4.セリメーヌのコクハク

 俺はいつもギリギリの時間に登校する。その頃にはほとんどのクラスメイトが登校していて、輪を作って談笑するグループ、昨日出された課題に勤しむ奴、遅めの朝食を取る奴、いろいろな居場所が点在している。


 その中で、有瀬は変わらず一人で本を読んでいた。


 昨日、俺は蹴飛ばした有瀬の机を元に戻さずに帰った。だから有瀬が登校したときにも机は倒れていたはずだ。クラスメイトは倒れている有瀬の机を元に戻さないはずだから。


 有瀬はどんな顔で倒れた机を起こしたんだろう。どんな気持ちで席に着き、どんな風に本を開いたんだろう。


 胸に渦巻く薄暗い感情を抑えて、昨日派手に蹴飛ばした机の上に黒いペンを、わざと音を立てて置いてやる。


「…………」


 有瀬のこういう態度には、やはりどうにも腹がたつ。昨日手を叩かれたことも、ペンを投げつけられたことも、やはり納得できない。一戦交えるつもりで、俺は口を開いた。


「あのさあ」

「芹目〜〜!! 昨日のドラマ見た〜〜!?」


 ギャルに腕をとらえられた。腕に胸が押し付けられて、無理やり輪の中に引っ張っていかれる。


「離せよ、俺は話があるんだよ」

「え〜〜!? 話ならこっちでしようよお。みんな〜〜、芹目来たよ〜〜!」


 余計なことしやがって。殴り飛ばすぞ、このクソ女。


 なんて負の感情は顔には出さず、腕を引っ張られてることに少し照れたような顔を浮かべておいてやる。


「昨日のドラマってなんだっけ」

「主演の俳優、芹目に似てるから観てって言ったじゃあん!」

「うん、超似てる」

「芹目のラブシーン見てるみたいだったんだけど〜〜」


 ギャハハ、と下卑た笑いに包まれる。

 その中で俺も、微笑みを作る。


 ああ、あの、つまんない下品な不倫のドラマだろ。あんなくだらないの、見る奴いるのかよ。


 そんなこと言えるわけがない。舌の根がチリッと疼いた。




 四限目の国語の時間は図書室で行われた。各々好きな本についてレポートのようなものを書かされるらしい。

 図書室なので、さすがに皆は会話を謹んでいる。声を潜めて笑い合っているバカもいるが、書架特有の、本に圧倒されるような重厚な空気に、心が落ち着いた。


 昨日、帰りに本屋に寄った。『人間ぎらい』を探したけれど、見つけることはできなかった。

 作者名もわからなかったし、店員に尋ねるほどの熱意も無かったので、そのまま帰ったけど、気になってしまったのだ。


 他人に触れられて、その手を叩くほど大切にしているものって、どんなもの?


 憎しみの裏側には少しの興味が形をなしていた。


 図書室では現代小説の多い本棚に人が集中していた。

 なんとなく読みやすそうな本に群がるのは嫌だからそれを避けて、ガラガラな本棚の筋に入る。洋書がたくさん並んでいるコーナーだった。誰もいなかった。ただ一人、有瀬を除いては。


 まっすぐに向けられたあの目は、本のタイトルをなぞって上から下に忙しなく動いている。その視線の先をなぞると、『人間ぎらい』があった。


 なんだ、簡単に見つかった。


 手に取るとホコリをかぶっていて、紙は黄ばんで表紙は廃れていた。随分前から誰にも手に取られず、ここに収まっていたらしい。


「はあ、何これ。台本?」


 登場人物の名前が上にあって、その下にその人物の台詞が書いてある。状況を説明する文が全然無い。人物の名前は全部カタカナだ。こんな形式の本、今まで見たことがなかった。


 わっかんねー、なんてつぶやきながらページをめくる。有瀬は俺の隣にいる。目は合わない。


「台本じゃない。戯曲」


 有瀬がやっと口を開いた。笑いたくなるのをなんとか抑える。なんだ、簡単に釣れるじゃないか。


「戯曲?」

「演劇の上演のために書かれたもので……台詞と、ト書き……注意書きが書かれたもののこと。それを、上演用に編集したものが台本」


 道理で小説のコーナーを探しても見つからないわけだ。いかにも興味アリマスヨって感じの反応をしてやる。俺お得意のパフォーマンスだ。


「詳しいじゃん。演劇、好きなの?」

「……読むだけ」


 消え入りそうな、掠れた低い声。話していると、こちらまで気が塞ぎそうだ。


「いつも読んでんのって戯曲?」

「……そう」

「これってどんな話なの」

「……読んだらわかる」

「読める気しねーから聞いてんじゃん」

「……上手く説明できないから」


 この陰気な反応。そりゃあコイツに誰も近寄らないし、人は離れていく一方だよな。もっと上手くやれないもんかね。


「でも、面白いから読んでるんだろ? 何がそんなに」

「あのさ」


 有瀬にしてはトーンが高く、珍しく掠れない声だった。


「興味無いのに聞くの、やめてくれない」


 あの胸を射る痛みが身体中に走った。


「私、あんたみたいな人間、大嫌い」


 俺は一体、有瀬にどこまで見透かされているんだろう。


 普段は伏せている有瀬の目は力強く開かれて、俺を強く、硬く、軽蔑するように見つめている。


「俺もだよ」


 昨日感じた腹から込み上げる熱とはまた違う、もっと酷薄コクハクで、冷酷で、残酷な感情が胸に溢れる。


「俺もお前が大嫌い」


 傷つけてやりたい。壊してやりたい。

 お前の全てを、歪めてやりたい。


 自然と笑みがわいてきた。


「俺たち両思いじゃん」


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