サン・エタンセルに会いに

カイリ

第1話

 かすれ声のような物寂しいヴァイオリンの音色。それを笑うかのような手回しオルガンの軽快な旋律。ちょっと間の抜けた表情の木馬が子どもたちを乗せてごとごとと廻る。絶え間ない歓声がそこかしこで上がる、移動遊園地はいつでも楽園だ。秋の乾いた風が人々の間を通り抜け、それは甘く香しい焼き菓子の香りも運んだ。

 鼻をくすぐる焦がし砂糖の匂い。その香りに誘われた人々が次々と買い求める焼き菓子。丸く平べったいそれは、表面に砂糖とバターがたっぷり塗られている。子どもにせがまれた父親が屋台の主人に貨幣を渡すと、小さな篭に焼き菓子を何枚か盛って差し出される。子どもたちは大喜びで父親の周りを飛び跳ねている。そんな子どもの横を、ひとりの少女が通り過ぎた。

 淡い色の端切れを何枚も重ねた風変わりなスカートに、裾がぎざぎざの上着。くすんだ亜麻色の髪に男物のハットをかぶったその姿恰好は、人々の目を引いた。大道芸の娘だ。彼女はかさかさに乾いた唇を開き、鳶色のつぶらな瞳で焼き菓子を見つめた。と、お腹がきゅうと鳴き、両手で押さえる。十歳くらいのまだ幼い少女は、眉をひそめて唇を引き結んだ。

「いくつ欲しい?」

 不意に声をかけられ、ぎくりとして振り返る。背が高い、細身の青年。少し癖のある金髪に白い肌。目つきは鋭いが、何より目を引くのは身にまとった黒いローブだ。青年は声をかけたきり、口を閉ざしている。少女の表情が強張り、「大人の目」に変わる。

「たとえ司教様でも、施しは受けない」

 幼くも固い声色に青年司教の目が細められる。彼は少女を追い越すと屋台へ向かった。主人から焼き菓子を一篭買い受けると、再び少女に歩み寄る。高い背を屈め、篭を差し出す。香ばしいアーモンドの香りに否が応でもでも食欲をそそられる。それでも警戒をゆるめない少女は、大きな瞳で司教を見上げた。彼はにっこりと微笑んだ。

「施しが嫌なら、対価にすればいい」

 その言葉に、少女はかすかに首を傾げた。


 内陸の厳しい冬が明け、タンドレス王国の都プランタンにも待ちに待った春がやってきた。木々に花が咲くように、街は華やいだ装いの人々で溢れる。そんな陽気に背を向けるように、屋敷の一室に閉じこもるひとりの少年がいた。

 マホガニーの重厚な書棚を前に立つ少年。書棚のガラス戸の奥には、色鮮やかな結晶の数々がひっそりと輝きを放っている。鉱物標本だ。石のひとつひとつを見守る少年の眼差しは愛情に満ち溢れている。しばし黙って石たちを見つめていた彼は、手前に置かれた石を取り上げた。母岩に群がるように黄緑の粒がびっしりと張り付いている石だ。落とさないように慎重に窓際の机に向かい、顕微鏡の脇へ置く。小さなナイフで黄緑の粒をほんのちょっと削り取り、薄いガラス版に乗せ、顕微鏡に取り付ける。白い鏡筒に微細な透かし模様が施された顕微鏡は、まるで美術品のようだ。春の陽光を頼りにレンズを覗き込む。そこに広がる無限の光。黄緑だと思っていたその鉱物は、レンズ越しに見ると緑や紫、赤や黄といった様々な光で満ち溢れている。熱心にレンズを覗き込む彼の横顔は真剣そのものだ。清流のように涼やかな青い瞳が印象的に光る。派手さはないものの、上質で洗練された服装は彼が幼くも家柄の良い人間だということを示している。

