第13話 【3】ー2

 

「あっ、すみません」

 朱花が転ぶ振りをして、近くにいた同年代らしき女性の手を掴む。朱花の顔には無表情がはりつけられているので、それが演技であると気付かれないかと心配である。

 掴まれた側の女性は突然のことに驚いた表情を見せるが、相手が女性であることに安心し、さらにそれが日本人とは思えないような外見の少女であることに気づくと息を呑んだ。その様子だと、朱花の転倒が真偽であるかなど気にする余裕は無いだろう。

「あの、大丈夫ですか?」

 日本語で謝られたので日本語が通じることはわかっているが、それでも外国語を使うべきか悩む外見である朱花に戸惑いながら女性は気遣いの言葉をかける。

 それに対し朱花は感謝の言葉とともにお辞儀をし、その場を後にした。

「——どうだ、朱花?」

 朱花の行く先で待っていた自分は、彼女に成果の有無を確認する。すると彼女はグッと親指を立てて作戦の成功を伝えた。

「これで三人目ですね。思ったよりも見つかるものです」

 高校近くの住宅街に到着した俺たちは、息もつかずに高校の周囲を巡回し、契約者探しを始めた。

 すると先ほどの女性を含め、二時間ほどで三人もの契約者を見つけることができたのだ。いくら田舎の街だとはいえ、どこにいるかもわからない契約者を探すのは途方もない作業だと考えていたが、朱花の言う通り意外と見つかるものである。

「……もうそのポーズやめていいぞ」

 未だに朱花が親指を立てたままでいたので、そう声をかける。契約解除が成功したときはこのポーズを取るんだぞ、と教えると律儀にそれをするのだから、朱花は素直で良い子である。

「なんか順調すぎて怖いけど……探す場所が良かったのかな?」

 無言で手を下げた朱花は、独り言のように呟く俺の声に顔を上げる。

 自分が即興で決めた作戦はいたって単純。自分が通り過ぎる女性の後ろ姿を凝視し、契約者の証である光の糸を見つければ、その女性に朱花が接触して契約解除を行うというものだ。この作戦に問題があるとすれば、女性を凝視している間の自分は変態そのものにしか見えないという点であるが、自分の傍にいる朱花はそういったことを気にしない女性なのでまだ誰の好感度も下げてはいない。それに朱花とともに歩いているので、俺が女性を眺めていても周りの通行人は誰もとがめようとしないから社会的な死も迎えてはいない。

 つくづく彼女に感謝である。

「見たところ、契約者には高校生ぐらいの年頃の方ばかりですね。祐人さんのこともありますし、相手の悪魔が同じ高校生であることは間違いないでしょう」

 朱花の台詞に俺は頷きを返す。

 俺の交友関係など限られている。その中に悪魔がいる可能性が高いということだったので、相手が高校生であることは十分に考えられた。そしてその説は今日でより強固なものになったであろう。

「もしかすると、今まさにこの高校に悪魔がいるかもしれないな」

 今日見つけた契約者の内二人は、これから部活なのか桃山東高校の制服を身に着けていた。つまり敵悪魔はこの高校との関わりも持つということだ。自分の中学生時代の知り合いの何人かもこの高校に通っているので、悪魔が桃山東高校生である可能性はある。

「さすがに校内に立ち入って探すわけにもいきませんが……もしそうならこの場を離れたほうが良いでしょうね」

 あごに手を当て、何かを考え込みながら朱花はそう言う。

「今悪魔と出会うのは不味いか?」

 朱花が懸念していることが何となく理解できた自分は、声を潜めて彼女に尋ねる。

 朱花が考え込むほど事態は深刻なのだろうかと考えると、緊張を覚えずにはいられない。

「いえ、この場で戦いになると周りへの被害が出ると思いまして」

 相手の悪魔との戦いを避けるか否かを考えているのだとばかり思っていたが、彼女が考えていたのは周囲への配慮についてであった。

「たしかにここで戦うのは不味いだろうけど……なんか朱花、余裕そうだな」

 戦いのことではなく、それにより生じる被害の心配ができるほどの余裕がある朱花に対し、自分は感嘆かんたん半分、呆れが半分といった気持ちを抱く。ただ楽観的なだけなのか、それとも戦いによほどの自信があるのかはわからない。

