お願いします」

「うん」

 フランベルジュはボールに触れるか触れないかぐらいの位置に立った。俺は苦笑した。

「行くぞ」

 右足を伸ばす。革靴がフランベルジュのすね当てシンガードをかすめる。そして俺はボールを引き寄せ、反対側のゴールに向かって蹴った。そのまま追う。フランベルジュも追走してきた。

 相手が一人のドリブルは、快適だ。下手くそな俺でも、何とかなる。

 スピードの差で、フランベルジュと少し距離が開いた。ボールを止め、急にターン。そしてまたも前にボールを蹴り出した。こちらにダッシュしていたフランベルジュは反応できず。俺は走り出してフランベルジュを抜き、ボールに触る。

「負けました」

 無感情に、フランベルジュは言った。

「お手数をお掛けしました」

 フランベルジュの目は地獄でも覗いてきたように沈んでいた。こんな余興でも彼女は全力だったのだろう。

 その高潔さにはちょいと心を打たれる思いがした。

 なるほど、ちょっとしたものだな。


「見ての通りだ」

 生まれて初めて俺は指導らしきものを行う。

「俺には何の技術もない。でもスピードがある。スピードさえあれば簡単に点が取れる。広大なスペースがあればスピードのある奴が偉い」

 なんだか画面端が重たい。奴だ。フランベルジュの体から真っ黒な火花がバチバチ言ってる。俺はため息をついた。

「一旦、シャワーを浴びてこい。フランベルジュ、後で俺も洗ってくれよなぁ。頼むよ~」

 フランベルジュはきびすを返し、クラブハウスに向かって歩いて行く。

(真顔だ)

(……いつもこういうことさせてるってこと?)

 ささやきが聞こえる。もしかしたらドエロいセクハラコーチだと思われたかもしれない。

 おお! ひどく微妙な空気だ。俺を軽蔑する目がざくざくと俺に突き刺さる。

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