 と、不意に背後から扉を叩く控えめの音が響き、ぎくりと体を震わせる。

「……坊ちゃま、旦那様が」

 小間使いの声だ。息をついてから席を立つ。と同時に扉が開く。やってきたのは上機嫌な男。

「アルフォンス、勉強熱心だな。どうだ。気分転換に出かけないか」

「……お父様とですか」

 あからさまに嫌そうな顔つきをする息子に、男は機嫌を損ねることなく笑い声を上げる。

「シュゼットも一緒だ。ほら、おまえも噂は聞いているだろう。オレオル聖堂に行きたいというから、連れていってやろうと思ってな」

 確かに、噂なら耳にしている。アルフォンスはめかし込んだ父を見上げた。

「奇跡を起こす修道女がいるという、オレオル聖堂ですか」

「そう。聖女サンエタンセル。シュゼットがぜひ一度見てみたい、とな」

 どうだ? と父親は茶目っ気たっぷりな瞳で返事を促す。アルフォンスは息をついた。

「お母様がいらっしゃるなら」

 親子は連れだって部屋を出ると階段へ向かった。踊り場からホールを見下ろすと、出かける準備が整ったとみえる母親が小間使いにあれこれと指示を下している。いつも綺麗な身のこなしの母だが、今日は特に華やかに見える。やがてこちらに気付いてぱっと笑顔になる。

「アルフォンス! よかった、来てくれるのね」

「はい」

 シュゼットは嬉しそうに降りてきた息子の手を取る。

「三人で出かけるのは本当に久しぶりだわ。ああ、楽しみね。どんな奇跡が見られるのかしら」

 三人が玄関を出ると馬車が用意されている。執事や小間使いたちは深々と頭を下げて送り出した。

「いってらっしゃいませ、旦那様」

 主人、アランブール伯ファビアン・デスタンは笑顔で手を振った。

「しかし、そんなに運良く奇跡が見られるのでしょうか」

 少し不審げに尋ねる息子に、ファビアンは得意げな顔つきで答える。

「どうやら二か月に一、二度の割合で奇跡が起こるらしい。今日の月祈祭あたりが『狙い目だ』と新聞にもあった」

「どんなに素晴らしい聖女様なのかしら」

 父の隣で目を細め、しみじみと呟く母の姿を見ていると胸がせつなくなる。アルフォンスは小さく息を吐いた。父のファビアンは「公私にわたって」女性讃美者だ。浮名を流し続ける父を、何も言わずに甲斐甲斐しく支えてきた母の姿を見て育ったアルフォンスは、幼い頃からもやもやした思いを抱え続けてきた。だが、内務卿を拝命している父は最近悩み事を抱えているらしい。屋敷でも思い詰めた表情で考え事をしている姿を見かけることが多い。気晴らしをしたいのは、むしろ父の方かもしれない。

 馬車を走らせてから三十分ほどすると、聖堂のドームが見えてくる。オレオル聖堂は王都プランタンの下町に位置しており、国内に点在する小さな聖堂のひとつに過ぎない。これまではまったくの無名に等しかったが、「奇跡を起こす聖女」の噂のおかげで、聖堂の周囲は人だかりができている。

「やぁ、大盛況だね」

 馬車を降りながらファビアンが周囲を見渡す。平民の姿が多いが、ファビアン一家のような貴族の姿も少なくない。それだけ人々の話題をさらっているのだ。アルフォンスは聖女の影響力に感心しながら正面玄関ファサードをくぐる。

 小さな聖堂は、詰めかけた人々でごった返していた。正面の内陣には侍祭の少年らが慌ただしく儀式の準備をしている。月祈祭は、ヴァン・エール教が定める膨大な季節行事のひとつで、月毎の守護聖人に感謝を捧げるものだ。四月の守護聖女アポリーヌの象徴であるパンジーが祭壇を飾り、聖堂の中にも春が訪れている。

 狭い堂内は期待と興奮でざわめきに満ちていた。商家の若い娘たちがまるで芝居の幕開きを待っているかのようにおしゃべりをしている様子に、アルフォンスが思わず肩をすくめる。そうするうちに鐘の音が鳴り響き、人々が小さな歓声を上げると慌てて居住まいを正す。堂内は静かになるものの、潮騒のような抑えたざわめきが続いている。やがて、修道士をつれた司教が祭壇に現れる。存外に若く精悍な顔つきをした司教に、若い娘たちが小さく溜息を漏らす。

「まぁ、ずいぶんとお若くて素敵な司教様だこと……」

 くすんだ金髪に思慮深い印象を与える灰色の瞳。アルフォンスの目から見ても美男子と言えるだろう。まだ三十にも満たぬように思える青年司教は、恭しく両手を合わせると、集まった教徒たちに一礼した。