「そうですか? 私も構えてはいるのですが……しかし生半可な相手には負けないとは思います」

 どうやら後者であったらしく、朱花は何の感情も見せずにそう言いのけた。

 自信があるなら、胸を張るなどもっとわかりやすく表現してくれればいいのだが、彼女にそれを求めるのは酷であろう。

「そんなに朱花は強いのか? 『譲渡ギフト』の魔法って戦闘向けとは思えないんだが……」

 本音を言うと、朱花の戦闘に自分はそれほど期待してはいなかった。だからこそ、こちらが先手を打てるように契約者探しを提案したのだ。

 だが、朱花に対する自分のその評価は間違いなのかもしれない。

「『譲渡』の魔法はたしかに直接戦闘に向いていませんが、しかし私には通有魔法がありますので」

 通有魔法、といっても戦闘に使えそうなものは強化魔法ぐらいしかなかったが、朱花はそれに自信があるのだろうか。

「固有魔法の代わりに、通有魔法を戦闘用に磨いたって感じか」

 自分がそう言うと、朱花は首を縦に振ってその言葉を肯定した。

「はい。それに加え、近接戦闘用の体術も香織さんから教えていただいたので、戦闘はバッチリだと思います」

 朱花がここまで言うのだから、彼女を頼ってやろうという気に少しはなる。だが、彼女の「バッチリだと思う」という言い方に一抹の不安を抱いた自分は、念のため確認をする。

「じゃあ今までも悪魔との戦いで勝ったりしてたのか?」

「いえ、戦ったことはありませんが」

 ——正直に答えてくれる朱花が俺は大好きです……!

 と、現実逃避しているわけにもいかないので朱花の頭を両手で掴みながら説教をしてやる。

「朱花〜、戦った経験もないのになんで自信満々なんだよ〜。楽観的過ぎるだろ〜」

「痛い、痛いです祐人さん」

 指に軽く力を込めながら朱花の頭を左右に揺さぶる。

「朱花、お前は利口だけど時々馬鹿っぽくなるぞ」

 俺が朱花の頭から手を離すと、彼女は乱れた髪を整えながら自身の頭をさすった。

「馬鹿とは失礼ですよ。祐人さんより年下ではありますが、同年代でも教養は積んできた方だと自負しています」

「そういうことじゃねぇんだよ」

 だんだん朱花に対する態度が、凌介に対するそれと変わらないものになりつつあることを自覚しながら、祐人は見上げる朱花と視線を合わせる。

「とにかく実績がない以上、朱花の戦闘力を当てにするわけにはいかないな。高校近辺が危ないなら、すぐに離れるべきだ」

 計画の変更を自分が言い渡すと、朱花はなぜか俺からしせんを逸らして口を開いた。

「そのことなんですが、祐人さん」

「なんだ?」

「どうやら、少しばかり遅かったようです」

 俺が朱花の視線の方向へ身体をひるがえすと、そこには——。

 筋肉モリモリマッチョマンの変態がいた。

「うおっ!?」

 車は通れないほどの幅の路地に、その男は佇んでいた。

 刈り上げた茶色の髪を春風になびかせる男の身長は二メートル近くあるだろう。朱花はもちろん俺ですら見上げるほどの男の腕は俺のウエスト並みに太く、太ももなどは丸太を彷彿ほうふつとさせる。しかしその男の特徴は分厚い胸板でも、ゴリラのような筋骨隆々の身体でもなく、なぜか黒いパンツ一枚というその姿である。

 自分ほどの変態が、「変態」と評することに一分の迷いも見せなかったのはこれが原因だ。

「……ァ、ガ」

 男は動物の鳴き声のような呻きを漏らし、一歩前に進んだ。その顔には、体躯に似合わない無邪気な笑みがはりつけられている。俺たちのことを遊び相手か何かだとでも思っているのだろうか、その笑みを崩さぬまま彼はこちらにゆっくりと近づく。

 男の体躯たいくでは住宅街の路地は狭苦しいだろうが、しかし人目の無い路地裏だからこそ変態的な格好ができるのだろう。男は誰にも止められず、路地を進んでいた。

 そんな現状分析兼現実逃避を済ませた自分は、「人気ひとけが無い」という現状からようやく気付くことができた。

 これが、悪魔の襲撃であるということを。

「朱——!」

「祐人さん、後ろに!」

 自分が声を出そうとした瞬間、朱花が俺の腕を引っ張り後ろへと退がらせる。それと同時に彼女は前に出て、男のいる方向へと走り出した。

「はああっ!」

「オォッ!!」

 戦闘開始の合図はゴングでもほら貝でもなく、両者が吐き出す裂帛れっぱく気合きあいであった。先ほどまでのおしとやかな雰囲気からかけ離れた圧力を朱花からは感じ、それ以上の凶暴性を男は全身で表現している。

