芋虫イリヤ

「乾燥機あるとやっぱ違うな」

湿っぽかった部屋も乾燥機が入ることで幾分かマシになった。水受けのタンクから伸びるホースは溜まった水を窓の外へ導いて捨てる。天井からの雨漏りも、大分少なくなっていた。

「そうだな。これでやっとまともな人間の住む場所になった気がするぜ……」

低光度太陽ランプを眺め、爪でタイルをカツカツと叩いていたニカイドウは大儀そうに立ち上がって部屋を出ていこうとした。椅子にふんぞり返っていたミナバはやや苛立った様子のニカイドウに目を向けた。

「どこ行くんだ?」

「便所。ついてくんなよ」


ニカイドウは職に就かないミナバを放り出さず養っている。死に怯えなくて済むようになったとはいえ、生活はけして楽ではない。娯楽費用はそのほとんどがミナバの食費に消え、ニカイドウは女どころか月に二冊のピンナップ雑誌を買うこともままならない。苛立ちは募るばかりだが、ニカイドウはそれが自分のためになるのだとしても、狭い路地で共に生き延びてきた己の半身ともいえるミナバを切り捨てることが出来なかった。下らない感傷だ。それでも、死んで溶けた人間は乾かして熱源に当てたとして元の形にはもう戻らない。ニカイドウは結論を出すことを先送りにしていた。そして、今も。


溜まる不満を捨てようとしてトイレの扉を開けたニカイドウは、目に飛び込んできた光景に思わず吠えた。

「テメェ、こんなとこで何してやがる」

一つしかない個室の中では、フタを降ろした便座の上に座ったイリヤが長いホースを弄びながらパイプを吸っていた。白い煙が立ち上る。可視化された細長い紫煙は吐き出される度、息のあとを残した。

「アー、見つかっちゃった」

「……ったくよォ、クスリか? 余所でやれ」

「違ぇよ、タバコだ……まあ、似たようなもんかね……どうにもガマンできなくてさァ」

こぽりこぽりと容器の中ではひっきりなしに泡が立ち上る。イリヤは深く吸いこみ、形の良い唇から気だるげに白く濁った息を吐きだした。ニカイドウは苛立たしげに鼻を鳴らした。

「出てけよ」

「やだね……やっと着火したんだ。部屋が湿気っぽくて全然火つかねえの」

「確かにここは雨漏りしてねェけどよ、ここ便所だぜ。とりあえず代われよ」

イリヤへ向けていた指を繰るようにして背後の戸口を指せば、何を勘違いしたのかイリヤは吸い口を差し出してきた。

「アー、イイゼ。吸ってけ吸ってけ」

座っているところを詰めたイリヤに、そうじゃねえよと思わず手が出かけた。だが、ニカイドウはヘラヘラ笑うイリヤと吸い口を見て考えを変えた。珍しいタイプの嗜好品だ、この先どこで吸えるとも限らない。旨ければ儲けもんだし、不味かったら文句の一つでも言ってイリヤを個室から蹴り出せばいい。万事オーケィだ。

「……どうやって吸うんだ」

腰を下ろし、隣の男に教えを乞う。硬い山形の爪がひらめき、吸い口を指差してから下唇をぽんぽんと叩く。慣れてやがるな、とニカイドウは思った。

「ここに口をつけて、そうだ。タバコと一緒だよ……深呼吸するみたいに吸って、ため息みたいに吐き出すんだ」

イリヤの声が近い。

吸って吐いてを繰り返していると煙が肺になじんでくる。ひんやり冷えた煙からは甘い匂いと冷たい味がした。タバコの煙が体に纏わりつくようにゆるゆると酩酊が回ってくる。体の芯からぶるりと震えが走った。抑制が外れてきている。脳が警告を発した。これは、良くない。

「……これただのタバコじゃねェだろ……逆か? いつもタバコに何混ぜてやがるんだ……」

「フレーバーの一種だよ……近頃手に入るのは効きが悪くなってきたから平気かと思ったんだがね……ああ、そういえば今日はフィルターにアルコールを混ぜたんだったかな……もしかしたらそっちかな、忘れてたぜ」

「……テメェ、耐性つきまくりなんじゃねェのか、クソジャンキーめ」

組んだ足先がカタカタと震える。体にきちんと収まっているはずの臓腑が酷く落ち着かない。二度目の悪寒が体を通り過ぎ、ようやくニカイドウは自分がここへ何をしにきたのかを思い出した。