「これより四月の月祈祭を執り行います。皆に神の恵みが永久に降り注ぎますよう……」

「幸あれ」

 皆が手を合わせて呟き、粛々と頭を垂れる。司教が神への感謝の祈りを捧げると、奥からパンジーの花束を手にした修道女たちが静々と現れる。人々のざわめきが高まる。

「どのお方がエタンセル様かしら」

 アルフォンスの隣でシュゼットがそわそわと視線を彷徨わせる。と、主人の背後に控えていた従者がそっと身を乗り出す。

「あの娘です。一番幼い……」

 四人の修道女のうち、最後に現れた小柄な少女。人々の視線がその娘ただ一人に注がれる。

「まぁ、まだあんなに小さいなんて……」

「多くの修道女と同じく、身寄りのない孤児だそうで」

「オクタヴィアン、よく調べてきたな」

 ファビアンが感心して褒めると従者はかしこまって頭を下げる。アルフォンスは目を細めて祭壇の前で跪く少女を見つめた。飾り気のない純白の祭礼服。頭布ウィンプルで髪をきっちりと隠し、まるで陶器の人形のようなあどけない娘だ。

「春の訪れを皆で祝い、聖アポリーヌへ感謝の祈りを捧げましょう」

 司教の言葉に皆が深々と一礼し、祈りを斉唱する。

「聖アポリーヌ、春を謳う。木々に魂の息吹を吹き込み、輝き給え……」

 アルフォンスは祈りを口ずさみながらも手を合わせたまま祭壇の少女を見守った。軽く目を閉じ、一心に祈りを詠唱する姿はどこかいじらしかった。まだ十歳かそこらではないのか。

「春の芽吹きが我らの糧と繋がるよう、太陽と月の恵みが大地へと降り注がんことを願う」

 春の祈祷は終わった。修道女たちが順番に花束を祭壇に捧げてゆく。祭壇には聖アポリーヌの銅像が据えられており、集まった教徒たちを無言で見下ろしている。皆が黙ってその様子を見守っていた、最中。

「春はまだ来ぬ」

 不意に言い放たれた声に修道女たちが驚いて振り返る。困惑の声が上がる中、皆は声の主に注目した。

「春の息吹が届かぬ場所がある」

 ファビアンは眉をひそめ、自慢の口髭を撫でながら腰を上げかけた。皆の視線を浴びた少女、エタンセルは花束を胸にしたまま目を閉じ、表情のない顔つきで言葉を続ける。

「……神は嘆いておられる。まだ、春の訪れのない迷い子がいる」

「おお……!」

 皆が口々に感嘆の声を上げる。シュゼットは興奮気味に隣の息子の手をぎゅっと握りしめた。

「お母様、落ち着いて」

「ええ、大丈夫よ……!」

 修道女たちが困惑した様子で司教を振り仰ぐ。司教が眉をひそめてエタンセルに歩み寄った時。唐突に彼女が花束をぼとりと落とす。その場は静まり返り、皆が息を呑んで凝視する。花束を落とした両手はそのまま胸の位置で留まっている。目に見えない何かを大事そうに抱えているかのような手つきに皆が不思議そうに見つめる。

「……争い、飢え、傷つく者に神は嘆いておられる」

 エタンセルの声色は少女というより、大人の女性のようにしっかりとした口調だった。皆がその言葉に耳を傾けている最中、不意にエタンセルの姿が光りを帯びる。まるで、後光でも差しているかのように。