 朱花と男は互いに疾風の勢いで接近した。拳を打ち出したのは同時。しかし男と朱花には身長差があり、必然男のリーチの方が長く、拳は先に朱花の身体に届くだろう。

 だが朱花はそれを読んでか、自分の拳を砲丸のような男の拳に正面から打ちつけた。

「————ッ!」

 肉体同士がぶつかり合ったとは思えないほど硬い音が鳴り響き、自分は言葉にならない声をあげる。

 男の拳は朱花の両拳を包み込めるのではないだろうかというぐらい大きく、さらにその拳はそこらへんの住宅の壁よりよほど頑丈そうである。そんな拳と呼ぶことを躊躇うほどの鈍器と朱花の拳の衝突の結果は、驚くことに互角であった。朱花の拳も男の拳も停止し、現在は互いに力で押し合っている状態だ。

「グッ!」

 両者は飛び退って一度距離を取る。朱花は俺の傍から離れないようにするため、そして男は朱花のような少女が自分と同等の力を有していることに警戒したためだ。

「祐人さん、決して前には出ないで下さい」

 視線を男へと向けながら、常よりもさらに抑揚よくようの無い声で朱花が話す。朱花のその姿から余裕の無さを感じられたが、しかし彼女はまず俺を気遣う声をかけてくれた。

 だが突如非日常に叩き込まれた俺は歯の根が合わず、朱花にまともな返事をすることができなかった。

「ギギャ――ガアアァ!!!」

 男の、咆哮ほうこうにも似た雄叫びは、周囲の建物を震わせるほど力強かった。

 朱花を、全力を出すべき『敵』と認識したのだろう。彼の顔にはすでに笑みは無く、代わりに敵意のみがそこには表れていた。

 すぐに駆けだした先ほどとは異なり、二人は構えを取って静対する。

 右利きの朱花は左手を顔の高さに、右手を胸の高さにおいている。腰を高く構えているのは、蹴りを放つためか。そこから推測するに、朱花の体術は空手やキックボクシングに近いものだろう。

 対する男は、獲物を狙う獣を連想させるように深く腰を落としている。そこから繰り出されるのは、跳躍か突進の二択であろう。獰猛な男の構えからは、朱花には無い凶暴性が感じられる。

 狭い路地に、濃密な戦いの空気が立ちこめる。敵意や殺意、緊張が入り混じった空間。ただの人間に過ぎない自分は、朱花の後ろで立っていることすら気力を削られる。

 その空間で、先に動いたのは敵の男であった。

「ガアッ!」

 獣じみた雄叫びをあげて、男が高く跳躍する。助走もつけていないはずのその跳躍で住宅の屋根近くまで飛び上がり、家の壁面に着地。そこを始点として、再び下方へと跳躍をした。次なる着地点は俺と朱花の中間地点。

「——させないっ!」

 俺すら巻き込もうとする男の思惑に気づいた朱花は全力で俺の元まで駆け抜け、振り返りざま、接近する男に後ろ回し蹴りを見舞う。

「らあっ!」

 スカートであることを考慮せず放った朱花の蹴りは、しかし着地寸前の男の屈強な両腕に防がれる。

 空中で朱花の蹴りを受け止めた男はバランスを崩しそうになるが、アスファルトを砕かんばかりに脚を突き立ててそれを阻止する。

 ――ここまでの攻防を見るに、朱花と男の力は互角。だが彼女はリーチが短い上に、俺を守りながら戦わなければならない。

 この不利を朱花はどう埋めるのか——その考えが俺の頭に浮かんだ瞬間も朱花と男は攻防を繰り広げていた。

「グララアッ!」

 一撃一撃が俺にとって致命傷であり、朱花にとっても油断ならぬものであろう暴力を、彼女は時にかわし、時に自分の拳を当てることで軌道を逸らしている。

 男の狂った様子を見るに、彼も悪魔に操られているのだと思う。だが、それならば朱花が触れれば『譲渡』からの契約解除付与により、すぐさま戦闘不能にできるはずである。なのに先ほどから朱花と男は何度も殴り合っている。

 ここから考えるに、敵はおそらく操られていない——つまり彼は悪魔の忠実なしもべか、もしくは完全に理性を失っているかのどちらかであろう。

「退き、な、さい!」

 男の左フックをアッパーカットにより突き上げ、身長差を活かして朱花はその一撃をくぐり抜ける。そしてふところに入ったところで、強烈な突きと回し蹴りを素早く叩き込む。

 しかし男は一歩後退するだけで、大きなダメージを受けたようには見えない。

「ギャギャ!」

 朱花が敵の懐ろ深くまで入ったのは、それだけ相手をダメージでひるませる自信があったのだろう。しかし計算が狂ってしまったため、朱花はお返しとばかりに放たれた男の前蹴りを正面から受けてしまう。