「アー……返す。ありがとよ」

「ン、もういいの?」

壁にもたれていたイリヤは吸い口を咥え、吸い込む。ぼわぼわと吐き出される白い煙が顔の上半分を隠した。

「ファックしてえなァ……」

ぽつりとこぼしたニカイドウの一言に、イリヤは真顔で眼前の煙を払った。煙に隠れていた薄い色の髪が露わになる。

「良い店紹介しようか?」

「行くカネがねえんだよ……」

訝しげに目を細め、イリヤはパイプから口を離しニカイドウへ目を向けた。

「高級取りでビル経営までしてんだろ。一体何に使ってんだ。俺結構払ってるぜ」

オンナもクスリも賭博もやってねえんだろ、借金でもあんのか、とイリヤが呟くのが聞こえた。

「ねえよ、貸しても借りてもどうせ待ってんのは踏み倒しだ。家賃のこと言ってんのならビルの補修だ、近頃部屋ん中で雨降らなくなっただろ……ってかなんでお前は俺の仕事のこと知ってんだよ」

「まあ、一月もみてりゃ多少はわかるぜ。いや、でもそうか、ビルの補修か。見上げた根性だぜ……水こわくねぇの?」

「怖くねぇよ。水や雨が怖くてこんなところで生活できっかよ」

「正論だなァ。さて」

イリヤはポケットから小さなケースを取り出して、中に炭を放り込んだ。それを同じようにポケットにしまい瓶の首を掴む。扉を開けて、イリヤは一度振り向いた。

「火も落ちたし一服は終わりだ……アー、その、俺は消えるからあとは好きに使ってくれよ。邪魔して悪かったな」

閉まった扉の向こうからは瓶をすすぐ音が聞こえてきた。流水の音が消えたと思ったら足音は近づいてきた。扉が開く。

「ニカイドウサン、お詫びって言っちゃなんだけどいいもんやるよ」

イリヤはポケットを探り、白い粉の入った小さな透明のパックをいくつか取り出した。パックにはそれぞれ黒のインキで緊急、とろみ、飲み水、女神、などと書いてある。女神と書いてあるパックには黒もあったが、ニカイドウに色以外の違いなど分かりはしない。

「アレ? どれだったかなァ……ああ、これだ」

ポリアクリル酸ナトリウムと書かれた袋を選び出して、イリヤはそれを手渡した。パックの中には白い粉と、乾燥剤が入っている。

「三パーセントだ。水に溶かして使え。口に入れても平気だけど、湿気らすなよ……使えなくなっちまう」

じゃあな、ごゆっくり、と扉を閉めてイリヤは立ち去った。

足音は離れ、今度こそ戻っては来なかった。ニカイドウは訝しみながら粉を手に出し、水道の水で溶く。符丁のような文字が並ぶ中でこれだけがそのままの名前で書かれていた訳をニカイドウは悟った。あてるならさしずめ、ぬめりと言ったところか。

「マジかよあの野郎」

即席の潤滑剤。手渡された白い粉はインスタントローションだった。


◆◆◆


「ニカイドウサン? ああ、見た見た。便所でタバコふかしてたぜ」

部屋に戻る途中、イリヤはしかめ面のミナバと出会った。聞けば、ニカイドウが戻って来ないのだという。イリヤはへらりと笑って、おしゃべりに付き合わせちゃってさぁ、と続けた。

「ミナバサンも吸うかい? ニカイドウサンにやったのはもうねえけど」

「……ああ、もらっとく」

チャック付のパックの中にはタバコが二本と紙マッチが入っている。受け取ったミナバは袋の中身をちらりと見ただけでポケットにしまおうとした。イリヤは首を傾げた。

「アレ? 吸わねえの? その銘柄きらいだった?」

「灰皿は便所だ」

そう言いつつ立ち上がる気配はない。今部屋を出ていかれても困るのは確かだ。イリヤは床の乾いているところに腰を下ろした。

「そっかァ。ミナバサン暇なら俺と話そうよ」


◆◆◆


「おれ、知ってるぜ。アンタのこと」


◆◆◆


「何やってんだお前ら」

胸ぐらをつかまれたままヘラヘラしているイリヤと拳を振り上げたままのミナバを見比べて、ニカイドウは呆れたようにため息をついた。

「楽しいお喋りさ。議論がヒートアップしちまってね……」

困ったように眉を下げながらも、イリヤは笑みを崩さない。底の読めない、信用に値しない笑顔だ。ニカイドウは息を吐いた。

「ホントかよ……どうなんだミナバ」

「……ああ、そうだ。そいつの言うとおりだ」

ミナバは掴んでいたイリヤを床へ降ろした。どう考えても嘘だ。しかし当事者二人はそうだと言っている。

「……まあ、なんでもいいけど部屋ん中壊すなよ。直すの大変なんだからな」

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