「おお……!」

 そして、両手がぴくりと揺れた瞬間。突然、両の手のひらから鮮血が滴り落ちる。堂内がどよめきに揺れる。

「エタンセル!」

 司教が肩を掴むと、エタンセルは目を閉じたまま顔を仰向けた。

「神は仰せです。血を流し、涙を流すのは我で充分だと」

「聖女のお言葉だ……!」

 教徒のひとりが声を上げ、皆が口々に祈りの言葉を上げる。アルフォンスは気絶せんばかりに驚愕する母の背を必死に撫でた。

「地上に哀しみがなくなるよう……」

 その言葉を最後に、エタンセルはがくりと膝を突いた。

「エタンセル……、エタンセル!」

 修道女たちが慌てて駆け寄り、司教は手を合わせて立ち上がった。

「聖アポリーヌのお言葉でしょう。聖女に感謝を……! 神に祈りを!」

 皆は手を合わせると口々に聖句を口ずさんだ。

「……なるほど、これが奇跡か……」

 呻くように呟く父に、アルフォンスが振り返る。

「大丈夫なのでしょうか……」

「うむ。聞いた話では、エタンセルの起こす奇跡は、ああいったお告げのようなものが多いそうだ。恐らく、聖人が一時的に降臨されるのだろう」

「素晴らしいわ」

 シュゼットが目頭を押さえながら囁く。母は元より信心深い。このような奇跡を目の当たりにし、感極まったのであろう。

「神はこうして私たちを見守ってくださっているのだわ……!」

 エタンセルは修道女によって礼拝堂を運び出され、皆は拍手でその姿を見送った。人々は喜捨盆に集まり、次々と貨幣を投げ入れた。銅貨や銀貨、時折金貨の煌めきも目に入る。

「……すごい金額だ」

 アルフォンスは目を丸くして呟いた。


 聖堂から僧坊へ向かう廊下では、ふたりの修道女がよいしょ、よいしょと声をかけながら聖女エタンセルを抱えていた。

「ちょっと、重くなったんじゃないの? マノン!」

 年若い修道女が呆れたように叫ぶと、ぐったりしていたはずの聖女エタンセルがむくりと顔を上げる。

「太ってないもん」

 体を起こして少女を立たせ、修道女たちはやれやれと腰をさすって息を吐く。

「おまえたち、お疲れだったね」

 ゆったりした体格の修道女が声をかけ、僧坊へと導く。修道女は少女の手を引いて椅子に座らせると、手のひらの鮮血を手拭いで拭き取る。

「血糊の量がちょっと多かったんじゃないかねぇ」

 なかなか拭き取れない血糊に修道女がぼやくが、少女はそんなことにはお構いなく、「お腹すいた」と言い放つ。

「服を着替えてからよ」

「お腹すいた!」

 少女は頬を膨らせて叫び、修道女は困り果てたように溜息をつく。

「もうちょっとお待ちよ、マノン」

 〈マノン〉と呼ばれた聖女エタンセルは、口をへの字に曲げて修道女を真っ直ぐに射すくめる。その歪んだ唇を修道女がちょいとつねる。

「口を尖らすんじゃない。元に戻らなくなるよ」

 そんなやり取りをしている彼女たちの背後から、「マノン」と声がかけられる。振り返ると、戸口に先ほどの青年司教が皿を持って佇んでいる。皿の中身を見たマノンがぱっと笑顔になる。

「ブリオッシュ!」

 椅子を蹴って立ち上がると喜びの声を上げながら皿に飛びつく。ブリオッシュは真ん中が盛り上がった菓子パンで、マノンが大好きなリンゴのジャムが塗られている。

「食べすぎには気を付けろ。太った聖女など、目も当てられん」

 司教の乾いた言葉に気にする風もなく、マノンは夢中でブリオッシュにかぶりついた。その様子に修道女は息を吐くと、グラスにミルクを注いでテーブルに置く。

「ありがとう、ポレットさん」

 マノンは素直に礼を言うとにっこりと微笑んだ。実に美味しそうにブリオッシュを食べるマノンに、ポレットは頬についたジャムを指先で拭ってやる。そして、僧坊の外が少し騒がしいことに気付いて顔を上げる。