「っつ!」

 両腕を交差させることにより朱花はそれを防ぐが、体重の軽い彼女はその一撃で吹き飛ばされ、俺の身体にぶつかることでようやく止まった。

「だ、大丈夫なのか朱花!?」

 朱花の軽さのおかげで、俺はその身体をなんとか受け止めることに成功する。しかし現状劣勢であることを感じているため、それを喜ぶことなどできない。

「ええ、問題はありません。少々手こずるでしょうが、倒してみせます」

 朱花は決して強がりで言っているわけではないのだろう。だがそこに勝算があるわけでもないことは、先ほどの朱花との会話でわかっている。

「待て、朱花。もし策が無いなら相手の関節を狙え」

 相手が待ってくれるわけもないので、早口で朱花に考えを伝える。

 それを聞いた朱花は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、考えている暇が無いことに気づいたのかすぐに男の方へ向かった。

「グァッ!」

 アスファルトごと朱花を砕かんとする勢いで男の拳が打ち下ろされる。

 それに対して朱花は攻撃を打ち払いながら、渾身の一撃を放つために踏み出した男の右脚向けて神速の回し蹴りを放つ。

「っし!」

 男の拳が地面に叩きつけられたと同時に朱花の回し蹴りは炸裂し、拳を振り下ろすために前のめりになっていた男は体勢を崩す。

 作り出した隙を逃さず、朱花は突き出された男の右腕を自分の両腕で固定し、すぐさま彼の肘を目掛けて全力の膝蹴り見舞った。

 ——聞く者の背筋を凍らせるような、嫌な破壊音が狭い路地に響き渡る。

 自分が提案したこととはいえ、苦い顔をせざるを得ない音である。だが腕を折った当の朱花も、激痛が走っているだろう男も表情を変化させていない。

「ガッ!」

 腕を折られた数瞬後、男は何も無かったかのように朱花の脇腹わきばらに荒々しい膝蹴りを叩き込む。それを朱花は防御することもできずに受け、その身体が宙に浮き、住宅の壁面に叩きつけられた。

「っかは……!」

 音から察するに、骨に異常はないだろうが、朱花の口からは苦しそうな息が漏れた。それだけ男の一撃が重かったということだろう。

 朱花に生まれた隙を今度は男は見逃さず、大きく振りかぶった左腕を力任せに前へと打ち出す。

 結果、ぐちゃっ、という肉の音が俺の耳に届いた。

「――……朱花?」

 朱花はとっさに腕を上げてガードしたが、その上から男は彼女の顔面を殴りつけたのだ。

 男の一撃によって押し込まれた朱花の腕と顔の間からは、彼女の白い肌からは連想できそうにないほど鮮やかな赤い血が滴り落ちている。

 少なくとも鼻は折れているだろう。もしかすると頭蓋骨にも異常をきたしているかもしれない。

 ただはっきりとわかるのは、朱花の端正な顔立ちが無惨にも破壊されたということである。

「ギャッギャッ! ギギャッ!」

 腕を上げたまま動かなくなった朱花を見て、男は笑顔で勝鬨の声をあげる。

 今にも踊り出しそうな男に対し、俺の胸中には深い絶望が充満した。それは、自分が絶対絶命の窮地に追い詰められたことに対してではない。俺を頼ってくれていた可愛い妹分が凄惨せいさんな姿に変えられてしまったからだ。

 朱花が傷つく姿は、それほどに俺の心をかき乱した。

「――あ」

 その場にへたり込みそうになるが、半裸で喜ぶ男と目が合ったとき、俺の身体は完全に動きを止めた。

 そのとき男は、俺の存在を思い出したらしい。笑みを浮かべたまま、自分の左腕をゆっくりと上げた。

 ――瞬間、俺は気づく。男の左手首があらぬ方向に曲がっているということに。

「……ギ?」

 男には痛覚が無いのか、彼も初めて知ったとばかりに、不思議そうな眼差しを自身の手首に向ける。

「――これで、両腕は使えませんね」

 そんな男の背後で、聞き慣れた声が響いた。

 声の主は、もちろん朱花である。

 彼女はハンカチで顔の血を拭ってはいるが、その顔のどこにも損傷は見当たらない。そこで俺は、悪魔の強化魔法について思い出す。彼女はそれを用いて顔面の傷を修復したに違いない。

「もう防御はさせません」

 仕留め損ねた獲物の方へと男は急遽きゅうきょ向き直るが、朱花と相対したときには既に遅い。

「魔力、全開」

 彼は転回しながら裏拳を叩き込もうとしたようだが、壊れた両腕ではそれもできず、ただ回れ右をしただけに終わる。

「はあっ!」

 もはや防御すらかなわぬ男の鳩尾みぞおちへ、朱花は渾身の後ろ回し蹴りを放った。

「――カッ……ハ」

 蹴りにより肺から全ての空気を押し出された男は悶え苦しみ、一歩前進した後、その場に崩れ落ちた。

 ――路地裏の戦い。その勝者は朱花に決した。

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