第80夜 6・8 この七つの文字

6・8 この七つの文字


 あの頃の文体に、還る。その試みを、今日も続ける。ショパンのチェロ・ソナタを聴いている。第三楽章。緩徐楽章は、夜によく似合う。穏やかなチェロの泣き笑いめいた、息の長い旋律はよく歌う。その歌に、夜が静かに澄んでいく。その澄明さに、低音は流れる。それを聴きながら三枚を書くには、第三楽章は余りにも短い。コルクボード上のスマートフォンは、曲をシャッフルし、第一楽章に回帰する。アレグロ・モデラート。だが走りすぎては、いけない。

 言葉を書くこと。言葉で書くこと。言葉は、筆記者の見た現実を、いかようにでも変容できる。日常の何気ない一瞬間を、反故にも奇蹟にもできる。すべては、言葉から生まれる。

 僕が積み重ねた言葉は、僕が見た現実を、どのように変容させて届けるだろう。僕の感覚するこの六階のベランダの景色を、どの言葉を選んで書き残せばいいのだろう。その迷いさえ言葉の行いであり、それを迷いのまま書くことで、言葉はまた新しい現実を描き出す。それらはすべて現実であり、同時に変容された虚構だ。

 。言葉が言葉として自らに向かうとき、そこに現実の入り込む余地はあるのか。自らに回帰していく言葉の力は、いったいいかなる地平を拓くのか。無論、この言葉に意味などはない。何も指し示すこともなく、何かの代わりとして伝えることもなく、言葉がただ言葉としてそこにあること。意味はなく、ただ文体だけがそこにあること。は、どこへ向かうのか。この真似事の私小説は、どこへ向かうのか。

 チェロの低音だけが、まだ聞こえている。(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る