「ああ、疲れた! 終わりましたよ、司教様!」

 ぼさぼさの頭をした男が侍祭の少年と喜捨盆を抱えて僧坊へやってくる。

「ざっと計算して三千リーヴルはある」

 その額に皆が歓声を上げる。が、司教はおもむろに懐から分厚い帳簿を取り出すとページをめくる。

「アゼマ通り乳児院が雨漏りをしていたな。修繕に回せ」

「かしこまりました」

 重たい喜捨盆を運んできた侍祭の少年がマノンのブリオッシュを見つけて声を上げる。

「いいな、ブリオッシュだ!」

 マノンは皿のブリオッシュを取り上げると少年に差し出す。

「あげる」

「わぁ、やったぁ!」

 少年は笑顔でブリオッシュにかぶりつくと声を上げながら僧坊を出ていった。

「アゼマ通りの乳児院は床も危ないんです。ついでに修理をしておきましょう」

「頼んだぞ、ガスパール」

 ぼさぼさ頭の男、ガスパールは喜捨盆の貨幣を選り分けながら大きく頷く。そして、相変わらずご満悦の様子でブリオッシュを食べ続けているマノンに笑いかける。

「たいした演技力だよ、マノン。大女優だな。聖女エタンセル様様だ!」

 ブリオッシュにかぶりつこうとしていたマノンは動きを止めると、ガスパールににっと微笑みかけた。

「あなたの仕掛けがなければ、こううまくはいかないわ」

「まぁな。この天才ガスパール様がいないとな!」

 まんざらでもない調子で嘯くガスパールだったが、マノンはいたずらっぽい目つきで司教を見上げる。

「司教様はもうちょっと演技力を磨いた方がいいかもね」

「生意気なことを言うな」

 青年司教はそう言い返しながらも分厚い帳簿に目を走らせる。そこで、扉が忙しなく叩かれた。

「大変です、アリスティード司教」

 入ってきたのは聖堂の経理を任されているアントナン修道士。彼は困惑した様子で落ち着きなくまくし立てた。

「アランブール伯爵夫人が五千リーヴルもの寄付を……!」

 五千リーヴル。皆はぽかんと口を半開きにしてアントナンを見つめる。

「聖女エタンセルの奇跡にいたく感動したと仰せです」

 だが、アリスティードは表情を変えないまま肩をすくめた。

「ご夫君の浮気封じ祈願ではないのか」

「司教」

 アントナンがたしなめるものの、ポレットまでもが眉をひそめて言い添える。

「アランブール伯と言えば、女遊びがお盛んとお聞きしますからねぇ」

「ともかく、莫大な寄付をいただいたことに間違いございません」

「五千リーヴルあれば施薬院の薬を補充できるでしょう」

 ガスパールの申し出に、アリスティードは息を吐きながら頷く。

「そうだな。手配しておこう」

「ねぇ」

 口をもぐもぐさせていたマノンが声を上げ、皆が振り返る。

「私の手品に驚いてくれたのかな?」

「そうだ」

 アリスティードは椅子に座り込んで食べ続ける少女を見下ろした。

「おまえの奇跡に五千の値がついた」

 マノンの顔に嬉しそうな笑みが広がる。

「うふふ。私、がんばるね」

 返事をしない司教に代わり、ポレットがマノンの頭を優しく撫でた。その背後でガスパールが「あれぇ」と声を上げる。

「喜捨盆にこんなもの混ぜ込んで!」

 皆が振り返ると、ガスパールが取り上げたのはくしゃくしゃになった新聞だった。見出しが目に入ったポレットが苦笑を漏らす。

「きっと、縁起物だと思ったんでしょう」

「王子様だ」

 マノンの言うとおり、新聞には男らしい顔立ちの若者が描かれている。

「ローラン王太子殿下の婚約か」

 アリスティードがガスパールの手から新聞を受け取る。真面目で誠実だと評判の王太子ローランは先頃、隣国ネーベル王国のアーデルハイト王女と婚約が成立していた。

「そういえば」

 目を眇めながらアリスティードが呟く。

「アランブール伯は婚約に反対だったんじゃなかったか」

「そうそう」

 ガスパールはしゃがみ続けていた腰を伸ばすと大きく伸びをした。

「婚約を押し進めていたカンテ伯と激しく対立していましたよ」

 アリスティードが読んでいる新聞をマノンが指さす。

「なんて書いてあるの」

「ローラン王子の心を射止めたのは、ネーベル王国一番の美女アーデルハイト姫。って書いてあるのよ」

 読み書きを習い始めたばかりのマノンには読めなかったらしい。彼女はブリオッシュをかじりながらふぅんと呟く。尋ねてみたものの、興味はないようだ。

「美味しかった!」

 マノンはグラスのミルクを飲み干すと満足そうに笑った。


 奇跡を起こす聖女エタンセルは孤児。それは真実ではあるが、真実の一部でしかない。その正体は、マノンという名前の少女。奇跡に見えるそれは手品に過ぎない。人々を魅了するのは彼女の手品によるところが大きいが、その奇跡により真実味を与えているのが、自称天才発明家ガスパールの「演出」である。例えば、今回の奇跡はマノンの手のひらから鮮血がしたたり落ちるというもの。だが、その直前に彼女の姿が光り輝いたのはガスパールが施した演出だ。人々の耳目がマノンに集められている間、窓の外には巨大な燭台と鏡が設置されていたのだ。実に単純な仕掛けだ。だが、マノンの手品と演技にガスパールの演出が加わることにより、奇跡は感動的に披露される。奇跡を目の当たりにした人々は感動し、多くの喜捨を寄せる。オレオル聖堂は潤うが、集められたその金品のほとんどは聖堂区の運営に充てられる。そうでもしないと、下町の貧乏聖堂はやっていけないのだ。

「ねぇ、ガスパール。祭壇の掛け布クロスに仕掛けをして、色が染まっていくというのはどうかしら」

「いいな、それ」

 二人はいつもこうして、人々を驚かせる仕掛けを話し合っている。

「聖母セレスティアル様の青が一番だと思うの」

「それはちょいと金がかかるな……。青の染料は舶来物しかないからな」

「マノン、仕掛けの話もいいけれど、そろそろ勉強の時間よ」

 ポレットの呼びかけにマノンが肩をすくめる。

「はぁい」

 孤児のマノンは読み書きができない。だが、修道女を演じるためにはお祈りも熟知しておかなければならない。聖女という生業もなかなか厳しい。それでも、聖堂の皆から可愛がられて安全な暮らしができているマノンは、今の生活に満足していた。が、その暮らしを揺るがす事件が起きようとしていたなど、今の彼女は知る由もなかった。


 一家揃ってオレオル聖堂の奇跡を堪能した数日後、アランブール伯ファビアンは内務卿として宮廷に赴いていた。執務を終え、貴族たちが集まるサロンへ立ち寄る。ここでのおしゃべりも大事な仕事だ。

「アランブール伯、お聞きしましたよ。ご家族揃ってオレオル聖堂へいらっしゃったとか」

 貴族のひとりから声をかけられ、にっこりと微笑む。

「ええ。妻が是非にと言うものでね」

「先日の月祈祭でしょう。聖女エタンセルの奇跡はいかがでございました」

 エタンセルの名に、周りの人々が振り返る。

「ああ、実に素晴らしかった。聖女のお姿が光を帯びたかと思うと、両の手のひらから鮮やかな血潮が……」

「まぁ」

 貴婦人たちが眉をひそめて声を上げる。

「でも、エタンセルという少女はまだ幼いのでしょう。何だか可愛そうだわ」

 心配そうな表情の貴婦人に、ファビアンは極上の笑みで囁きかける。

「神の言葉を伝える使命を負う者の運命ですよ、マダム」

 端麗な容貌の伯爵に囁かれ、貴婦人たちは嬉しそうにくすくすと笑い声を上げる。

「実際、いたいけな少女の姿に心を打たれ、できうる限りの喜捨を、と通う心優しい人々が後を絶たないようですな」

 貴族のひとりが声を低めてファビアンに囁く。

「お聞きしましたよ。夫人もかなりの喜捨をされたとか……」

 だが、ファビアンは唇に指を当てるとにっこりと微笑んだ。と、背後からざわめきが上がる。皆が振り返ると、ひとりの男が取り囲まれている。ファビアンは目を眇め、微笑が消え失せる。

「カンテ伯、おめでとうございます」

 口々に祝いの言葉をかける人々に、カンテ伯ダミアン・フロベールはにこやかな笑顔を振り撒いた。

「まるで私が結婚するようですね。お祝いならば、ローラン王太子殿下に願いますよ」

「しかし、ご婚約は伯爵のお力添えあってのことでございますし」

 人々は緩みきった顔付きでカンテ伯を誉めそやす。

「ネーベル王国との長い確執も、これで雪解けが期待できますな」

「いかにも」

 歯が浮くような賛辞にカンテ伯は満足げな表情で頷いてみせるが、やがてその視線がある人物を捉える。それに気づいた人々が思わず口をつぐむ。

「アランブール伯」

 カンテ伯は相変わらず笑顔で呼びかけた。当のファビアンは目を細めると唇の端を上げる。ファビアンよりも若干若いカンテ伯は慇懃な態度で歩み寄った。

「お聞きいたしましたよ。オレオル聖堂の奇跡をご覧になられたそうで。まさしく、国の慶事に相応しい縁起物ですね」

 皆は息を呑んで二人を見守った。ファビアンが王太子の婚約に反対し、カンテ伯と激しいやり取りを交わしたことは記憶に新しい。カンテ伯の挑発とも言える呼びかけに、ファビアンは「慶事?」と鼻で笑いかねない口調で聞き返した。

「慶事などではない。不幸の前兆だ」

 穏やかでない言葉に人々は不安げにざわめく。口を開こうとするカンテ伯を遮り、ファビアンは身を乗り出した。

「国王陛下が何と仰せであろうと、私はローラン王太子殿下のご婚約には反対だ」

 周囲のざわめきに動揺することなく、カンテ伯は不敵な笑みを見せた。

「……残念です。まだそのようなことを仰るとは」

「私はこのご婚約を白紙に戻してみせる」

「そんな」

 カンテ伯はついに声を上げて笑った。

「無理でございますよ。それこそ、奇跡でも起きない限り――」

「カンテ伯」

 ファビアンがつかつかと歩み寄ったかと思うと、人差し指を胴衣に突き付ける。

「私はご婚約に留まらず、ネーベルとの同盟は反対だ。断じて!」

 そう吐き捨てると、ファビアンは踵を返した。普段もの柔らかな態度で人々に接するファビアンの怒りに、皆は言葉をなくして見送った。

 サロンを出てきた主人に気づいたオクタヴィアンが慌てて後を追う。

「旦那様」

「腹立たしい……!」

 思わずこぼした呟きにオクタヴィアンは眉をひそめるが、黙って付き従う。宮殿のアプローチから階段を降りる際、ファビアンは腹立ち紛れに飾られた甲冑をステッキで殴りつけ、派手な音が鳴り響く。衛兵が驚いて飛び出してくるが、ファビアンの様子とオクタヴィアンの詫びの表情に黙って見送る。

「お疲れ様でございます、旦那様」

 待たせておいた馬車の御者が恭しく出迎えるが無言で乗り込む。

「……何かございましたか」

 共に乗り込んだオクタヴィアンがおずおずと尋ねる。

「あの生白いうらなり男が……!」

「カンテ伯爵でございますか」

 カンテ伯といえば色白で柔弱な優男という評判だ。

「あの男、最近になってえらく強気に出てきたかと思えば、よりによってネーベルとの同盟を縁戚で実現させようなどと荒技を使うとは……」

 オクタヴィアンは顔をしかめて黙り込んだ。確かに、物腰が柔らかく、おとなしい印象だったカンテ伯がこんな形で皆の話題に上るようになるなど、誰が想像したろう。

「狡猾なネーベルとは、和解はしても同盟など十年早い。それが皆にはわからんのだ」

 ファビアンは黒檀のステッキを神経質に床にこつこつと何度も打ち付けた。

「国王陛下は何と……」

 王の名に、ファビアンはうんざりした様子で天場を見上げる。

「相変わらずだ。陛下はどう進言しても政治に関心を持ってくださらぬ。それに比べ、ローラン王太子は積極的に国政に関わろうとなさっている。それがせめてもの救いだ」

 眉を寄せて顎をさする主を見守っていたオクタヴィアンは、やがて溜息をついてひとり言のように呟く。

「陛下が政治に興味をお持ちになられないのをいいことに、カンテ伯が……」

「そうだ。手っ取り早く、政略結婚で和睦ができればそれでいいと陛下はお考えなのだろう」

「それにしても、何故カンテ伯が……」

「まったくだ……。貴族院議員として目立った業績もないくせに、突然ネーベルとの縁談を取り付けてきた。ネーベルとそれほどの繋がりがあるとも思えん。情報がなさすぎる」

 焦りを感じさせる表情で呻くファビアンに、オクタヴィアンが申し訳なさそうに頭を下げる。

「……お力になれず、申し訳ございません」

 その声色に振り返ると、落ち込んだ様子の従者にファビアンは表情をゆるませた。

「大丈夫だ。おまえはおまえのできることで私を支えてくれれば良い」

 忠実なオクタヴィアンは市井の人々の噂話や流行などの情報を集めてくるのに長けた男だ。だが、政治的な裏事情などには疎い。ファビアンは再び息をつくと窓から街並みを眺め渡した。洒落た装飾の屋敷が目に映りこんでは流れてゆく中、教会の尖塔やドームが現れる。

「……奇跡、か」

 先ほどカンテ伯に投げかけられた言葉が蘇る。奇跡でも起こらない限り、婚約は白紙には戻らない。

「奇跡を起こす算段をつけなければな」

「はい?」

「オレオル聖堂へ向かってくれ」

 怪訝そうな顔つきのオクタヴィアンに、ファビアンは片目を瞑ってみせた。

「困った時は神頼みだ」

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